あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

深層心理の傷心、表層心理の苦悩。(自我その301)

2020-01-19 00:49:40 | 思想
多くの人は、主体的に、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら暮らしていると思っている。もしも、自分が、主体的に行動できないとすれば、それは、他者からの束縛があるからだと思っている。そこで、他者からの束縛のない状態、すなわち、自由に憧れる。自由であれば、自分は、主体的に、自ら意識して、自ら考えて、自らの意志で行動し、自らの感情をコントロールしながら暮らすことができると思い込んでいるのである。しかし、それは大きな誤解である。まず、人間は主体的ではない。人間は、主体的になれないのである。確かに、人間は、自我が主体になる。しかし、自我が思考するのではない。深層心理が、自我を主体に立てて思考するのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。つまり、人間は、無意識のうちに、自我を主体に立てて思考するのである。だから、思考の母体は、無意識という深層心理であり、実体を明示することはできないのである。しかし、深層心理が自我を主体に立てて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すから、人間は、表層心理で、自我の欲望を意識し、自我を主体に立てて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて思考できるのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。人間の表層心理での思考による行動が意志なのである。しかし、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。このように、人間は、深層心理も表層心理での思考も、自我を主体に立てて行っているのであり、表層心理で意識して思考するのは、常に、深層心理が生み出した自我の欲望についてであり、表層心理独自で、思考できず、しかも、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうから、決して、主体的な存在ではないのである。人間は、まず、深層心理が自我を主体に立てて思考し、感情と行動の指令を生み出し、そのすぐ後、それを受けて、表層心理で、自我を主体に立てて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について意識して思考し、行動するのである。だから、自我が主体的に思考することはないのである。もしも、自我が主体的思考しているのならば、人間は、深層心理の思考と表層心理での思考というように分離することもないのである。人間は、無意識という深層心理が、思考するから、主体の存在が曖昧模糊となるのである。そこで、フロイトは、主体を、「Es・It」としているのである。ハイデッガーならば、主体を、「先駆的存在」とするだろう。ラカンならば、主体を、「現れた言葉そのもの」とするだろう。深層心理の働きについて、ラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言っている。無意識とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。ラカンは、深層心理は言語を使って論理的に思考していると言っているのである。つまり、深層心理が、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、人間の無意識のままに、言語を使って、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。快感原則とは、フロイトの用語で、快楽を求める欲望である。ひたすら、その場での、瞬間的な快楽を求める欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその場での瞬間的な快楽を求めることを、目的・目標としているのである。深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、人間は、意識して思考し、表層心理で、自我を主体に立てて、現実原則によって、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令の許諾するか拒否するか決めるのである。この人間の表層心理の思考が広義での理性である。広義での理性で、許諾すると決定すれば、行動の指令のままに行動し、それが意志による行動である。広義での理性で、拒否すると決定すれば、行動の指令を抑圧し、人間は、表層心理で、別の行動を考えださなければならなくなる。これが、狭義での理性による思考である。現実原則とは、フロイトの用語で、現実的な利益を自我にもたらそうという欲望である。それは、長期的な展望に立っている。さて、それでは、深層心理や表層心理が主体に立てている自我とは、何か。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。それでは、構造体とは、何か。構造体とは、国、家族、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。国という構造体には総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我などがあり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には校長・教師・生徒などの自我があり、会社という構造体には社長・部長・社員という自我などがあり、仲間という構造体には友人という自我があり、カップルという構造体には恋人という自我があるのである。深層心理が自我を動かしている。深層心理は、自我の存続・発展のために思考し、自我を動かそうとする。なぜならば、人間が社会生活を営む上で、自我が主体として立つからである。つまり、人間が社会生活を営む上で、自我が存在しなければ、人間も存在しないのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するようにも思考するが、それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。