あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

生かされている人間に生きる意味はあるか。(自我から自己へ21)

2024-06-30 14:13:26 | 思想
人間は生きているのではない。生かされているのである。人間は意識して思考して行動しているのではなく、無意識が思考して人間を動かしているからである。人間は自らの思考や行動を意識することもあるが、その思考や行動は無意識が生み出したものである。そして、人間は自らの行動や思考を意識して思考することがあるが、対象となる行動や思考は無意識が生み出したものである。人間の自らを意識しての精神活動を表層心理と言い、人間の無意識の精神活動を深層心理と言う。すなわち、人間は表層心理で思考して行動しているのではなく、深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して人間を動かしているのである。つまり、人間は、無意識の思考によって動かされているのである。確かに、人間は、自らを意識して思考することがある。すなわち、表層心理で思考することがある。しかし、人間は、自ら意識して思考する以前に、既に、無意識に思考しているのである。人間の表層心理での思考は、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令について行われるのである。つまり、人間の表層心理での思考は、深層心理の思考の外に出ることはできないのである。しかも、深層心理が思考して生み出した感情と行動の指令という自我の欲望が人間を動かしているのである。ラカンは「無意識は言語によって構造化されている」と言う。「無意識」とは、言うまでもなく、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、言語を使って論理的に思考しているということを意味する。「構造化されている」と受動態になっているのは、人間は自ら意識して思考ず、すなわち、表層心理で思考していず、無意識に、すなわち、深層心理が思考しているのである。つまり、人間の無意識のうちに、深層心理が言語を使って論理的に思考して、人間を動かしているのである。しかし、深層心理は、人間の無意識のうちに、思考しているが、決して、恣意的に思考しているのではない。深層心理は、自我を主体に立てて、快楽を求めて、欲動に基づいて、言語を使って論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲動を生み出し、人間を動かしているのである。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、国民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫と妻という自我がある。人間は、常に、ある構造体に所属して、ある自我を持って行動しているのである。しかし、人間は自らが自我の主体になっているのではなく、深層心理が自我を人間の主体として立てて思考して人間を動かしているのである。人間は自我を持つことによって人間になり、社会的に生きることができるようになる。深層心理は、常に、構造体の中で、他者と関わりながら、他人を意識して、自我を主体に立てて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしている。他者とは構造体内の人々であり、他人とは構造体外の人々である。人間は、自らが自我の主体になって思考しているのではなく、換言すれば、表層心理で思考して行動しているのではなく、深層心理が、自我を主体に立てて、快楽を求めて欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理は、自我の状態を欲動にかなったものにすれば快楽が得られるので、欲動に基づいて思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して人間を動かしているのである。深層心理の快楽を求める思考や行動を快感原則とフロイトは呼んだ。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。欲動には、第一の欲望として自我を確保・存続・発展させたいという保身欲、第二の欲望として自我を他者に認めてもらいたいという承認欲、第三の欲望として自我で他者・物・現象という対象を支配したいという支配欲、第四の欲望として自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。欲動の四つの欲望の中で、最も強いのは、自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。深層心理は、常に、保身欲を満たそうとして自我を保身化している。最近起こった、鹿児島県警の本田尚志前生活安全部長逮捕は、野川明輝県警本部長による警察官不祥事を隠蔽しようとする犯罪である。野川明輝県警本部長、鹿児島県警、裁判官は自らの地位の保身欲のために、本田尚志前生活安全部長を逮捕したのである。本田尚志前生活安全部長のように正義に生きようとする人は、常に、保身欲にとらわれた人々によって表舞台から消されていくのである。人間が、結婚、入学、入社を祝福するのは、夫、妻、学生、生徒、会社員という自我を確保したいという保身欲を満足させたからである。逆に、人間が、離婚、退学、退社を嫌がるのは、夫、妻、学生、生徒、会社員という自我の存続が絶たれ、保身欲が阻害されるからである。人間が昇進を祝福するのは、自我を発展させたいという保身欲を満足させたからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、保身欲を発揮させる。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。