あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

愛国心と日本人(自我その238)

2019-10-25 17:47:07 | 思想
愛国心は、文字通り、国を愛する心である。なぜ、国民は、国を愛するのか。それは、国という構造体が国民という自我を保証しているからである。現代という時代は、国際化の時代であり、国ごとに独立した動きをし、国民という自我が無ければ、国の動きに参加できず、延いては、世界の動きに関与できないのである。さて、愛国心は、怒り、悲しみなどという感情と同じく、深層心理が生み出す。深層心理とは、人間の無意識のうちなる、心の働きである。だから、人間は、意識して、すなわち、表層心理で、感情を生み出すことはできない。愛国心を声高に主張するのは、右翼と言われる人々である。右翼に反対する考えの人々を左翼と言う。しかし、左翼にも、愛国心はある。なぜならば、現代において、全ての人々は、国という構造体に所属し、国民という自我を持っているからである。人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。自我を持つとは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。それは、アイデンティティーが確立された状態である。しかし、人間は、意識して、自我を持つのでは無い。深層心理という無意識が自我を持つのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。だから、全ての日本人は、日本という構造体に執着し、日本人という自我に執着するのである。つまり、右翼と左翼は、愛国心のあり方、すなわち、国の愛し方が異なるのである。右翼は、「国家を至上の存在と見なし、個人を犠牲にしても国家の利益を尊重する」考えを抱いている人々である。左翼は、「個人の思想を至上の存在と見なし、国家・個人ともに、利益を尊重しようとする。個人の利益と国家の利益が対立することは無いとし、もしも、そのような状況に陥いとすれば、それは、誤った思想に導かれている」という考えを抱いている人々である。だから、国家を第一に考える右翼と、国家と個人は対立した概念では無いと考える左翼とは、本質的に、相容れないのである。もちろん、左翼も国民であるから、愛国心を有している。愛国心が無い国民は存在しない。だから、国民の誰もが、いつでも、右翼に的な心情に陥るなる可能性があるのである。ラグビーのワールドカップで日本チームを応援している時も、戦前の太平洋戦争などの戦争に積極的に参加した時も、日本人は、右翼的な心情に陥っているのである。だから、右翼は、敢えて、国民を右翼的な心情に陥らせるような状況を作ろうとするのである。左翼も、もちろん、愛国心を有しているが、愛国心に溺れることを潔しとしない。それは、個人の存在を第一と考えるからである。だから、左翼は、敢えて、反右翼、非右翼の立場を取るのである。右翼と距離を置き、自らを活かすために、自国の動き、自国民の動き、他国の動き、他国民の動き、国際的な動きを観察して、行動するのである。しかし、右翼は、愛国心に浸り、感情的に行動する。行動右翼という言葉があるが、実際には、行動しない右翼は存在しない。隠忍自重という言葉は右翼には似つかわしくない。国の立場が不利だと思えば、いつでも、右翼は、感情的に、激しい行動をする。それが、愛国心に埋没している者の宿命である。しかし、確かに、右翼の行動は感情的であるが、決して、無目的でも、無論理でもない。愛国心によって突き動かされた行動だからである。愛国心が、国益、国威発揚という目的、国の汚辱や屈辱を晴らすにはどうすればよいかという論理の下で思考させ、行動させるのである。愛国心という感情が動力の主体になっているから、容易に、右翼は激しく行動するのである。だから、右翼は、暴力を厭わない。右翼は、暴力を暴力と思わず、国家のための自己犠牲だと思っている。だから、暴力的には、右翼が左翼より優っている。右翼と左翼が喧嘩をすれば、必然的に、右翼が勝つことになる。また、右翼自体、暴力を振るうことをためらわない。暴力が、彼らの愛国心の現れだからである。それは、国同士が戦争をした場合、残虐な国の方が勝利するのと同じである。また、右翼は、国家権力と一体化する傾向がある。それは、右翼は、国家の存在を第一と考えるから、国家権力にとって都合が良いからである。だから、左翼が、国が民主主義を失っている時は、もちろんのこと、民主主義で運営されている時でも、右翼や国家権力を批判する場合、暴力による反撃、不当な逮捕、拷問、そして、死さえも引き受ける覚悟が必要である。現に、日本には、明治維新以来太平洋戦争に敗北するまで、民主主義・民主政治は存在せず、左翼は、右翼と国家権力から、暴力、不当な逮捕、拷問、暗殺、冤罪による死刑という被害を受けて来たのである。しかし、日本国憲法をいただき、民主主義国家になったはずの戦後においても、皇室、アメリカ、右翼、現政権を批判すると、暴力、不当な逮捕、暗殺の虞があるのである。