あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

政治家について(自我その237)

2019-10-24 16:43:04 | 思想
人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間の深層心理(無意識の心の働き)は、自我の快楽を求めて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を動かそうとしている。さて、日本という構造体には、政治家・官僚・国民などという自我がある。「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」(人にはそれぞれ分相応の行いをする。人はそれぞれ身にふさわしい望みを持つ。)という諺がある。まさしく、それは、日本の政治家にも当てはまる。ニーチェは、「大衆は馬鹿だ。」と言ったが、日本の政治家は大衆レベルである。国民をリードする人格も能力も無い。日本には、真の政治家は存在せず、似非政治家しか存在しない。いや、日本だけではない。世界中、どこを探しても、真の政治家は存在しない。似非政治家しか存在しない。真の政治家とは、見識が高く、知識・学識が豊かで、道理に通じ、政治家という地位をなげうっても国民のために尽くす、信念のある者を言う。似非政治家とは、政治家という現在の地位に居続けることを第一の目的とし、因循姑息な政治家集団の色に染まり、プライドが高く、傲慢で、国民より自分がレベルが上だと思っている者を言う。例えば、かつて、二十代の男性アナウンサーがいた。その人は、テレビの報道番組で、ゲストとして招かれた与野党議員の発言を、国民の視線で、ユーモアを交えて批判した。その姿勢は好評を博した。しかし、後に、自民党の衆議院議員になるや、国会では、質問する野党議員に口汚くヤジを飛ばすヤジ将軍として名をはせた。かつて、三十代の男性新聞記者がいた。その人は、紙面で、与野党の区別なく、舌鋒鋭く批判した。特に、政治資金については、胸をすくような記事を書いた。その人も、後に、自民党の衆議院議員になるや、裏金を受け取った疑惑でマスコミに追及されると、自殺した。かつて、五十代の男性政治解説者がいた。その人は、テレビの政治番組で、与野党議員に鋭く迫り、派閥解消を訴え、多くの視聴者の信頼を勝ち得た。後に、自民党の衆議院議員になるや、自分がテレビ番組で批判した議員の派閥に入った。さて、彼らは、アナウンサー、新聞記者、政治解説者の時の考えと政治家になってからの考えが明確に異なっている。それでは、いったい、どちらの考えが自分の本当の考えなのだろうか。彼らは、そこに矛盾を感じていないのだろうか。彼らは、無節操だと非難されることを恐れないのだろうか。しかし、彼らは矛盾を感じていない。無節操だとも思っていない。彼らは、放送局、新聞社、出版社という構造体に所属し、アナウンサー、新聞記者、政治解説者という自我持っていた時は、放送局、新聞社、出版社という構造体の考えに、自分の考えを同化させて、言動していたのである。そして、衆議院議員という自我を得ると、自民党という構造体の考えに、自分の考えを同化させて、言動するのである。ただ、それだけのことなのである。だから、アナウンサー、新聞記者、政治解説者の時の考えと衆議院議員の政治家になってからの考えが異なっているのは当然のことなのである。彼らは、自らが所属する構造体の考えに自我を同化させて生きているだけなのである。だから、そこには、自己の思考は存在しないのである。それでは、なぜ、彼らは、自民党という構造体の考えに自分の考えを同化させて生きようとするのか。それは、衆議院議員という自我を奪われたくないからである。つまり、衆議院議員という自我に囚われて生きているからである。彼らは、衆議院議員という自我が自民党という構造体に認められることによって、衆議院議員という自我を奪われないように、常に、心を砕いているのである。それが、第一の重要事項なのである。国民に対する思いは第二の重要事項である。国民に対する思いが第一の重要事項になるのは、政党支持率のアンケート結果と選挙の時だけである。彼らは自民党の政治家になった段階で、自民党の党是を自らのものとし、周囲の自民党の政治家の考えに自らの考えを同化させ、官僚と共存・共犯の関係になるのである。しかし、それは、野党の政治家も同じである。野党の政治家になった段階で、野党の党是を自らのものとし、周囲の野党の政治家の考えに同化させるのである。異なるところは、裁判所、特捜、省庁の官僚たちは、野党と考えを異にし、野党が政権を執ると、政権打倒のために、陰に陽に、積極的に活動するということである。裁判所、特捜、省庁の官僚たちにも、国民の考えに対する配慮は第二の重要事項である。彼らにとっても、自民党という構造体が、自分たちの考えと一致し、裁判官、検事、キャリア官僚という自我を保証してくれるから、自民党の政治家の意向が第一の重要事項なのである。政治家や官僚にとって、国民とは、自らが配慮するべき第一の存在ではない。なぜならば、彼らは国民によって選ばれず、国民は彼らの下位に位置する存在だからである。政治家が、選挙や支持率の結果が出ると、国民の考えに対する思いが生まれてくるのは、選挙で落選すると、政治家という自我を奪われるからである。政党の支持率が低い時や選挙の時だけは、美辞麗句を並べ立てて国民の支持を集めようとする。なぜならば、普段の政治活動においては、国民の支持を受けなくても、政治家のバッジを外させられることはないからである。そして、自分が所属している政党の構造体の意向を最優先にするのである。しかし、選挙の結果によっては、政治家の自我を奪われる可能性があるから、その時だけは、地元に戻り、有権者に、美辞麗句を並べ立てるのである。だから、日本には、似非政治家しか存在しないのである。いや、それは日本にとどまらず、全世界に及んでいる。世界中の政治家が、自我の立場から自国という構造体の立場から発言し、行動しているから、戦争がやまないのである。世界各国に、真の政治家が多数を占めないと、この世から戦争はなくならないのである。しかし、果たして、政治家は、政治家という自我、政党や自国という構造体に囚われずに、主体的に、国民第一に考え、発言し、行動できるだろうか。他の政治家が、皆、政治家という自我、政党や自国という構造体に囚われて、発言し、行動している中で、自分だけが、主体的に、国民第一に考え、発言し、行動できるだろうか。また、国民が、日本人という自我を持ち、日本という構造体に囚われ、国益(自国の利益)を優先して、思考し、発言し、行動している中で、自分だけが、国際的な視野に立って、思考し、時には、国益(自国の利益)に反したを発言し、行動できるだろうか。国民から支持されないばかりか、暗殺される危険性もある。しかし、ほとんどの政治家は、政治家という自我、政党や自国という構造体に囚われて、考え、発言し、行動している似非政治家である。それは、深層心理によって、政治家という自我の快楽を求めて、自我や構造体に囚われて生きるように仕向けられ、そのようにしているからである。似非政治家、凡なる政治家は、深層心理に引きずられ、理性という表層心理(意識しての思考)が動かないから、政治家という自我の快楽だけを追求するのである。しかし、真なる政治家は、政治家という自我、政党や自国という構造体に囚われずに、主体的に、国民第一に考え、時には、国際的な視野から、国益(自国の利益)に反したを発言し、行動する。しかし、真なる政治家は存在が稀れである。この世は、似非政治家が多数を占めている。だから、世界中、戦争が絶えることが無い。この世は、ニーチェの言う永劫回帰の世界である。真なる政治家が多数を占めない限り、この世から、戦争が無くなることはない。




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