また、自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、構造体の存続を自我の存続のように喜び、構造体の発展を自我の発展のように喜ぶのである。自我、構造体に執着する深層心理の保身欲によるなせる業である。また、ほとんどの人の日常生活が毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、深層心理が保身欲によって動かされているからである。毎日同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、深層心理の保身欲による思考の行動、すなわち、無意識の行動だから可能なのである。ルーティーンの日常生活が無意識の行動によって成り立っているのは、欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲を満足させているからである。また、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味するのである。人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの森羅万象は永遠に同じことを繰り返すという「永劫回帰」の思想が人間の生活にも当てはまるのである。ルーティンを維持すれば、表層心理で思考する必要が無く、安楽であり、もちろん、苦悩に陥ることもない。しかし、人間は、誰しも、日常生活において、時として、ルーティーンの生活を脅かすような異常なことが起こる。人間は、誰しも、朝起きると、不快になることがある。不快な原因は体調不良のこともあるが、多くは学校・会社に行くことを考えたことにある。それは、学校という構造体で同級生にいじめられたり、会社という構造体で上司に厳しく叱責されたりしたからである。しかし、人間は、意識して学校・会社のことを考えたのではなく、無意識のうちに学校・会社のことが思い浮かんだのである。つまり、不快になったのは、表層心理での思考の結果ではなく、深層心理が思考して生み出した結果である。表層心理の思考では感情を生み出せないのである。しかも、深層心理は、感情を単独に生み出すのではなく、行動の指令とともに、自我の欲望として生み出すのである。深層心理が思考して、学校・会社に行くと、同級生にいじめられたり上司に馬鹿にされたりしたことがあって、生徒・社員という自我の承認欲が阻害されたから、すなわち、生徒・社員という自我が傷付けられたから、今日も同じようなことが起こることを危惧して、自我の欲望として、不快な感情と不登校・欠勤という行動の指令を生み出し、行かせないようにしたのである。しかし、たいていの場合、超自我が自我の欲望を抑圧し、生徒・社員は登校・出勤する。超自我とは、深層心理に内在し、欲動の保身欲から発したルーティーンの生活を維持させようする機能である。超自我という機能が、深層心理に存在するから、人間は、自我の欲望がよほど強くない限り、それを抑圧し、ルーティーンの生活を維持できるのである。もしも、深層心理が思考して生み出した感情が強すぎて、超自我が深層心理が思考して生み出した行動の指令を抑圧できなかったならば、自我の欲望は意識化され、人間は表層心理で思考することになる。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した不快な感情の下で、深層心理が生み出した学校・会社に行ってはいけないという行動の指令を受け入れるか拒否するかを、現実原則に基づいて審議するのである。人間は、深層心理が生み出した感情の下で、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという自我の将来のことを考え、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、深層心理が生み出した学校・会社に行ってはいけないという行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという自我の将来の現実的な利害を考え、行動の指令を受け入れるか拒否するかについて思考するのである。フロイトは、自我の現実的な利益を求める志向性を現実原則と呼んだ。当然のごとく、生徒・社員の表層心理での思考は、自我の将来のことを考えるから、深層心理が思考して生み出した不登校・欠勤を拒否し、学校・会社に行くことを選択し、自我の欲望を抑圧しようとする。
人間の表層心理での思考は、自我の将来のことを考えるから、一般に、時間が長く掛かる。それに対して、深層心理の思考は瞬間的に行われる。深層心理の思考は現在の状況をすぐに対処しようとするから瞬間的に行われ、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して人間をすぐに動かそうとするのである。行動の指令は具体的な行動を仕向けることである。感情は行動の指令を人間に実行させるための動力になっている。人間の行動の規範に道徳や社会規約を守ろうという志向性があるが、それは深層心理の思考の規範ではない。欲動に道徳や社会規約を守ろうという欲望が存在しないからである。道徳や社会規約は、人間社会の秩序を維持するために、人間が考え出したものである。すなわち、人間が表層心理で思考して案出したものである。そして、人間は、表層心理で、道徳や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利得をもたらそうと思考するのである。それは、道徳や社会規約を考慮せずに行動すると、後に、周囲の人から顰蹙を買ったり社会的に処罰される可能性があるからである。しかし、人間は、表層心理独自で思考して行動することは無い。