あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

私は存在しない。(欲動その14)

2024-05-04 12:41:40 | 思想
私は存在しない。私は私ではない。私の中に私の意志では動かせない私がいて、私の外にある他者から与えられた私を動かしているのである。つまり、私の中にある私が私の外にある私を動かしているのである。どこにも、私という実体は存在しないのである。人間とは、私の中にある私と私の外にある私との関係性である。この関係性が私を形成しているのである。私の中にある私の意志では動かせない私とは深層心理である。深層心理とは無意識の精神活動である。すなわち、人間は無意識の精神活動に動かされているのである。私の外にある他者から与えられた私とは自我である。深層心理が自我を主体に立てて思考して、自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。だから、私は私ではなく、私は存在しないのである。ところが、ほとんどの人は、自ら意識して思考して、行動していると思っているのである。人間の自らを意識して動く精神活動を表層心理と言う。つまり、ほとんどの人は、表層心理で、自らを意識して思考し、意志によって自ら動いていると思い込んでいるのである。すなわち、ほとんどの人は、表層心理で思考して、主体的に動いていると思い込んでいるのである。だから、私は私であり、私は存在しているのである。そこに根本的な誤りがあるのである。確かに、人間は、表層心理で、思考する時がある。しかし、人間が表層心理で思考する時は、深層心理が生み出した自我の欲望を受け入れ入れるか拒否するかについてである。人間は表層心理独自に思考して、意志によって行動できないのである。すなわち、人間は表層心理での思考で深層心理が生み出した自我の欲望に関わるしかないのである。あくまでも、深層心理が主体であり、表層心理での思考は従属関係にあり、それには限界があるのである。キルケゴールは、『死に至る病』で、「人間は精神である。精神とは自分である。自分とは関係それ自身ではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。」と言った。人間は自分と自分の関係性でしかないのである。つまり、表層心理での思考と深層心理の思考との関係性である。キルケゴールは表層心理での思考に限界を感じたから、神を持ち出したのである。神の力を借りて、表層心理での限界を突破し、深層心理の思考に食い込もうと考えたのである。敬虔なクリスチャンである彼にふさわしい考えで方ある。だから、クリスチャンではない人間には、とうてい、納得できない論理である。さて、深層心理が自我を主体に立てて思考して自我の欲望を生み出し人間を動かしているが、自我とは何か。自我とは、ある構造体の中で、他者からある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属し、自我として生きているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、構造体を離れた生き方は存在しないのである。すなわち、自我以外の生き方は存在しないのである。しかし、深層心理は自我を主体に立てて思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているが、恣意的に思考していない。深層心理は、心境の下で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。フロイトは深層心理の快楽を求めて思考するあり方を快感原則と呼んだ。さて、、深層心理は心境の下で思考するが、心境とは何か。心境とは、感情と共に、深層心理の情態である。心境は、気分とも表現される。深層心理は、常に、心境の下にある。心境はルーティンの生活を維持しようとし、感情はそれを打ち破ろうとする。深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出せば、すなわち、感情が湧き上がれば、その時は、心境が消える。心境と感情は並び立たないのである。心境は、爽快、陰鬱など、長期に持続する情態であり、感情は、喜怒哀楽など、瞬間的に湧き上がる情態である。感情は、深層心理によって、行動の指令と同時に生み出されて自我の欲望になり、人間を行動の指令通りに動かす動力になる。爽快な心境にある時は、現状に充実感を抱いているという情態を意味し、深層心理は新しく自我の欲望を生み出さない。自我に、ルーティーンの行動を繰り返させようとする。陰鬱な心境にある時は、現状に不満を抱き続けているという情態を意味し、深層心理は現状を改革するために、どのような自我の欲望を生み出せば良いかと思考し続ける。深層心理が喜びという感情を生み出した時は、現状に大いに満足しているということであり、深層心理が喜びという感情とともに生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が怒りという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が哀しみという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状には触れないものになっているのである。深層心理が楽しいという感情を生み出した時は、将来に希望を抱いているということであり、深層心理が楽しいという感情とともに生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理には、常に、心境や感情という情態にあるからこそ、人間は、表層心理で、自分を意識する時は、常に、ある心境やある感情という情態にある自分としても意識するのである。