日本は、戦後においても、せっかく、日本国憲法という民主主義を原則とした憲法を頂いたのに、民主主義国家となりえなかったばかりでなく、時代に追うごとに、ますます、民主主義から離れていくのである。また、右翼は、愛国心から発生し、国家を至上の存在と見なし、個人を犠牲にしても国家の利益を尊重する考えを抱いてい人々であるから、その成立時期は早い。少年でも、簡単になれる。なぜならば、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている者ならば、誰しも、愛国心を抱き、その人が、個人を犠牲にしてでも国家を尊重するという考えに到達するのは、容易なことだからである。だから、戦後においても、大事件が、右翼の少年によって引き起こされているのである。その例を二つ挙げる。一つの例は嶋中事件である。深沢七郎の小説『風流夢譚』」が雑誌『中央公論』に掲載され、右翼が「皇室に対する冒瀆で、人権侵害である。」として中央公論社に抗議をしていたが、大日本愛国党の少年は、1961年2月1日、同社社長宅に侵入し、応接に出た同社長夫人をナイフで刺して重傷を負わせ、制止しようとした同家の家事手伝いの女性を刺殺した。もう一つの例は浅沼事件である。日本社会党委員長の浅沼稲次郎が、1960年10月12日午後3時頃、東京日比谷公会堂で演説中、少年に刺殺された。彼は、一時、赤尾敏が総裁である大日本愛国党に入党していた。「日本の赤化は間近い。」という危機感を抱き、容共的人物の殺害を考え、街頭ポスターで演説会を知り、犯行に及んだのである。後に、少年鑑別所の単独室で、壁に『七生報国』、『天皇陛下万歳』と書き残して、自殺した。それに比べて、左翼の成立には時間が掛かる。左翼は、まず、自らの中に思想が存在しなければならない。そうしないと、国家権力と右翼に流されるからである。思想の構築には、自らの経験と先人の思想から学ぶことが必要である。その上、さらに、左翼は、自国と他国、世界、現在と未来に思いを馳せ、自国の政治権力者並びに他国の政治権力者に対峙し、自国民だけでなく他国民を納得させ、延いては、世界の人々に理解してもらうだけの深い思考が自らの中に存在しないと、自分が活かされないと考える。他に訴える力がなく、時代に流されてる思想を構築しないと、自己が活きないと考えるから、その成立は困難を極めるのである。戦後、財界の大物が、戦前・戦時中を振り返って、「金を使えば、右翼よりも左翼を転ばすのが簡単だった。」と言っているが、故なき話ではない。本物の右翼は、国家の利益を第一と考え個人を犠牲にするから、金で転ばないのである。しかし、本物の左翼は、確固たる思想によって自我が形成されているから、金で転ぶことは無い。しかし、似非左翼は、安直な人道主義や立身出世やかっこよさや利害によって成ったから、金で転ばすことは容易なのである。すなわち、似非左翼は転向しやすいのである。本物の左翼は容易に転向しないが、それは、自ら構築した思想が自我となっているからである。本物の左翼は、自らの思想を自我としているので、政治権力や右翼勢力の弾圧にあっても、それに屈することはない。転向することは、自我を捨てること、つまり、自分自身を捨てることを意味するからである。人間にとって自我を捨てることは死ぬことに等しいのである。似非左翼は、自らの思想が自我になっていないから、それを捨てることは簡単なのである。それに比べて、愛国心を主軸にし、国益、国威発揚、汚辱や屈辱を晴らすことだけを目的にして行動している右翼は、自我の成立は容易である。愛国心に思想は不必要だからである。だから、転ばすことも難しいのである。本物の右翼は転向させにくいのである。だから、国民が、左翼よりも右翼になりやすいのは、自我が既に持っている愛国心を増長させるだけで右翼に成ることができ、そこに、深い思想は必要ないからである。現在の日本の風潮を、反知性主義だと評する人が多く存在する。知性とは、思考によって認識を生み出す精神の働きを意味する。反知性主義がはびこっているということは、端的に言えば、思考しない人間が増えているということである。言い換えれば、理性よりも感情を重んじている人が増えているということなのである。それは、日本において、左翼的人間より右翼的人間が増えていることを意味している。書店は、中国、韓国、北朝鮮を非難・批判する本であふれかえっている。このような現象は、戦後において、初めて見られることである。右翼的人間が増え、右翼が台頭していることを意味している。また、世界中の人々は、国民という自我を持っていて、左翼よりも右翼になびきやすい。なぜならば、国民ならば誰しも既に持っている愛国心から、右翼の考え理解しやすいからである。日本国民もその例外ではない。ところが、国民が全面的には右翼になびくことはない。それは、国民は、右翼の言うことを全面的に聞き入れれば、自分の所属している国が、すぐに戦争に向かうのがわかっているからである。しかし、国民は、国が戦争に入ってしまったならば、一致協力して戦争に向かうだろう。それを、右翼と右翼的な政治権力は狙っているのである。右翼は、国家のために生き、そして、死にたいから、戦争を恐れない。右翼的な政治権力者は、自分のイニシアチブの下で、国民を一致団結させて、自分たちが意図した一つの方向に、国を持っていきたいから、戦争を起こしたいのである。