あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

あなたはいない。そこには、深層心理に動かされている自我がいるだけである。(自我その496)

2021-05-04 13:03:31 | 思想
「あなたは何。」と尋ねられても、人間は、誰しも、常に、同じ言葉で答えているわけではない。なぜならば、人間は、構造体によって、異なった自我を所有しているからである。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属して、自我を持って行動しているが、異なった構造体には、異なった自我を持っているから、「あなたは何。」と尋ねられた時に、同じ言葉で答えることはできないのである。例えば、ある女性は、家族という構造体に所属している時は母という自我を所有し、夫婦という構造体に所属している時は妻という自我を所有し、銀行という構造体に所属している時は行員という自我を所有し、コンビニという構造体に所属している時は客という自我を所有し、電車という構造体に所属している時は乗客という自我を所有し、日本という構造体に所属している時は日本人という自我を所有し、東京都という構造体に所属している時は都民という自我を所有し、ママ友仲間という構造体に所属している時は友人という自我を所有して行動している。だから、息子や娘が彼女のことを母だと思っているが、彼女は母だけでなく、妻、行員、客、乗客、都民、友人という自我をも所有しているのである。彼女は、家族という構造体では母という自我を所有しているが、他の構造体では他の自我を所有して行動しているのである。だから、息子や娘は彼女の全体像がわからないのである。人間は、他者の一部しか知ることができないのに、それを全体像だと思い込んでいるのである。また、人間は、自らのことを、自分と表現するが、自分そのものは存在しない。なぜならば、自分は、単独では存在できないからである。自分は、他者や他人が存在する時に、存在する。人間は、他者や他人の存在を意識した時に、自分を意識するのである。他者とは、同じ構造体の中での、自我以外の人々である。他人とは、別の構造体の中での人々である。だから、人間にとって、自分とは、単に、他者や他人と接する時に、もしくは、他者や他人を意識した時に、自らに対して持つ意識でしか無いのである。また、人間は、自己として存在することに憧れている、もしくは、自己として存在していると思い込んでいるが、容易には、自己として生きることができないのである。自己として存在するとは、自らを意識して、主体的に、自らの行動を思考して、その思考の結果を意志として、行動することである。自らの意識した精神活動を表層心理と言う。人間の主体的な意識しての思考を理性と言う。つまり、人間が自己として存在するとは、主体的に表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して、行動を決めて、それを意志として、行動することである。すなわち、自己として存在するとは、人間が表層心理で思考して、その思考の結果を意志として、行動することなのである。このように言うと、一見、自己として生きることは簡単なように思え、自らも容易にできるように思う。確かに、人間は、表層心理で思考して、行動しているのならば、自己として存在していると言える。しかし、人間は、深層心理に動かされているから、自己として存在していないのである。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。深層心理が、ある心境の下で、自我を主体に立てて、他者・物・こと(現象)に関わりながら、欲欲動によって、快感原則に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我としての人間は、それに動かされて、行動しているのである。人間が、自己として存在していないということは、自由な存在でもなく、主体的なあり方もしていず、主体性も有していないということを意味するのである。また、そもそも、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるから、人間は、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。主体的に、他者の思惑を気にしないで思考し、行動すれば、その構造体から追放される虞があるからである。だから、人間は、自己として存在できないのである。しかし、人間は、自己として存在できず、自分が主体的に行動できないのは、他者や他人から妨害や束縛を受けているからだと思っている。そこで、他者からの妨害や束縛のない状態、すなわち、自由に憧れるのである。自由であれば、自分は、表層心理で、主体的に、自らの感情をコントロールしながら、自らを意識して思考して、自らの意志で行動することができると思い込んでいるのである。つまり、自己として生きられると思っているのである。そして、そのような生き方に憧れるのである。しかし、人間は、自由であっても、決して、主体的になれないのである。なぜならば、深層心理が、常に、ある心境の下で、自我を主体に立てて、他者・物・こと(現象)に関わりながら、欲欲動によって、快楽を求めて、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動しているからである。だから、人間は、朝、目覚めると、今日しなければいけないことのことを思って、不愉快な気持ちになるのである。もちろん、その気持ちは、人間が、表層心理で、自ら意識して、今日しなければいけないことのことを思って、生み出したのではない。深層心理が、人間の無意識のうちに、今日しなければいけないことのことを思考して、不愉快な気持ちを生み出したのである。もしも、人間が、表層心理で、自ら意識して、自分の気持ちが生み出せるならば、誰が不愉快な気持ちを生み出すだろうか。人間が、表層心理で、自ら意識して、自分の気持ちが生み出していず、深層心理が、人間の無意識のうちに、自分の気持ちが生み出してから、不愉快な気持ちにするでは無く、不愉快な気持ちになると表現するのである。ちなみに、不快な気持ちだけでなく、愉快な気持ちを含めて、人間の感情は、全て、深層心理が、思考して、生み出しているのである。しかし、人間は、不愉快な気持ちになっても、深層心理にある、超自我という機能が、ルーティーンを守るために、今日も昨日と同じように、自宅に居させたり、学校や職場に行かせたりして、同じことをさせるようにするのである。深層心理には、超自我という、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧し、自我をして、毎日同じようなことを繰り返すルーティーンの生活をさせようとする機能も存在するのである。しかし、人間は、旅館でホテルで目覚めた時、人間は、表層心理で、自らを意識して、思考することになる。つまり、異常なことが起こり、ルーティーンの生活が破られた時、人間は、表層心理で、現実的な自我の利得を求めて、自らを意識して、思考するのである。