心境や感情という情態こそが自らが存在していることの証なのである。心境は、深層心理に存在しているから、人間は、表層心理の意志ではそれを変えることはできない。感情は、深層心理によって生み出されるから、人間は、表層心理の意志ではそれも変えることはできない。しかし、心境が変わる時はある。それは、まず、深層心理が自らの心境に飽きた時である。その時、心境が、自然と、変化するのである。気分転換が上手だと言われる人は、表層心理で、意志によって、気分を、すなわち、心境を変えたのではなく、深層心理が自らの心境に飽きやすく、心境が、自然と、変化したのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時、一時的に、深層心理の状態は、感情に覆われ、心境は消滅する。そして、その後、心境は回復するが、その時、心境は、変化している。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。それでも、人間は、憂鬱な心境を、表層心理で意識して変えようとする。それが気分転換である。何かをすることによって、心境を変えようとするのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接的に心境に働き掛けることができないから、間接的に、何かをすることによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。それほどまでに、心境は人間を大きく動かすのである。オーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタインは「苦しんでいる人間は、苦しみが消えれば、それで良い。苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しみが消えたということが、問題が解決されたということを意味するのである。」と言う。苦しんでいる人間は、苦しみの心境から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいから、その苦しみの心境から逃れるために、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、それを除去する方法を考えるのである。苦しみの心境が消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。たとえ、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ上げ、それを問題化して、解決する途上であっても、苦しみの心境が消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。つまり、苦痛が存在しているか否かが問題が存在しているか否かを示しているのである。苦痛があるから、人間は考えるのである。苦痛が無いのに、誰が、考えるだろうか。それでは、なぜ、このようなことが生じるのか。それは、苦しみをもたらしたのは深層心理であり、その苦しみから逃れようと思考しているのは表層心理だからである。人間は、誰しも、苦しみを好まない。だから、人間は、誰しも、表層心理で、意識して、自らに苦しみを自らにもたらすことは無い。苦しみを自らにもたらしたのは、深層心理である。深層心理が、思考しても、乗り越えられない問題があるから、苦痛を生み出したのである。人間は、その苦しみから解放されるために、表層心理で、それを問題化して、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、解決の方法を思考するのである。つまり、人間は、深層心理がもたらした苦痛から解放されるために、表層心理で、思考するのである。だから、苦痛という心境が消滅すれば、思考も停止するのである。つまり、心境や感情という情態によって、人間は、すなわち、深層心理は、現在の自我の状態、そして、自我を取り巻く状況のの良し悪しを判断しているのである。つまり、人間は、客観的な視点ではなく、情態の良し悪によって、現在の自我の状態、そして、自我を取り巻く状況のの良し悪しを判断しているのである。すなわち、爽快などの快い心境の情態の時には、自我が良い状態にあるということを意味し、深層心理は現在の状態を維持しようと思考する。深層心理は、同じことを繰り返すというルーティーンの生活を維持しようと思考する。逆に、陰鬱などの不快な心境の情態の時には、悪い状態にあるということを意味する。心境は深層心理を覆っている情態であり、感情は深層心理が生み出した情態である。心境は、爽快、憂鬱など、深層心理に比較的長期に滞在する。感情は、喜怒哀楽、感動など、深層心理が行動の指令ととに瞬間的に生み出し、人間を行動の指令通りに動かす力になる。深層心理は、常に、ある心境の下にあり、時として、心境を打ち破って、行動の指令とともに感情を生み出す。つまり、心境が人間にルーティーンの生活を送らせ、感情がルーティーンの生活を打ち破る行動を人間に起こさせるのである。深層心理は、常に、心境という情態に覆われていて、時として、心境を打ち破り感情という情態を生み出し、常に、心境や感情という情態にあるから、人間は表層心理で自分を意識する時は、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理にあるから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。