あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

夢も希望も絶望も苦しみも、深層心理によって与えられたものでしかない。(自我その494)

2021-04-29 16:11:16 | 思想
人間は、誰一人として、誕生の意志をもって生まれていない。そうかと言って、誕生を拒否したのに、誕生させられたわけでもない。気が付いたら、そこに人間として存在していたのである。だから、何かに動かされて生き、何かを追うように仕向けられて生きているのである。つまり、人間は、自らの意志で誕生していないから、主体性無く、何かに動かされて生き、何かを追うように仕向けられて生きているのである。そして、時として、自らに主体性が無いことに気付き、疑問を覚えるのである。しかし、自らの意志によって生まれてきていず、主体性が無いことは、他の動物、植物も同じである。しかし、人間には、他の動物、植物と異なるところがある。それは、言葉を持っていることである。他の動物、植物は言葉を持っていないから、何かに動かされて生き、何かを追うように仕向けられて生きていることに気付くことも、疑問を覚えることも無いのである。他の動物、植物は言葉を持っていないから、思考と行動は完全に一致しているのである。しかし、人間は、言葉を持っているから、自らが何かに動かされて生き、何かを追うように仕向けられて生きていること、すなわち、自らに主体性が無いことに気付き、疑問を覚えることがあるのである。さて、それでは、人間は、何に動かされて生きているのか。それは、深層心理である。深層心理とは、人間の無意識の精神活動である。深層心理が、人間の無意識うちに思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。感情は、行動の指令を実行する動力になっているのである。行動の指令が、人間を、何かを追うように仕向けているのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている」と言う。無意識とは、無意識の思考である。深層心理の思考を意味する。「言語によって構造化されている」とは、深層心理が言語を使って論理的に思考していることを意味する。深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、自我を主体にして、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうとして、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。確かに、人間には、自らを意識しての思考も存在する。それが、一般に言われている思考である。しかし、それは、表層心理での思考である。表層心理とは、人間の意識しての精神活動である。一般的には、自らを意識しての思考、すなわち、表層心理での思考が重要視されている。また、表層心理での思考しか思考として知らない人も多い。しかし、表層心理での思考は常に深層心理の思考の後で行われ、しかも、表層心理での思考では、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すことはできないのである。さて、深層心理が、自我を主体にして、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうとして、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのであるが、自我とは、人間が、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているのである。次に、心境であるが、心境は。感情と同じく、情態性という心の状態を表している。情態性は、一般に、気持ちという言葉で表現されている。人間の心は、すなわち、深層心理は、常に、心境もしくは感情という情態性の下にある。心境は、爽快、陰鬱など、比較的長期に持続する。人間がルーティーンという毎日同じようなことを繰り返す生活をしているのは、同じ心境が繰り返されるから、可能なのである。感情は、喜怒哀楽などの、深層心理の思考が、行動の指令とともに、突発的に生み出す情態性である。心境と感情は並び立つことがない。心境が存在する時は、感情は存在せず、感情が存在する時は、心境は存在しない。また、ある心境は別の心境と並び立つことがなく、ある感情は別の感情と並び立つことがない。人間は、常に、一つの心境という情態性、もしくは、一つの感情の下にある。もちろん、深層心理の心境や感情は、人間の心境であり感情である。人間は、心境によって、自分が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。深層心理は、得意の心境の状態の時には、自我を現在の状態を維持させようと思考する。深層心理は、不得意の心境の状態の時には、深層心理は、自我を現在の状態から脱却させようと思考する。しかし、深層心理は、どれだけ思考しても、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出さなければ、自我は、すなわち、人間は、ルーティーンという毎日同じようなことを繰り返すのである。すなわち、情態性が、心境から感情という強い衝迫へと変わらなければ、人間は、ルーティーンの生活を送るのである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態性が大切なのである。それは、常に、心境や感情という情態性が深層心理を覆っているからである。深層心理が、常に、心境や感情という情態性が覆われているからこそ、人間は自分を意識する時は、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の状態にある自分やある感情の状態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、一人でいてふとした時、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の心を覆っている心境や感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろなものやことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろなものやことががそこに存在していることを前提にして、思考し、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろなものやことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろなものやことの存在が証明できるから、自分やものやことが存在していると言えるのではなく、証明できようができまいが、既に、存在を前提にして、思考し、活動しているのである。