あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

体制に変えられないために、体制批判の言動を続ける。(自我その302)

2020-01-19 20:58:49 | 思想
インド建国の父と言われているガンジーは、「自分が行動したこと全ては取るに足らないことかも知れない。しかし、行動したというそのことが重要なのである。」と言っている。その意味は、「自分の言動だけでは、政治を変えることはできないかもしれない。しかし、自分が言動している限り、少なくとも、自分だけは政治によって変えられることはない。だから、自分は言動し続けるのだ。」ということである。確かに、ガンジーが指導した不服従運動が広がり、インドはイギリスから独立できた。しかし、ガンジーはインド独立に大きな業績を残していなくても、彼の言葉は有効である。さて、日本に、「憂国の士」という言葉がある。「憂国の士」とは、「日本の現状や将来を案じている人」の敬称である。しかし、「憂国の士」という構えた表現をしなくても、日本人は、皆、日本という構造体に属していて、日本人という自我を持っているから、愛国心と憂国の心情を持っているのである。人間は、自我の動物であるから、無意識のうちに、深層心理が、自らが所属している構造体と自らが持している自我に執着するのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。深層心理は、自我を主体にして、快感原則に基づいて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。快感原則とは、フロイトの用語で、快楽を求める欲望である。さて、日本に住む人たちは、日本という構造体・日本人という自我だけで無く、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。自我を持つとは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。人間が最初に所属する構造体は、家族であり、最初の自我は、息子もしくは娘である。その後、保育園、幼稚園という構造体に所属して、園児という自我を持ち、小学校、中学校、高校という構造体に所属して、生徒という自我を持ち、会社という構造体に所属して、社員という自我を持ち、店という構造体に所属して、店員という自我を持つ。また、住んでいる地域によって、町という構造体に所属して、町民という自我を持ち、市という構造体に所属して、市民という店員を持ち、県という構造体に所属して、県民という自我を持ち、そして、日本という構造体に所属して、日本人という自我を持つのである。深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。だから、日本人が、日本という構造体に対して愛国心と憂国の心情を持ち、日本人という自我に対して執着することは普通のことであり、褒め称えられることではないのである。ガンジーが、「自分の言動だけでは、政治を変えることはできないかもしれない。しかし、自分が言動している限り、少なくとも、自分だけは政治によって変えられることはない。だから、自分は言動し続けるのだ。」という気持ちで、政治的言動をするのは正しいのであり、日本で、「日本の現状や将来を案じている人」を「憂国の士」という言葉で敬称で呼ぶのは間違っているのである。ところが、日本には、「俺は日本の国を心から愛している。」と公言する人が多く存在するのである。所謂、愛国主義者である。そのように言う人の口調からは、「おまえは自分のことしか考えていないようだが、俺は自分のことよりも日本のことを考えているのだ。」という主張があることは、ありありと窺われる。恥じらいもなく、よくそのようなことを威張って言えるものだとあきれてしまう。なぜならば、人間とは、自我に執着する動物であり、日本の国を心から愛していると言っても、究極的には、自分自身を愛しているに過ぎないからである。日本人にとって、日本という構造体は日本人という自我を保証している存在なのである。だから、愛国主義者だけでなく、日本人ならば、誰しも、日本のことを愛しているのである。日本人にとって、日本を愛することと自分を愛することとは同じことなのである。人間とは、自分が所属している構造体、自分が持している自我(ポジション、ステータス、身分、地位などの社会的な位置)、自分に所属しているもの(者・物)を愛する動物なのである。だから、日本に住む人は、自分が所属している日本、家族、会社、学校などという構造体をを愛し、自分が持している日本人、父、母、息子、娘、社長、部長、社員、誇張、教師、性となどいう自我を愛し、自分に所属している民衆、部下、息子、娘、教え子、家、車、作品、趣味、肉体、スタイル、顔などを愛して暮らしているのである。