人間は、一人でいてふとした時、他者や他人に面した時、他者や他人を意識した時、他者や他人の視線にあったり他者や他人の視線を感じた時、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して人間を動かそうとしている時などに、何かを考えている自分、何かをしている自分、何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や心に起こっている感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心に存在するのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在しているからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やことの存在まで、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろな物やことががそこに存在していることを前提にして、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は常に確信を持って自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。また、人間は、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した時だけでなく、平穏な日常生活を送っている時にも、突然、自我を意識し、表層心理で思考する時がある。人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自我の心境とともに自我の状態と自我を取り巻く状況を意識して、表層心理で思考するのである。なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自我の心境とととに自我の状態と自我を取り巻く状況を意識するのか。それは、自我にとって、他者の存在は脅威であり、自我の存在を危うくさせる可能性があるからである。人間は、常に、他者に対して、警戒心を怠らないのである。人間は、一人でいても、無我夢中で行動していても、突然、自我の存在、すなわち、自我の状態と自我を取り巻く状況を意識することもあるのも、それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じたからである。しかし、人間は、表層心理で、すなわち、自らを意識して自らの意志によって、心境も感情も変えることはできないのである。なぜならば、心境も感情も、深層心理の範疇だからである。人間は、表層心理で、自ら意識して、直接的に、嫌な心境や嫌な感情を変えることができないから、何かをすることによって間接的に変えようとするのである。次に、深層心理は自我を主体に思考しているが、それはどういうことを意味するか。それは、人間が表層心理で思考する以前に、深層心理が自我を中心に据えて自我の行動について考えているということを意味するのである。人間は表層心理で自らを意識して思考することがあるが、それは、常に、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について思考するのであり、深層心理の影響を受けずに思考することはできないのである。次に、深層心理は快楽を求めて欲動に基づいて思考するが、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。深層心理は、自我の状態が欲動の四つの欲望の少なくともいずれかににかなうようになれば快楽が得られるので、欲動に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を思考して生み出し、自我となっている人間を動かそうとするのである。つまり、欲動が深層心理を動かし、深層心理が人間を動かしているのである。欲動は深層心理に内在し、人間は表層心理で深層心理に直接に働き掛けることはできないから、当然のごとく、欲動にも働きかけることはできない。欲動には、保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望がある。欲動の第一の欲望である保身欲は自我を確保・存続・発展させたいという欲望であり、深層心理は、自我の保身化という作用によって、常に、その欲望を満たそうとしている。欲動の第二の欲望である承認欲は自我が他者に認められたいという欲望であり、深層心理は、自我の対他化の作用によって、常に、自我が他者からどのような評価を受けているかを探っている。欲動の第三の欲望である支配欲は他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望であり、深層心理は、対象の対自化の作用によって、自らの志向性で対象を捉えている。欲動の第四の欲望である共感欲は自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であり、深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、自らの趣向性で他者を捉えている。すなわち、欲動の四つの欲望が、深層心理を内部から突き動かして、思考させ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出させ、人間を行動へと駆り立てるのである。しかし、欲動には、道徳観や社会規約を守ろうという欲望が存在しないのである。道徳観や社会規約は、人間が表層心理で思考する時に使われるのである。深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場で快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするから、行動の指令には善事も悪事も存在するのである。