言わば、全体主義国家を作りたいのである。端的に言えば、それが戦前の日本の軍部であり、戦後の自民党である。だから、自民党は、日本が戦前に回帰することをを望んでいるのである。自民党の憲法草案が、まさしく、その方向性にある。天皇が元首になり、自衛隊が国軍になり、戸主権の復活である。そして、言うまでも無く、右翼的な政治権力者の典型的な例は安倍晋三である。安倍政権ができてから、右翼が台頭し、中国、韓国と極端に仲が悪くなり、書店は、中国、韓国、北朝鮮を非難・批判する本であふれかえり、街頭では、在日の人たちへのヘイトスピーチが横行し、秘密保護法案、安保法案が成立した。日本は、着実に、全体主義国家に向かい始めている。さて、右翼とは、自分が所属している国だけの利益、国威発揚を考えて発言し、行動しようとしている人(人々)のことであるから、その人(人々)が他国の政府及び他国の人々と真っ向から対峙しようと考え、行動を起こすのは当然のことである。他国の政府及び他国の人々と真っ向から対峙しないような右翼は右翼ではない。現在の日本の右翼が、中国、韓国、北朝鮮政府及びその国民と真っ向から対峙する発言し、行動しているのは、右翼として当然のあり方である。ところが、不思議なことに、日本の右翼の大半は、アメリカ政府及びアメリカ国民と真っ向から対峙しようとしていないばかりか、媚びを売っているのである。彼らは、右翼ではない。真っ赤な偽物である。それでは、なぜ、日本の右翼の大半はアメリカの政府及びアメリカ国民と真っ向から対峙しようしないのか。それは、第一に、アメリカが世界で最も強い国であるということがある。アメリカを敵に回すと、日本の存立・自分の存在基盤が危ういという判断から来ている。確かに、それは、ある意味では、冷静な判断であるが、それは、右翼のすることではない。右翼には、日本は世界の中で最高の国であるという意識がなければいけない。いかなる国に対しても、なびいたり、媚びを売ったりしてはいけないのである。第二に、中国、韓国、北朝鮮政府及びその国民と真っ向から対峙するためには、アメリカの政府及びアメリカ国民の力を借りる必要があるということがある。これも、また、冷静な判断である。確かに、アメリカが日本のために動いてくれたら、大きな力になるだろう。しかし、これは他力本願で、右翼の本来の発想からはかけ離れた考えである。虎の威を借る狐の発想である。しかも、アメリカ政府及びアメリカ国民が、自国や自身の利益にならないことのために、日本のために、兵士を出すはずがないのである。あまりにも、人の好い考えである。第三に、アメリカが日本になじんでしまったことがある。だから、右翼の大半はアメリカの勢力を日本から追い出すという発想が存在しないのかもしれない。確かに、戦後、アメリカは、日本に、日本国憲法という平和憲法をもたらし、軍国主義勢力を一掃し、財閥を解体し、農地改革をし、民主主義を持ち込んだ。しかし、それは、日本のためではなく、アメリカ自身のためなのである。その端的な例が、現在も、なお、日本に多数のアメリカ軍基地が存在することである。もちろん、それは日本の防衛のためにではなく、アメリカのアジアにおける覇権戦略のために存在しているのである。言わば、日本はいまだにアメリカに占領されているのである。アメリカ軍基地の最も大きな地域を占めているのは、沖縄県である。沖縄県民は、アメリカ軍基地を県外に移すために、日本政府と厳しい交渉をしている。愛国心を主軸とする右翼ならば、当然、沖縄県民の考えを支持しなければならない。ところが、右翼の大半は、逆に、沖縄県民を非難しているのである。日本の右翼の大半は姑息であり、真の右翼とは決して言うことができない。右翼とは、単純な論理の下で思考して行動し、先見の明がない(先のことが深く考られない)人(集団)であると言っても、日本の大半の右翼の、アメリカという虎の威を借る狐というあり方、アメリカ軍基地を県外に移転してほしいという沖縄県民の願いを非難する態度は、あまりに浅薄で、到底容認することはできない。日本の右翼の大半は本物の右翼ではない。似非右翼である。さて、先にも述べたように、愛国心を有しているのは、右翼だけではない。日本だけでなく、世界においてもそこに国というものが存在すれば、国民は、誰しも、自国に対して愛国心を有している。それを声高に主張するか、内面に秘めているかの違いだけである。全ての人に愛国心が存在するのは、誰しも、国という構造体に所属し、国民という自我を持っているからである。だから、どの国においても、愛国心を声高に主張する人は存在する。つまり、世界各国にその国の右翼が存在するのである。また、たとえ、二つの国籍を有している人がいたとしても、その人の愛国心は全体に拡散することはなく、その二ヶ国だけには愛国心を抱くが、その他の国には愛国心を抱くことはない。愛国心とは、自分が気に入った国を愛する心ではなく、自分が所属している国を愛する心だからである。自分が所属している国が素晴らしいからでも、自分が所属している国から恩義を受けたからでもなく、自分が所属しているから、その国を愛するのである。だから、日本人は、日本のいう国に執着し、日本のあり方が気になるのである。