自分とは、自分が所属している構造体、自分が持している自我、自分に所属しているものから成り立っているのである。特に、自我は、自分そのものであり、自分が所属している構造体と自分に所属しているものに直接的に関わっているから、重要である。人間の行為は、全て、自分の表現であるが、自分とは、社会的に行動する時には、自我となるから、自我の表現なのである。まさしく、自我とは自我に執着することであるから、自我の表現とは自我愛の表現なのである。安倍晋三首相は、「美しい国、日本」とよく言う。しかし、安倍晋三首相だけでなく、日本人ならば、誰しも、そう思っている。なぜならば、「美しい国、日本」とは、日本人という自我を保証する日本という構造体を褒め称える言葉であり、まさしく、そこに所属している日本人という自我を褒め称える言葉であるからである。しかし、口幅ったく、恥ずかしくて、言えないのである。なぜならば、「美しい国、日本」という言葉には、言外に、「他の国はどうだか知らないが、日本は美しい国だと断言できる」や「日本は、他のどの国よりも美しい国だ」などが言外に込められているからである。そこには、日本という国を差異化して、優越感に浸ろうという思いがありありと窺われるのである。しかし、他の国の国民も、その国の構造体に所属していて、その国の国民という自我を持っているから、自国を、「他のどの国よりも美しいと。」と思っているのである。それは、自国の景勝が良いからそう思っているのでは無い。自我が所属している国だから、「他のどの国よりも美しいと。」と思いたいから、そのように思うのである。それは、深層心理の対象の対自化の作用である「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、実際には存在しないものを、自己の欲望によって創造する。)ことから来ているのである。しかし、異なる国民が同席して、自国自慢をすると、相手を不愉快な気持ちにするから、良識・常識ある人は、自国自慢を控えるのである。しかし、安倍晋三首相は、ある意味では、自分の思いを述べることに正直だと言える。「子供は正直だ。」と言われるごとく、安倍晋三首相も、子供のように正直なのである。愛国主義者、すなわち、右翼は、愛国心という自我の欲望に正直である。他国民の思惑を意に介さず、愛国心を口にする。むしろ、他国民が不愉快になることを喜びとしている。なぜならば、自我の欲望とは、自分を差異化して、優越感に浸ろうという思いだからである。安倍晋三首相も、もちろん、愛国主義者、すなわち、右翼である。誰しも、自分の子供、自分が勤務している会社、自分が卒業した学校、自分の家、自分の車、自分の趣味、自分のスタイル、自分の顔などを他者に自慢したく思っている、また、それらを他者に褒められたいと思っている。しかし、それを声高に唱えることは、他者のプライドを傷付けるので、普通の感覚の持ち主は遠慮するのである。同様に、自国という構造体や国民という自我を自慢することは、他国民の自我を傷付けるので、普通の感覚の国民は遠慮するのである。ところが、愛国主義者、すなわち、右翼は、それを敢えて行うのである。もちろん、外国人にも、愛国心はある。韓国人にも中国人にも愛国心はある。だから、同じ島を、日本人は竹島と名付けて愛し、韓国人は独島と名付けて愛している。日本人も韓国人も、その島は自国に所属していると思っているから愛し、その所有権を巡って争っているのである。また、同じ島々を、日本人は尖閣諸島と名付けて愛し、中国人は釣魚島および付属島嶼と名付けて愛している。日本人も中国人も、その島は自国に所属していると思っているから愛し、その所有権を巡って争っているのである。しかも、日本、韓国、中国の愛国主義者、右翼たちは、戦争も辞さない覚悟で、竹島(独島)、尖閣諸島(釣魚島および付属島嶼)を確保せよと叫んでいるのである。愚かである。無人島確保のために血を流せと叫んでいるのである。愛国心という自我の欲望に取り憑かれた者たちの暴走である。しかし、愛国心は、誰にでも存在し、愛国主義者の主張は容易に理解でき、愛国主義者を批判すると、売国奴、反日などと非難されるから、容易に批判できないのである。しかし、「子供は正直だ」と言われるように、愛国心のあからさまな発言は、幼児の思考から来ているのである。しかし、自我の欲望に正直に行動する人ほど恐い存在者はいないのである。もしも、愛国主義者の主張が、民主主義者・自由主義者・平和主義者・社会主義者(共産主義者)の反対に遭っても、大衆の多くに支持されれば、愛国主義者は、自我の欲望のままに、愛国心を発露し、日本は、早晩、アメリカに追随して、戦争をすることになるだろう。現に、日本はそのような方向に向かっているのである。日本の大衆の多くが、安倍晋三という愛国主義者内閣、自民党という愛国主義者政党を支持してきたのである。