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100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

良寛さんの魂。

2020年11月14日 | 日本の百々巡り。

「良寛和尚さんみたいな人間になれたら、いいなぁ。」と言ったのは、中学校の社会科の先生だったかな?



北陸道下りの敦賀の杉津(すいづ)PA~の眺めは、いいなぁ。

良寛さん、備中から越後の国へ戻るまで、当然の如く托鉢しながら諸国行脚しています。

ここ敦賀も通り過ぎたのかな?

曹洞宗大本山永平寺に関しても、越前の国に関しても、何も語らず避けています。

その理由は、多分、僧として価値観、仏教界への不満、そして越後の国の出雲崎の実家にあると思う。

その前に、余談ですが、先日の日曜日、NHK 「麒麟がくる」では、「越前敦賀の金ヶ崎の戦い」が描かれていました。

この金ヶ崎の戦いは、もっと注目を集めてもよいほど、歴史上大きな分岐点になったのです。

越前朝倉攻めに陣地を張った織田信長軍・・・そこに、朝倉、浅井両軍による挟み撃ち。

信長、織田家臣の重鎮、徳川家康、松永久秀、ここから大出世する豊臣秀吉、明智光秀も居て、歴史上のオールキャストが、あわや全滅となるような織田信長の逃げ戦だったのです。

殿(しんがり)を務めたのが、秀吉と光秀・・・この敦賀の地から、歴史上の天下獲りの歴史が、どんどんと変化していきます。

万が一、この時、朝倉浅井両軍が勝利していた場合でも、東からは東北の上杉、伊達、関東の武田、北条、西からは、中国の毛利、九州の島津が覇を競っていたと考えます。

ずっと戦国が続いて、地域別に独立国が生まれ、結局はスペイン、ポルトガルの西欧列強国のキリスト教布教に続いて、植民地化されていたかもしれません。

良寛さん、勿論、戦国時代の信長、秀吉、家康の天下獲りの話、本能寺の変のあと、秀吉が備中高松城から中国大返しという離れ技をして、明智光秀を討ち取った歴史も学んだはず。

そして、徳川幕府の時代になって平和な世になったものの、異教禁止、鎖国制度、身分差別制度の確立。

そんな徳川政権の江戸時代末期、越後の国に生まれた良寛さん、何を生きる指標にしたのかなぁ?

良寛さん、22歳から34歳頃まで、玉島の円通寺で修業中、その間、実家のある出雲崎では、越前敦賀から越後出雲崎に移り住んだ新興商人「敦賀屋」が競争相手となり進出拡大、出雲崎で一番の商家であった実家橘屋は没落。

良寛さんの父親は自殺、家督を継いだ弟もいろいろありました。

越後に戻った良寛さん、持ち寺のない托鉢のみで、清貧に生きています。

あの新潟県分水町の国上山の五合庵での20年、さらに10年、30年にも及ぶ山中生活・・・自信があったのでしょう。

良寛さん、現代風の云えば、フーテンの寅さんのようにおどけた人間にも映りますが、世相への冷徹な観察力、抜群の記憶力と集中力を備えていました。

良寛さんの深い人生観、社会観、宗教観は、時代、国を越えた世界に通用するものがあります。

対君君不語
不語意悠哉

良寛和尚を想う。

良寛さんを想うと、元気になる。

良寛さんの魂❗