もちろん、日本人であっても、もしもその人が中国に生まれていたならば、中国に愛国心を抱いていたのは、疑いのないところである。「俺は日本に対して強い愛国心を持っているのだ。だから、中国が嫌いなんだ。」と威張るように言う日本人は、中国に生まれていたならば、中国で、「俺は中国に強い愛国心を持っているのだ。だから、日本が嫌いなんだ。」と威張るように言っているに違いないのである。愛国心に限らず、愛とは、自分が所属しているものや自分が所有しているものに執着し、それが他の人に評価されることを望む感情である。これが自我の現れなのである。ニーチェならば、この現象を、権力への意志と表現するだろう。だから、自分が日本という国に所属しているから日本に愛国心を抱いているのと同様に、自分が中国、韓国、北朝鮮、アメリカという国に所属していたならば、中国、韓国、北朝鮮、アメリカに愛国心を抱いていたのは確実なのである。自我の為せる業である。だから、愛国心は声高に叫ぶほどのことはないのである。自我の為せる業、ただ、それだけのことなのである。しかし、愛国心は、国民ばかりでなく、時には、国全体を大きく動かすのである。自分が所属している国に対する愛、執着、評価が国民個々人ばかりでなく、国全体を動かすことがあるのである。自分が所属している国やその国に所属している自分を、他国や他国の人々や他の人々に認めてもらいたいと思いが高まった時である。国民としての自我が人を動かすのである。それが、人間は社会的な存在であるという文の端的な意味である。人間は社会的な存在であるという文の意味を、マルクスは、階級にこだわり、ブルジョア(資本家)やプロレタリアート(労働者)などの自分の所属している階級によって、人間は意識(考え)が決定され、それが、経済闘争に繋がると述べているが、人間の自我(マルクスは自我という言葉を使っていない)が形成される場(構造体)は階級ばかりでなく、国はもちろんのこと、家族、会社、学校、県、市、町など数多く存在する。そこに構造体が存在し、そこに所属している人がいれば、そこには自我が存在するのである。ちなみに、日本のマスコミの多くは、イスラム教徒の原理主義に基づく過激派のテロの原因を、貧困や洗脳に求めているが、あまりにも安っぽい考え方をしている。貧しくなくても、洗脳されなくても、イスラム教徒の過激派はテロを起こすのである。なぜならば、彼らは、イスラム教という宗教組織に所属し、イスラム教徒という自我を持っているからである。彼らは、国家権力やキリスト教国家やキリスト教徒によって、イスラム教やイスラム教徒が虐げられていると考え、自らの自我が傷つけられていると感じるから、あの世では神に祝されることを願い、この世では、自爆テロなどの絶望的な戦いを行っているのである。さて、それでは、いつ、なぜ、人間に愛国心が芽生えたのだろうか。人間には、先天的に愛国心を備わっているのだろうか。いや、そんなことはない。人類には、有史以来、愛国心という観念が存在したのだろうか。いや、そんなことはない。現代のように、世界が国という単位で細断されながらも、その国の領域を縦断・横断ができるような、国際化した時代においては、自分がある特定の国に所属し、その国が確固たる存在を呈しているという意識、つまり、確固たる国に所属しているという国民意識がないと不安だから、愛国心が生まれてくるのである。つまり、国民としてのアイデンティティ(自己同一性・ほかならぬこの私であることの核心)の意識が存在しないと、国際化した社会では不安で生きていけないから、愛国心を抱くのである。もちろん、自分が所属している国が、国際社会において認められれば、不安解消ばかりか、満足感すら得ることができるのである。それは、国民としてのアイデンティティが満足できるからである。自分が認められたように満足感を得るのである。そこにおいては、国の存在こそが自分の存在、もっとはっきり言えば、国こそが自分なのである。国の存在が自分の自我の現れの一つなのである。ラグビーのワールドカップで日本チームが活躍したり、オリンピックで日本人が活躍したり、日本人がノーベル賞を獲得したりした時に、日本国民全体が喜ぶのも、国民としてのアイデンティティが満足できたからである。自己満足ならぬ自我満足である。手柄を挙げた日本人に、日本人の一人として自分が繋がっているように感じられるからである。逆に、日本という国や日本人が貶められると、自分が貶められたように傷つく。その日本という国やその日本人に、日本人の一人として自分が繋がっているように感じられるからである。それも、また、国民としてのアイデンティティが為せる業である。自我の為せる業である。それでは、いつから、日本人は愛国心を持つようになったのか。それは、時代的と個人的の二面から考えることができる。まず、時代的な側面から見ると、次のようになる。時代的には、明治時代からである。正確には、黒船来航がその端緒となり、欧米と対抗するには、幕藩体制を解体して、日本一国としてまとまらなければいけないと思った江戸時代の末期からである。だから、その時まで、江戸時代には、愛国心は存在しなかった。武士の「おらが国」の国は藩であり、農民の「おらが国」の国は村であったのである。