さて、欲動の四つの欲望のうち、最も重要なのは、第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。人間は、構造体に所属して、自我を有して、初めて、人間として活動できるからである。ほとんどの人の日常生活が無意識の行動によって成り立っているのは、深層心理が、保身欲によって、自我の保身化を確保・存続・発展させようと思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているからである。すなわち、人間は、無意識の思考に動かされているのである。毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活は、人間は表層心理で自らを意識して考えることなく、無意識の思考による行動だから可能なのである。また、日常生活がルーティーンになっていることは、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままに行動して良く、表層心理で自らを意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。また、人間は、表層心理で自らを意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、毎日が、ルーティーンの生活を平穏に送れるというわけではない。他者か自我が傷つけられ、承認欲が阻害された時などは、深層心理が過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かし、傷ついた自我を回復させようとする。自我を傷つけた他者の自我を傷つけることによって、プライドを取り戻させよう、すなわち、自我を取り戻させようとするのである。その時、ルーティーンの生活が破られる可能性が出て来るのである。たとえば、会社という構造体で、社員が、営業実績が振るわないという理由で、課長から、激しく叱責される。その時、承認欲を阻害された深層心理は怒りの感情と課長を罵れという行動の指令を生み出し、自我を動かそうとする。しかし、まず、彼の超自我は会社に居続けるために、深層心理が生み出した課長を罵れという行動の指令を抑圧しようとする。超自我とは、深層心理に内在する欲動の保身欲から発したルーティーンを守ろうとする機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強すぎる場合、深層が生み出したと課長を罵れという行動の指令を、超自我は抑圧できないのである。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、彼は、表層心理で、自らを意識して思考することになる。そこで、表層心理は深層心理に関わっていくのである。すなわち、人間は、意識的に、自らに関わっていくのである。人間の表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、基本的に、時間が掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議するからである。フロイトは人間の表層心理での現実的な利得を求めるあり方を現実原則と呼んだ。表層心理での現実原則による思考は、長期的な展望に立って、道徳観や社会規約を考慮し、自我に現実的な利益をもたらそうする。道徳観や社会規約を考慮するのは、それらを無視すると、世間から指弾され、欲動の第二欲望である承認欲が満たされないからである。先の例で言えば、社員は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、課長を罵ったならば、後に、自分の立場が不利になると考え、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した課長を罵れという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した課長を罵れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに課長を罵ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、他者を傷付け、自我を不利な状況に追い込むのである。自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、次に、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が得心するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。それがストレスである。つまり、表層心理での思考も、深層心理が生み出した自我の欲望を対象にし、そこから出ることは無いのである。すなわち、深層心理の快楽を求めて自我の欲望で人間を動かそうとする思考にしろ、表層心理での現実的な利得を求めて自我の欲望を対象にする思考にしろ、自我中心に行っているのである。つまり、人間は、自らが主体となって思考し行動していないのである。だから、人間は自己として存在していないのである。自己とは、人間が表層心理で自らの思想に基づいて思考して行動するあり方である。それは、一般の表層心理での現実原則に基づいた思考とは異なっている。自己とは、人間が、自らの思想に基づいて、自ら意識して考え、意識して決断し、その結果を意志として行動する生き方である。だから、人間が、表層心理で自らの思想に基づいて思考して、その結果を意志として行動しているのであれば、自己として存在していると言えるのであるが、深層心理が快感原則に基づいて思考して生み出した自我の欲望に動かされているにしろ表層心理で現実原則に基づいて思考して行動するにしろ、自己として存在していると言えないのである。