人間は、表層心理で、常に、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを思考するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという自我の将来のことを考え、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかについて思考するのである。もしも、超自我が、深層心理が生み出した学校・会社に行ってはいけないという行動の指令を抑圧できなかったなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになるのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した不快な感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、学校・職場に行かなかったならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した学校・職場に行ってはいけないという行動の指令をついて受け入れるか拒否するかについて思考するのである。そして、たいていの場合、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、学校・職場に行くのである。そして、同級生にいじめられたり上司に馬鹿にされたりして、承認欲が阻害され、自我が傷付けられる日々が続くのである。つまり、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した学校・職場に行ってはいけないという行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧でき、学校・職場に行くことができたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した不快な感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、すぐには不快な感情は消えることがないからである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、不快な感情のままに、毎日、学校・職場に行くのである。そして、ルーティーンの生活に紛れて不快な感情は消えていけば良いが、不快な感情が積み重なると、その不快な感情から逃れるために、深層心理が自らに鬱病などの精神疾患をもたらすことがあるのである。深層心理は、鬱病などの精神疾患に罹患して、現実から逃れようとするのである。なかには、不快な感情に耐え切れず、自殺する者まで現れるのである。しかし、深層心理が生み出した不快な感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した不登校・欠勤いう行動の指令を抑圧できず、学校・会社に行かず、自室にとどまってしまう。同級生にいじめられることも上司に叱責されることも無く、承認欲が阻害されず、気楽のように思えるが、実際は、ルーティーンの生活を続けられない自分を恥じてしまうのである。他者と同じようなことをできないとして、承認欲が阻害され、自我を恥じるのである。自我を救ったはずの行動が自我を不利な状況に追い込んでしまうのである。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。しかし、深層心理が生み出した不快な感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志も、深層心理が生み出した学校・会社に行ってはいけないという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、学校・職場に行かないのである。その後、人間は、自宅で、表層心理で、次の行動をどのようにすれば良いかと思考するのである。なぜならば、学校・職場に行かなかったことは、自我に現実的な利得をもたらさないからである。なぜならば、人間は、表層心理で、今日自宅でどのように過ごせば良いか、明日も学校・職場に行かないほうが良いか、明日学校・職場に行くとしてもどのような顔で行けば良いか,これからどのようにしたら良いかなどを思考しなければならないからである。そして、たいていの場合、深層心理が納得するような良い方法が思い浮かばず、苦悩するのである。つまり、深層心理が思考して、学校・会社に行くと、同級生にいじめられたり上司に馬鹿にされたりして、承認欲が阻害され、自我が傷付けられるから、自我の欲望として、不快な感情と不登校・欠勤という行動の指令を生み出し、行かせないようにした場合、主体的に生きようとすれば、二つの方法しかないのである。一つは、深層心理に従った場合、学校・会社という構造体に所属することを諦め、生徒・社員という自我を捨て、表層心理で思考して、別の構造体に所属し、別の自我を持つことを求めることである。しかし、深層心理には、現在所属している学校・会社の中で生徒・社員という自我を維持したいという保身欲があるから、それには覚悟という強い意志が必要になる。だから、たいていの人は、その覚悟を持つことなく、引きこもりになる。もう一つは、超自我や表層心理の思考に従って学校・会社に行き、同級生・上司に、反論することである。しかし、そうすれば、同級生・上司からより承認されないことになり、さらに、現在所属している学校・会社から追放され生徒・社員という自我を失う可能性が強いから、たいていの人は、反論する勇気を持つことなく、いじめられたり馬鹿にされたりする毎日が続くことになるのである。さらに、学校の最高権力者である校長・会社の最高権力者である社長に訴えても、ほとんどの校長・社長は自らの指導者としての保身欲に執着するから、逆に、訴えた生徒・社員を罰して、いじめ・パワハラを隠蔽しようとするのである。