そして、修学旅行で来たことや出張で来たことを思い出して、その準備に取り掛かるのである。このように、人間は、ルーティーンの生活が破られた時に、表層心理での思考を行うのである。しかし、人間の思考の主体は、深層心理なのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理が、ある心境の下で、自我を主体に立てて、他者・物・こと(現象)に関わりながら、欲動によって、快感原則を基に、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。まず、心境についてであるが、心境が、人間の日常生活がルーティーンになるのを可能にしている。心境は、感情と同じく、情態性という心の状態を表している。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する情態性である。感情は、喜怒哀楽悪などの、突発的に生まれる情態性である。心境と感情は並び立つことがない。また、ある心境は別の心境と並び立つことがなく、ある感情は別の感情と並び立つことがない。人間は、常に、一つの心境という情態性、若しくは、一つの感情の下にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、人間の心境であり感情である。深層心理は、心が空白の状態で思考して、自我の欲望を生み出しているわけではなく、心境や感情という情態性に動かされているのである。人間は、心境や感情によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。人間は、得意の心境の状態の時には、深層心理は、現在の状態を維持させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間が、不得意の心境の状態の時には、深層心理は、現在の状態から脱却させようと思考させて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。つまり、深層心理は、自らの現在の心境を基点にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しいという心境が消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わないのである。苦しいという心境が消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、深層心理にとって、苦しみの心境から抜け出すことが最大の目標であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境という情態性が大切なのである。それは、常に、心境という情態性が深層心理を覆っているからである。もちろん、日常生活において、異常なことが起こると、例えば、美しい花を見ると感動という感情が湧き、誰かに侮辱されると怒りという感情が湧き、深層心理を覆うことになる。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などにも、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。それは、深層心理が、ある心境の下で、自我を主体に立てて、他者・物・こと(現象)に関わりながら、欲動によって、快感原則を基に、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているからである。つまり、人間は、論理的に、自分、他者、物、こと(現象)の存在が証明できるから、これらが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、これらの存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトは、「我思う故に我あり」という言葉で、私がいろいろな物やことの存在を疑うことができるのは、私が存在しているからだとし、そこから、私の存在の確信を得たと言っているが、デカルトが、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う以前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、すなわち、表層心理で、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、一旦、今までの心境は消滅し、その後、新しい心境が現れてくる。つまり、変化するのである。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、他者・物・こと(現象)に関わりながら、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境や感情を変えることができないから、何かをすることによって、気分転換をして、心境や感情を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境や感情を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境や感情を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境や感情を変えようとするのである。次に、自我を主体を立てることについてであるが、深層心理が自我を主体に立てて思考して人間を動かしているから、人間に主体性が無いのである。しかし、人間に主体性が無いことは、誕生から始まっているのである。人間は、誰一人として、誕生の意志をもって生まれていないからである。人間は、気が付いたら人間として存在しているのである。自らの意志で誕生していないから、主体性を持つことができないのである。だから、深層心理に動かされて生きているのである。そして、時として、それに気付き、主体性が無いことを嘆くのである。しかし、自らの意志によって生まれてきたのではないことは、他の動植物も同じである。しかし、人間には、他の動植物と異なるところがある。それは、言葉を持っていることである。他の動植物は言葉を持っていないから、何かに動かされて生き、何かを追うように仕向けられて生きていることに疑問を覚えることが無いのである。思考と行動は完全に一致しているからである。しかし、人間には、表層心理という、自らを意識しての思考、自らの意志も存在するから、自らの意志では、抑圧できない感情の存在に気付き、主体性が無いことに気付くのである。そこから、深層心理の存在に気付き、感情だけでなく、行動の指令までも、深層心理が生み出していることに気付くのである。なぜならば、常に、人間の感情と行動は一体化しているからである。次に、欲動についてであるが、欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動が、深層心理を動かしているのである。