あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は感情の動物だと言われる以上に、感情が行動や価値観を決定している。(自我その453)

2021-01-11 08:45:18 | 思想
人間は感情の動物だと言われるが、それ以上に、人間の行動や価値観を決定している。人間は、誰しも、他者に褒められると喜び、他者に貶されると心が傷付く。だから、人間は、誰しも、他者に褒められることをし、他者に貶されることをしないでおこうとするのである。殺人という行為は、他者から非難され、罰せられ、心身ともに痛むから、人間は、行わないようにするのである。しかし、他者から非難され、罰せられとわかっていても、敢えて、憎しみのあまり、殺人を犯す人も存在する。それは、憎しみという心の痛みから、解放されたいがためである。戦争時において、敵兵を殺せば殺すほど褒められるから、競って、敵兵を殺すのである。戦争が終わると、敵兵を殺した人が、よく、「本当は殺したくなかったのだが、殺さなければ、自分が殺されていた」と言い訳するが、それは嘘である。真に殺人を厭う人ならば、戦争に反対し、戦地に赴かないからである。平和時においては、殺人という行為は、他者から非難され、罰せられるが、戦争時においては、敵兵を殺せば支配欲を満足させることができ、敵兵を殺せば殺すほど褒められるから、積極的に敵兵を殺すのである。人間が戦争に反対するのは、自らも殺される可能性があるからである。政治権力者がいともたやすく戦争を起こすのは、自らは命令するだけで、戦地に赴くことがなく、殺される可能性がほとんど無いからである。戦争に負けても、殺される可能性が低く、戦争に勝てば、国民から拍手喝采を浴びるから、戦争を起こすことをためらわないのである。女性が「私の友人は美しい人だ」と言う友人に実際に会ってみると、たいていの場合、それほど美しくない。しかし、それは、彼女が嘘を言っているのでは無く、彼女がその友人が好きだから美しく見えたり、その友人の容姿が彼女に嫉妬心を覚えさせず、彼女に安心感を与えているからである。人間が「良い人だ」という人は、たいていの場合、道徳的に優れている人を意味していず、その人間にとって都合の良い人であったり、その人間が好きな人である。人間は、誰しも、花を見て、感動することがある。感動したから、その花を美しいと思うのである。美しい花を見たから感動したのではなく、感動したからその花は美しく見えるのである。覚醒剤・麻薬に手を出す人の多くは、憂鬱な気分や激しい疲労感から解放されたいがためである。覚醒剤・麻薬に手を出す人は、露見すれば、他者から非難され、罰せられとわかっているが、あまりに憂鬱な気分や激しい疲労感に堪えられないために、それから解放されたくて、敢えて、危険を冒すのである。また、憎しみのあまり、殺人を犯す人も存在する。それは、露見すれば、他者から非難され、罰せられとわかっているが、憎しみという心の痛みから解放されたいがために、敢えて、犯罪に手を染めるのである。人間がいじめをするのは、楽しいからである。いじめの対象のなる人は、嫌われている人か弱い人である。しかし、嫌われている人の多くは、正当な理由無く、嫌われているのである。嫌っている人にひどいことをしたからではなく、嫌っている人の深層心理が嫌っているから、嫌われているのである。だから、嫌っている人も、嫌っている理由がはっきりわからず、何となく、嫌いであり、その人に会うのが嫌だから、いじめることによって、嫌いという不快感から解放されれようとしているのである。弱い人がいじめられるのには、二つの理由がある。一つは、いじめるている人は、弱い人が抵抗しても、負けることが無いから、いじめることが楽しいのである。もう一つは、人間には、弱い人を見る人と、同情する人ばかりではなく、嫌になる人がいるからである。嫌になった人は、弱い人が見ると、いじめに走り、嫌という不快感から解放されようとするのである。現在、世界は、爆発的に人口が増えているが、セックスをすることが快楽だからである。多くの人間は、子供がほしいから、セックスをするのではなく、快楽を求めて、セックスをし、その結果、子供が誕生することになるのである。子供ができた後を考えずに避妊具を付けずにセックスをし、子供をほしくなくても避妊具を付けずにセックスをするのは、セックスの快楽が大きいからである。セックスの快楽が大きいから、人間は後先を考えずにセックスをし、爆発的に人口を増やしているのである。つまり、感情や心境が、人間の行動や価値観を決定しているのである。それでは、感情とは何か。感情とは、心境と同じく、情態性である。情態性とは、人間の心の状態である。つまり、感情と心境は、情態性という心の状態を意味しているのである。感情は、感動や喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる情態性である。心境とは、爽快、憂鬱など、比較的長期に持続する情態性である。深層心理は、常に、感情や心境という情態性が覆われているからこそ、人間は自らを意識する時は、常に、ある感情やある心境という情態性にある自分として意識するのである。深層心理とは、人間の無意識の思考である。人間は感情や心境を意識しようと思って意識するのではなく、ある感情やある心境が常に深層心理を覆っているから、人間は自分を意識する時には、常に、ある感情やある心境という情態性にある自分として意識するのである。