安倍晋三内閣は、国家戦略会議、特定秘密保護法、集団的自衛権を確立させてきた。もう暫くすると、共謀罪を成立させるだろう。残るところは、憲法改正だけである。憲法改正が成されれば、日本は、戦前に戻るだろう。軍国主義の復活である。愛国主義者政党の一党独裁である。国家主義者の国の誕生である。国内では、現在以上に言論統制の効いたファシズムが横行し、国外では、外国との戦争を厭わなくなるだろう。そこには、日本人の愛国心という自我を満たすだけの欲望が不気味にうごめいている。また、愛国主義者は、「現在の日本人の動向が心配だ。」や「日本はこのままで良いのか。」などと言い、憂国の士を気取ることがよくある。これもまた、言外に、他の日本人に向かって、「おまえは自分のことしか心配していないようだが、俺は自分のことよりも日本のことを考えているのだ。」と言っているのである。しかし、愛国主義者が、恥じらいもなく、そのように言えるのは、日本人のプライドを守るためには、日本は戦争すべきであり、自分も積極的に戦争に参加しようという気持ちがあるからである。愛国心という自我に取り憑かれた愛国主義者には、当然のごとく、容易に帰結する気持ちである。しかし、愛国主義者ならずとも、日本人は、誰しも、愛国心を有している。それ故に、日本の現状を心配している。なぜ、日本に愛国心を抱いている者は、皆、日本の現状を心配するのだろうか。それは、愛国心を抱いている者は、誰しも、心の中に理想の国家像を持っていて、現状の日本ではそちらの方に向かうようには思われないからである。だから、日本人は、全て、憂国の士なのである。しかし、国家像ならずとも、理想と現実が一致しないのが世の常である。そのような場合、一般には、三つの対策を取るものである。一つ目の方法は、自分の理想とする国家像を再構成することである。二つ目の方法は、自分の理想の国家像と現実の国家の動向になぜ齟齬が生じたのかを分析し、自分の理想の国家像、現実の国家の動向ともに修正するのである。三つ目の方法は、現実の国家の動向を再分析することである。だから、常に、一般の憂国の士は、自己修正を迫られている。常に、自己修正を迫られているから、自信なげになってしまうのである。しかも、一般の憂国の士は、日本が、国家主義の国、ファシズムの国に向かっていると認めるのが怖い上に、愛国主義者と対峙するのが怖いから、自分たちが負けるはずがない、少数派を敵として探し出し、寄ってたかって批判するのである。少数派とは、民主主義者・自由主義者・平和主義者・社会主義者(共産主義者)である。一般の憂国の士は、安倍晋三を中心とする愛国主義者たちを批判すると、現在の自らの自我(地位・仕事・立場・ステータス)を失う可能性があるから、むしろ、安倍晋三を中心とする愛国主義者たちに媚びを売るのである。しかし、自我に取り憑かれた愛国主義者は、先に述べた三つのいずれの方法もとらない。「明治時代からの日本人が理想とする国家に向かっていない、現状の日本は間違っている。現代の日本人は、間違っている。」と考えるのである。彼らにとって、戦争を辞さない考えていない日本人は、愛国心を持っていないのである。反日、非国民、売国奴なのである。三島由紀夫は、1970年11月2日、自らの組織する「楯の会」会員とともに、自衛隊内に乱入し、決起を訴えたが、果たさず、割腹自殺した。三島由紀夫は、自衛隊員にクーデターを呼びかけ、日本国憲法を改正し、天皇に日本人が統率され、天皇のために戦争ができ、天皇のために死ねる国にしたかったのである。三島由紀夫は、生まれるのが早過ぎたのである。三島由紀夫が理想とする国が、現在、生まれつつある。現代日本は、愛国主義者を名乗る者、憂国の士を気取る者が、大手をふるって街角を歩き回り、マスコミ界を席巻している。しかし、三島由紀夫は、アメリカに媚びを売る安倍晋三だけは、偽の愛国主義者として見なし、批判するかもしれない。しかし、このように台頭している愛国主義者、国家主義者に対して、少数派と言えども、民主主義者・自由主義者・平和主義者・社会主義者(共産主義者)は、戦わなければいけない。幸徳秋水、大杉栄、小林多喜二が、死を賭して戦ったように。ニーチェが「大衆は馬鹿である」と言ったように、たとえ、自我の欲望にとらわれている大衆に理解されなくても。ガンジーが、「自分が行動したこと全ては取るに足らないことかも知れない。しかし、行動したというそのことが重要なのである。」と言い、「自分の言動だけでは、政治を変えることはできないかもしれない。しかし、自分が言動している限り、少なくとも、自分だけは政治によって変えられることはない。だから、自分は言動し続けるのだ。」と主張したように、現在の政治に流されないために。自らの存在の証のために、体制批判を続けなければならないのである。



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