無意識日記
宇多田光 word:i_
 



前回はいわば、問いの立て方を述べたに過ぎない。本当に知りたいのは「本当の所はどうなのか」という実際、事実、現実である。しかし、無理だ。わかる筈も術もない。もしかしたら、光自身だって何の想定もしていないかもしれない。今考えたって仕方のない事かもしれない。

しかし、このblogは仕方のないblogなので仕方ない事でも延々考える。私に言わせればそれこそがエンターテインメント、ごらくである。(なんだかどっかのマスターとサーヴァントの会話っぽいが気にしない。アニメだと第12話です)

光の提供してきたものは何かといえばごらくである。娯楽ね。いつからか愉快な誤変換の事を娯変換と書くようになった。これはナイスな書き換えだ。失敗や間違い、誤りや落ち度も楽しんでしまえば誤落ならぬ娯楽になり得る。楽しもうという気持ち。それがごらくのごくいである。

光のエンターテイナーとしての自覚は、This Is The Oneで最も描写されている。On And OnやAutomatic Part2はそのまんまだし、見方によってはPoppin'もそうだろう。FYIは少し毛色が異なるものの、主人公が歌手である事を匂わせている点に通じるものがある。いずれも、"今私がしていること"に関する歌である。Hotel Lobbyのような"誰かの物語"というより直接光の物語。歌う人が歌う意義を歌う。物語ってか台詞か。

光はそれが自らの仕事である事を自覚していた。とりあえず2009年3月発売の歌だから2007、8年頃の作詞か。今はもう2012年3月。3年以上前の歌詞で今を語られては痒さ猛々しい気がするけれど、"人を楽しませる"という自覚の顕現についてはどうにも引っ掛かる。

色々すっ飛ばして私の思いを書いてしまえば、光には『みんな楽しそうだね~っ! でも今いちばん楽しんでるのは私だ!』と言って欲しいのだ。それが欲しい。

私の性格である。人を苦しめる為に苦しんでいる人が居るならそれはそれでわかりやすい。「やめなよ」って言うだろうけど。しかし、人を楽しませる為に苦しんでいる人を見るとそれだけでげんなりしてしまうのである。苦しむまでいかなくても、「これをすれば君たちは喜ぶ筈だから」という"感じ"が透けて見えた途端に萎えるのだ。プロなら隠し通して欲しい。

いや、もっと理想を言うならばそういう気分でやる人の方には行かない、そして、自分のやっている事が楽しくて仕方ない人の方へ行く。イチローは普段からきっと修行僧のような苦行に耐えて毎日研鑽しているだろうが、私の言う苦しみとやらはそこの話ではない。イチローがヒットを打った時、一塁をセーフで駆け抜けた時、世界で誰がいちばん喜んでいるかといえば間違いなくイチロー自身だ。そこがいい。彼はプレイオンの時は戦術上ポーカーフェイスを崩さないが、彼自身も言っているようにヒットを打てた時は飛び上がって喜びたいのだ。それを生み出す為に人生丸ごと捧げてんだからその"甲斐"を実感できるのは彼しか居ない。彼が、間違いなくいちばん喜んでいる。

光が、そういう気持ちになる事が人生のうちどれ位あるか。自らの生み出したごらくが、自らをどれだけ楽しませているか、喜ばせているか。それが見えてくれば、エンターテイナーとしての自覚の在処と在り様が見えてくる。逆に、見えなければ復帰後の体制なんて想像もつかない。さてどうなのだろう。話をまとめる気もなく次回に続きます。

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人間活動は、変わる為なのか変わらない為なのか。

解き解して問い直してみよう。12年間頑張ってきて、その間に落としてきたもの、得られなかったものを手に入れる期間を設けたという事は、宇多田光自身に関しては必ず某かの、今までにない変化や成長がある事だろう。問題はそれが、アーティスト活動に対しては果たしてどうなるのかという事だ。

もし人間活動で得たものをそのままのコンセプトでアーティスト活動に還元するとすれば、先般触れたように、"予測可能な"活動形態、即ち、一定の品質、決められた数量、約束した納期といった点を重視した、より商業的工業的活動にシフトするのではないかとも考えられる。いや勿論今までだって納期はきっちり(ギリギリで)守ってはきてるのだが、その具体的な設定自体がコントロール可能になるという感じだ。

勿論これは、考えられる変化の一例であって、人間活動の中身と、光の人生における位置付けがわからない以上、どんな解釈でも考察可能だ。例えば全く真逆の、アーティスティシティ全開のエキセントリックな活動形態に変化する事だって考えてもいい。しかし実生活では、マネージャーなしでも何でも出来るというアンバランス。ちょっと面白い。まぁリリース間隔が超不定期になって、1年おきと10年おきが交互に繰り返されるとかになったら戸惑うが。


他方、"変わらない為"とは何なのだろうか。もし仮に、アーティスト活動を休止せず13年目もそのまま突っ走っていったら、今までの活動形態や制作態度が維持出来なくなる恐れが出てきていて、ここらでいっちょ大幅に空気を入れ換えて、また新たな気持ちで今までと同様の形態で活動していこう、そんな心積もりで今人間活動に専念しているのかもしれない。即ち、戻ってきても、数年の間隔が空いたというだけで、我々は何も戸惑うことなく今まで通りに光の事を応援できる。"いつものひかるちゃん"が結局そこに居る、という訳だ。これが多分、大方にとっていちばん望ましいだろう。

しかしヒカルの場合、何が"いつもの"かといえば、いつリリースになるかわからないシングル、いつ更新されるかわからないメッセ、全く予測のつかないツアー日程、次々と導入される新しいメディア、そして何ら"型"をもたない上に流れも読めない千変万化の音楽性と、"常に変わり続ける"のが"いつもの"状態である。常に予想を裏切る事で期待に応える。誰が最初に言い出したか知らないが、それがヒカルの真骨頂である。

まとめると、こうなる。人間活動は、変わらないように変わる為なのか、でなくば、変わり続ける事が変わらないようにする為なのか、果たしてどちらなのか。完全に"禅問答"になっているが、だからこそ見極めが難しい。この答を知れるのは当然実際に戻ってくるまでは待たなくてはいけない。それまでは想像の翼をのんびりのびのびと広げ、羽を伸ばしておくことにしよう、かな。

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