つまり、感情や心境の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある感情という情態性にある自分やある心境という情態性にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する感情や心境が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。しかも、人間は、他者に面した時、他者を意識した時、他者の視線にあったり他者の視線を感じた時、一人でいてふとした時などに、何かをしている自分や何かの状態にある自分を意識するのである。自分の心を覆っている心境や感情と同時に気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が心を覆っているのである。つまり、感情や心境こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在してからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やことの存在を、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろな物やことががそこに存在していることを前提にして、思考したり活動をしたりしているのであるから、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと行為自体がその存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明という行為そのものが、既に、存在を前提にして思考しているのである。つまり、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているからこそ、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことができるのである。自分の存在は、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は思考して、自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが表層心理で自分や物やことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。さて、深層心理は、常に、感情や心境という情態性が覆われていて、感情は、感動や喜怒哀楽や好悪など、突発的に生まれる情態性であり、心境は、爽快、憂鬱など、比較的長期に持続する情態性であるが、心境は、全く変化しないわけではない。心境は、深層心理がその心境に飽きた時に、さらに、深層心理がある感情を生み出した時にも、変化する。だから、誰しも、意識して、心境を変えることはできないのである。感情は、深層心理が、構造体の中で、自我を主体に立てて、ある心境の中で、欲動に基づいて、快感原則を満たそうと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生みだす時、行動の指令とともに生み出される。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。人間の、自らを意識すること、自らを意識して思考すること、意志という自ら意識して思考した結果を、表層心理と言う。すなわち、人間は、表層心理の意志では、心境も感情も、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心の意志では、嫌な心境を変えることができないから、何かをすることによって、気分転換をして、心境を変えようとするのである。心境と気分は同義語である。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行おうとしても、直接に、心境に働き掛けることができないから、何かをすることによって、心境を変えようとするのである。そこで、人間は、表層心理で、意識して、思考して、心境を変えるための行動を考え出すのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。さて、人間は、常に、構造体に所属し、自我を持って活動している。人間は、孤独であっても、孤立していても、常に、構造体に所属し、自我を持って、他者と関わりながら、活動しているのである。人間は、常に、構造体に所属し、深層心理が、ある心境の中で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて、快感原則を叶えようと、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、それに動かされて生きているのである。自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、国民という自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我があるのである。心境とは、爽快、憂鬱など、比較的長期に持続する情態性である。情態性とは、人間の心の状態を表す。情態性には、感情と心境がある。感情は、喜怒哀楽や感動など、突発的に生まれる情態性である。人間は、常に、感情もしくは心境という情態性の中にあるが、一般に、感情はすぐに消えることが多いから、心境の情態性にあることが多いのである。人間は、感情や心境によって、自らの心が得意の状態にあるか不得意の状態にあるかを自覚するのである。しかし、人間は、自らの意志によって、感情や心境を生み出すことはできない。感情や心境は、人間の深層心理によって生み出されるからである。