人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在、ものの存在、ことの存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。確信があるから、深層心理は自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分やものやことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。そして、心境は、深層心理が自らの心境に飽きた時に、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、心境は、変化する。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。すなわち、人間は、表層心理では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な心境を変えることができないから、気分転換によって、心境を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の変換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができないから、何かをすることによって、心境を変えるのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。また、哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しみが消えれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しみが消えたということが、問題が解決されたということを意味するのである。」と言う。人間にとって、現在の心境や感情という情態性が絶対的なものなのである。苦しんでいる人間は、苦しみから逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいから、その苦しみから逃れるために、表層心理で、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、解決の方法を思考するのである。だから、苦しみが無ければ、人間は、表層心理で、自らを意識して、思考しようとすることが無いのである。しかし、苦しみをもたらしたのは、深層心理である。人間は、誰しも、苦しみは喜ばない。だから、表層心理で、苦しみを招来することは無い。深層心理が、思考して、乗り越えられない自我の問題があるから、苦痛を生み出したのである。人間は、その苦しみから解放されるために、表層心理で、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、解決の方法を思考するのであるが、苦しみをもたらしているのは深層心理であり、乗り越えられない自我の問題を抱えているのも深層心理である。つまり、人間は、苦痛があるから、その苦痛から逃れるために、深層心理が思考して解決できない自我の問題を、表層心理で、自らを意識して、解決しなければ行けないのである。つまり、人間は、深層心理がもたらす苦痛によって、深層心理が解決できない自我の問題を、表層心理で、解決するように仕向けられているのである。ここでも、人間は、深層心理によって動かされていると言えるのである。さて、深層心理が、自我を主体にして、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうとして、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのであるが、欲動とは、深層心理に内在している、四つの欲望である。欲動には、第一から第四まで、四つの欲望がある。深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかをかなうことができれば、快楽が得られるのである。すなわち、快感原則が満たすことができるのである。そこで、深層心理は、欲動の四つの欲望のいずれかを満たして快楽を得るために、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、自我である人間を動かそうとするのである。すなわち、感情と行動の指令という自我の欲望は、快楽を得るために生み出されるのである。さて、欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという欲望がある。保身欲である。これが、深層心理には、自我の保身化という志向性での思考となって現れるのである。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。裁判官が安倍前首相に迎合した判決を下し、官僚が公文書改竄までして安倍前首相に迎合するのは、自我を存続させ、なおかつ、立身出世という自我の発展ののためである。学校でいじめ自殺事件があると、校長は校長という自我を守るために事件を隠蔽し、いじめっ子の親は親という自我を守るために自殺の原因をいじめられっ子とその家庭に求めるのである。自殺した子も、仲間という構造体から追放されたくない上に、友人という自我を失いたくないから、いじめの事実を隠し続けたのである。ストーカーになるのは、夫婦やカップルという構造体が消滅し、夫(妻)や恋人という自我を失うのが辛いから、相手に付きまとうのである。そして、相手に無視したり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙に辛さから逃れようとする者が現れるのである。つまり、欲動の保身欲は、保守的な志向性を求めるのである。だから、深層心理は、毎日、同じような感情や気分で、同じようなことをすることを欲望するのである。ニーチェの「永劫回帰」(全ての事象は永遠に同じことを繰り返すという思想)を支えているのは、この深層心理の欲望なのである。つまり、深層心理の志向は、習慣的な行動なのである。すなわち、ルーティーン通り行動することなのである。また、毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。無意識の行動とは、人間は、表層心理で、自らを意識することなく、自らを意識して思考すること無く、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。