無意識日記
宇多田光 word:i_
 



米国では国内での成功が世界的な成功の足掛かりになる可能性が大いにあるのに対し、日本では国内での成功を追い求めるなら海外での成功はある意味諦めなければならない、或いは、海外での成功を追い求めるなら日本国内での成功は望めない、という二律背反が存在する。そこら辺が前回の話であった。

これを克服するにはどうすればよいか。歌の世界での言葉の壁は、前に指摘した通りメロディーとの結び付きと絡み合いにより、他ジャンルのエンターテインメントより遥かに高くなっている。"翻訳"という手段が効かず、その国の言葉でカバーし直して貰わないといけない。ある意味、それは最早ヒカルの歌ではない。

光にとって光のファンは、日本語を話すファン、英語を話すファン、その2つ以外の言語を話すファンの3つに大別される(跨ってる人も居る訳だが、取り敢えず)。このうち、3つめの他国語ファンに対してどうアプローチをするかが鍵になる。

日本語で歌う場合は、日本語を話す人々に向けて、或いは日本語を話す自分に向けて歌う。英語の場合も然りだ。しかし、他国語ファンに対してはどういう気持ちで歌えばよいか。

ここが英語の強みである。何の話かといえば、日本のみならず、ありとあらゆる国に於いて"洋楽"が存在するのだ。それぞれの自国の言葉で歌われる"邦楽"のヒットソング、流行歌と共に、規模の多少はあるにせよ必ず英米発信の、英語で歌われる"洋楽"のマーケットがある。ネットでチャートを見られる総ての国がそうである。

つまり、光は日本国内に対しては日本語で歌えばよいし、米国々内では英語で歌えばよい。それぞれの自国語での"邦楽"、つまり国内産音楽を提供する。しかし、それ以外の国にたいしては最初っから"洋楽"として歌えばよい。この場合は英語である。ここがややこしい。米国々内の言語である英語と、国際的音楽市場の"公用語"としての英語。英語には2つの側面があるのだ。

恐らく、この2つを意識する事で光の作詞は幾らか変化する筈だ。英語が母語である人たちに対しては歌詞で"話し掛ける"事が出来る。しかし、英語を外国語として聴く、英語の歌を"洋楽"として聴く世界中のファンは、幾ら何でも日本人ほどには苦手でないにせよ、やはり意味を解するには多少の困難があるだろう。そういった世界中の"大多数の洋楽ファン"にとっては、歌詞のメッセージ性より、発音の語呂の良さやサウンドとのマッチングなどの方が重要になってくる筈だ。

それを考えると、UtaDA1stのEXODUSはサウンド重視のインターナショナル/グローバル志向、2ndのTiTOは歌と歌詞重視の米国々内志向だったともいえる。まぁ極論だけどね。2ndの狙いが"メインストリームポップ"であり、まずは米国々内で足元を固めてから、という雰囲気のプロモーション体制だった事を考えると、結構意識的だったのかもしれないけれど。

という訳で、光が第3のファン層に対してアプローチする気であれば、全世界的な"洋楽"スタイルの音楽を創造する事になるだろう。そういう意識が強まれば、またEXODUSのような意匠を凝らした作品が出来上がるかもしれない。そして、その路線でいけば、日本に於いても"洋楽ファン"を取り込む事によって、幾ばくかの成功を収められるかもしれない。

しかし、それでもまだまだ物足りないだろう。追伸的に、そのジレンマを克服するウルトラCについて触れておこう。

その手段とは、世界中で"日本語の歌"を聴く習慣を作ってしまう事だ。多くの国に、英米の母語である英語の歌を、内容がよく理解できないまま聴いている層が居る訳だ。それなら、同じように世界中で"何を言ってるのかよくわからないけど日本語で歌っている歌"が聴かれている世界を妄想したっていいだろう。"外国語の歌"のスタンダードとして、例えばフレンチ・ポップスのようなポジションを獲れればいいのだ。

