百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

酔い心地

2012年06月19日 | 百伝。
自分に酔うことは、大切です。

自分に酔えないと、生きるうえで前向きにならない場合もあります。

しかし、酔い潰れてしまうと大変です。

子供の頃、百島には、酔っ払いのオッサン達が、沢山居ました。

その中でも、一番印象に残っているのは、父の兄でもある叔父です。

父も、子供の頃から、兄の放蕩的な性格に相当苦労したようです。

叔父は、しかも酒呑みでした。

船長をしていた貨物船を停泊させて、百島で潮待ち?

その間、酒を飲むと、動かないのです。

貨物船の出航時刻になっても、「まだ、いい」と言いながら呑んでいるものですから、乗組員の方は、たまったものではありません。

この叔父さん・・魚が食べたいと思うと、わざわざ貨物船をUターンして、漁船を追いかけて、魚を求めていたようです。

港々で、服を着替えて、いろんな職種の人間に成り変ったようですから、相当、船か、もしくは人生に酔っていたのでしょう。

ここでは、書き込めないような叔父のトラブルやエピソードは、まだまだ沢山あります。

安全管理が厳しくなった今の時代では、到底考えられない就業内容、人生行路です。

それでも、この叔父であるオッサンには、教えられることが多かったです。

酔い潰れたような生きる不真面目さから、子供心に何かを学んだのは間違いないのです。

酒にだらしない・・酒に呑まれる・・「酒」にまつわる言い回しは、沢山あります。

そんな大人の醜態から、「僕でも大人になれる・・大丈夫だ」という元気を貰ったのかもしれません。

ただ、叔父の名誉のために付け加えて置きたいのですが、戦後、叔父は、百島とりわけ泊地区の漁師という生業(なりわい)から海運業の船員としての職業に導き、百島の雇用促進を大きく切り拓いた先駆者でした。

これは、誰も出来る者ではありません。

平均収入が増えて、百島の生活レベルが豊かになったのは間違いないのです。

父も、その事には感心していました。

ただ、酒に関しては、反面教師として観ていたのか・・父は、酒を嗜むことはありませんでした。

僕もドクターストップをかけられてもいますが、兄たちとは違い、父同様に酒を嗜むことはありません。

親子兄弟でも、いろいろです。

若い頃、一気飲みで意識欠如となり、嫌な思いをしたこともあり、体質的にアルコール・アレルギーかもしれません。

もう一人、身内で大酒飲みといえば、義父でした。

はじめて会った時は、全く分りませんでしたが、ある日、焼酎の中に大きなマムシを入れたガラス瓶から、独りグラスに汲み飲んでいる時には驚きました。

それでも、酒に呑まれた義父を、一度も観たことはありませんでした。

真面目で、人望も篤く、人脈も広く・・年賀状も毎年500枚程度、一枚一枚手書きで書いていました。

義父の葬儀の日、「あなたのお義父さんに助けられて、今こうしておられるんです」と何人もの方に言われました。

義父の酒に対する接し方で教わったのは「酒を水として扱っているような酔い方」でした。

独り飲むときは「酒」、相手と飲むときは「水」だったのでしょう。

父も義父も、酒の怖さを嫌というほど知っていたのかもしれません。

酒の力を借りて、自分を酔い心地気分に追いこむ人は、ほどほどにです。

義父には、広島三原の「酔心」を、いつも贈っていました。

最期まで「酔心」を飲み続けた義父でした。

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