明治時代に入り、日本人全体の尊崇の対象としての天皇の存在を強調し、庶民に浸透させ、日本人全体が守らなければならない大日本帝国憲法の成立させ、日本を取り仕切る明治政府への納税の義務を国民全体に課し、日本が他国と戦う時のために徴兵令を公布して、国民に兵役義務を課すことなどを通して、日本人は、自分が住んでいる日本を他国に対抗する独立した国として認めると同時に、自分自身が日本という国の一員として認めるようになったいったのである。つまり、明治時代以降、日本人は、日本という国の存在と日本人としての自分を認め、意識するようになったのである。愛国心の誕生である。もちろん、そこには、同時に、日本に対するアイデンティティ、言い換えれば、日本国民としてのアイデンティティも誕生している。端的に言えば、愛国心、日本に対するアイデンティティ、日本国民としてのアイデンティティの三者は同じものである。次に、個人的な側面から見ると、次のようになる。個人的には、日本人は、誰しも、生まれつき愛国心を持っているわけではなく、成長の過程の中で、子供の頃から愛国心を抱くようになるのである。自分自身の体験や周囲の日本人からの影響によって愛国心を持つようになるのである。単に、小学校で、日本という国の存在とともに自分が日本人だということを教えられただけでは、愛国心は身につかない。そこでは、知識は入ってくるが、愛国心は湧いてこない。次のような時、愛国心が湧いてくるのである。街で欧米人に会い、その体格に圧倒され、惨めな自分の体格を卑下しつつ、自分と同じ体格の人たち、つまり、日本人を見た時、自分と同じように日本に生まれ育った者への愛情、つまり愛国心を抱くのである。外国旅行に行き、言葉や習慣や雰囲気の異なっているのに不安を覚えている時、日本人を見て安心感を得た時、愛国心を抱くのである。また、外国旅行に行き、日本に帰りたくなった時、自分の生まれ育った国への愛情、つまり愛国心を抱くのである。さらに、子供心にも、オリンピックやワールドカップやノーベル賞受賞などでの日本人の活躍に、周囲の大人たちが湧きかえっているのを見ると、自分もうれしくなり、自分もこの大人たちと同様に日本人だから喜んでいいのだと思った時、愛国心を感じ取っているのである。つまり、誰しも、自分が他国の人々から疎外されていると感じていた時に、自分が日本人の一員であり、日本人の仲間の一人なのだと意識して、安心感を得た時から、我知らず、愛国心を持つようになるのである。また、日本及び日本人が他国及び他国の人々と対抗している場面で、自分も、周囲の日本人と同様に、日本及び日本人に応援したくなる気持ちになった時から、愛国心を覚えるようになるのである。特に、日本及び日本人が他国及び他国の人々との対抗している時、自分が日本という国に所属していることそして日本人の一員だと強く意識し、愛国心を強く覚えるのである。さて、先に、愛国心は自我の現れだと述べたが、愛郷心も愛校心も自我の現れである。何であれ、自分がそこに所属していることを意識し、そこに愛着を感じ、無意識に(深層心理で)そこに囚われた時、つまり、アイデンティティを抱いた時、そこが自分の自我の一つになるのである。例えば、自分は青森県民だと意識するようになった時、青森県に愛郷心を抱き、青森県民としてのアイデンティティを抱き始めるようになる。また、自分はX高校の生徒だと意識するようになった時、X高校に愛校心を抱き、X高校生としてのアイデンティティを抱き始めるようになる。つまり、人間は、自分が所属している構造体(日本、青森県、X高校など)に執着し、他の構造体と対抗することを意識して生きている動物なのである。人間は、常に、ある特定の構造体の中で、その一員として生きざるを得ない存在者である。構造体の外の生き方は存在しない。構造体に属さずに生きることはできない。山田一郎には山田一郎独自の生き方は存在しない。山田一郎は、ある時には日本人として、ある時には青森県民として、ある時にはX高校生として生きているのである。日本人、青森県民、X高校生が、山田一郎のそれぞれの場面における自我である。自我の現れが山田一郎の行動になっている。その自我を支えているのが、日本という構造体、青森県という構造体、X高校という構造体なのである。だから、山田一郎にとって、日本人、青森県民、X高校生だけでなく、日本も青森県もX高校もかけがえのない存在なのである。さて、一般的には、愛国心の強い人に対して、右翼という短い言葉ではなく、ナショナリスト(民族主義者、国家主義者、国粋主義者)という長い言葉があてがわれることが多い。確かに、ナショナリスト(民族主義者、国家主義者、国粋主義者)と呼んだ方がわかりやすい。言葉そのものにその意味が現れているからである。しかし、私が、ここで敢えて右翼という言葉を使うのは、ナショナリスト(民族主義者、国家主義者、国粋主義者)の反対勢力は、一般に、左翼と呼ばれているからである。そこで、それの対義語として右翼という言葉を使用しているのである。さて、先に述べたように、誰しも、愛国心を持っている。だから、誰でも右翼になりうる可能性がある。それでは、なぜ、一部の人しか右翼にならないのか。それは、そこに、左翼的な考え、そして、左翼が存在するからである。左翼とは、愛国心を抱きつつも、自らの愛国心に身をゆだねず、相手の国民にも愛国心があると認識し、両者に折り合いをつけようとする人たちである。