Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めて

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印集めが趣味です。

義天寺(2013年4月3日参拝)

2013-05-12 | 仏閣
本日は某大手企業で仕事があり大阪の守口市にやってきました。

朝早く着いてしまったので近くを散策。
















公園や工業高校前で綺麗な桜が咲いていました。


その後、義天寺というお寺へ向かう。



所在地:大阪府守口市本町1-8-8
宗派:本門佛立宗
御本尊:曼荼羅
創建:明治二十九年(1896)
開山:日聞上人


【歴史】
此の地に於いて日聞上人の御導師にて佛立開導日扇聖人の
御一周御忌(明治二十四年)と御三回御忌(明治二十五年)とを御奉修になられ、
ついで明治二十九年の御忌のときには「宥清寺出張説教所」として
日聞上人が道場を建立せられて御奉修。

その年の十一月には教会所の認可を受け、
最初の御担任として日聞上人がご就任されたのであります。

明治四十四年八月、日聞上人御遷化後、
明治四十五年七月に当山第二世日雲上人が後任の担当となられました。
当初、日雲上人は毎月京都より出張されていたのですが大正七年当道場へ移居常在されたのです。

そして教会所の名称を「守口教会所」と改称し、通称「守口道場」と言うに至りました。

昭和八年、開導日扇聖人御入滅の御座敷を永世に記念保存しようと、
当山第二世日雲上人が念願され、名も「義天閣」と付けられて、
今日その御入滅の御座敷が現存しているのです。

昭和二十一年寺号公称して「鶴林山義天寺」と称しました。


【京街道】




まさかここが京街道とは夢にも思いませんでした。
昔は大坂城と伏見城がこの道で繋がっていたんですね。

京街道とは大坂(大阪)の京橋(後に高麗橋)から淀川左岸に沿って進み、
淀を経て京(京都)に向かう街道のこと。

文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が、
文禄5年(1596年)2月に毛利一族に命じて淀川左岸に築かせた「文禄堤」が起源である。


今はその面影が殆ど感じられないのが残念ですね。


【山門】



【本堂】




堂内の画像ははネットで拾ったものです。


【参集殿】



【御堂】



【日扇聖人】



【御題目石】


豊臣方の残党が処刑された野江刑場にあったものを、
この寺に移したそうです。

それを知ると真ん中の赤い部分が血痕に見えて、
不気味に感じてしまいますね。(^^;


【遠景】


意外と建物は大きいですね。


御朱印の有無はお寺に確認していないので不明です。


それにしても、
事前に調べていたのですが守口や門真は有名な神社仏閣が無いんですよね。

もちろん小さな檀家寺や神社はあるけど少ない。
御朱印をいただける所も殆どありません。

なんで守口には大きな神社仏閣が無いんだろう?


この地域の方々は昔から信心の無いのか?
それとも大きな神社仏閣を建てる金が無かったのか?

足りない脳みそでいろいろ考えてみた。


もしや昔はこの辺りは人があんまり住んでいないんじゃないかと、
ふと思いついた。



しかし現在の緑の少ない守口市の街並みを見るとそれは無いだろうと思った。


いや、待てよ、思い込みは良くない。

昔は過疎っていたかも知れないと守口の古地図を調べてみた。

するとどうだ!



(安土桃山時代古地図)



(江戸時代手書き絵図)


ほんの300年前の守口は今と違い淀川が大きく蛇行し、
川沿いに点々と村があるだけで湿地や森、田畑ばかり。

現在と違い人口はかなり少ないことが想像出来る。

当然のことながら大きな社寺を造営することが出来る権力者も
この地域にはいなかったのであろう。



(明治43年大日本帝国陸軍陸地測量部作図)



(守口町昭和4年版)

明治時代もさることながら、
昭和4年の地図でもこんな感じです。(笑)

どうやら大阪に限らず都市というものは、
高度経済成長時代に大きく発展したんでしょうね。


それはともかく、
よく考えてみると守口市や門真市から遠くない所に東大阪市があるけど、
ここは河内一ノ宮の枚岡神社や大人気の石切神社を筆頭に、
異常に神社が多い。

お寺も興法寺や千手寺などの札所のお寺をはじめ沢山ある。

東大阪市は守口や門真と違って江戸時代も都会だったのかと、
古地図を調べてみたけど守口とそんなに変わらないのよ。(笑)

うーむ、
となるとやはりその地域に住んでいた人々の信心の差なのかなぁ。

誰か分かる人がいれば教えてください。(^^


最新の画像もっと見る

コメントを投稿