百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

愛荘町の百々町。

2020年10月06日 | 日本の百々巡り。

「朝には題目を、夕には念仏」

日々の一推しは、「百」です。

西武グループ創業者である堤康治郎の故郷は、滋賀県愛荘町。

愛荘町の百々町まで、出かけて参りました。



正式な住所名は、滋賀県愛知郡愛荘町川原(字)百々です。

愛荘町の町並みの中心部を新幹線が走り抜けているので、ちょっと煩い印象を持った愛荘町でしたが、郊外は、とても心地よい田園風景が広がっていました。

この百々町に辿り着くには、少々苦労しました。

車のナビにもデータがなく、途中途中下車して道順を訊きながら、やっと到着。

小さな集落で、しかも宅地整理したのでしょう。

20戸ほどしかない小さな地域で、どこから、どこまでが百々町なのか分かりません。

看板には、単なる百々ではなく、町として百々町として掲げている不思議。



・・・誰も歩いていません。

しかし、愛荘町の中心地から途中途中に尋ねた人全員が、この小さな百々町の地名も位置を誰もが知っているのです❗

これには、驚かされました。

だから、その期待感と現実のギャップに戸惑いもありました。



百々町から、荒神山(彦根市)が見えます。

例えば、百島の泊地区には、わたしな、中小路、脇小路、はら、等々、そして本村地区には、石堂、郷、坂、坂上(さこじょう)等々、福田地区にも勿論、このような小さな単位で集落を形成していた歴史があります。

この愛荘町の百々地区は、そのような小さな集落なのです。

にもかかわらず、百々町として、看板を掲げているのに意気揚々とした百々愛、郷土愛を感じました。

荒神山・・・百島本村の坂上(さこじょう)地区、百島小学校の真ん前にも荒神山があります。

荒神と言えば、河童、河童と言えば、孫悟空の沙悟浄(さこじょう)です。

そこは、赤松一門の五輪の石塔があったはずです。

百島の先人の何者・・・誰が、荒神山と名付けたのかなぁ?

十文字山山頂に仏像を隠し納めたものがあり、調べると滋賀県近江に関わる仏像だったと子ども心に記憶があります。

室町時代の嘉吉よりも遥か以前の大和時代から、瀬戸内海と畿内には人と人の行き来、交流は盛んだったのでしょう。

百々という地を巡っていると、共通項は、山賊やら敵軍相手に関所(城址)となるような場所で、守衛兵としての一団が百々一族だったような気もします。

ルーツは、瀬戸内海の水軍海賊に繋がるのです。

その後、京、近江、畿内を故郷とする百々一族の者が、室町時代に桃島(百島)に移り住んだ、あるいは逃げ延びたというのは十二分考えられます。

さて、誰も歩いていない愛荘町百々町。

小さな地区内を散策しても、10分程度で終わります。

どうしようかな?と考えていると、お一人高齢男性と話す機会を得ました。

はじめは、不審者か、どこかの営業マンだと思ったのでしょう。

態度にも警戒感がありありでした。

ただ、尾道の百島が故郷で「百」がつく地名を巡っていると言うと、態度が一変するのです。

さらに今まで得た「百」の歴史知識を語ると、百々に暮らす郷土愛が呼び起こされるのでしょう。

昔、この拙劣なブログを開設した時、百島出身の方から「勇気元気」を頂いた、故郷を誇りに想うというメールや、百島出身の亡くなった父への想いを綴った方からのメールを頂いた事を思い出しました。

多分、同じような「百」という故郷への郷愁愛かもしれません。

僕のような者が、突然「百」という場所に行き、百の地名の謂われを調べに来たとなれば、地元では直ぐに噂になり広がります。

・・・それも、善いかなぁ。

一層、今後は、「日本の百を巡る会」のようなものを立ち上げて、名刺持参で日本の百を訪ねてみようかとも考えています。

健康で、明るく、楽しい生き方です。

愛想よろしく、愛荘町。



健康で明るく楽しいまち、百々町に感謝❗



最新の画像もっと見る

コメントを投稿