あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

愛と執着心について。(自我その300)

2020-01-17 19:06:43 | 思想
かつて、「ほしいものが、ほしいわ。」という言葉が流行語となり、一世を風靡した。糸井重里が、1988年、西武百貨店ために作ったキャッチコピーである。全文は次の通りである。「欲しい物はいつでもあるけれど無い。欲しい物はいつでも無いんだけれどもある。本当に欲しい物があるとそれだけでうれしい。それだけは欲しいと思う。ほしいものが、ほしいわ。」この文ほど、深層心理から湧き上がってくる自我の欲望を待つ気持ちを表している文章は存在しない。深層心理とは、人間の無意識の心の働き、すなわち、無意識の思考である。まさしく、現代に限らず、人間は、深層心理から湧き上がってくる自我の欲望という衝迫を待ち受けて暮らしているのである。人間は、深層心理が生み出す自我の欲望によって、何かに執着し、目標を持つことができ、それに向かって行動することができるのである。目標をかなえられれば、喜びと満足感を得ることができる。しかし、人間は、何かに執着しているから、目標を持ち、それに向かって行動できるのだが、目標を達成できなければ、哀しみと苦悩を味わうのである。しかし、何ものにも執着していなければ、人間は、何をするか迷ってしまい、行動が取れなくなるだろう。「ほしいものが、ほしいわ。」という言葉は、執着している物が無いので、何を買って良いかわからない状態であり、買い物が楽しめない状態である。しかし、執着心は、人間は、意識して、意志で、つまり、表層心理で、作り出すことはできない。人間が、無意識のままに、いつのまにか、深層心理が、何かに執着しているのである。人間は、表層心理で、自ら、意識して執着しているのではない。だから、執着している自らの心情に気付き、意識し、自らの意志で、執着心を取り除こうとしても、取り除くことはできない。しかし、逆に、人間は、表層心理で意識し、同じことや物を執着し続けることを意志しても、ある日、ある時、突然、執着心がなくなることがある。それも、また、深層心理が決めたことだから、人間は、表層心理ではどうすることもできない。しかし、たいていの場合、人間は、毎日、同じことに執着している。そして、昨日生きたように、今日生き、今日生きたように、明日も生きていくのである。だろう。それが、習慣化された生活であり、ルーティーンである。それが、ニーチェの言う「永劫回帰」(全てのものは同じことを繰り返す)である。ほとんどの人間は、「永劫回帰」の生活をしているのである。さて、愛も、また、執着心を意味する。同じように人を好きになっても、愛と恋は異なる。愛は、カップルという構造体で成立し、二人が恋人という自我を持った時から始まる。その時、恋愛関係が成立したのである。恋の段階では、構造体が存在しない。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、自我を持って、初めて、人間として行動できるのである。自我を持つとは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。それは、アイデンティティーが確立された状態である。しかし、人間は、意識して、自我を持つのでは無い。深層心理という無意識が自我を持つのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。さて、相手に知られていない恋慕である片思いは、カップルという構造体がまだ形成されていず、恋人という自我がまだ存在しないから、愛とは言わない。恋である。一般に、人間は、相手に自分の思いを告げ、相手に拒否されたら、恋で終わる。愛まで発展しない。しかし、それでも、相手を諦めきれなければ、一方的ではあるが、愛に発展する。それは、自分一人で、カップルという構造体を空想で作り、恋人という自我を空想で持ったのである。人間とは、観念の動物であり、深層心理が気持ちを作るから、誤解によって、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を持つことができる。いくらでも、愛を形成できる。ストーカーも、また、愛を持った者の行動である。カップルという構造体が、実際に壊れていても、カップルという構造が初めから存在していなくても、恋人という自我を持っている者には、愛が存在しているのである。愛とは、執着心だからである。さて、愛は恋愛だけでなく、愛国心、家族愛、県民愛、愛校心、愛社精神などさまざまなものがある。それぞれ、国という構造体の構造体の中で国民という自我を持ち、国という構造体の構造体の中で国民という自我を持ち、県という構造体の構造体の中で県民という自我を持ち、学校という構造体の構造体の中で生徒という自我を持ち、会社という構造体の構造体の中で国民という自我を持ち、自我に執着して、目標を持って行動しているのである。自我に執着する心が愛なのである。愛があるから、目標ができるのである。