端的に言えば、左翼が存在するから、右翼の愛国心の暴走を止めることができるのである。右翼と左翼が対抗し、国民がそれを見て判断を下すから、国に秩序が成立し、国が存続するのである。もしも、右翼が台頭し、左翼が有名無実になってしまえば、国民も右翼化することになり、その国はためらいなく他国と戦争を始めるだろう。世界は、幾度も、その惨劇を見ている。いや、現在も見続けている。日本は、その惨劇を、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、太平洋戦争などにおいて見てきた。しかし、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦においては、勝利に酔い、惨劇を惨劇として認識できなかった。それゆえ、太平洋戦争戦争において、大惨劇を見ることになった。世界は、第一次世界大戦、第二次世界大戦において、大惨劇を経験をした。右翼の台頭がもたらしたものである。愛国心の暴走がもたらしたものである。それゆえ、右翼の台頭、愛国心の暴走を絶対に許してはならないのである。右翼の台頭そして愛国心の暴走の制止に失敗すれば、国は滅びてしまうことになるのである。延いては、世界が滅びてしまうのである。フロイトは、人間個人の心理構造と社会の心理構造は同じだと言ったが、それは至言である。右翼の台頭・愛国心の暴走を制止することと男児の母親に対する欲望を抑圧することととは、原理的に同じである。フロイト、ラカンは、男児の母親に対する欲望を抑圧することをエディプス・コンプレックスと呼んだ。男児の母親に対する欲望は抑圧しなければならない。なぜならば、それに失敗すると、その家庭はめちゃめちゃになってしまう。延いては、社会がめちゃくちゃになり、秩序が保たれなくなってしまう。しかし、愛国心も男児の母親に対する欲望も、異常な感情ではなく、誰しも、成長過程において、自然に生まれてくる感情なのである。自然に身につく観念、深層心理(無意識)なのである。だから、愛国心も男児の母親に対する欲望も、その誕生を止めることはできない。何かに転嫁できても根絶させることはできないのである。仮に、それらを根絶させてしまうと、この世には、国民もいなくなり、男児も存在しなくなるだろう。それらは、現代のすべての人間の発達段階において、自分の体験や周囲からの影響を通して、自然と生まれてくる感情、自然と心に身につく感情、深層心理(無意識)なのである。そして、それらは、ある年齢の頃においては、ある時には、ある場面においては、心の拠り所になることがある。また、その誕生にも必然性がある。問題は、それを手放しに喜べないということである。それらを暴走させるととんでもないことになるからである。確かに、それらが弱い間、自分が抑圧しようと思って抑圧できている間、自分が抑圧できなくても周囲が制止することができている間は問題は無い。むしろ、ほほえましい状況を作り出す。しかし、それらが強くなり、自分が抑圧しようと思わなかったり、思わなくなったり、自分が抑圧しようとしても抑圧できない時に周囲がそれらを制止することができなかったり、周囲が逆にそれらに加担したりした場合は、とんでもない状態を引き起こす。人間関係が乱れ、家族が崩壊し、社会の秩序が保たれなくなり、国が破壊され、世界が破滅する。「子供は正直だ」という言葉をがある。子供をほめた言葉である。しかし、この言葉は、大人が子供をしっかり管理できている時にしか使えない言葉である。文字通り、子供が自分の心に正直に行動したらどうなるか。子供が大人の管理を離れて正直に行動するようになったらどうなるか。男児が母親に対する欲望のままに行動するとどうなるか。誰でも、その結果は容易に想像できることである。家庭が破壊され、社会が破壊される。愛国心も同じである。右翼の言うように、国民が愛国心のままにわき目も振らずに行動してはいけないのである。むしろ、右翼の行動を止めなくてはいけないのである。特に、権力者の動向に細心の注意を払う必要があるのである。政治権力者が、右翼と共に、もしくは右翼的な考えの下で、愛国心を振りかざして、わき目も振らずに国を動かせば、確実に、その国は戦争になる。それは、二国間だけの戦争にとどまらず、他の国の権力者や他国民の愛国心を燃え上がらせ、世界中が戦火に見舞われてしまうような状態を作り出す可能性が十分にある。端無くも、現在、世界の至る所に、その状態が見え隠れしているのではないか。キリスト教徒の国がイスラム教徒の国を圧迫してきたのも、キリスト教徒の国に圧迫され続けたイスラム教徒が絶望的な自爆テロで反撃を開始したのも、愛国心の故ではないか。イスラム教徒の一過激集団、一原理主義組織が、「イスラム国」という国を名乗っているのも、その現れではないのか。現在の日本も、右翼が台頭し、愛国心が暴走を始めているから、戦争まであと一歩の状態であると言えるのではないか。さて、このように、日本の右翼が台頭し、愛国心が暴走し始めたのは、安倍政権の誕生からである。日本の右翼の台頭、愛国心の暴走の原因を、中国の台頭、韓国の理不尽な要求、北朝鮮の不穏な動きに求める人が多いが、それらは主因ではない。主因は、安倍政権の誕生にある。