学校・会社とい構造体外の人々である他人のマスコミや弁護士に訴えれば、いじめ・パワハラは無くなるかもしれないが、学校・会社とい構造体内の人々である他者にも保身欲があるから、訴えた生徒・社員を精神的に受け入れようとしないのである。つまり、学校・会社とい構造体内の人々である他者とのこれまでの共感性は失われ、訴えた生徒・社員の自我は有名無実なものになってしまい、学校・会社とい構造体内で居場所を失ってしまうので、学校・会社を去らざるを得なくなってしまうのである。自我にこだわっている限り、永遠に悲劇が続くのである。さて、深層心理の快感を求めての快感原則に基づいた思考が生み出した行動の命令にせよ、表層心理での現実的な利益を求めての現実原則に基づいた思考が選択した行動にせよ、自我にこだわったものである。確かに、人間は、表層心理で、道徳観に基づいたり社会的な規約に基づいて思考して行動しようとすることもあるが、それは、他者や他人の評価を気にして承認欲をかなえようとしているからであり、ほとんどの人は、他者や他人が見ていなかったりわからなかったりすれば、深層心理が思考して生み出した自我の欲望に従って行動するのである。だから、犯罪は、常に、密室で起こるのである。自我判断で行動する人の過ちである。言うまでもなく、人間は、常に、他者や他人が見ていなかったりわからなかったしても、道徳観、社会的な規約に基づいて思考して行動しなければならないのである。自己判断で行動しなければならないのである。この世に、常に自己判断で行動している人は存在するのであろうか。また、深層心理は、欲動の保身欲に応じて、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。所属する構造体あっての自我だからである。現在、世界は国という構造体で区分され、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。日本人も、日本という構造体に所属して、日本人という自我を持っているから、愛国心が生まれてくるのである。自らが所属している国だから、その国を愛するのである。世界中の人々が、オリンピックやワールドカップで、自国チームや自国選手を応援し、喜んだり悔しがったりするのも、愛国心があるからである。愛国心は、保身欲と承認欲に支えられているる。国民という自我を持つと同時に、この自我を持ち続けたいという保身欲が生じ、他国の人々からこの国の存在を認めてほしいという承認欲も生まれてくるのである。国民という自我は国という構造体に所属することで持つことができるので、他国の人々によって自国を認めてほしいという承認欲も生まれてくるのである。すなわち、愛国心があるからこそ、他国民からの自国の評価が気になるのである。承認欲のなせる業である。だから、ワールドカップやオリンピックで、自国チームや自国選手が勝利し、自国の存在を世界に知らしめることを期待するのである。しかし、愛国心があるから、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、国を愛するように見えて、実は、国民という自我を愛しているに過ぎないのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、自我にとらわれた人間世界には、戦争が無くなることはないのである。人間世界が一つの構造体となって、初めて、地上に戦争が無くなるのである。しかし、それは、地球を襲うような生物や人間をターゲットにする異星人が出現しない限り、不可能である。人類を襲うようなものが出現しない限り、人間は地球人というアイデンティティをもつことができないのである。つまり、国民という自我を持ち、国民というアイデンティティをもっている限り、この世から戦争は無くならないのである。しかし、人間は、国民という自我を否定し、国民というアイデンティティを否定することはできないのである。なぜならば、人間は自我の動物であり、自我ににアイデンティティを覚えなければ、快楽を求めて行動できないからである。世界が国という構造体で区分されているから、それに応じて、全ての人が国民という自我を持って行動するしかないのである。誰一人として、例外が許されないのである。確かに、国民という自我が無ければ、戦争は起こらないが、ワールドカップやオリンピックを楽しめず、一人取り残されるのである。国民という自我にアイデンティティを失った人間には、精神の不安定が押し寄せるのである。それほど、自我にアイデンティティを覚えることは人間の存在に必須のことなのである。しかし、人間は、誰しも、生まれてくる家族を選べないのと同様に、生まれてくる国を選べないのである。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その国に存在しているからである。日本という国に生まれたから、日本という構造体に所属して、日本人という自我を持つのである。そして、愛国心を持つのである。自らが所属している国だから、その国を愛するのである。もしも、中国、韓国に生まれていたならば、中国、韓国に愛国心を持つのである。だから、愛国心は声高に叫び、中国、韓国に敵が心を燃やすことは笑止千万である。。アメリカを同盟国として尊重している日本人は多いが、アメリカ国民は、アメリカに愛国心を持ち、日本を利用しているだけなのである。次に、欲動の第二の欲望は承認欲であるが、それは自我を他者に認めてほしいという欲望である。人間は他者がそばにいたり会ったりすると、深層心理は、必ず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自我がどのように思われているかを探ろうとする。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」という言葉は承認欲を端的に言い表している。この言葉の意味は「人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。」である。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである・つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、承認欲を阻害された人間は、皆、深層心理が傷心するのである。先に例として挙げた、学校という構造体で同級生にいじめられた生徒も会社という構造体で上司に厳しく叱責された会社員も、深層心理が傷心するのである。一つは、生徒は学校という構造体で生徒という自我を維持したいために、会社員はは会社という構造体で会社員という自我を維持したいために、我慢したり謝罪したりするのである。保身欲の成せる業である。もう一つは、深層心理は、この状況を打破するために、自我の欲望を生み出して、人間を動かすのである。人間にとって、最も強い感情は怒りである。深層心理は、生徒・会社員という自我を傷つけた同級セ・上司という他者に対して、怒りという過激な感情と反論しろ・侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、生徒・会社員を動かそうとするのである。いじめを受けたままでいること・上司に厳しき叱責されたままでいることは、生徒・会社員の自我が下位に落とされたままでいることを意味するのである。そこで、深層心理は怒りという過激な感情と反論しろ・侮辱しろ・殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、下位にある生徒・会社員の自我を同級生・上司より上位にして、傷心の感情から解放されようとするのである。人間は、過激な怒りの感情を抱くと、超自我や表層心理の思考による意志で抑圧しようとしてもできず、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動してしまうのである。次に、欲動の第三の欲望が自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配欲である。他者という対象に対する支配欲とは、自我が、他者を支配する欲望、他者を思うように動かす欲望、他者のリーダーになる欲望である。自我が他者を支配する状態になれば、深層心理が、すなわち、人間が満足感が得られるのである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者の集団を支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば充実感が得られるのである。ロシアのプーチン大統領や北朝鮮の金正恩最高指導者が、敵対勢力の政治家やジャーナリストを弾圧したり殺害したりするのは、この支配欲からである。さらに、わがままも、支配欲から起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。物という対象に対する支配欲とは、自我の目的のために、存在物を物として利用しようとすることである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物として利用できれば、存在物を支配するという快楽を得られるのである。現象という対象に対する支配欲とは、自我の志向性(観点・視点)で、現象を捉えようとすることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば充実感が得られるのである。さらに、対象への支配欲が強まると、深層心理には、有の無化、無の有化という二つの機能が生まれる。有の無化とは、この世に、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象が存在していると、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の中には、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込んでしまう者も現れるのである。自我を正当化することによって、心に安定感を得ようとするのである。無の有化とは。この世に、自我を正当化する他者・物・事柄という対象が存在しなければ、深層心理が、存在しているように案出してしまうのである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を案出して、存在しているように思い込んだのである。いじめ自殺事件の加害者の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いから、自殺のめの原因が被害者やその家族にあると思い込んでしまう。このように、深層心理は、支配欲によって、存在を非存在、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定を得ようとするのである。欲動の第四の欲望は自我が他者と深く交流を図りたいという共感欲である。深層心理は、自我を他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うようにさせることによって、快楽を得ようとするのである。深層心理は、自我が他者と心を交流したり、愛し合ったりすれば、自我の存在が高まり、自我の存在が確かなものになり、喜びや満足感が得られるので、自我をそのような状態になるように思考し、自我の欲望を生み出し、人間を動かすのである。さらに、「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感欲から起こる。人間は、仲の悪い者たちも、共通の敵が現れると、協力して立ち向かうのである。協力するとは、互いに相手に身を委ね、相手の意見を聞き、共通の対象に立ち向かうことである。