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初年兵時代 2 ~教育訓練演習~

2010年08月14日 | 人生航海
その後、「隣りの第一中隊に百島出身の赤松曹長殿がいるので、知っている人ならば直ぐに会いに行っても良い」と言ってくれたが、その時には、会いに行けなかった。

その人は、赤松伊勢夫さんで、その頃には兄嫁の兄さんであったのだが、その当時の私は、まだ何も知らなかった。

そうして、初年兵の教育が始まったが、入隊時の優しさとは打って変わって、毎日、厳しい日々が続くことになった。

我々クチンからの入隊者18名と少し遅れて入隊してきた初年兵30名の計48名を新規に教育班として構成されたのである。

第二中隊の初年兵の教育担当者は、今でもよく憶えている。

教官三宅少尉以下、班長井上文七軍曹、その補佐の巽兵長、溝辺上等兵、加藤上等兵の五名からなり、私達初年兵の教育係であった。

そして、愈々本格的に厳しい教訓を受ける事になる。

その後、私達のあとで入った初年兵には、沖縄の人達が多く、言葉に訛りがあり、話し難い点もあり、当分、その点で気を使ったものであった。

初年兵当時の教練の厳しさは、今更言うまでもないが、配属された船舶工兵は、特殊な部隊であった。

専門的な訓練も多く、普通の工兵とは違った。

大発艇・小発艇等の船舶の扱い方や機械の分解・組立まで習うので、当然、舟艇の操縦から取り扱いを全員が出来るようになるまで訓練が行われた。

その他に、船舶工兵の必須科目に手旗信号があって、毎朝の朝礼後には必ず訓練があったが、皆は苦手であった。

手旗信号は、自慢でもないが、私の得意であった。

軍属時代に、中支から南方においても、スラバヤやラバウルで、その仕事に従事していたので、教育班の中で誰よりも手旗信号は、一番上手であった。

その為、手旗の訓練は、私に任せられて、軍隊でも、特技は大事だと思ったものである。

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