自己として存在していないということは、自由な存在でもなく、主体的なあり方もしていず、主体性も有していないということを意味するのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲であるが、深層心理は、自我を対他化して、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、他者から自我を評価されたいと思いつつ、他者から自我がどのように思われているか探ることである。深層心理は、自我が他者に認められると、承認欲が満たされ、快楽が得られるのである。だから、人間は、誰しも、常に、他者から認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、他者の気持ちを探っているのである。フランスの心理学者のラカンは「人は他者の欲望を欲望する」と言う。この言葉は「人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。」という意味である。この言葉は、自我が他者に認められたいという深層心理の欲望、すなわち、自我の対他化の作用を端的に言い表している。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。だから、人間の苦悩のほとんどの原因が、他者から悪評価・低評価を受けたことである。次に、欲動の第三の欲望が支配欲であるが。深層心理は、この欲望に基づいて、自らの志向性で自我・他者・物・現象という対象を支配することによって、すなわち、対自化することによって、快感や満足感という快楽を得ようとしているのである。志向性とは、対象を捉える方向性である。端的に言えば、観点・視点である。深層心理は、志向性によって、自我・他者・物・現象という対象を捉えて思考している。人間は、表層心理で、自ら意識して、自らの意志によって、志向性を使って、他者・物・現象という対象を捉えているのではなく、深層心理が、人間の無意識のうちに、志向性を使って、他者・物・現象という対象を捉えて思考しているのである。それが、深層心理の対象への対自化というあり方である。人間は、無意識のうちに、深層心理が、支配欲によって、志向性で、すなわち、対自化によって、他者という対象を支配しようとし、物という対象をで利用しようとし、現象という対象を捉えて、快感や満足感などの快楽を得ようとするのである。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることができれば、深層心理が、すなわち、人間が、快感や満足感が得られれるのである。わがままも、他者を対自化することによって起こる現象である。わがままを通すことができれば快感や満足感が得られるのである。わがままは盲目的な支配欲の現れである。ミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領による反対派暗殺、ウクライナ侵攻、北朝鮮の金正恩による無差別の殺戮、イスラエルのガザ地区への攻撃は、盲目的な支配欲の現れである。もちろん、それは。自己のあり方ではない。自我の欲望の仕業である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという満足感が得られるのである。確かに、現在、世界中に、者の対自化を反省し、すなわち、自然を収奪するだけの自我の欲望を満たすあり方を反省し、自然の共生するあり方へと転換が始まっている。しかし、宇宙開発は物の対自によって起こされているのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば、快感や満足感などの快楽が得られるのである。さらに、対象への支配欲が高じると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生じる。まず、有の無化という作用であるが、深層心理は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していたならば、深層心理が、人間の無意識のうちに、この世に存在していないように思い込んでしまうことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。次に、無の有化であるが、それは、深層心理は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、人間の無意識のうちに、この世に存在しているように思い込んでしまうことである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。神が存在しているように思い込むことによって自我の心に安定感を得ようとするのである。最後が、欲動の第四の欲望である自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は、自我と他者が心の交流をすること、愛し合う、友情を育む、協力し合うようにさせることによって快楽を得るのである。それを、自我と他者の共感化と言う。この欲望は、自我の評価を他者に委ねるという自我の対他化でもなく、対象を自我で相手を支配するという対象の対自化でもない。自我と他者の共感化は、理解し合う・愛し合う・協力し合うのである。自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりするのである。それがかなえば、快感や満足感などの快楽が得られるのである。カップルという構造体は、恋人という二人の自我によって成り立っている。