深層心理が感情や心境を生み出すのである。意識や意志は感情や心境を生み出すことはできないのである。意識や意志は表層心理に属するからである。人間が自らを意識することが表層心理であり、自らを意識しての思考が表層心理での思考であり、表層心理での思考の結果が意志である。深層心理は、人間が得意の感情や心境の情態性にある時には、現在の情態性を維持しようと思考して、行動の指令を生み出し、現在の行動を維持しようとする。人間は、不得意の感情や心境の情態性の時には、現在の情態性から脱却しようと思考して、行動の指令を生み出し、人間を動かそうとするのである。人間は、表層心理によって自らの感情や心境を意識するが、表層心理の意志は、感情や心境に直接に働き掛けることはできないのである。すなわち、人間は、誰しも、自らの意志で、感情や心境という情態性を維持することも変えることもできないのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、思考して、行動の指令を生み出し、それによって、人間を動かし、感情や心境という情態性を維持しようとしたり変えようとしたりするのである。つまり、深層心理は、感情や心境という情態性を生み出すばかりでなく、得意の感情や心境の情態性の時には、現在の情態性を維持するように、思考して、人間を行動させようとし、不得意の感情や心境の状態の時には、現在の情態性から脱却するように、思考して、人間を行動させようとするのである。すなわち、深層心理は、人間に、何かをさせることによって、感情や心境という情態性を維持しようとしたり変えようとしたりするのである。快感原則とは、その時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望である。快感原則は、道徳観や社会的規約を有していない。だから、深層心理も、道徳観や社会的規約を有さず、その時その場での快楽を求め不快を避けようとして、すなわち、快感原則という欲望を満たそうとして、瞬間的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を、すなわち、自我を動かそうとするのである。それでは、人間は、すなわち、深層心理は、どのような時に、快感原則という欲望を満たすことができるのか、すなわち、快楽を得ることができるのか。それは、欲動にかなった時である。だから、深層心理は、欲動に基づいて、思考するのである。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望である。深層心理は、日常生活において、欲動の四つの欲望のいずれかにかなったことが起きれば、快楽を得ることができ、満足でき、また、日常生活において、快楽を得るために、欲動の四つの欲望のいずれかにかなうように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を、すなわち、人間を動かそうとするのである。しかし、深層心理は、日常生活において、欲動の四つの欲望のいずれかと逆行したことが起きれば、傷心し、その傷心から立ち直るために、怒りという感情とその状況を変えるような行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を、すなわち、人間を行動の指令の通りに動かし、傷心から解放されようとするのである。欲動の第一の欲望が自我を確保・存続・発展させたいという欲望があるが、それは、自我の保身化という作用で現れる。生徒・会社員が嫌々ながらも学校・会社に行くのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。自我を確保・存続・発展させたいからである。だから、逆に、リストラにあうと、会社員という自我を持った人の中には、深層心理が、傷心し、その傷心から立ち直るために、怒りという感情と会社やリストラを行った上司に復讐しろという行動の指令を生み出し、自我を、すなわち、会社員を行動の指令の通りに動かし、傷心から解放されようとする者が存在するのである。欲動の第二の欲望が自我が他者に認められたいという欲望があるが、それは、自我の対他化という作用で現れる。受験生が有名大学を目指すのは、教師や同級生や親から褒められ、世間から賞賛を浴びたいからである。だから、逆に、有名大学受験に失敗した受験生の中には、深層心理が、傷心し、その傷心から立ち直るために、怒りという感情と会社や有名大学受験を勧めた教師を非難しろという行動の指令をを生み出し、自我を、すなわち、受験生を行動の指令の通りに動かし、傷心から解放されようとする者が存在するのである。欲動の第三の欲望が自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望があるが、それは、対象の対自化の作用として現れる。国会議員が総理大臣になろうとするのは、日本という構造体の中で、国民という他者を総理大臣という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。建築家は、樹木やレンガという物を対自化し、建築材料として利用するのである。哲学者は人間と自然を対象として捉え、支配しようとし、科学者は自然を対象として捉え、支配しようとし、心理学者は人間を対象として捉え、支配しようとするのである。だから、逆に、総理大臣になろうとしてなれなかった国会議員の中には、深層心理が、傷心し、その傷心から立ち直るために、怒りという感情と総理大臣になった国会議員を非難しろという行動の指令をを生み出し、自我を、すなわち、総理大臣になろうとしてなれなかった国会議員を行動の指令の通りに動かし、傷心から解放されようとする者が存在するのである。欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望があるが、それは、自我と他者の共感化という作用として現れる。人間は、仲間という構造体を作って、友人という他者と理解し合い、心を交流し、カップルという構造体を作って、恋人いう自我を形成しあって、愛し合い、労働組合という構造体に入って、協力し合うのである。だから、逆に、別れを告げられた恋人の中には、深層心理が、傷心し、その傷心から立ち直るために、怒りという感情と復讐しろというストーカーの行動の指令をを生み出し、自我を、すなわち、失恋した者を行動の指令の通りに動かし、傷心から解放されようとする者が存在するのである。しかし、深層心理には、超自我という作用もあり、ルーティーンという同じようなことを繰り返す日常生活の行動から外れた自我の欲望を抑圧しようとする。超自我は、深層心理に内在する欲動の第一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという欲望から発した、自我の保身化という作用である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我は、相手に復讐しろ、相手を非難しろという行動の指令を抑圧できないのである。その場合、自我の欲望に対する審議は、表層心理に移されるのである。人間は、深層心理が思考して生み出した怒りの感情と相手に復讐しろ、相手を非難しろという行動の指令を受けて、表層心理で、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した怒りの感情の中で、深層心理が生み出した相手に復讐しろ、相手を非難しろという行動の指令について、受け入れるか拒絶するかを思考するのである。人間は、表層心理で思考する時は、必ず、自我の存在を意識して、現実原則の視点から、思考するのである。人間は、日常生活において、異常なことが起こり、ルーティーンから外れた行動を起こさなければならなくなった時は、必ず、表層心理で、自我の存在を意識して、現実原則の視点から、思考するのである。ルーティーンから外れた行動を起こさなければならなくなったのは、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。人間は、ルーティーンから外れた行動を起こさなければならなくなった時だけでなく、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時にも、自らの存在を意識する。それは、自我にとって、他者の存在は脅威だからである。だから、人間は、他者の存在を感じた時には、必ず、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自らの行動や思考を意識することである。そして、自らの存在を意識すると同時に、思考が始まるのである。それが、表層心理理での思考である。さらに、無我夢中で行動していて、突然、自らの存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時でも、突然、自らの存在を意識することがあるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じた時、表層心理で、自らの存在を意識して、現実原則の視点から、思考するのである。現実原則は、長期的な展望の下で、現実的な利得を求める欲望である。人間の意識しての思考、すなわち、人間の表層心理での思考が理性である。人間の表層心理での思考による行動、すなわち、理性による行動が意志の行動である。日常生活において、異常なことが起こると、深層心理は、道徳観や社会的規約を有さず、快感原則というその時その場での快楽を求め不快を避けるという欲望に基づいて、瞬間的に思考し、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出しがちであり、深層心理は、超自我によって、この自我の欲望を抑えようとするのだが、感情が強い場合、抑えきれない時があるのである。深層心理が、過激な感情と過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できない場合、人間は、表層心理で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則という後に自我に利益をもたらし不利益を避けるという欲望に基づいて、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考する必要があるのである。しかし、人間は、表層心理で、思考して、深層心理が出した行動の指令を拒否して、深層心理が出した行動の指令を抑圧することを決め、意志によって、実際に、深層心理が出した行動の指令を抑圧できた場合は、表層心理で、深層心理が納得するような、代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情(多くは傷心や怒りの感情)がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は自然に消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さらに、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否することを決定し、意志で、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動してしまうのである。