さらに、人間にとって、深層心理による習慣的な行動の方が、生活が安全であり、安定している。だから、夫が会社をを辞めて新しい仕事を始めようとすると、妻は、決まって、反対するのである。ルーティーンの生活が破られるからである。人間は、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持し、アイデンティティーを得なければ、安心して、深層心理が生み出す自我の欲望を満たすために生きることができないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならず、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならないが、新しい構造体に所属して新しい自我を獲得することに、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、安定した自我あっての自我の欲望の追求であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だからこそ、安定した構造体に所属し、安定した自我を持つことを望むのである。それは、安定した構造体でなければ安定した自我が得られず、安定した自我がなければ、安心して自我の欲望を追求できないからである。欲動には、第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。承認欲である。自我の対他化の作用である。これが、深層心理には、自我の対他化という志向性での思考となって現れるのである。それは、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉が、全てを、言い表している。人間が、他者の目を気にするのは、認められたい、恥をかきたくないという気持ちからである。現在、日本では、オリンピック開催の可否が問題となっている。なぜ、東京オリンピックに、マスコミも国民も期待するのか。それには、二つの理由がある。一つは、東京オリンピックが成功すれば、世界中の人々から、東京、そして、日本が賞賛されるからである。もう一つは、日本選手も自分自身も、日本という構造体に所属し、日本人という自我を持っているからである。日本国民は、日本選手が金メダルを中心にしたメダルを獲得すれば、世界中の人々から、日本という国・日本人という自我の存在が認められると思うから、楽しみなのである。二つの理由とも、愛国心である。愛国心とは、国民という自らの自我を愛する心なのである。さて、人間の最も強い感情は怒りである。怒りの感情は、決まって、承認欲が満たされないどころか、自我が侮辱され、深層心理が傷心したことから始まるのである。怒りは、復讐の感情である。怒りは、自分の心を傷つけた相手に対する復讐の感情である。深層心理は、現在の侮辱された自我の状況を見て、怒りの感情と復讐の行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かして、自分の心を傷つけた相手の立場を下位に落とし、相手の心を傷つけることによって、自らの立場を上位に立たせようとするのである。だから、人間は、怒ると、徹底的に自分の心を傷つけた相手の弱点を突こうとするのである。そこには、見境は無い。自分の心を傷つけた相手の心を深く傷つけられるのならば、何でも構わないのである。深層心理は、自分の心を傷つけた相手の心が最も早く最も深く傷付く方法を考え出し、そこを徹底的に攻めようとするのである。相手の心が最も傷付く言葉で侮辱したり、腕力の劣った相手ならば暴力に訴えようとするのである。怒りはその時の傷心から逃れるためのものであるから、相手が気にしていることを突いて侮辱するのである。女性に対して、「ブス」、「デブ」などと侮辱し、男性に対して、「能なし」、「ちび」などと侮辱するのである。もちろん、人間は、表層心理で、後に、人間は、怒りによって自ら発した言葉や暴力によって、相手に深くうらまれたり、周囲から顰蹙を買うことによって、自らの立場を危うくなることを恐れて、復讐の行動を抑圧しようとする。しかし、強い怒りの感情には、表層心理の思考での抑圧はかなわないのである。人間は、常に、深層心理で、自我が他者から認められるように生きているから、自分の心を傷つけた相手に対して、怒り、復讐を考えるのである。人間は、常に、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、怒り、復讐し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせようと考えるのである。人間が、社会的な動物であるということは、常に、構造体の中で、自我が他者から認められるように生きているということを意味するのである。欲動には、第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。支配欲である。対象の対自化の作用である。これが、深層心理には、対象の対自化という志向性での思考となって現れるのである。それは、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとしているからである。対象の対自化とは、「人間は、無意識のうちに、深層心理が、自我の志向性(観点・視点)や趣向性(好み)で、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性や趣向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性や趣向性で捉えている。」ことなのである。さて、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られることがその理由である。わがままな行動も、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られることがその理由である。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに学校を運営して快楽を得ることが、その理由である。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。自分の思い通りに会社を運営して快楽を得ることが、その理由である。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば快楽を得られることがその理由である。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性や趣向性で、現象を捉えることである。