あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人生をおいて、何を選択できるか。(自我その182)

2019-08-12 18:53:05 | 思想
人間は、自分で選択して生まれてきたのではない。気が付いたら、そこに存在していたのである。しかし、芥川龍之介の『河童』という小説では、河童の胎児には、誕生するか誕生しないでおくかの選択権が与えられている。そこでは、河童の父親が、胎児に、誕生する意志があるかどうか尋ね、胎児が、熟考の末に、「生まれたくない」と答えて、存在が消滅してしまう。河童は、人間よりも進化している。人間には、自ら誕生するか否かの選択権は与えられていないからである。しかし、人間は自ら死を選択できると言う人がいるかも知れない。つまり、自殺が選択できると言うのである。しかし、肉体は常に生きようとしているのに、精神が、敢えて、それに背いてまで死を選択するのだから、それは選択ではない。精神が苦しいから、自殺を選択したのである。つまり、自殺を選択させられたのである。また、もちろん、子は、親を選択することはできない。誕生するか誕生しないかを選択できないのだから、どの親に宿ったら良いかという選択権が与えられているはずがないのである。だから、「親に感謝しなさい」と教師は言い、親自身もそう思っているが、子には、この世に誕生させてくれたということで親に感謝するいわれは無いのである。良い親だと思われる家庭に巡り合えば、幸運だと見なすしか無いのである。かつて、親戚や近所の人や教師は、子に対して、「親の恩は、山より高く、海より深いのです。親に感謝しなさい。」とよく言ったが、それは、言外に、親の言う通りにしなさいと言っているのである。しかし、子は、誕生の選択権も親を選択する権利を有していないのだから、育ててくれたということで親に感謝するいわれは無いのである。これもまた、良い親だと思われる人に巡り合えば、幸運だと見なすしか無いのである。そもそも、彼らがそういう風に言うのは、親戚・近所の人・教師・親という大人グループが、自らの思いのままに、子供を動かそうという意図からである。また、一般に、親が、我が子を紹介するのに、「厳しく育てました。」と言うと喜ばれ、「のびのびと育てました。」と言うと喜ばれないのは、紹介された大人は、子供に対して、御しやすいか御しにくいかの観点から見ているからである。大人という自我を持っている者は、その自我中心の観点で子供を見、子供の感性に対して思いを馳せることができないのである。また、親も子を選択することはできない。親は、生まれてきた子は、どんな子であろうと、我が子として育てるしか無いのである。しかし、往生際の悪い、精神年齢の低い親は、子が、自分の言う通りに行動しないから、自分の思い描いたように活躍しないから、自分のことを好きになってくれないからという理由などで、虐待するのである。しかし、どのような親や子であろうと、共通して、家族という構造体を形成し、その中で、父・母・息子・娘などの自我を持って行動している。人間は、日々の生活において、いついかなる時でも、家族という構造体に限らず、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動している。構造体とは、人間の組織・集合体であり、自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。その自我を動かすものは、深層心理である。深層心理とは、人間自身はその存在にも動きにも気付いていない、心の働きである。無意識の働きであると言っても良い。しかし、条件反射のように、思考せずに、本能的に行動しているという意味では決して無い。深層心理は、人間の無意識のうちに、心の奥底で、思考し、感情と共に行動の指針を生み出している。ラカンの「無意識は言語によって構造化されている。」という言葉はこの謂である。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って、論理的に思考していることを意味している。その後、深層心理が生み出した行動の指針のままに、無意識のうちに行動することがある。これが、所謂、無意識による行動である。しかし、たいていの場合、表層心理は、深層心理が生み出した感情と行動の指針を意識する。その結果、行動の指針のままに行動したり、行動の指針を抑圧したりすることの選択をするのである。表層心理が、深層心理が生み出した行動の指針のままに行動することを選択すれば、それは意志による行動になる。表層心理が、深層心理が生み出した行動の指針を抑圧すること選択すれば、行動を起こさない。