しかし、深層心理は、時には、傷心の感情から解放されるために、怒りの感情と相手を攻撃するという自我の欲望を生み出さず、うちに閉じこもってしまうことがある。それは、攻撃するのは、相手が強大だからであり、攻撃すれば、いっそう。自我の状況が不利になるからである。そうして、傷心のままに、苦悩のままに、自我の内にこもるのである。それが、憂鬱という情態性である。そのような時、深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことがある。深層心理が、自らの心に、精神疾患をもたらすことによって、現実を見えないようにし、現実から逃れようとするのである。人間は、誰しも、自ら意識して、精神疾患に陥ることはない。また、人間は、誰しも、自らの意志で、精神疾患に陥ることはできない。すなわち、表層心理という意識や意志では、自らの心に、精神疾患を呼び寄せることはできないのである。深層心理という人間の無意識の心の働きが、自らの心に、精神疾患をもたらしたのである。精神疾患には様々なものがあるが、代表的なものが、鬱病である。鬱病の基本症状は、気分が落ち込む、気がめいる、もの悲しいといった抑鬱気分である。また、あらゆることへの関心や興味がなくなり、なにをするにも億劫になる。知的活動能力が減退し、家事や仕事も進まなくなる。さらに、睡眠障害、全身のだるさ、食欲不振、頭痛などといった身体症状も現れることが多い。抑鬱気分が強くなると、死にたいと考える(自殺念慮が起こる)だけでなく、実際に、自殺を図ることもある。また、鬱病に罹患している人間は、表層心理で、自らの心理状態を意識して、自らの意志で、行動を起こそうという気にならない。また、たとえ、自らの意志で、行動を起こそうとしても、肉体が動かない。深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、自らの肉体が行動を全然起こさないようにしたのである。つまり、深層心理は、自らの心を、鬱病にすることによって、鬱病の原因が学校や会社という構造体の中での出来事ならば、自らの肉体を学校や会社に行かせないようにしたのである。つまり、学校や会社で堪えられない情況にある人間の深層心理が、自らの心を、鬱病に罹患させることによって、抑鬱気分を維持させ、学校・会社の行かせないようにするという、現実逃避よる解決法を画策したのである。しかし、人間は、鬱病に罹患すると、学校や会社に行けなくなるばかりでなく、他のこともできなくなるのである。さらに、自殺を考えたり、実際に、自殺しようとしたりするのである。鬱病は、人間を、継続した重い気分に陥らせ、何もする気も起こらなくさせ、自殺を考えさせ、実際に、自殺しようとさせたりするから、大きな問題なのである。鬱病だけでなく、他の全ての後天的な精神疾患も、深層心理によってもたらされた現実逃避よる解決法である。統合失調症は、現実を夢のように思わせ、現実逃避をしているのでる。離人症は、自我の存在を曖昧にすることによって、現実逃避しているのである。このように、現実があまりに辛く、深層心理でも表層心理でも、その辛さから逃れる方策、その辛さから解放される方策が考えることができないから、深層心理が、自らを、精神疾患にして、現実から逃れたのである。しかし、精神疾患によって、現実の辛さから逃れたかも知れないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛の心理状態が、終日、本人を苦しめるのである。だから、精神疾患に陥った人に対して、周囲のアドバイスも励ましも、無効であるか有害なのである。精神疾患に陥った人は、現実を閉ざしているのであるから、周囲の現実的なアドバイスには聞く耳を持たず、無効なのである。また、周囲の「がんばれ」という励ましの言葉は、「がんばれ」とは「我を張れ」ということであり、「自我に執着せよ」ということであるから、逆効果であり、有害なのである。自我に執着したからこそ、現実があまりに辛くなり、精神疾患に逃れざるを得なくなったからである。そして、今、現実が見えない状態であるから、現実から来る苦しみはないが、精神疾患そのものがもたらす苦痛によって苦しめられているのである。さて、精神疾患の苦痛から解放するために、薬物療法とカウンセリングが多く用いられる。確かに、精神疾患そのものの苦痛の軽減・除去には、薬物療法は有効であろう。しかし、現実は、そのまま残っている。現実を変えない限り、たとえ、薬物療法で、精神疾患の苦痛が軽減されても、その人が、そのことによって、再び、現実が見えるようになると、再び、元の精神疾患の状態に陥るようになることが考えられる。そこで、重要になってくるのが、カウンセリングである。カウンセリングは、自己肯定感を持たせることを目的として、行われる。精神疾患に陥ったのは、自分が無力であるため、現実に対処できず、深く心が傷付いたからである。そこで、自己に肯定感を持たせ、自信を与え、現実をありのままに受け入れるようにするのである。しかし、自分に力が無いと思い込み、外部に関心を持たない状態に陥っている者に対して、肯定感を持たせ、自信を持たせ、現実をありのままに受け入れるようにさせることは、至難の業である。だから、カウンセリングは、長い時間が掛かるのである。自分の感情を持てあますことから逃れるまでには、長い時間が掛かるのである。



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