Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めて

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印集めが趣味です。

誉田八幡宮(2011年9月23日参拝)

2011-09-28 | 神社
数日前の日経新聞web版を見てると興味深い記事が。

皇室の祖先の墓である陵墓は宮内庁が「聖域」として管理しており、
一般の立ち入りは原則禁じられているが、
全国で唯一特別に天皇陵に入ることができる祭礼があるという記事を読んだ。

その神社の名は誉田八幡宮。

知らない神社だったけど場所が大阪の羽曳野市だったので、
これは行くしかないと思い参拝しました。

<記事>
http://www.nikkei.com/life/culture/article/g=96958A90889DE1E6EAE2E2E0E1E2E3E6E2EBE0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;dg=1;p=9694E0E5E3E0E0E2E3E2EBE3E7E5


所在地:大阪府羽曳野市誉田三丁目2-8
主祭神:応神天皇
社格:府社
創建:不明


【武将と八幡】
氏の氏神が八幡であるという信仰がひろまると、
誉田八幡宮は将軍家をはじめ源氏を名のる武士たちの信仰を受けるようになり、
源頼朝は建久7年社殿、伽藍を修復し国宝の神輿や、神馬、
重要文化財の鳶松皮菱螺鈿鞍・同鉄蛭巻薙刀などを寄進。

室町幕府六代将軍足利義教は重要文化財「誉田宗廟縁起」、
同「神功皇后縁起」を奉納されました。

南北朝時代から戦国時代にかけては当宮の別当職、誉田三河入道一族によって
守護されていましたが享徳3年(1454)河内守護の畠山一族の内輪争いに端を発した
戦乱により再三再四その激戦場となり社殿と伽藍が戦災を受けて荒廃。

その後、織田信長が全国統一の途中、三好一族を河内に攻め、
河内一円を完全に支配したとき当社寺領を没収してしまったと言われます。

天下統一を果たした豊臣秀吉は誉田八幡宮に社領二百石を寄進。
天正14年(1586)に社殿、伽藍が焼失したため、
文禄3年(1594)社領二百石を志紀郡古室村に転換し、
次いで豊臣秀頼も社殿再建に力を添えたそうです。


【鳥居】


無料駐車場の前にあります。


【拝殿】


慶長11年(1606)に豊臣秀頼が普請奉行に片桐且元を任じて再建させたもの。
しかし完成直前に大阪の役(冬の陣、夏の陣)が勃発した為、
八割方でき上がったまま放置されていた。
その後、徳川家光が再建工事を続行して寛永年間の初期に竣工。
 
徳川家によって最後の仕上げがなされたので三ツ葉葵の定紋が付けられている。


【本殿】



【姫待稲荷社】


末社。


【当宗神社】




素戔嗚命が祀られています。


【恵比寿社】



【盆栽】


絵馬堂に飾られていました。


【南大門】


切妻造で大葺の立派な四脚門はこの神社の門ではなく、
江戸時代に八幡宮の神宮寺であった長野山護国寺の門である。

この門も拝殿と同じく豊臣秀頼が片桐且元に命じて再建させたものであるが、
大阪の役(冬の陣、夏の陣)で豊臣氏が滅亡した後、
徳川家によって寛永年間初期に最後の仕上げを行ったもの。
切妻の部分に徳川家の三ツ葉葵の定紋が付けられている。


【放生橋】


この先が応神天皇陵で普段は柵で行けないようになっている。
しかし秋の大祭で執り行う「渡御(とぎょ)」の神事の際のみ、
陵墓への立ち入りが許可されている。

天皇陵への立ち入りという特別扱いが誉田八幡宮にのみ、
認められているのは何故かというと江戸時代まで墳丘と周濠の間には橋が架かり、
神輿は後円部の頂上にあった御堂まで渡御していた。
江戸末期の神仏分離で橋や御堂は取り壊され、
神輿が墳丘に渡ることはなくなったが、
こうした史実に加えて「永く応神陵を守護してきた歴史的経緯もあり、
堤の上までの渡御を認めている」と宮内庁陵墓課は説明する。


誉田御廟山古墳は5世紀ごろ築造されたとみられる巨大な前方後円墳。
墳丘の全長は425メートルで大仙古墳(仁徳天皇陵)に次ぐ全国2位だが、
高さでは勝っており容積では全国最大とされる。


【塵地螺鈿金銅装神輿】


源頼朝寄進と伝わる国宝。

土曜日の午後1時から4時まで見学可能。(拝観料400円要)


【御朱印】




今年の秋の大祭は残念ながら参加できなかったが、
来年は是非とも参加したいものである。