さて、先に述べたように、人間は、まず、深層心理(人間の無意識の心の働き)が、自我を主体に立てて、快楽を得ようという快感原則に基づき、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。深層心理は、自我の対他化、対象の対自化、自我と他者の共感化という三つの機能を使って、快感原則を満たそうとする。これらの機能は同時に働くことはなく、その場に応じて、いずれかの一つが機能している。第一の機能としての自我の対他化であるが、それは、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとすることである。自我の対他化とは、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を考えることである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。人間が苦悩に陥る原因の一つが、深層心理の自我の対他化の機能による。すなわち、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から好評価・高評価を得たいと思っているが、連日、悪評価・低評価を受け、心が傷付くことが重なった。深層心理は、快感原則の下で、傷心という感情とと不登校・不出勤という行動の指令という自我の欲望を生み出した。人間は、それを受けて、表層心理で、すなわち、広義の理性で、現実原則の下で、傷心という感情の中で、不登校・不出勤というが生み出した行動の指令を抑圧し、登校・出勤しようとするのだが、傷心という感情が強いので、不登校・不出勤になってしまうのである。そこで、人間は、表層心理で、すなわち、狭義の理性で、不登校・不出勤を指示する深層心理を説得するために、登校・出勤する理由を探したり論理を展開しようとするのだが、それが上手く行かずに、苦悩に陥るのである。人間は、深層心理がもたらした傷心を、表層心理で解決できないために苦悩に陥るのである。第二の機能としての対象の対自化であるが、それは、深層心理が、自我で他者・物・事柄という対象を支配することによって、快楽を得ようとすることである。対象の対自化とは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、物という対象を、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、事柄という対象を、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)で捉えている。人間は、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、この世に存在しているように創造する。)という言葉に表れている。自分の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)は、対象を支配しよう・利用しよう・捉えようという自己の欲望の位相(パラダイム、地平、方向性)であるが、志向性(観点・視点)と趣向性(好み)は厳密には区別できない。それでも差異があるとすれば、志向性(観点・視点)は冷静に捉え、趣向性(好み)は感情的に捉えていることである。言わば、自我の対他化は自我が他者の視点によって見られることならば、対象の対自化は自分の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で他者・物・事柄を見ることなのである。深層心理は、自我で他者を支配するために、他者がどのような思いで何をしようとしているのかその欲望を探ろうとする。しかし、他者の欲望を探る時も、ただ漠然と行うのではなく、自らの欲望と対比しながら行うのである。その人の欲望が、自分の欲望と同じ方向にあるか、逆にあるかを探るのである。つまり、他者が味方になりそうか敵になりそうか探るのである。そして、その人の欲望が自分の欲望と同じ方向にあり、味方になりそうならば、自らがイニシアチブを取ろうと考える。また、その人の欲望が自分の欲望と異なっていたり逆の方向にあったりした場合、味方になる可能性がある者と無い者に峻別する。前者に対しては味方に引き込もうとするように考え、後者に対しては、排除したり、力を発揮できないようにしたり、叩きのめしたりすることを考えるのである。これが、「人は自己の欲望を他者に投影する」ということの他者に対する積極的な意味である。これを徹底したものが、ニーチェの言う「権力への意志」である。しかし、人間、誰しも、常に、対象の対自化を行っているから、「権力への意志」の保持者になる可能性があるが、それを貫くことは、難しいのである。なぜならば、ほとんどの人は、誰かの反対にあうと、その人の視線を気にし、自我を対他化するからである。だから、一生戦うことを有言実行したサルトルは、「対自化とは、見るということであり、勝者の態度だ。」と言っているが、その態度を貫く「権力への意志」の保持者はまれなのである。誰しも、サルトルの「見られることより見ることの方が大切なのだ。」という言葉は理解するが、それを貫くことは難しいのである。大衆は、他者という対象を、無意識のうちに、自分の趣向性(好み)で捉えることが多い。だから、大衆の行動は、常に、感情的なのである。また、神が存在するのも、人間にとって、神が存在しなければ不安だからである。人間は、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象が実際には存在しなくても、無意識のうちに、、存在しているように創造することがあるのである。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、坂本龍馬、板垣退助、江藤新平などの勤王の志士という歴史上の人物は、テレビドラマで、「国民のため、新しい日本を作るために、立ち上がるのだ。」と叫んでいる。しかし、彼らは、国民のために新しい日本を作ろうとして立ち上がったのではない。彼らのほとんどは、外様大名の下級の武士であったり、郷士であったりするので、江戸幕府が続く限り、立身出世が望めないばかりか、一生、貧窮の生活を送らなければいけない。そんな彼らが、ペリー来航以来、弱体を露わにした徳川幕府に対して、打倒に向かうのは当然のことである。彼らは、朝廷(天皇家)のためではなく、外様大名の下級武士・郷士という自我を捨て去り、新しい自我を求めて、命を賭けて、徳川幕府と戦ったのである。