ロシア政府、ウクライナ政府、イスラエル政府、ハマスは、国民や庶民と共通の敵を作り出すことによって、戦争を推し進めているのである。また、深層心理が一人の自我で行動するのは不安だから、同じ境遇の他者の中で趣向性(好み)に応じた者を友人として、仲間になって行動するのである。を作らせようとするのは、仲間とし、友情という共感欲の快楽を得るためである。つまり、友情があるから友人になるのではなく、一人の自我では不安だから友人を作り、仲間という集団を作り、友情という共感欲を得るのである。そして、学校では、仲間という集団で、ある一人をターゲットにしていじめるのは共感欲を満たすためである。ターゲットになるのは、弱い女子生徒、弱い男子生徒、時には、弱い教師である。勝利という支配欲を満たしたいから、ターゲットになるのは、常に、弱い一人である。また、ターゲットに恨みはなくても、仲間という構造体から離れると友人という自我を失い、保身欲が阻害されることが不安だから、仲間と一緒になって、弱い一人をいじめるのである。また、若者を中心に恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、共感欲を得た喜びが生じるからである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、許し合うことである。恋人いう自我と恋人いう自我で互いに共感欲を満たし、愛し合っているという快楽を得ることができるのである。しかし、相手から別れを告げられることがある。その時、別れを告げられた人は誰しも未練が残る。誰一人として「これまで交際してくれてありがとう」などとは言えない。未練に埋没した人の中にストーカーになる人もいる。ストーカーになるのは、カップルという構造体が消滅し、恋人という自我を失い、保身欲が阻害されるのが辛いから、相手に恋人として認めてもらえないという承認欲が阻害されて辛いから、相手の恋愛感情を支配できないという支配欲が阻害されて辛いから、互いに恋人として認め合うことができないのだという承認欲が阻害されて辛いからである。そして、相手に無視されたり邪険に扱われたりすると、相手を殺して、一挙にその辛さから逃れようとする者も現れるのである。このように、深層心理は、自我に執着するあまり、欲動に動かされ、自我の欲望を生み出して、人間に、愚かなことを行わせることもあるのである。しかし、人間は自我の欲望を否定できない。自我の欲望が人間の行動の原点だからである。人間は自我として生きるしかないので、深層心理が自我の欲望を生み出さなければ、行動できないのである。深層心理は、快感原則に基づいて、欲動の保身欲、承認欲、支配欲、共感欲に従って、快楽を求めてもしくは不快から逃れようと瞬間的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して人間を動かそうとするから、行動の指令には悪事と善事が混交している。深層心理が生み出した怒りなどの感情が強ければ、超自我や表層心理の思考による抑圧も力不足で、人間は、深層心理が生み出した行動の指令が悪事の指令であっても、実行してしまうのである。確かに、人間は、自らを意識しつつ思考すること、すなわち、表層心理で思考することがある。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実原則に基づいて、現実的な利得を求めて、長期的な視野で、深層心理が生み出した行動の指令を対象に思考して、意志によって行動しようとすることがある。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎれば、人間は、表層心理で思考する余裕なく、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。そして、深層心理が生み出した感情が強ければ、表層心理で深層心理が生み出した行動の指令を対象に思考し、意志によって抑圧しようとしても、またもや、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。しかし、表層心理の思考の志向性である現実原則も、自我の利得を求めようとすることであり、やかり、自我にこだわっているのである。違いは、深層心理は、瞬間的に、快楽を求めてもしくは不快から逃れようとして思考して自我の欲望を生み出し、表層心理では、長期的な視野に立って、自我の利得を求めて思考して意志を生み出していることである。しかし、深層心理の思考も表層心理での思考も欲動に基づいているのである。もう一つの違いは、深層心理は欲動の承認欲を中心に思考し、表層心理では欲動のが保身欲をか中心に思考することである。いずれも、自我から離れず、欲動から離れることが無いのである。それでは、快感を求めて不快感を逃れようと思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す深層心理も現実的な利得を求めて思考して意志を生み出す表層心理での思考も欲動に動かされているから、どちらの思考に従っても行動しても、生きているのではなく生かされていると言えるのである。しかし、確かに、人間は、自我から逃れることもできず、欲動から逃れることもできない。しかし、人間は、表層心理で、欲動の支配欲にもづいて思考して、行動できる。すなわち、自我を支配できる。それが、自我を生かす唯一の道である。誰が見ていなくても、誰に知られることが無くても、常に、深層心理の快感原則に基づいた思考による行動ではなく、表層心理で、道徳観や社会規約に基づいて思考して行動をすることである。そして、たとえ、構造体から追放され自我を失う可能性が高くても、表層心理で、正義に基づいて思考して行動することである。それが自己として生きるということである。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