今日は所用が愛媛県西条市であり、
全くもって無謀にも日帰りで行くことに。(^^;
片道5時間以上かかるんですけど。(泣)
まぁ、行くからにはお遍路にも行っておかないとね。
まずはお昼休みがあるという札所の宝寿寺に。
ここは昼の12時から1時間休憩して納経所が閉まるんですよ。
こんな所って他にあります?
昼に行って閉まっていたらショックですよね。
事前にネットで調べておいて本当に良かった。
小さいながらも無料駐車場がありました。
所在地:愛媛県西条市小松町新屋敷甲428
宗派:高野山真言宗
御本尊:十一面観音菩薩
創建:(伝)天平年間(729-748)
開基:(伝)道慈律師
勅願:聖武天皇
中興:寛永13年(1636)
中興:宥伝上人
札所:四国八十八箇所
【縁起】
天平のころ聖武天皇は諸国に一の宮を造営した。
その折、この地に伊予の一の宮神社が建立され、大和の僧・道慈律師が勅命をうけて
法楽所としての別当寺を創建したのがはじめとされる。
このとき天皇は金光明最勝王経を奉納され、寺名は金剛宝寺と称して、
現在地ではなく中山川下流の白坪という地にあったと伝えられる。
弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間(806-810)で、
寺に久しく留まり聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった
十一面観世音菩薩像を彫造した。
これを本尊とし、寺名を宝寿寺と改めて霊場とされた。
そのころ国司の越智公夫人が難産で苦しんでいた。
大師が本尊に祈願した霊水・玉の井で加持したところ、
無事出産したことから安産の観音様としても信仰されたという。
ただ、中山川のたび重なる洪水の被害を受け、
天養2年(1145)に堂宇を再建し、山号も「天養山」と改めている。
以後、大山祇神社の別当寺として栄えたが、
天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の戦禍で壊滅し、
さらに明治維新の廃仏毀釈令に遭い明治10年に再建されている。
【初号標】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/76/53ea949790a9768b243271cc01bd2540.jpg)
こじんまりとした質素なお寺のようです。
【旧本堂】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/e2/76e71a923beddf8e8c5002b1840ce5e6.jpg)
かなり朽ちてきていますね。
参拝した時はこちらが正式な本堂だと思ってました。(^^;
【本堂】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/e8/d79e3aeed89115c0769abeff64ff90e4.jpg)
【大師堂】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/cc/c1e1f466b4649f1ddc5c1face66c125c.jpg)
【香炉鉢】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/78/c153f13c66808cfa92e57c34a2afe58f.jpg)
【安産観音像】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/04/58bf4369e89647e0cf884cce4c74cb0c.jpg)
【稲荷社】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/57/28490e3af2ae459072efe0aa117ab447.jpg)
【御朱印】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/b2/4a352a4c5d3fa603bfbc9275e73e266a.jpg)
【感想】
お昼の札所が閉まるのは百歩譲って許せても、
「当寺は霊場会とは無関係です」という張り紙はいかがなものか。
どういう経緯か知りませんが、
関係無かったら札所を脱退すればいいのに。
納経代は年間では結構な額になるから、
他に札所になりたいお寺も多いと思うよ。
霊場会とは無関係なのに札所の朱印を押しているということは、
結局、利権だけは渡せないってことでしょ。
残念な寺の人達である。
全くもって無謀にも日帰りで行くことに。(^^;
片道5時間以上かかるんですけど。(泣)
まぁ、行くからにはお遍路にも行っておかないとね。
まずはお昼休みがあるという札所の宝寿寺に。
ここは昼の12時から1時間休憩して納経所が閉まるんですよ。
こんな所って他にあります?
昼に行って閉まっていたらショックですよね。
事前にネットで調べておいて本当に良かった。
小さいながらも無料駐車場がありました。
所在地:愛媛県西条市小松町新屋敷甲428
宗派:高野山真言宗
御本尊:十一面観音菩薩
創建:(伝)天平年間(729-748)
開基:(伝)道慈律師
勅願:聖武天皇
中興:寛永13年(1636)
中興:宥伝上人
札所:四国八十八箇所
【縁起】
天平のころ聖武天皇は諸国に一の宮を造営した。
その折、この地に伊予の一の宮神社が建立され、大和の僧・道慈律師が勅命をうけて
法楽所としての別当寺を創建したのがはじめとされる。
このとき天皇は金光明最勝王経を奉納され、寺名は金剛宝寺と称して、
現在地ではなく中山川下流の白坪という地にあったと伝えられる。
弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間(806-810)で、
寺に久しく留まり聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった
十一面観世音菩薩像を彫造した。
これを本尊とし、寺名を宝寿寺と改めて霊場とされた。
そのころ国司の越智公夫人が難産で苦しんでいた。
大師が本尊に祈願した霊水・玉の井で加持したところ、
無事出産したことから安産の観音様としても信仰されたという。
ただ、中山川のたび重なる洪水の被害を受け、
天養2年(1145)に堂宇を再建し、山号も「天養山」と改めている。
以後、大山祇神社の別当寺として栄えたが、
天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の戦禍で壊滅し、
さらに明治維新の廃仏毀釈令に遭い明治10年に再建されている。
【初号標】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/76/53ea949790a9768b243271cc01bd2540.jpg)
こじんまりとした質素なお寺のようです。
【旧本堂】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/e2/76e71a923beddf8e8c5002b1840ce5e6.jpg)
かなり朽ちてきていますね。
参拝した時はこちらが正式な本堂だと思ってました。(^^;
【本堂】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/e8/d79e3aeed89115c0769abeff64ff90e4.jpg)
【大師堂】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/cc/c1e1f466b4649f1ddc5c1face66c125c.jpg)
【香炉鉢】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/78/c153f13c66808cfa92e57c34a2afe58f.jpg)
【安産観音像】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/04/58bf4369e89647e0cf884cce4c74cb0c.jpg)
【稲荷社】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/57/28490e3af2ae459072efe0aa117ab447.jpg)
【御朱印】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/b2/4a352a4c5d3fa603bfbc9275e73e266a.jpg)
【感想】
お昼の札所が閉まるのは百歩譲って許せても、
「当寺は霊場会とは無関係です」という張り紙はいかがなものか。
どういう経緯か知りませんが、
関係無かったら札所を脱退すればいいのに。
納経代は年間では結構な額になるから、
他に札所になりたいお寺も多いと思うよ。
霊場会とは無関係なのに札所の朱印を押しているということは、
結局、利権だけは渡せないってことでしょ。
残念な寺の人達である。
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