表層心理は、行動を起こさず、自ら、次の行動を考え出そうとして、深い思考を始める。深層心理は、瞬間的に思考するから、浅い思考で、感情と行動の指針を生み出している。しかし、深層心理が生み出した感情が強い場合、表層心理が深層心理が生み出した行動の指針を抑圧しようとしても、抑圧できず、そのまま行動することになる。これが、所謂、感情的な行動である。さて、家族という構造体において、父・母・息子・娘の自我の行動の仕方は、自分が育った家族や他の家族の父・母・息子・娘の行動を学習・模倣したものになる。それは、当然のことである。生まれて初めて、父・母・息子・娘の自我を得たからである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」と言っている。この言葉の意味は、「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」である。つまり、父・母・息子・娘という自我を持った人間は、自分一人では、父・母・息子・娘という行動のあり方を作れないのである。深層心理が、本人の無意識のうちに、自分が育った家族や他の家族の父・母・息子・娘の欲望を取り入れているのである。つまり、家族という構造体における父・母・息子・娘という自我は、自ら主体的に選択しないままに、無意識のうちに、深層心理が取り入れざるを得ず、父・母・息子・娘という自我の行動も、自らが主体的に選択しないままに、深層心理が、自分が育った家族や他の家族の構造体の父・母・息子・娘の行動のあり方を取り入れているのである。つまり、家族という構造体における自我も、自我の行動のあり方も、自らの意志によって主体的に選択していないのである。いや、できないのである。なぜならば、深層心理が、人間の無意識のうちに、取り入れているからである。次に、義務教育の小・中学校を終えての進路についてであるが、ほとんどの人は、高校に進学する。なぜ、ほとんどの人が高校に進学するのか。それも、また、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」の言葉通りである。すなわち、他の生徒が高校に進学し、教師や親がそれを勧めるからである。それでありながら、勉強しない生徒に向かって、教師たちは、「おまえたちは、就職という道もあるのに、この高校に進学した。自分で、この学校を選んで入ってきたのに、なぜ、勉強しないのだ。」と叱る。一応もっともな論理であるが、選択の意味を取り違えている。他の生徒が高校に進学し、教師や親がそれを勧めるから、高校進学することにしたのであり、その後、成績によって進学する高校が決まってきたのである。だから、主体的に、高校に進学すること、そして、どの高校に進学するかを選択したのでは無いのである。深層心理が、周囲の人たちの影響を受けて高校進学することを決定し、その後、成績がどの高校にするかを決めたのである。だから、教師の指摘は、表面的には正しいが、人間の深層心理、そして、現実の状況を把握していないのである。教師自身、現在でも、「でもしか先生」が多い。漠然と教師になり、また、生徒しか相手をすることができない人が多い。主体的に、教師という道を選んでいるならば、人間の心理を研究しているはずである。少なくとも、いじめ事件で、逃げたり、おたおたして校長の指示を仰ぐばかりであったり、事件そのものを隠したり、証拠物件を消したり、責任転嫁したり、自分自身も加害者になることは無いはずである。校長も、教師も、主体性がなく、周囲の状況で、いつのまにか、生徒を指導する道に入ったのであり、生徒を叱る資格は無いのである。また、生徒は、学校において、クラスを選択できないから、自分がアニメを好きでも、クラスにアニメ好きを公言する者がいなくて、周囲の者がプロ野球の話題ばかりをしていれば、興味がなくても、テレビでプロ野球を見ざるを得ない。小学生・中学生・高校生にとって、孤立化することは、恐怖・不安を感じることこの上ないからである。それを、「主体的に行動し、無理にプロ野球を見ず、、アニメ好きを押し通せば良い。」とアドバイスする人は、人間の心理、特に、青少年の心理を理解していない人である。もしも、生徒もクラス作りに参画させるようにすれば、改善されるが、画一的・上意下達の日本だから、それは考慮にされないだろう。そして、人間は、時代も選択できない。もしも、戦前に生まれ、戦争中に、20歳前後の若者であったならば、海軍・陸軍から、特攻の餌食にされたに違いない。TBSのテレビ番組で、「若者たちは、家族を守るために、特攻を志願した。」と解説していたが、いつまで、このような、小学生レベルの幼稚なことを言っているのだろうか。