そして、目標を達成できれば、喜びと満足感を味わい、目標が達成できなければ、哀しみと苦悩を味わうのである。悲しみと苦悩を味わわないために。仏教が、愛を煩悩の根源だとして、それを絶つことを勧めたのは正しい。愛を絶てば、哀しみと苦悩を味わわなくて済むからである。しかし、愛を絶てば、生きる目標を見出すことはできない。即身成仏となり、人間ではなくなる。愛は人間を救いもし、愛は人間を滅ぼしもするのである。有史以来、人間は、愛という執着心に惑わされてきた。現在のところ、これからも、惑わされるしかないように思われる。人間は、愛に惑わされ続ける、大海に浮かぶ小舟のような存在なのである。さて、愛という感情があれば、当然のごとく、それに対する感情として、憎しみという感情がある。しかし、憎しみという感情も、愛という感情と同じく、人間は、表層心理で、すなわち、自らの意志や意識で生み出すことができない。愛も憎しみも、人間の無意識のうちに、深層心理が、生み出しているのである。しかしんがら、世間には、愛に伴って憎しみが存在していることを忘れ、愛を崇高なものと見る風潮がある。映画やテレビドラマでも、愛が題材として描かれることが多い。それは、愛する者のためには、自らを犠牲にすることがあるからである。恋愛は愛する人のために、家族愛は愛する家族のために、愛国心は愛する国のために、母性愛は愛する子のために自らを犠牲にするのである。イスラム教、キリスト教、仏教という宗教でも、愛に対する考え方は異なるが、いずれも愛が絡んでいる。イスラム教は、愛を説かないが、神に対する愛が基本である。キリスト教は、神に対する愛と人間に対する愛(隣人愛)を説く。仏教は、愛を煩悩だとして否定するが、教祖に対する愛、信者同士の愛がある。信者同士の愛といっても、イスラム教、キリスト教、仏教ともに、同一宗教というだけでは、愛は成立しがたく、同一宗派になって、初めて強い愛が生まれる。だから、イスラム教徒は、他の宗教の信者を殺戮するだけで無く、スンニー派とシーア派同士でも殺し合っている。キリスト教徒も、かつて、他の宗教を軽蔑するだけで無く、幾度となく、カソリックとプロテスタントの間で激しい戦争があった。日本の仏教でも、かつて、宗派同士の激しい戦闘があった。だから、愛とは、愛する人のために、愛する家族のために、愛する国のために、愛する子のために、愛する神のために、愛する教祖・信者のために存在するのであり、普遍的な人類愛に繋がらないのである。愛する人がいる人は憎む人が存在し、愛する家族がいる人は他の家族を憎み、愛する国がある人は他の国を憎み、愛する子がいる人は他の家族の子を憎み、愛する神がいる人は他の宗教・他の宗派の神を憎み、愛する教祖・信者がいる人は他の宗派の教祖・信者を憎むのである。だから、決して、愛とは、手放しに、褒め称えるものではないのである。決して、崇高なものではないのである。愛とは、愛の対象者だけが、利益を受ける仕組みである。しかし、恋愛関係において、愛の対象者が、愛を受けることを拒むと、ストーカーの被害者になったり、家庭内虐待の被害者になることもある。それは、愛とは、愛の対象者への愛と見せかけながら、真実は、自我愛だからである。言い換えれば、人間は自分しか愛せないのである。人間は、自我、そして、自我を保証する構造体しか愛せないのである。先に述べたように、自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方であり、構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体と自我の関係について、具体的に言えば、次のようになる。カップルという構造体では、恋人という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、国民という自我があり、イスラム教という構造体では、神・預言者(マホメット)・信者などという自我があり、キリスト教という構造体では、神・キリスト・神父(牧師)などの自我があり、仏教の宗派という構造体では、教祖・信者の自我があるのである。人間は、自分が所属する構造体の存続・発展に尽力するが、それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、カップルという構造体を破壊した恋人に対して、ストーカーとなって復讐するのである。家族という構造体で、自分を父として尊敬しない息子・娘に対して、虐待するのである。だから、愛は崇高な感情とは決して言えないのである。愛する者のために自らを犠牲にするという行為も、愛する構造体が傷付けられ・破壊されるのを見るのが辛いからである。愛する構造体が傷付けられ・破壊されることは、自我が傷付けられ・破壊されることを意味するからである。確かに、自分の命が失われることを省みずに、我が子を救うために、燃え盛る家の中に飛び込んでいく母親は偉大である。母性愛の為せる業である。しかし、どの母親も、我が子がいじめ自殺事件の加害者になると、自殺の原因を、被害者自身の性格・被害者の家族の問題に求めるのである。