大衆は、彼らを、国民のために新しい日本を作ろうとして立ち上がった勤王の武士と思いたいから、テレビドラマで、「国民のため、新しい日本を作るために、立ち上がるのだ。」と叫ばせたのである。かつて、視聴率の高いテレビドラマに、「水戸黄門」という時代劇があった。水戸黄門が、身をやつし、身分を隠して、助さんと格さんを引き連れて、諸国を漫遊し、悪大名、悪代官、悪商人を成敗する物語である。悪人たちと立ち回りになり、悪人たちが、打ちのめされた頃合いに、助さんか格さんが、葵の紋の印籠を掲げて、「さきの副将軍、水戸光圀公であらせられるぞ。」と言うと、悪人一味は、土下座し、平伏して、降伏を宣する。大衆は、庶民を救う権力者が欲しいから、「水戸黄門」というテレビドラマの時代劇を作ったのである。しかし、水戸黄門は、水戸からほとんど出ず、女癖が悪く、城内で、大した理由もなく、家臣を斬殺しているのである。現代政治においても、大衆は、庶民を救う権力者を求めている。だから、安倍晋三や森田健作に支持が集まったのである。しかし、安倍晋三首相は、強行採決を繰り返して日本を私物化し、森友学園・加計学園の自分の信奉者・友人に、不正な優遇をし、「桜を見る会」を私物化し、公私混同した。森田健作千葉県知事が千葉県の台風被災に際して、仕事を放り出し、被災地よりも自分の家の被災状況を見て回った。現在、視聴率の高い、テレビ朝日のテレビドラマに、「相棒」という刑事ドラマがある。東大法学部を卒業した、キャリアの杉下右京警部が、警視庁特命係という、仕事らしき仕事のない部署で、相棒の部下を一人従えて、強引に難事件に首を突っ込み、解決していくというドラマである。東大法学部卒などのキャリアと呼ばれる官僚たちは、安倍晋三のために、公文書を改竄し、嘘の答弁をし、都合良く健忘症になる。戦前の旧東大法学部卒の特高の幹部だった安倍源基は、部下を指揮して、小林多喜二を初めとして、数十人の共産主義者や自由主義者を拷問で殺している。大衆は、高学歴の人間に、ありもしない夢を抱いているのである。権力者や高学歴の人間が、いつか、自分たちを救ってくれるのではないかと期待を抱いているのである。そして、自分たちは、何もせず、そのような人が現れるのを待っているのである。それが、両ドラマを高視聴率に導いているのである。しかし、大衆が、どれだけ待とうと、権力者や高学歴の人間は、大衆の意を酌んでくれない。彼らは、その権力や高学歴を生かして、自分たちの利益を最大限に求め続ける。それは、集団的自衛権の国会成立、原子力発電所の再稼働に、如実に現れているではないか。世論調査で、圧倒的に、集団的自衛権の成立に反対・原子力発電所の再稼働に反対の結果が出ても、自民党を中心とした勢力は、強引にそれを推し進めたのである。しかし、それでも、大衆は、権力者や高学歴者が、自らを救うの待ち続けるであろう。人間は、自分の志向性(観点・視点)や自分の趣向性(好み)に合った、他者・物・事柄という対象が実際には存在しなくても、無意識のうちに、存在しているように創造するからである。大衆は、特に、そうなのである。ニーチェの「大衆は馬鹿だ」の声が聞こえてくる。また、父親(義理の父親が多いが)が幼児を虐待死させるのは、幼児かを対自化して支配しようとするのだが、幼児を支配できない傷心から起こるのである。幼児を支配できない父親は、深層心理が、傷心・怒りという感情と幼児に対する暴力という行動の指令を生み出し、表層心理で、傷心という感情の中で、幼児に対する暴力という指令に対して思考し、たとえ抑圧しようとしても、傷心・怒りの感情が強かったから、虐待に向かったのである。第三の機能としての自我と他者の共感化であるが、それは、深層心理が、自我が他者と理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。自我と他者の共感化は、自我を他者に一方的に身を投げ出すという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を一方的に支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うということで、現象に、端的に、現れている。「呉越同舟」(仲の悪い者同士でも、共通の敵が現れると、協力して敵と戦う。)という四字熟語があるが、これもまた、自我と他者の共感化である。仲が悪いのは、二人は、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで「一つになる」というのも、共感化の現象であるが、そこに共通に対自化した敵がいるからである。試合が終わると、共通に対自化した敵がいなくなるから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。また、愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感して、そこに、喜びが生じるのである。中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じているからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。深層心理は、その屈辱感を払うために、ストーカーになることを指示し、表層心理で、審理しても、屈辱感が強いので、ストーカーになってしまったのである。このように、人間は、深層心理が、自我を主体にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。深層心理が、傷心・怒りという強い感情を生み出さなければ、人間は、表層心理で、深層心理の行動の指令について、冷静に思考でき、過激な行動の指令ならば、抑圧することができる。だから、人間は、表層心理で、深層心理が強い傷心・怒りの感情を生み出さないように、身を処すことが大切である。そのためには、自らの深層心理の傾向を知ることが大切である。そして、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を意識せずに、行動の指令のままに行動することがある。これが、無意識の行動である。人間の生活は無意識の行動が非常に多い。日常生活での、ルーティーンと言われる、習慣的な行動は無意識の行動である。だから、ニーチェは、「人間は永劫回帰である」(人間は同じ生活を繰り返す)と言ったのである。だから、人間は、自らのルーティンから、自らの深層心理の傾向を探れば良いのである。





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