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなえば、快楽を得ることができるのである。だから、深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかに基づいて、快楽を得ようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとしているのである。欲動の四つの欲望うちの第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。保身欲である。深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。退学者・失業者が苦悩するのは、生徒・会社員という自我で温かく迎えてくれる構造体が数少ないからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、残虐な行為が無くなることはないのである。だから、国外、国内において、政治権力者が自我の欲望によって大衆に対して残虐非道のことを行い、大衆は自我の欲望によって自分の無力を正当化して、政治権力者の残虐非道な行為を忘れようとしているのである。国外では、ミャンマーでは、軍部がクーデターを起こして、政治権力を奪い、デモ行進をする民衆を、兵隊と警官が無差別に射殺している。国連が頼りのはずなのに、中国とロシアが反対し、非難声明すら出せないでいる。ナイジェリアでは。イスラム過激派組織ボコ・ハラムが、西洋式の教育を行っていると批判し、学校を襲撃し、数百人単位で生徒を連れ去り、男子生徒を兵士に仕立て上げ、女子生徒をレイプしている。中国共産党政府は、香港に介入し、民主派政治家を逮捕し、中国の支配下におこうとしている。中国共産党政府は、ウイグル自治区では、イスラム教徒を逮捕し、強制収容所に送り、男性を拷問死し、女性をレイプしている。北朝鮮では、金正恩が独裁政治を敷き、理由無く、民衆を殺している。アメリカでは、トランプ前大統領が、コロナウィルスは中国に責任があると幾度も声明を上げると、アジア系住民が大通りで襲撃され、建物が放火されている。ロシアでは、プーチン大統領が、反対派の政治家を暗殺している。メキシコでは、麻薬組織が、ジャーナリストや政治家を暗殺している。国内では、コロナウィルスの感染が収束していないのに、政府はオリンピックを開こうとしている。沖縄県民の反対をよそに、政府は辺野古にアメリカ軍基地が建設している。福島で大事故があったのに、原発は停止される方向に向かっていていない。安倍晋三前首相が、強行採決を繰り返し、集団的自衛権を認めさせ、いつでどこでも、アメリカに追随し、日本は戦争をできるようになった。安倍晋三前首相は、森友学園、加計学園、桜を見る会で、不正を行った。菅義偉現首相の息子が勤めている東北新社やNTTが、当時総務大臣だった野田聖子や高市早苗や総務幹部を接待した。しかし、国外においても、国内においても、誰一人として、罪に問われず、失脚していない。それは、誰もが、自我に執着しているからである。政治権力者は、権力を楯に、自我の欲望を実現しようとし、大衆は、自我を守るために、政治権力者に迎合しているからである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っている。それは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望がかなっているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェは、「永劫回帰」という言葉で、森羅万象は永遠に同じことを繰り返すという思想を唱えたが、それは、人間の生活にも当てはまるのである。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望である。承認欲である。深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。例えば、人間は、学校や会社という構造体で、生徒や会社員という自我を持っていて暮らしていて、深層心理は、同級生・教師や同僚や上司という他者から生徒や会社員という自我が好評価・高評価を得たいという欲望を持っているが、悪評価・低評価を受けると、心が傷付くのである。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。支配欲である。深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、二つの機能が起こり、それが、深層心理の対自化の機能に加わる。一つは、有の無化という機能である。この世に、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象が存在していると、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。自己正当化によって、心に安定を得ようとするのである。もう一つは、無の有化という機能である。さて、この世に、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象が存在しなければ、深層心理が、存在しているように思い込むというということである。人間は、自らの存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定を得ようとするのである。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。共感欲である。深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。深層心理は、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとするのである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことだからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。北朝鮮の金正恩を中心とした政治権力者が、アメリカを共通の敵として、大衆に協力を求め、それが成功しているのである。日本の自民党政権は、中国、北朝鮮、韓国を共通の敵として、大衆に協力を求め、それが成功しているのである。次に、快感原則についてであるが、快感原則とは、ひたすらその時その場で、快楽を得ようとし、不快を避けようとする欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。ひたすら快楽を得ようとし、不快を避けようとする。深層心理は、欲動に応じた行動を取れば、快楽が得られるので、欲望に迎合した自我の欲望を生み出すのである。人間が、道徳観や社会規約を考慮するのは、表層心理で、思考する時である。人間は、自らを意識して、表層心理で、現実原則を満たそうとして、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考するのである。