これも、また、母性愛の為せる業である。しかし、自我にこだわり、構造体にこだわり、愛や憎しみを生み出すのは、深層心理の為せる業であり、表層心理の所為ではない。人間は、表層心理で(意識して、自ら意志して)、愛も憎しみも生み出せず、もちろん、自我愛も構造体愛も生み出せないからである。深層心理が(人間の無意識のままに)、愛も憎しみも、もちろん、自我愛も構造体愛も生み出しているからである。これが、深層心理が生み出した自我の欲望である。だから、愛する構造体を傷付け・破壊した者に対する復讐の行為も愛するもののために自らを犠牲にするという行為も、(深層心理が生み出した)自我の欲望から発しているのである。確かに、人間は、表層心理で、自我の欲望を生み出していないから、復讐の行為も犠牲の行為も自らの意志によるものではない。しかし、深層心理も表層心理も同じ肉体に宿り、同じ心の中にある。だから、深層心理の自我の欲望の思いが強くて、そこから発する感情や行動の指令が過激な場合は、人間は、必ず、表層心理は、それを意識するはずである。人間は、表層心理で、その過激な行為を行った後のことを考慮し、自らの肉体を抑圧し、その行為を行わないようにしなければならないのである。「子供は正直だ」とよく言われるが、それは、子供は自我の欲望に正直に行動するということである。それが許されるのは、子供の思考力や力が乏しいから、自我の欲望に正直に行動しても、大した被害をもたらさないからである。しかし、大人が自我の欲望に正直になると、どうなるか。2005年4月、中国人が、日本の自民党小泉政権の歴史教科書問題や国連安保常任国問題に端を発して、暴徒化し、「愛国無罪」の掛け声の下で、日系スーパーなどが襲撃した。日本人が日本の都合の良いように近代の中国侵略を糊塗するのも、中国人が日系スーパーを襲撃したのも、両者とも、愛国心という自我の欲望に正直だったからである。日本と中国が尖閣諸島という無人の島々の領有権を、日本と韓国が竹島という無人島の領有権を戦争も辞さない態度で臨んでいるのも、愛国心という自我の欲望に正直だからである。日本の安倍政府が、韓国に対して、徴用工問題に対抗して、半導体材料の輸出を規制したのも、韓国民が、日本製品の不買運動を起こしたのも、愛国心という自我の欲望に正直だからである。愛国心という深層心理から湧き上がる自我の欲望を、表層心理が抑圧しない限り、このような子供じみた正直さが行動となって現れるのである。日本でも、韓国でも、中国でも、愛国心という深層心理から湧き上がる自我の欲望を、表層心理が抑圧しない人が多数を占めるようになったのである。それは、アメリカも、ロシアも、ヨーロッパも、同じ傾向にあるのである。このまま、各国民が愛国心という自我の欲望に正直に突き進めば、第三次世界大戦になるだろう。そして、最後には、核戦争になるから、人類は、必ず、滅びるだろう。さて、愛には、突然、消える愛がある。なぜ、はかなく消えるのか。それは、その愛は、突然生まれたものだからである。突然生まれた愛は、はかなく、消えるのは当然のことなのである。突然生まれ、はかなく消える愛の代表的なものは、恋愛感情の愛である。恋愛感情の愛も、生み出すのは、深層心理である。人間は、表層心理で、意識して、自らの意志で、人を好きになることはできないのである。だから、誰一人として、表層心理で、意識して、自らの意志で、好きである感情を消すことはできないのである。だから、当然、「なぜこんな人を好きになったのだろう。」と後悔する人は跡を絶たないのである。その人と交際して、後悔するようなことがあった時はもちろんのこと、交際前でも、自分の気持ちを疑う時があるのである。それでも、人間は、恋愛感情の愛を含めて、愛に動かされて行動する。愛にはそのような力がある。愛を、人間の深層心理に持たせ、愛に大きな力を持たせたのは、何ものなのかわからない。恐らく、人類誕生の謎と共に、永遠の謎であろう。しかし、愛が人間の深層心理に存在するから、人類はここまで存在し、個人が生きがいを感じることができるのである。すなわち、愛の根本には、人類保存と個人の保存への意欲が存在するのである。愛とは、社会的な存在への欲望なのである。すなわち、愛の根底には人類保存の目的があり、個人が社会で生きていくための手段が潜んでいるのである。つまり、性欲と共感感情である。愛の根本は性欲であるから、セックスをして、新しい人間を誕生させるのである。そして、愛は共感感情であるから、他者と協力し、仲間や組織や集合体を形成し、それが自己の存在確信、そして、自己の現実的な存在にも繋がるのである。もちろん、それは、深層心理の働きであるから、人間は、愛の現象面しか捉えることができない。愛の現象面とは、愛している人は、自分が愛している人に執着するということである。愛とは、執着心なのである。愛している人には、自分自身以外に、もう一人執着する人ができたのである。だから、その人の一挙手一投足が気になる。その人が喜べば、自分も喜び、その人が悲しめば、自分も悲しくなる。常に利己的に行動しているように見える人が、愛する人に対してだけは、身を犠牲にする。