世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られることがその理由である。さらに、対象の対自化が高じると、深層心理は、「有の無化」、「無の有化」を行うのである。「有の無化」とは、深層心理は、実際に存在しているものやことを、存在していないように思い込んでしまうのである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから犯罪を起こさなかったと思い込んでしまうのである。「無の有化」とは、深層心理は、自我の志向性や趣向性に合った、他者・物・現象という対象がこの世に存在しなければ、この世に存在しているように思い込んでしまうことである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を存在しているように思い込んだのである。深層心理は、すなわち、人間は、自我を肯定する絶対者が存在しなければ、生きていけないのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いから、いじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。深層心理は、すなわち、人間は、自己正当化できなければ生きていけないのである。とどのつまり、人間とは、自分中心、自我中心の動物なのである。それは、深層心理が、人間をそのように仕向けているからである。欲動には、第四の欲望として、自我が他者と心の交流を図りたいという欲望がある。共感欲である。自我の他者との共感化という作用である。これが、深層心理には、自我の他者との共感化という志向性での思考となって現れるのである。共感化とは、自我が他者と心の交流をすること、愛し合うこと、友情を育むこと、協力し合うことである。つまり、共感化とは、自我の存在を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。それがかなえば、喜び・満足感が得られるからである。だから、人間は、仲間を作り、恋人を作り、結婚をしようとするのである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感化の機能である。自民党の政治家が、中国、韓国、北朝鮮を敵視するのは、国民の愛国心を煽り、「呉越同中」の関係になって、支持を集めたいからである。欲動の共感欲も、単に、自我の力を強くするために存在するのである。それを、人間は、深層心理に促されて、「愛は地球は救う」などという美辞麗句で隠蔽しているのである。さて、深層心理が、自我を主体にして、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうとして、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのであるが、快感原則とは、簡単に言えば、快楽を求める欲望である。次に、快感原則であるが、快感原則とは、ひたすらその時その場で、快楽を得ようとし、不快を避けようとする欲望である。快感原則には、道徳観や社会規約は存在しない。ひたすら快楽を得ようとし、不快を避けようとする。人間が、道徳観や社会規約を考慮するのは、表層心理で、思考する時である。表層心理とは、自らを意識しての思想である。人間は、表層心理で、現実原則を満たそうとして、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考するのである。現実原則とは、自我に現実的な利得を求める欲望である。現実原則に、道徳観や社会規約という価値観が存在するのである。道徳観や社会規約を考慮に入れなければ、他者から顰蹙を買い、自我に現実的な利得が得られないことがあるからである。このように、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って行動しているが、深層心理が、常に、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて、行動しているのである。つまり、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望が、人間を動かしているのである。人間は、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望んでいるが、時には、異常なことが起こり、ルーティーン通りの行動ができない時がある。人間は、必ず、日常生活において。異常なことが起こるのである。しかし、それは、必ずしも、生死に関わるような出来事ではない。ほとんどの場合、侮辱などをされ、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望が破られることである。人間は、侮辱などをされた時、深層心理が怒りの感情と侮辱した相手を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間に相手を殴ることを促すのである。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、それが働き、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとするのである。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という作用の機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移されるのである。その時、人間は、自らを意識して、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、思考するのである。人間は、自らを意識して、表層心理で、思考する時は、自我が危機的な状況に陥った時である。人間は、自我が危機的な状況に陥っていなければ、日常生活のルーティーン通りの生活と同じく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに、自らを意識することなく、無意識のままに行動するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。現実原則は、自我に現実的な利得を得ようという欲望であるが、換言すれば、自我に利益をもたらし不利益を避けたいという欲望である。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した行動の指令を実行した結果、どのようなことが生じるかを、他者に対する配慮、周囲の人の思惑、道徳観、社会規約などから、自我が不利益を被らないように、思考するのである。