百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

藪の丘庭園

2012年01月03日 | 百伝。
東京箱根駅伝のラジオ中継を聴きながら・・。

今年も我が母校は出場していないので、東海大学と明治大学と学連選抜を応援しています。

箱根に行くよりも、百島の方がいい。

母が元気なうちに、あと何度、百島へ帰れるのか・・?

出来ることならば、今年は、月一度は、百島に帰省しようと考えています。

百島の我が親類一族には、身内を束ねていた長老のような存在の藪の丘のおっさんがいました。

大学生になっても子供扱いされて、帰省して会うたびに「その髪型はなんだ?」とか「その格好はなんだ?」等々・・小言ばかり言われていました。

九十歳を過ぎても元気でバイクに乗っていたので、百歳まで生きるのでは・・と思っていました。

残念乍、二年前に、九十代半ばで静かに亡くなりました。

藪の丘のおっさんから、いろいろと話を訊くことができたのは、小生が社会人になってからでした。

藪の丘のおっさんが、生まれた頃の百島の昔話、日中戦争に出征した時のこと、船乗りの生き方・・腹の据わった方でした。

後悔していたのは、自分で船会社を興せなかったことかな?!

戦前、まだ帆船の時代・・船乗りからスタートして、現在の常石グループ(神原汽船、常石造船)を築き上げた創業者と知り合いだったようです。

だから、思う事があるのでしょう。

「戦後、親戚じゅうから金を借りて船を買おうとした時に、大反対したのが、みさ姉(ねえ)じゃ。おまえのおばぁさんじゃ」

藪の丘のおっさんは、親類中の甥やら身内を引連れて、船を動かすつもりだったのでしょう。

戦後の動乱を好機と捉え、さらに朝鮮戦争特需をきっかけで、あれほど常石グループが大きくなったのに、あの戦後の動乱時、自分の人生は波に乗れなかったのが、唯一の後悔だったかもしれません。

「元気であれば、ええんじゃ」

いつも、藪の丘のおっさん(赤松春一おっさん)が、声をかけてくれた言葉です。

百島に帰る度に、今は、空き家になった藪の丘のおっさんの家にある庭を訪問します。

小生、個人的には、藪の丘庭園と呼んでいます。

元気を貰えるのです。