現実原則とは、自我に現実的な利得を求める欲望である。現実原則に、道徳観や社会規約という価値観が存在するのである。道徳観や社会規約を考慮に入れなければ、他者から顰蹙を買い、自我に現実的な利得が得られないからである。最後に、感情と行動の指令という自我の欲望についてであるが、感情と行動の指令という自我の欲望とは、深層心理が生み出した感情によって、自我を動かし、深層心理が生み出した行動の指令を実行させようとすることである。さて、欲動の四つの欲望がかなわず、自我が傷つけられたならば、深層心理は、怒りの感情とともに暴力などの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出す。深層心理は、怒りの感情によって、人間を動かし、侮辱や暴力などの過激な行動を行わせ、自我の欲望をかなえることを妨害した相手をおとしめ、傷付いた自我を癒やそうとするのである。しかし、そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンを守るために、過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。超自我は、深層心理の構造体の中で自我を持してこれまでと同じように暮らしたいという、欲動の第一の欲望である自我の保身化から発したいう作用である。しかし、もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、基本的に、長時間掛かかる。なぜならば、表層心理での思考は、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実原則とは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望である。この場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、侮辱したり殴ったりしたならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した暴力などの行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した侮辱や暴力などの行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を侮辱したり殴ったり、時には、殺害したりしてしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。それが、時には、精神疾患を招き、時には、自殺を招くのである。さて、人類は、現在、絶望的な状況にある。先に記したように、国外では、ミャンマーでは、軍部がクーデターを起こして、政治権力を奪い、デモ行進をする民衆を、兵士と警官が無差別に射殺している。国連が頼りのはずなのに、中国とロシアが反対し、抑圧の行動を取れないでいる。ナイジェリアでは。イスラム過激派組織ボコ・ハラムが、西洋式の教育を行っていると批判し、学校を襲撃し、数百人単位で生徒を連れ去り、男子生徒を兵士に仕立て上げ、女子生徒をレイプしている。中国共産党政府は、香港に介入し、民主派政治家を逮捕し、中国の支配下におこうとしている。中国共産党政府は、ウイグル自治区では、イスラム教徒を逮捕し、強制収容所に送り、男性を拷問死し、女性をレイプしている。北朝鮮では、金正恩が独裁政治を敷き、理由無く、民衆を殺している。アメリカでは、トランプ前大統領が、コロナウィルスは中国に責任があると幾度も声明を上げると、アジア系住民が大通りで襲撃され、建物が放火されている。ロシアでは、プーチン大統領が、反対派の政治家を暗殺している。メキシコでは、麻薬組織が、ジャーナリストや政治家を暗殺している。国内では、コロナウィルスの感染が収束していないのに、政府はオリンピックを開こうとしている。沖縄県民の反対をよそに、政府は辺野古にアメリカ軍基地が建設している。福島で大事故があったのに、原発は停止される方向に向かっていていない。安倍晋三前首相が、強行採決を繰り返し、集団的自衛権を認めさせ、いつでどこでも、アメリカに追随し、日本は戦争をできるようになった。安倍晋三前首相は、森友学園、加計学園、桜を見る会で、不正を行った。菅義偉現首相の息子が勤めている東北新社やNTTが、当時総務大臣だった野田聖子や高市早苗や総務幹部を接待した。しかし、誰一人として、失脚していない。人類は、現在が無いばかりか、未来像を描けない状態にある。なぜ、そうなのか。それは、上記の犯罪者たちは、自我を持つやいなや、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、彼らは、その自我の欲望に動かされて行動したのである。一般に、人間は、深層心理が過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出したならば、超自我がルーティーンの日常生活を守るために抑圧しようとする。そして、超自我で抑圧ができなかったならば、人間は、表層心理で、道徳観や社会規約を考慮し、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動したならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとするのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。そうすると、上記の犯罪者者たちには、内心に、抑圧装置が存在しないことになる。そして、国連、ミャンマー国民、日本国民には、他者としての力が存在しないのである。だから、彼らは、自我の欲望のままに行動したのである。このように、人間は、深層心理に動かされているのである。深層心理に動かされているから、自己として存在していないのである。人間は、自己として存在していないということは、自由な存在でもなく、主体的なあり方もしていず、主体性も有していないということを意味するのである。しかし、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じた時、表層心理で、自らの存在を意識して、現実原則の視点から、思考するのである。しかし、ニーチェは「意志は意志できない」と言う。同じように、思考も意志できないのである。深層心理の思考が人間の意志によって行われないように、表層心理の思考も人間の意志によって行われないのである。人間が自らの存在を意識すると同時に、表層心理での思考が始まるのである。だから、人間は、現在の状況が人類にとって、危機的な状況であると認識すべきなのである。なぜならば、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じた時、表層心理で、自らの存在を意識して、現実原則の視点から、思考するからである。




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