中国の台頭、韓国の理不尽な要求、北朝鮮の不穏な動きが無くても、右翼の台頭、愛国心の暴走は、いつでも、起こり得る。右翼は、常に、虎視眈々とその機会をうかがっている。右翼にとっては、日本国だけの国益、日本の国威発揚、日本を貶める国への懲罰を目的とした、愛国心の発露だけが生きがいなのである。常に、戦争も辞さない覚悟を持っているからである。現に、安倍政権誕生以前にも、中国の台頭、韓国の理不尽な要求、北朝鮮の不穏な動きはあった。しかし、右翼の台頭、愛国心の暴走はなかった。それは、なぜか。国民が右翼的な考えや右翼に理解を示さず、時の政権も右翼的な思考を持っていなかったからである。たとえ、時の政権が右翼的な思考を持っていたとしても、国民に理解を得られないと判断し、その思考を自ら封鎖していたからである。さて、先に述べたように、日本人ならば誰でも愛国心を持っている。そして、それが極端に強い人、右翼はいつの時代にも常に存在する。それ故に、日本国民が愛国心に振り回されたり、右翼を制止しなかったりしたならば、彼らが台頭し、愛国心が暴走し、日本は容易に戦争に導かれてしまうる。右翼は、右翼的な思考を持った安倍政権が誕生したから、国民が右翼の考えに賛同していると考え、安倍政権の陰に陽にバックアップを得て、我が意を得たりとばかりに、跳梁跋扈するようになったのである。愛国心とは、他の国や他の国の人々の対抗意識であるから、中国や韓国や北朝鮮が存在しなくても、例えば、アメリカやロシアやフィリピンやベトナムやタイなど、どの国(国民)に対してでも抱くことはできる。しかし、どの国(国民)に対してであろうと、異常なレベルでの対抗意識、異常なレベルでの愛国心を燃やしてはいけないのである。それが、戦争に繋がるからである。戦争には、戦勝国は存在しない。戦勝国、敗戦国ともに敗戦国になるのである。関わった国全部が、敗戦国なのである。戦争に勝ち、相手国を占領し、相手国に非を認めさせ、相手国から多額の賠償金を得るなどというのは夢の話である。勝利国においても、無傷は終わることはない。多数の戦死者が出て、国土は荒廃し、民主主義は廃れる。敗戦国においても、権力者は敗戦を認めても、その後、国民の中からゲリラ闘争を始める者が出てくる。それほど、現代人は、国に対する愛国心、郷土対する愛郷心、宗教に対する殉教意識が強いのである。アメリカに敗北した、アフガニスタン、イラクの現状を見ればよい。アメリカは、アフガニスタン、イラクを日本のようにしたかったのである。日本は、太平洋戦争で、アメリカに敗れ、アメリカの意のままの国になった。現在でも、アメリカ軍の爆撃機が、自分たちの好きな時間に、日本国全体の上空を飛び回っている。アメリカは、アジア支配のために日本に基地を置いているのだが、日本政府は、思いやり予算などという言葉をねつ造して、毎年二千億円以上のみかじめ料をアメリカに払っている。情けないことに、大半の右翼は、中国、韓国、北朝鮮を批判しても、アメリカを批判しないのである。右翼の風上にも置けない人たちである。右翼の中には、中国や韓国や北朝鮮と戦争をしても日本(日本人)のプライドを守るべきだと説く者がいる。彼らは、戦争をゲームのようにしか考えていないのである。太平洋戦争を考えてみれば良い。日本(日本人)は、プライドを守るために、アメリカと、勝ち目のない戦争、太平洋戦争をしたのである。そして、破滅的な敗北を喫したのである。喉元過ぎれば熱さを忘れるというが、戦後も七十年を過ぎると、日本人は太平洋戦争の惨状、そして、その原因を忘れてしまったのではないか。マルクスは、「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。」と言ったが、日本人は、もう一度、戦争をしないと、戦争という地獄に面と向かうことはできないのだろうか。右翼の台頭、愛国心の暴走を許してはいけないと気付かないのだろうか。先に述べたように、フロイトは、男児の母親に対する欲望の抑圧を、エディプス・コンプレックスと表現している。男児は母親に対して恋愛感情を抱く。だが、父親の反対に遭い、社会が父親に味方するので、男児は母親に対する恋愛感情を抑圧する。その後、その代理としての別の女性に恋愛感情を抱くことによって、その不満を解消するようになると言うのである。ちなみに、フロイトは、男児たちの父親殺しの例も挙げている。社会が正しく機能していなければ、大いにその可能性はある。この行為の後、男児たちは、このことを秘密にしていたから、社会的に罰せられることはなかったが、一生、負い目を持って暮らすことになる。言うまでもなく、社会的にも、家庭的にも、男児個人にとっても、男児の母親に対する欲望を抑圧しなければならないのである。エディプス・コンプレックス(男児の母親に対する欲望の抑圧)と愛国心の暴走(右翼の台頭・暴走)の抑圧は、対称的である。男児は、父親の反対に遭い、しかも、社会(周囲の人たち)が父親の考えに同調していると感づいたから、母親に対する欲望に抑圧するしかなかったのである。男児は、この家庭、そして、この社会に生きていかなければならないからである。右翼は、左翼が反対し、国民が左翼の考えに賛意を示したならば、右翼の台頭・愛国心の暴走は無いはずである。