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手から愛されることを欲望し、相手に対他化されることを許し合うことである。そして、互いに相手の愛情を支配するのである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人として自我を認め合うことができれば、自我の存在を実感でき、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。また、仲間という構造体は、友人という二人以上の自我によって成り立っている。友情という現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。人間が友人を作ろうとするのは、仲間という構造体を形成し、友人という自我を認め合うことができれば、そこに安心感が生じるからである。友人いう自我と友人いう自我が共感すれば、そこに、信頼感が生じ、一人の自我で受ける孤独感から解放され、力がみなぎって来るのである。しかし、人間、誰しも、誰を恋人にするか、誰を友人にするかは、表層心理で、自らを意識して思考して決めているわけではない。深層心理が、趣向性によって、選んでいるのでいる。趣向性とは、好みという感性である。人間は、意識して感性を持つことも、感性に介入することもできない。深層心理の範疇に属しているのからである。また、呉越同舟という共通の敵がいたならば、その敵と対するために、仲が悪い者同士も仲良くすることも共感化の現象である。二人の仲が悪いのは、二人の趣向性が異なり、そこで、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、少なくとも、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているからである。そこへ、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、協力して、立ち向かうのである。つまり、協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。スポーツの試合などで一つになるということも、共感化の現象である。そこに共通の対自化した敵がいるからである。しかし、試合が終わると、共通の対自化した敵がいなくなり、自分がイニシアチブを取りたいから、再び、次第に、仲の悪い者同士に戻っていくのである。つまり、対象の対自化で自我の力が発揮しようと思うから、共通の敵がいなくなると、我を張る(自我を主張する)ようになるのである。さて、小学校、中学校、高校で、自我の深層心理の趣向性が合わないために、いじめが起こる。いじめの原因は、毎日、閉ざされ、固定されたクラス、クラブという構造体で、クラスメート、部員という自我で暮らしていることである。毎日、同じクラスメート、部員と暮らしていると、必ず、嫌いなクラスメート、部員が出てくる。好きな部員、友人ばかりでなく、必ず、嫌いなクラスメート、部員が出てくるのである。しかし、人間は、好き嫌いの感情は、自ら意識して、自らの意志で、生み出しているわけではない。すなわち、人間は、表層心理で、思考して、好きなクラスメート、部員と嫌いなクラスメート、部員を峻別しているわけでは無い。深層心理による共感化の趣向性がそれを出現させるのである。しかし、小学生、中学生、高校生は、クラス、クラブに嫌いなクラスメート、部員がいても、それを理由にして、自分が別のクラス、クラブに移ることもその嫌いなクラスメート、部員を別のクラスに移すことも許されない。わがままだと非難されるだけである。だから、現在のクラス、クラブという構造体で生きていくしか無いのである。しかし、クラス、クラブという閉ざされ、固定された構造体で、毎日、嫌いな人と共に生活することは苦痛である。トラブルが無くても、嫌いな人がそばにいるだけで、攻撃を受け、心が傷付けられているような気がする。いつしか、不倶戴天の敵にしてしまう。すると、自らの深層心理が、自らに、その嫌いなクラスメートに対して攻撃を命じる。しかし、自分一人ならば、勝てないかも知れない。また、周囲から顰蹙を買い、孤立するかも知れない。そこで、自分に、共感化している友人たちがいれば、彼らに加勢を求め、いじめを行うのである。彼らも仲間という構造体から、自分が放逐されるのが嫌だから、いじめに加担するのである。クラスという構造体では、担任の教師は、いじめに気付いていても、いじめている生徒たちはクラスのイニシアチブを握っていることが多く、彼らを敵に回すと、クラス運営が難しくなり、担任教師という自我の力量が問われるから、いじめに気付いても、厳しく咎めることはせず、軽く注意するか見て見ぬふりをすることが多いのである。また、カップルという構造体で恋人という自我にある者が、相手から別れを告げられてストーカーになり、相手を殺すことまでするのは、カップルという構造体が壊れ、恋人という自我を失うのが辛いからである。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、恋人という自我が相手に認めてもらいたいという承認欲が阻害されたことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、未練が残る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理が人間にストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うためである。もちろん、ルーティーンの生活を守ろうとする超自我や表層心理の現実原則の思考で、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、屈辱感が強過ぎると、抑圧できないのである。