つまり、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎる場合、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、相手を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。そうして、傷心のままに、苦悩のままに、自我の内にこもるのである。そのような時、深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことがある。精神疾患は心境の一つである。だから、精神疾患は情態性である。精神疾患は最下層の心境である。精神疾患は長期に継続する心境である。深層心理が、自らの心に、精神疾患という最下層の心境をもたらすことによって、現実を見えないようにし、現実から逃れようとするのである。さて、人間は、深層心理が、自我を主体に立てて、ある心境の下で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうとして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのであるが、心境が精神疾患という最下層の心境に陥ると、深層心理は、積極的な思考ができなくなるのである。すなわち、積極的に、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出せず、自我である人間を動かすことが難しくなるのである。そうすると、自我である人間の行動は自信なげなものになり、その時間と空間にとどまってしまうのである。人間は、誰しも、自ら意識して、自らの意志によって、心境や感情を生み出すことも変えることも消すこともできないように、精神疾患に陥ることも逃れることもできないのである。すなわち、表層心理という意識や意志では、自らの心に精神疾患を呼び寄せることも、自らの心から精神疾患を追放することもできないのである。深層心理という人間の無意識の心の働きが、自らの心に、精神疾患をもたらすからである。さて、精神疾患には様々なものがあるが、代表的なものが、鬱病である。すなわち、憂鬱という最下層の気分であり、情態性である。鬱病の基本症状は、気分が落ち込む、気がめいる、もの悲しいといった抑鬱気分である。また、あらゆることへの関心や興味がなくなり、何をするにも億劫になる。知的活動能力が減退し、家事や仕事も進まなくなる。さらに、睡眠障害、全身のだるさ、食欲不振、頭痛などといった身体症状も現れることが多い。抑鬱気分が強くなると、自殺念慮が起こる。また、鬱病に罹患している人間は、表層心理で、自らの心理状態を意識して、思考して、自らの意志で、行動を起こそうという気にならない。また、たとえ、自らの意志で、行動を起こそうとしても、肉体が動かない。深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、自らの肉体が行動を起こさないようにしているのである。つまり、深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、自らの肉体を学校や会社に行かせないようにしたのである。つまり、学校や会社で堪えられない情況にある人間の深層心理が、自らの心を、鬱病に罹患させることによって、抑鬱気分を維持させ、学校・会社の行かせないようにするという現実逃避による解決法を見出したのである。しかし、人間は、鬱病に罹患すると、学校や会社に行けなくなるばかりでなく、他のこともできなくなるのである。さらに、自殺を考えさせるのである。鬱病は、人間を、継続した重い気分に陥らせ、何もする気も起こらなくさせ、自殺を考えさせるから、大きな問題なのである。鬱病だけでなく、精神疾患は、全て、深層心理によってもたらされた現実逃避よる解決法である。統合失調症は、現実を夢のように思わせ、現実逃避をしているのでる。離人症は、自我の存在を曖昧にすることによって、現実逃避しているのである。このように、現実があまりに辛く、その辛さから逃れる方策、その辛さから解放される方策が考えることができないから、深層心理が、自らを、精神疾患にして、現実から逃れたのである。しかし、精神疾患によって、現実の辛さから逃れたかも知れないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛の心理状態が、終日、本人を苦しめるのである。だから、精神疾患に陥った人に対して、周囲のアドバイスも励ましも、無効であるか有害なのである。精神疾患に陥った人は、現実を閉ざしているから、周囲の現実的なアドバイスには聞く耳を持たず、無効なのである。また、周囲の「がんばれ」という励ましの言葉は、「がんばれ」とは「我を張れ」ということであり、「自我に執着せよ」ということであるから、逆効果であり、有害なのである。自我に執着したからこそ、現実があまりに辛くなり、精神疾患に逃れざるを得なくなったからである。さて、現在、精神疾患の苦痛から解放するために、薬物療法とカウンセリングが多く用いられる。確かに、精神疾患そのものの苦痛の軽減・除去には、薬物療法は有効であろう。しかし、現実は、そのまま残っている。現実を変えない限り、たとえ、薬物療法で、精神疾患の苦痛が軽減されても、その人が、そのことによって、再び、現実が見えるようになると、再び、元の精神疾患の状態に陥るようになることが考えられる。そこで、重要になってくるのが、カウンセリングである。カウンセリングは、自己肯定感を持たせることを目的として、行われる。精神疾患に陥ったのは、自分が無力であるため、現実に対処できないと思い込み、深く心が傷付いたからである。そこで、自己に肯定感を持たせ、自信を与え、現実をありのままに受け入れるようにするのである。しかし、自分に力が無いと思い込み、外部に関心を持たない状態に陥っている者に対して、肯定感を持たせ、自信を持たせ、現実をありのままに受け入れるようにさせることは、至難の業である。だから、カウンセリングは、長い時間が掛かるのである。このように、人間は、深層心理の思考の圧倒的な力によって動かされているのである。それでありながら、人間は、意志、自由、主体性などを推奨して、表層心理の思考で、物事を解決しようとしているのである。だから、人類は、どれだけ時代が進んでも、悲劇、惨劇はやまないどころか、規模を大きくしているのである。深層心理を熟慮する時が来ているのである。





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