その為には、歌詞の意味なんてわからなくても魅力的なサウンドを作れる日本人が必要になってくる。それが成し遂げられる人といえば…やっぱり宇多田ヒカルが第一に来るんじゃないかなぁ。今までヒカルは"英語ネイティブというアドバンテージ"によっての世界進出の可能性を取り沙汰されてきた訳だが、純粋に世界レベルのソングライターとしての資質で世界を切り開いていく能力があるのだから、それによって"日本語による音楽"を聴く習慣を世界中に植え付けられれば…夢を見るにも程があるが、せっかくのアーティスト活動休止期間なので、偶には大言壮語もいいんじゃないかな。

なので、私の意見としては、兎に角いい曲を作って、その都度それに合う言語を当て嵌めていく、という究極のいきあたりばったりで作詞作曲をして、そのまんまアルバム作っちゃえばいいと思う。日本語の曲、英語の曲、日本語に英語を交えた曲、英語の中に日本語が飛び出してくる曲、フランス語をフィーチャーした曲、なんでもアリでいいのではないか。制限がなくなる分創作活動は激しく難しくなるだろうが、それもまたチャレンジだろう。機が熟したら、是非挑戦してみて欲しい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




Webの隆盛によって、英語と中国語(と一括りにしてよいのかはわからないが、取り敢えず)の重要度はますます増しているように思える。単純に、使ってる人間が多いので主流になっているというだけなのだが、特に英語の方は事実上の世界標準(デファクトスタンダード)になっている。コンピューター言語も多くが英語ベースだしね。

日本と日本語の特殊性は今まで何度も指摘してきた通りだが、この話題を何度も出すのは昨日も触れたように光が日本語と英語の両方で作詞をするからである。

現在、海外の市場で健闘している日本発のバンドといえばDir En Greyが挙げられるだろう。彼らの場合、グロウル系のヴォーカリゼイションも採り入れているし、そもそも歌詞よりサウンドが重視されるシーンで人気を獲得しているので、日本人である事や、日本語での表現などは余り弊害にはなっていない模様だ。といってもそれはあクマで数字からみた結果論に過ぎず、現実の当人達の苦労は知る由もないが。

光の場合基本的に歌モノで勝負している事、それに英語は半分母語でありアメリカデビューは"国内デビュー"であった事を鑑みると、英語で歌う事の意味づけは独特のものがある。つまり、国際的な展開、地球規模の活動を視野に入れなくても英語で歌う理由が在るのだ。

今の、いや今までの光はどちらかといえば日本寄りの生活をしてきたとみるのが妥当だろう。これは単純に、仕事のオファーが米国より日本の方が多かったからだ。もし日本で人気が出ていなかったなら、当初の予定通り(?)米国で活動を続け、あちらで先に成功していたかもしれない。ある意味、日本での極端な成功が光の米国での活動の機会を奪い、光を"日本人化"したとも受け取れるのだ。後付けの話に過ぎないけれど。

昨日興味深いツイートを頂いた。主に70年代に活躍したGodiego(我々の世代はTVドラマ西遊記や銀河鉄道999の主題歌で有名だろうか)は、メンバーの半分が日本人でない国際的なグループだったが、英語で歌っていたにもかかわらず日本で予定外に成功してしまい、海外進出の機会を失ってしまった、という話だ。

これは示唆に富んだエピソードである。米国国内での成功は、多くの場合そこから地球規模の活躍に繋がっていく。英語が基本であり、エンターテインメント産業の中核として音楽(の評判)を輸出してきた国、それが米国だからだ。

しかし、日本はある意味これと真逆である。日本国内で成功し、更にその期待に応えていく場合、日本語で歌い日本市場向けの音楽性にブラッシュアップしていかないといけない。日本市場に特化すればする程、他の国では売りにくい音楽性にシフトしていかざるを得ないのだ。逆に、海外志向で英語で歌い音楽性もそれにそぐうものにしていくと日本国内では難しくなっていく。LoudnessやDir En Greyの日本国内での知名度を考えれば何となくその空気は感じられるはず、だ。

長くなってしまったので次回に続く。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )