あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自我の欲望に従順な人間について。(自我その404)

2020-09-07 13:51:06 | 思想
人間は欲望の動物である。しかし、人間は自らの意志で欲望を生み出すことはできない。人間は無意識のうちに思考して欲望を生み出しているのである。すなわち、深層心理が欲望を生み出しているのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。さらに、欲望は、自我の存在しないところでは、生まれない。つまり、人間は自我を所有することで、初めて、深層心理が欲望を生み出すことができるのである。すなわち、欲望とは常に自我の欲望なのである。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。構造体には、家族、学校、会社、銀行、店、電車、仲間、夫婦、カップル、国などがある。家族という構造体では父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では社長・課長・社員などの自我があり、銀行という構造体では支店長・行員などの自我があり、店という構造体では店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では友人という自我があり、夫婦という構造体では夫・妻の自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、国という構造体では国民という自我があるのである。人間は、誰しも、常に、さまざまな構造体に所属しtて、さまざまな自我を所有して活動しているのである。さて、人間には、自らを指す言葉として、自我以外に、自分、自己がある。自分とは、自らを他者や他人と区別しているあり方である。だから、自分そのものは存在しない。自分という特別なあり方は存在しない。自分とは、自らが自らの存在にこだわっているあり方に過ぎないのである。そして、自己とは、主体的に生きている自らのあり方である。しかし、自我にとらわれて生きている人間に自己は存在しない。人間は、自己として存在できないのである。人間は、主体的に生きることができないのである。人間は主体的に生きることに憧れているか、主体的に生きていると錯覚しているに過ぎないのである。さて、人間は、深層心理が、常に、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて行動している。
深層心理が自我を主体に立てて思考しているのであり、人間が、主体となって、思考しているのではないのである。自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、自我自身が主体的な思考ができず、もちろん、主体的に行動もできないのである。つまり、人間は、主体的な存在ではないのである。人間の行動は、主体的なものではなく、全て、深層心理が、自我を主体に立てて思考して生み出した自我の欲望の現れなのである。しかし、それでも、人間は、表層心理で、自ら意識して、思考することがある。表層心理とは、人間の意識しての思考である。その思考の結果が意志である。しかし、人間が、表層心理で、意識して、思考するのは、常に、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について受け入れるか拒否するかについて審議する時だけなのである。しかも、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。人間の日常生活が、ルーティーンという、同じようなことを繰り返しているのは、無意識の行動だから可能なのである。人間の行動は、深層心理が思考して生み出した行動の指令のままの行動、すなわち、無意識の行動が、ほとんどなのである。フランスの心理学者のラカンは、「無意識は言語によって構造化されている。」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考していることを意味する。ラカンは、深層心理が言語を使って論理的に思考していると言うのである。だから、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。そして、深層心理が論理的に思考して生み出した自我の欲望が、人間の行動する原動力、すなわち、人間の生きる原動力になっているのである。つまり、人間は、自らが意識して思考して、表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して生み出していず、深層心理が思考して生み出した自我の欲望によって生きているのである。しかし、多くの人は、深層心理の存在を知らず、深層心理の思考の力を知らないから、自我の欲望の存在に気付くことがあると、自らが表層心理で意識して思考して生み出しているように誤解するのである。しかし、自らが表層心理で意識して思考して生み出していなくても、自らの深層心理が思考して生み出しているのであるから、やはり、自我の欲望は自らの欲望なのである。自我の欲望は、紛れもなく、自らの欲望だから、それから、逃れることができないばかりか、それに動かされて生きているのである。さて、深層心理は、構造体の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満たすために、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのであるが。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望であり、快感原則とは、快楽、満足感、充実感などの快感を求めるということであり、感情と行動の指令という自我の欲望とは、深層心理が生み出した感情によって、自我を動かし、深層心理が生み出した行動の指令を実行させようとすることである。さて、深層心理に内在している欲動には、四つの欲望がある。欲動の第一の欲望が、自我を確保・存続・発展させたいという欲望であるが、深層心理は、自我の保身化という作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという欲望であるが、深層心理は、自我の対他化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望であるが、深層心理は、対象の対自化の作用によって、その欲望を満たそうとする。欲動の第四の欲望が、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。簡潔に言えば、欲動の四つの欲望とは、地位や位置を守りたい、認められたい、支配したい、仲良くしたいという気持ちである。快感原則とは、快楽、満足感、充実感などの快感を求めるという深層心理の傾向である。欲動と快感原則は深く結び付き、欲動の四つの欲望のいずれかが満たされれば、快感原則も満たされるのである。深層心理が生み出す自我の欲望には、感情と行動の指令が存在するが、行動の指令は欲動の四つの欲望や快感原則を満たすために生み出され、感情は行動の指令を実行するための力となっているのである。さて、ほとんどの人の日常生活は、無意識の行動によって成り立っているのは、深層心理が、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望、すなわち、自我の保身化の作用によって、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、自我の欲望のままに行動しているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、表層心理で意識して考えることがなく、無意識の行動だから可能なのである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想そのものである。しかし、人間の生活は、必ずしも、毎日が、平穏ではない。嫌なことがある。それでも、学校や職場へ行くのである。生徒という自我を持った人が高校という構造体で生徒指導係の教諭から服装を注意され、社員という自我を持った人が会社という構造体で上司から言葉遣いを注意されると、深層心理は、傷心と怒りの感情から反論しろという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を唆すのだが、超自我がルーティーンを守るために、反論しろという行動の指令を抑圧しようとする。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、意識して、思考して、ルーティーンを守るために、自我の欲望を抑圧するのである。そして、明日も、また、学校や会社へ行くのである。ルーティーンの生活を続けるのである。フロイトは、自我の欲望の暴走を抑圧するために、深層心理に、道徳観に基づき社会規約を守ろうという超自我の欲望、所謂、良心がが存在すると言う。しかし、深層心理は瞬間的に思考するのだから、良心がそこで働いているとは考えられない。超自我は、ルーティーンの生活を守るために、道徳観や社会規約を利用しているように思われる。超自我の働きは、ルーティーンの生活を守ることであり、そのために、道徳観や社会規約を利用しているのである。もしも、超自我によって、深層心理が生み出した自我の欲望が抑圧できなかったならば、そこに、人間の表層心理での思考が始まるのである。人間は、深層心理が思考して生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考することがあるのである。現実原則は、現実的な利得を求める欲望である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を満足させるように、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだし、人間は、それによって、動き出すのであるが、深層心理の思考の後、人間は、それを受けて、すぐに行動する場合と考えてから行動する場合がある。前者の場合、人間は、深層心理が生み出した行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、すなわち、表層心理で思考することなく、行動するのである。これは、一般に、無意識の行動と呼ばれている。深層心理が生み出した自我の欲望の行動の指令のままに、表層心理で意識することなく、表層心理で思考することなく行動するから、無意識の行動と呼ばれているのである。むしろ、人間は、表層心理で審議することなく、深層心理が生み出した感情と行動の指令のままに行動することが多いのである。それが無意識の行動である。ルーティーンという、同じようなことを繰り返す日常生活の行動は、無意識の行動である。だから、人間の行動において、深層心理が思考して行う行動、すなわち、無意識の行動が、断然、多いのである。それは、表層心理で意識して審議することなく、意志の下で行動するまでもない、当然の行動だからである。人間が、本質的に保守的なのは、ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもないからである。しかし、後者の場合、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を許諾するか拒否するかについて、意識して思考して、行動するのである。人間の意識しての思考、すなわち、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強いので抑えきれないのである。超自我が過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。強い傷心感情が、時には、鬱病、稀には、自殺を引き起こすのである。強い怒りの感情が、時には、暴力などの犯罪、稀には、殺人を引き起こすのである。そして、それが国という構造体同士の争いになれば、戦争になるのである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、誰しも、愛国心を持っているのである。自分が国という構造体にに所属しているからである。よく、愛国心の有無、強弱に関するアンケートがある。現在の日本人の愛国心についての状況を知りたいがためである。しかし、それは全く無意味である。誰でも愛国心は存在するからである。確かに、日本が嫌いだという人がいる。しかし、それは、自分の理想とする日本と現在の日本が違っていると思うからである。決して、愛国心を失ったわけではない。愛国心は、日本人だけでなく、全世界の人々に共有されている。なぜならば、全世界の人々が、いずれかの国に所属しているからである。愛国心とは、国という構造体に所属していれば、誰もが抱く心情なのである。それは、郷土という構造体に所属しているから愛郷心を、家族という構造体に所属しているから家族愛を、会社というという構造体に所属しているから愛社精神を、学校という構造体に所属しているから愛校心を、カップルという構造体に所属しているから恋愛感情を、仲間という構造体に所属しているから友情を、宗教団体という構造体に所属しているから信仰心を抱くのと同じである。さて、「俺は、誰よりも、日本を愛している。」と叫び、中国や韓国などに対して対抗心を燃やす人がいる。そして、自分の考えや行動に同調しない人を売国奴、非国民、反日だなどと言って非難する。売国奴とは敵国と通じて国を裏切るものをののしっていう語であり、非国民とは国民としての義務を守らない者であり、反日とは日本に反対することや日本や日本人に反感をもつことという意味である。つまり、売国奴、非国民、反日のいずれも、日本人ならば日本に対して愛国心を持っていることを知らず、自分の愛し方だけが正しいと思い込んでいる者が生み出した言葉なのである。また、憂国という言葉がある。憂国とは国家の現状や将来を憂え案ずることや国家の安危を心配することという意味である。そして、憂国の士という言葉さえ存在する。しかし、日本人ならば、誰しも、理想の日本の国家像があり、現在の日本がその国家像にそぐわないように思えれば、憂国の念を抱くのである。それ故に、憂国の念を抱く人を特に特別視し、憂国の士と呼ぶ必要はないのである。さらに、憂国は国家の現状や将来を憂え案ずることや国家の安危を心配することという意味であるが、現在の日本の国家の捉え方も、個人差があり、自らの捉え方は普遍化できないはずである。ところが、傲慢にも、憂国の士を自認する者は、自らが持っている理想の日本の国家像は誰にも通用するものだと思い込み、自分だけが日本の現状や将来を憂え案じていると思い込んでいる。そして、自らと異なった理想の日本の国家像を持っている者たちや自らと異なった日本の現状のとらえ方をしている者たちを、売国奴、非国民、反日などと言って非難するのである。もちろん、中国人や韓国人にも愛国心はある。特に、中国人や韓国人は、近代において、自国が日本に侵略された屈辱感がまだ過去のものとなっていないから、日本人に侵略・占領の過去を反省する心を失ったり、正当化するような態度が見えると、愛国心が燃え上がるのである。中国において、愛国無罪を叫んで、日本の企業を襲撃するような人たちもまた憂国の士である。もちろん、彼らは犯罪者である。さて、日本の憂国の士と自称する者と中国の憂国の士と自称する者、日本の憂国の士と自称する者と韓国の憂国の士と自称する者が一堂に会するとどうなるであろうか。互いに自分の言い分を言い、相手の主張を聞かないであろう。挙句の果てには、殴り合いが始まるか、最悪の場合、戦争に発展するだろう。このように、愛国心が高じると危機的な状況を招くのである。一般に言われているような、決して、過大に評価すべきものではないのである。なぜならば、国という構造体が存在する限り、国民という自我を有する者が存在し、そこには愛国心を必ず存在するからである。ただ、それだけのことなのである。しかし、愛国心を持てない国民は悲劇である。精神状態が不安定になるからである。それは、家に帰っても、家族の誰からも相手にされない父親と同じ気持ちである。自らが日本人であることにアイデンティティーを持っているから、理想の日本の国家像を描き、現在の日本を批判し、将来の日本を憂えるのである。それが、日本人としての自我のあり方である。しかし、それは、中国人、韓国人も同様である。そのことに気付かず、日本人としての自我を強く主張すれば、中国人、韓国人と対峙するしかないのである。ヘイトスピーチをして、中国国籍の人、韓国国籍の人、北朝鮮国籍の人を日本国内から追い出そうとする人たちは、極端に日本人としての自我に強い人たちである。大勢の人とヘイトスピーチをすることによって、日本人のアイデンティティーを確認し合っているのである。彼らは、自らの行為を愛国心の発露だとしているだろう。彼らは、自らの行為に反対する日本人を、売国奴、非国民、反日だと思っているだろう。彼らは日本を純粋に愛しているからこのような行為をするのだと思っているだろう。しかし、なぜ、日本を愛すのだろうか。その答えは一つしかない。自分が日本という国に所属しているからである。自分に日本人という自我を与えられているからである。日本という自我が与えられているから日本という構造体を愛するのである。自分に日本人という自我を保証してくれるものは日本という構造体だからである。それ故に、愛国心は国を愛しているように見えるが、真実は、国民という自我を通して自分を愛しているのである。それに気づかなければ、愛国無罪のような罪を犯すことになるのである。さて、「子供は正直である。」と言われる。この言葉の真意は、大人は嘘をつくことがあるから言ったことの全部を信用することはできないが、子供は嘘を言わないから言ったことの全部を信用できるということである。言うまでもなく、子供に対して好意的な言葉である。しかし、「子供は正直である。」からこそ、些細なことで喧嘩するのである。相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、簡単に喧嘩が始まるのである。子供は、お互いに、相手の気持ちを考えることなく、自分の権利を強く主張するから、喧嘩が絶えないのである。自分の権利だけを主張することは、自我の欲望に忠実であるということである。子供は、子供としての自我の欲望に忠実なのである。つまり、愛国心の発露も幼児の行為なのである。子供は正直だと言う。それと、同様に、愛国心の発露も正直な心情の吐露である。しかし、それは、後先を考えない、幼児の行為である。日本人の愛国主義者と中国の愛国主義者の争い、日本人の愛国主義者と韓国の愛国主義者の争いは、幼児の争いである。幼児の悪行は大人が止めることができる。しかし、日本、中国、韓国の最高指導者は、それを止めるどころか、むしろ、たきつけている。彼らもまた幼児的な思考をしているからである。それ故に、愛国心による争いは収まる気配は一向になく、むしろ拡大しているのである。為政者、国民、共々、愛国心から発する自我の欲望に従順である限り、収まらないのである。さて、いじめも、また、自我の欲望に忠実であることの悲劇、惨劇である。2019年7月3日、岐阜市の中学3年生の男子生徒が、マンションから転落死した。いじめを苦にしての自殺であった。彼は、自殺する前日、同級生三人以上から、トイレの便器に頭を入れられていたという。なぜ、彼は、他の生徒に助けを求めなかったのか。なぜ、彼は、教師に訴えなかったのか。なぜ、彼は、親に訴えなかったのか。それは、そうすることで、いじめっ子たちは罰せられるかも知れないが、自分は、仲間という構造体から追放され、学校という構造体やクラスという構造体に居場所を無くすからである。それを彼は最も恐れたのである。そこで、彼は自殺したのである。自殺すれば、いじめられる屈辱から解放され、いじめっ子たちは罰せられるからである。自殺すれば、仲間という構造体から追放され、学校という構造体やクラスという構造体に居場所が無くすという不安を味わわないで済むのである。それでは、なぜ、いじめっ子たちは、いじめをしたのか。それも、非人間的ないじめをしたのか。それは、いじめっ子たちの深層心理にとって、いじめは楽しいからである。小学生、中学生、高校生が、仲間という構造体で、一人の人をいじめるのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、連帯感という喜びを得られるからである。また、嫌いな人間や弱い人間をいじめると、人間は、快感を覚えるのである。なぜならば、人間にとって、嫌いな人間の嫌いな部分とは、自分自身も身に付ける可能性がある、忌避したい部分であるからである。だから、いじめっ子たちは、自らが持つかも知れない嫌いな部分や弱い部分を持っている同級生を仲間という構造体でじめることで、それを支配したと思えるから、快楽を覚えるのである。それでは、なぜ、いじめを見ていた周囲の中学生たち注意することも無く、教師に訴えることをしなかったのか。そうすれば、自分が、次に、いじめっ子たちのいじめのターゲットになる可能性があるからである。大人たちが現れ、いじめっ子たちを罰するということがわかった時に、安心して、いじめの事実を話すのである。しかし、いじめは、遠い存在ではない。毎日のように、芸人たちがいじめを行い、いじめにあっている。漫才で、ぼけ役が話すと、突っ込み役ははぼけ役の頭を殴って反論したり、否定したりする。それが、視聴者の笑いを誘う。売れている先輩芸人が、売れていない後輩芸人に、無理難題を押し付け、売れていない後輩芸人は、案の定、失敗し、困窮の表情を浮かべる。それが、視聴者の笑いを誘う。芸人たちは、罰ゲームと称され、熱湯湯に入れられたり、蟹に鼻を挟まれたり、火傷しそうな熱い物を食べさせられたり、吐くしかない辛い物を食べさせられたり、のどに通らない苦い物を飲まされたりする。それが、視聴者の笑いを誘う。つまり、いじめの番組を見て、視聴者は楽しんでいるのである、つまり、大衆も、また、芸人という弱い人間がいじめられているのを見ることに、快楽を覚えているのである。大衆も、また、自我の欲望に忠実なのである。そして、芸人が、いじめを甘んじて受けるのは、芸人という構造体や放送業界という構造体から追放されたくないからである。だから、人間世界において、いじめは無くなることがないのである。さて、ストーカーも、また、自我の欲望に忠実な人である。ストーカーは、恋人という自我の欲望に取り憑かれ、失恋を認めることができず、憎しみの感情に動かされ、理性(表層心理による判断)を失ったである。マスコミは、ストーカーを、精神異常者のように扱っているが、ストーカーは決して精神異常者ではない。ストーカーの行動は、他者(彼氏・彼女)が、カップルというい構造体から他の構造に所属することに脅威を覚え、それを妨害することから起こることである。それは、いじめという快楽を覚える行動ではなく、恋人いう自我を保つための必死の行動である。失恋した人は、誰しも、一時的にしろ相当の時間にしろ、ストーカー的な心情に陥る。誰しも、すぐには失恋を認めることができない。相手から別れを告げられた時、誰一人として、「これまで交際してくれてありがとう。」とは言えない。失恋を認めることは、あまりに苦しいからである。相手を恨むことがあっても、これまで交際してくれたことに対して礼など言う気には決してならない。失恋を認めること、相手の自分に対する愛が消滅したこと・二人の恋愛関係が瓦解したことを認めることはあまりに苦しい。それは、相手から、自分に対する愛が消滅したからと言われて、別れを告げられても、自分の心には、恋愛関係に執着し、相手への愛がまだ残っている。しかし、相手との恋愛関係にはもう戻れない。このまま恋愛関係に執着するということは、敗者の位置に居続けることになる。失恋したということは、敗者になり、プライドが傷付けられ、下位に落とされたということを意味するのである。ずたずたにされたプライドを癒し、心を立て直すには、自分で自分を上位に置くしか無い。そのために、失恋した人は、いろいろな方法を考え出す。第一の方法は、すぐには、自分を上位に置くことはできないので、相手を元カレ、元カノと呼び、友人のように扱うことで、失恋から友人関係へと軟着陸させ、もう、相手を恋愛対象者としてみなさないようにすることである。これは、相手との決定的な別離を避けることができるので、失恋という大きな痛手を被らないで済むのである。第二の方法は、相手を徹底的に憎悪し、軽蔑し、相手を人間以下に見なし、自分が上位に立つことで、ずたずたにされた自分のプライドを癒すのである。これは、女性が多く用いる方法である。第三の方法は、すぐに、別の人と、恋愛関係に入ることである。新しい恋人は、別れた人よりも、社会的な地位が高く、容貌が良い人である方が、より早く失恋の傷は癒やされる。しかし、失恋の傷が深く、失恋の傷を癒やす方法を考えることができない人も存在する。それは、相手に別れを告げられ、相手が自分に対する愛を失っても、相手を忘れること、相手を恋人として見なさないようにすることができない人である。そのような人の中で、相手につきまとう人が出てくる。それがストーカーと呼ばれる人である。ストーカーは、男性が圧倒的に多い。彼は、失恋を認めることがあまりに苦しく、相手を忘れる方法が考えることさえできず、相手から離れることができずに、いつまでも付きまとってしまうのである。中には、相手がどうしても自分の気持ちを受け入れてくれないので、あまりに苦しくなり、その苦悩から解放されようとして、相手を殺す人までいる。確かに、ストーカーの最大の被害者は、ストーカーに付きまとわれている人である。しかし、ストーカーも、また、深層心理が愛という自我の欲望に取り憑かれた被害者なのである。人間は、誰しも、失恋すると、ストーカーの感情に陥るが、多くの人は、何らかの方法を使って、相手を忘れること、相手を恋人として見なさないことに成功したから、ストーカーにならないだけなのである。カップルという恋愛関係の構造体は、恋人という自我があり、恋愛感情という愛があるから、相思相愛の時は、「あなたのためなら何でもできる。」と言いながら、相手が別れを告げると、相手のことが忘れられず、誰しも、ストーカー心情に陥り、時には、実際に、ストーカーになる人が現れるのである。






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