つまり、ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという保身欲が阻害されたことの辛さだけでなく、恋人という自我を相手に認めてもらえないという承認欲を阻害された辛さもあるのである。このように、深層心理が、欲動の自我を確保・存続・発展させたいという保身欲、自我が他者に認められたいという承認欲、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという支配欲、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲という四つの欲望のいずれかに基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているが、全ての自我の欲望に従っている限り、犯罪は絶えることは無く、挙句の果てには、殺人や戦争にまで及ぶのである。自我を傷つけられた人間が殺人事件や戦争を引き起こすのである。人間は自我を傷つけられると、深層心理が過激な感情と過激な行動という自我の欲望を生み出して人間を動かし傷ついた自我をいやそうとするからである。自我を傷つけられた人間の中には、深層心理が激しい怒りの感情と傷つけた人間を殺せという自我の欲望を生み出して、傷ついた人間を殺人へと駆り立てるのである。自我を傷つけられた政治権力者の中には、深層心理が激しい怒りの感情と傷つけた政治権力者を倒せという自我の欲望を生み出して、傷ついた政治権力者を戦争へと駆り立てるのである。人間は、自己に目覚めない限り、自我の欲望のままに生きるしかないのである。確かに、深層心理が激しい感情と過激な行動の指令と言う自我の欲望を生み出した時には、深層心理の内部に存在する超自我というルーティーンの生活を守ろうとする機能や表層心理での現実原則による思考が過激な行動を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した感情が強すぎる場合、超自我も表層心理での思考も抑圧できないのである。しかも、過激な行動の指令が日常化すると、深層心理は激しい感情を生み出すことが無く、、超自我の機能も表層心理での思考も動くことさえせずに、過激な行動が行われるのである。つまり、人間は、、良心に目覚め、自己として生きない限り、いじめ、ストーカー、殺人、戦争などの犯罪は絶えることは無いのである。自己として生きるとは、自らの思想を持ち、正義に基づいて生きることである。深層心理の快感原則による思考も、表層心理での現実原則による思考も、自我にとらわれているのである。ほとんどの人は、深層心理の快感原則による思考のままに、若しくは、時には、表層心理での現実原則による思考に基づいて行動しているのである。すなわち、ほとんどの人は、自我にとらわれて生き、自己として生きていないのである。確かに、自己に目覚めるのは至難の業である。しかし、自己に目覚めない限り、人類は殺し合って滅びるしかないのである。すなわち、人間は、自己として存在せず、自我の欲望に支配されている限り、殺人や戦争などの悪事を行い、自我が傷つけられた苦悩を免れることはできないのである。なぜならば、人間にとって、自我の欲望に支配されない唯一のあり方は自己である。自己とは、主体的なあり方であり、人間が表層心理で正義に基づいて思考して行動するあり方である。それは、欲動の第三の欲望である自らの志向性で自我を対象化する支配欲から発している。すなわち、自らの志向性とは正義に基づいて思考することなのである。自己とは、正義という志向性で、自我の現況を対象化して思考して、行動するあり方である。一般に、人間は自我を傷つけられた時、深層心理が過激な感情と過激な行動という自我の欲望を生み出して人間を動かし傷ついた自我をいやそうとする。そのような時、超自我が、ルーティーンの生活を守るために、過激な行動を抑圧するように作用する。超自我が破られた時、人間は、表層心理で、自らを意識して、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した過激な感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議する。これが自我にこだわった人間の心理のプロセスである。それを、現実的な利得ではなく、正義に基づいて思考するのである。それが、自己のあり方である。すなわち、表層心理で、自らを意識して、正義に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議するのである。しかし、自己として正義に徹して生きている人は、構造体の他者から白眼視されたり、迫害されたり、構造体から追放されたり、時には、殺されたりする可能性がある。しかし、自己として正義を貫く人は、その覚悟が必要なのである。しかし、現在の日本においてもちろん、世界においても、そのような人は何人存在するだろうか。カントは「あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」と言う。この根本法則に合致する行為が義務として私たちに妥当する行為であり、道徳的法則に従った者だけが良い意志を実現させると言うのである。すなわち、主体的に生きることができると言うのである。また、キルケゴールは「私にとって真理であるような真理を見出すこと、私がそのために生きかつ死ぬことができるような理念を見出すこと。それこそが大切なのである。」と言う。つまり、神不在の時代、すなわち、神の視線が存在しない時代にあって、自らの思想を持って、自己として生きているか否かが問われているのである。










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