右翼も、また、この日本の社会において生きていかなければならないからである。しかし、安倍政権が誕生し、中国や韓国や北朝鮮を挑発するようになると、右翼は我が意を得たりとばかりと台頭して来たのである。政治権力を笠に着たのである。マスコミも、連日連夜、中国の台頭、韓国の理不尽な要求、北朝鮮の不穏な動きについて報道するので、巷でも愛国心が暴走させる人が出てきたのである。ヘイトスピーチをする集団が、その典型である。戦前も、現在と同じような状況を呈していた。だから、太平洋戦争に突き進んでしまったのである。マスコミは、連日連夜、中国に攻め込んだ日本兵の勇敢さ、中国兵の弱さ、中国人の愚かさ、アメリカの理不尽な要求について報道し、愛国心をくすぐったので、国民全体が右翼の考えに同調してしまったのである。もちろん、当時の日本国家の中枢の軍人や政治家たちも、愛国心に凝り固まり、日本国だけの国益、国威発揚を考えるような、右翼の権力者集団だったのであるから、日本国全体が右翼の思想に染まっていたと言えるのであるが。しかし、そのような時代風潮の中にあっても、日本共産党、灯台社というキリスト教団体、桐生悠々という新聞記者、斎藤隆夫という国会議員は、戦争反対を唱えて、果敢にも、国家権力に反旗を翻した。しかし、右翼的な考えにどっぷり染まっていた国民は、彼らに理解を示すどころか、目の敵にした。「大衆は馬鹿だ」というニーチェの言葉が聞こえてきそうである。しかし、たとえ、大衆は馬鹿であっても、左翼は大衆に訴え続けなければいけないのである。死をも覚悟して、右翼に抗して主張しなければいけないのである。それが左翼である。明治以来、死を覚悟しながら、真っ向から、右翼の政治権力に抗して、天皇制に反対し、戦争反対を唱えた者が少なくとも三人存在する。大逆事件で冤罪で死刑になった幸徳秋水、関東大震災のどさくさ紛れの中で軍隊に拉致され虐殺された大杉栄、治安維持法の罪状を科せられ逮捕されその日のうちに特別高等警察に拷問死させられた小林多喜二である。彼らは、常に死を覚悟して、日本国民に、天皇制の反対と戦争反対を訴え続けた。しかし、愚かな日本国民は、彼らを理解せず、むしろ、非難した。日本国民は、自らを「天皇の赤子」としていた上に、軍隊に肩入れしていたからである。彼ら三人は、それを理解していた。しかし、国民に、自らの主張をし続けた。左翼とはこういうものなのである。たとえ、国民から理解されなくても、死を覚悟しつつ、政治権力と右翼に抗して、自らの主張をし続ける存在者が左翼なのである。だから、それは、愛国心におぼれず、権力者や右翼に抗するものであれば、マルクス主義者であっても、無政府主義者であっても、自由主義者であっても、構造主義者であっても、脱構造主義者であっても、どのような思想を抱いている者でも構わないのである。しかし、現在の日本において、左翼陣営はあまりにも貧弱である。幸徳秋水、大杉栄、小林多喜二がいないのである。左翼陣営が貧弱なのは、決して、政治権力の弾圧やマスコミの政治権力への迎合や右翼の激しい妨害があるからではない。確かに、安倍政権は、マスコミを圧迫し、国民を愚弄し、戦前のように戦争のできる、上意下達の全体主義の国家にしようとしている。民主主義の否定の動きを示している。読売新聞、産経新聞、週刊新潮などのマスコミは、安倍政権と歩調を合わせ、原発推進、安保法案賛成、憲法改正の論調を張っている。権力にすり寄っていく態度はマスコミの役目をすっかり失っているどころか、共犯者である。右翼は、在日韓国人や在日朝鮮人に対してヘイトスピーチを繰り返し、自由主義的な発言をする人をネットで口汚くののしっている。その短絡的な思考や行動は幼児性を示している。しかし、戦前は、日本は、もっとひどい状況にあった。政治権力は、警察や軍人を使って、共産主義者、無政府主義者、自由主義者などの反体制派を、不当逮捕し、冤罪や拷問によって、百人以上の者を死に追いやった。マスコミは、政治権力に同調し、国民に対して、戦争を煽り、戦場に向かわせた。右翼は、自分たちと考えの異なる者を暗殺した。それに比べると、現代は、まだ、左翼に発言できる機会が多く、政治権力や右翼の妨害も陰険ではあるが、隠微な段階にある。それでありながら、左翼陣営が貧弱なのは、覚悟あるものが少ないからである。幸徳秋水や大杉栄や小林多喜二のような覚悟ある者があまりに少ないのである。政治権力の弾圧やマスコミの非難や右翼妨害を敢えて引き受けるだけの覚悟を持っている者が少ないのである。もちろん、そこには、殺される可能性もある。しかし、死すら厭わず、自らの言葉によって、政治権力やマスコミや右翼の愛国心の暴走を止めようとしない者は、左翼ではない。死を覚悟して発言する者がほとんどいないから、現代は、左翼陣営が貧弱なのである。愛国心とは感情である。感情が高まると、過激な行動に出る。右翼には常にその可能性がある。だから、左翼は、それを受ける覚悟が必要である。それを受ける覚悟で発言できない者は左翼ではない。安泰な位置で発言している者が多いから、現代のような逆境の中では、沈黙を保つものが多いのである。しかし、このままでは、戦前に舞い戻ることになるだろう。



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