それを見て、愛はすばらしいと人々は言うのである。しかし、愛している人が、愛している相手に対して、自分自身の身を犠牲にしてまで守ろうとするのは当然である。なぜならば、愛している相手というのは、もう一人の自分だからである。愛している相手が存在しないこの世は考えられないから、自分の身を犠牲にしてまで守ろうとするのである。人々は、愛している人が愛している相手に対して自分自身の身を犠牲にしてまで守ろうとする様子を見て、愛の力に心打たれるのである。だから、「世界の中心で愛を叫ぶ」などの映画が作られるのである。人々がこれほどまでに愛を讃えるのは、現実の人間世界はつまらないからである。愛という霞がかかっている状態で見なければ、人間世界に生きていくことは堪えられないのである。スタンダールに、「結晶作用」という有名な言葉があり、「私が結晶作用と言うのは、次々に起こるあらゆる現象から、愛する者の新しい美点を発見する精神作用である。」と述べている。これは、愛している人が愛している相手を、愛という霞がかかっている状態で見ているから、起こるのである。日本の「あばたもえくぼ」という諺と同意である。さて、人間は、他者に接する時、深層心理は、三つの視点で捉える。三つの視点とは、対他化、対自化、共感化である。まず、対他化であるが、端的に言えば、対他化とは、他者から好評価・高評価を得たいと思いつつ、自分がその人にどのように思われているかを探ることなのである。当然、愛している人は、愛している相手からの愛を欲望する。つまり、愛は、愛している相手からも愛を得られて、初めて、満足でき、成就できるのである。愛する相手に出会ったということは、自らを愛してくれることで満足できる相手を見つけたということなのである。だから、人々は、自らの愛に執着するのである。だから、「片思いで良い。」とは、愛の本来の形では無く、告白して断れるのが恐い人から発せられた言葉なのである。また、「運命の人」というのは、愛する相手に出会い、相手も自らを愛してくれているということであり、特に、運命と言えるような大げさなものではない。相思相愛になる人がなかなか見つからなかったということを意味しているに過ぎない。次に、対自化であるが、対自化とは、自らの欲望の観点で、他者を見るという姿勢である。つまり、対自化とは、自分中心の姿勢、自分主体の姿勢なのである。愛について言えば、愛する人を愛の視線で見るということである。これは、心理学で言えば、「人は自己の欲望を他のものに投影する」ということなのである。スタンダールの言う「結晶作用」である。愛している人が愛している相手を、愛という霞がかかっている状態で見ていることであり、相手の良い部分しか見えず、相手の欠点も良いように見えてくるのである。そして、共感化であるが、共感化とは、相手に一方的に身を投げ出す対他化でもなく、相手を一方的に支配するという対自化でもない。共感化は、協力することや愛し合うことである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差しだしていた自分には、屈辱感だけが残る。その屈辱感を払うために、ストーカー殺人という凶行に走る者も存在するのである。さて、人間の性欲は、子孫を残すという目的から発揮されることは少なく、ほとんど、快楽・支配欲を満たすために使われる。人間にとって、性欲は、異性の他者(同性愛者であったとしても相手を異性の他者として見ている)に、自己の存在の痕跡を残そうという欲望である。すなわち、性欲は、異性の他者に、自我を知らしめ、相手の心を支配することによって、快楽を得ようとすることである。セックスとは、その行為によって、相手に自我の存在を知らしめ、相手の快楽を知ることによって、相手の心を支配した証である。だから、相手の心を支配したい者は、セックスを急ぐのである。バタイユが「男性にとって、セックスとは、相手の女性が納得したものであろうと、レイプである。」と言うのは、この謂である。そして、「女性にとって、愛した男性に対してであろうと、セックスとは、売春である。」と言うことができるのである。この場合、見返りは、金銭ではなく、相手の男性の愛情である。しかし、性欲は自我の存在を知らしめるという自我の欲望であるが、自我の欲望は、性欲だけではない。むしろ、人間の欲望のほとんどは、自我の欲望なのである。しかし、生存欲は、自我の欲望ではない。生存欲は、人間にも、他の動物にも、共通して存在するからである。しかし、他の動物は、言葉を知らないから、自我を持つことができない。だから、自我の欲望は存在しないのである。確かに、他の動物も、家族のようなものを形成するが、それは、子孫を残すためだけに使われ、そこには、自我は存在しない。だから、いたずらに、他の動物は、自己の存在をアピールしない。自己の存在をアピールするのは、自我愛という愛に動かされて行動する人間だけである。人間の愛は、全て、自我愛だからである。





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