海軍・陸軍の指導者たちは、太平洋戦争が負け戦だとわかった段階でも、国体護持(天皇制の維持)を連合国側に認めてもらうまで戦いを引き延ばそうとし、自分たちに敗戦の責任があるので、降服を延ばそうとしていたのである。一億総玉砕とか本土決戦などと叫んで、国民を皆殺しにする作戦まで導入しようという上官が多かった。若者たちは、特攻を志願したのではない。志願させられたのである。特攻とは、戦果に関わりなく、自殺である。しかし、肉体は常に生きようとしているのに、精神が、敢えて、それに背いてまで自殺するのだから、それは選択ではない。上官に脅され、弱虫という汚名を受けたくないから、自殺、つまり、特攻を選択せざるを得なかったのである。このように、我々は、空間的にも、時間的にも、選択できないのである。それなのに、選択できると思っているのは、自由に対する憧れからである。さらに、人間は、自分の性格も選択できない。生来、性格は、決定している。大きく言えば、性格が感情的な人と穏やかな人が存在するのである。それは、深層心理の感度による。深層心理が敏感な人は感情的な性格をし、深層心理の鈍感な人は穏やかな性格をしている。深層心理の敏感だということは、心が傷付きやすいということなのである。敏感な深層心理は、深く傷付いた心から、一刻も早く解放されたいから、往々にして、過激な行動の指針を出す。表層心理は、それを意識し、深層心理が生み出した過激な行動の指針通りに行動すれば、周囲から顰蹙を買うのはわかっているから、行動を抑圧しようとする。しかし、傷付いた感情が強いために、一刻も早くそれから解放されようとして、そのまま行動し、予想通り、周囲から顰蹙を買い、いっそう心が傷付くことが多いのである。また、表層心理が、意志で、過激な行動の指針を抑圧し、行動をやめたとしても、傷付いた感情と抑圧する感情の葛藤が激しく、いっそう心が動揺することになるのである。だから、深層心理の敏感な人は、心が傷付くことが予想される場所に近寄らず、心が傷付くような情況に陥らないようにすることである。深層心理の敏感な人は、幾度となく激高し、何度も失敗を重ねて、自分が、深層心理の敏感な人間であることはわかっているはずである。しかし、、深層心理の敏感な人は、心が深く傷付きやすいと、同時に、感動・喜びも大きく感じるから、敢えて、危険を省みず、人間関係の中に入っていくのである。そして、深く心が傷付き、後悔することが多いのである。また、深層心理の敏感な人は、生来、深層心理が敏感であり、深層心理が強いから、表層心理の意志の力で、深層心理が生み出した感情や気分を抑圧し、深層心理が生み出した行動の指針を抑圧できると思い込んでいることが多いのである。また、深層心理の敏感な人は、正義感が強い人が多く、心が傷付くことが予想される場所に近寄らないこと、心が傷付くような情況に陥らないようにすることは卑怯だと思い込んでいるので、敢えて、そのような場所・情況に立ち入るのである。そして、徒らに、苦悩を重ねるのである。確かに、深層心理が敏感なのは生来の体質であり、自分のせいではない。しかし、深層心理が敏感なことで起こした行動といえども、自分自身が起こした行動であるから、自分がその責めを負わなければいけないのである。だから、深層心理の敏感な人は、深層心理が強く反応する所に行かず、深層心理が強く反応する考え方をしないことである。しかし、深層心理の敏感な人は、敏感であるが故に、喜びや楽しさを感じる心が人一倍強いから、心が傷付く可能性があるのに、そのような所へ、行ってしまうのである。そして、案の定、期待外れな結果になって、深く傷付くのである。「君子、危うきに近寄らず」である。深層心理の敏感な人はそれを肝に銘じるべきである。大きな喜びや大きな楽しみを期待しないことである。大きな喜びや大きな楽しみを期待するから、深く傷付くのである。また、深層心理の敏感な人は、他者に期待することが大きすぎたり、他者の存在を実際以上に大きく見ようとしたりする。確かに、人間は、対他存在(他者から好評価・高評価を受けたいという思いで、他者の自分への思いを探るあり方)の動物であるから、他者の視線は気になる。しかし、自分と同様に、他者も、相手を見ていない。両者とも、自分に対する評価を気にし、相手に対する評価はなおざりなのである。だから、そのような他者からの評価は、薄っぺらなものなのである。また、深層心理の敏感な人は、他者から評価を受けようと思う気持ちが強いから、他者を過大評価する傾向がある。しかし、自分同様に、他者も、深層心理の動物であるから、そこに、表層心理の意志による、大きな思考力が働いていないのである。だから、他者の存在を過大視する必要は無いのである。


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