あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間の存在の問題の原点について。(自我その451)

2021-01-06 18:33:36 | 思想
人間は、誰しも、自分の意志で生まれてきたのではない。気が付いたら、そこに存在しているのである。しかし、芥川龍之介の『河童』という小説では、河童の胎児には、誕生するか誕生しないでおくかの選択権が与えられている。河童の父親が、胎児に、誕生する意志があるかどうかを尋ね、胎児が、熟考の末に、「生まれたくない」と答えると、存在は消滅してしまう。河童は、人間よりも進化している。人間には、自ら誕生するか否かの選択権は与えられていない。しかし、人間は他の動物と異なり自ら死を選択できると言う人がいる。つまり、死を選択できることが人間の特権だと言うのである。しかし、それは選択ではない。肉体は常に生きようとしているのに、精神が死を選択したのである。精神が苦しいから、自殺を選択したのである。つまり、自殺を選択させられたのである。だから、自殺を図ったものは、皆、死の直前まで、肉体の苦痛があるのである。また、子は、親を選択することはできない。誕生するか誕生しないかを選択できないのだから、親の選択権が与えられているはずがないのである。だから、「親に感謝しなさい」と教師は言い、親自身もそれを期待しているが、子には、この世に誕生する選択権が無いのだから、親に感謝するいわれは無い。良い親の家庭に生まれれば、幸運だと見なすしか無い。かつて、大人たちは、少年・少女に対して、「親の恩は、山より高く、海より深いのです。親に感謝しなさい。」とよく言ったが、それは、言外に、親の言う通りにしなさいと言っているのである。しかし、子は、誕生の選択権も親の選択権も有していないのだから、養育してくれているということで親に感謝するいわれは無く、親の言う通りにする義務も無いのである。親が正しいことを言っていると思った時、それに従えば良いのである。また、親も子を選択することはできない。親は、生まれてきた子は、どんな子であろうと、我が子として育てるしか無いのである。どのような親や子であろうと、家族という構造体を形成し、その中で、父・母・息子・娘などの自我を持って行動するしか無いのである。つまり、人間は、家族という構造体も父・母・息子・娘などの自我も選択することはできないままに、それらを持して生きていくしか無いのである。中島敦の小説「山月記」に、主人公の李徴が、「全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押し付けられたものを大人しく受け取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。」と呟いている。まさしく、人間は、押し付けられた家族という構造体の中で、押し付けられた父・母・息子・娘などの自我を大人しく受け取って、自我を自分として生きていくしか無いのである。言うまでも無く、人間が所属している構造体は家族だけではなく、持している自我は父・母・息子・娘だけではない。人間は、日々の生活において、いついかなる時でも、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動しているのである。構造体とは、人間の組織・集合体であり、自我とは、ある構造体の中で、ある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、現実の自分のあり方である。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、国民という自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我の人が存在し、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我の人が存在し、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我の人が存在し、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我の人が存在し、仲間という構造体では、友人という自我の人が存在し、カップルという構造体では恋人という自我の人が存在し、夫婦という構造体では夫と妻という自我が存在する。ある人は、日本という構造体では、国民という自我を持ち、家族という構造体では、母という自我を持ち、学校という構造体では、教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では、客という自我を持ち、電車という構造体では、客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我を持って、行動しているのである。ある人は、日本という構造体では、国民という自我を持ち、家族という構造体では、夫という自我を持ち、会社という構造体では、課長という自我を持ち、コンビニという構造体では、客という自我を持ち、電車という構造体では、客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我を持って、行動しているのである。人間は、押し付けられた構造体の中で、押し付けられたも自我を大人しく受け取って、自我を自分として生きていくしか無いのである。だから、人間は、日々の生活において、いついかなる時でも、常に、押し付けられた構造体に所属し、押し付けられた自我を持って行動しているのである。人間は、自我の動物であり、自我から離れて生きることはできないのである。人間は、自我そのものなのである。だから、人間には、自分そのものは存在しないのである。自分とは、自らを他者や他人と区別して指している自我のあり方に過ぎないのである。他者とは、構造体の中の自我以外の人々である。他人とは、構造体の外の人々である。自らが、自らの自我のあり方にこだわり、他者や他人と自らを区別しているあり方が自分なのである。だから、人間には、自分そのものは存在しないのである。人間は、孤独であっても、孤立していたとしても、常に、構造体が所属し、自我を持って、他者と関わりながら。暮らしているのである。しかも、他者も、他者その人ではないのである。他者の自我である。すなわち、他我である。例えば、家族という構造体の中で、息子という自我を持った人は、母という他者に接しているが、息子は、彼女を母という自我で接しているのである。息子は、彼女を母という他我としか見られず、彼女その人を知らないのである。そもそも、人間には自分そのものは存在しないように、彼女にも彼女その人は存在しないのである。彼女も、別の構造体に行けば、別の自我を持つだけなのである。彼女も、また、常に、押し付けられた構造体に所属し、押し付けられた自我を持って行動しているのである。しかも、自我を動かすものは、深層心理である。深層心理は、一般に、無意識と言われ、その人自身がその存在にもその動きにも気付いていない、思考の動きである。だから、人間は自己としても生きていないのである。自己とは、人間が、自らの意志で意識して考え、意識して決断し、その結果を意志として行動する生き方である。自らを意識しての思考が、表層心理での思考である。表層心理での思考の結果が、意志である。もしも、人間が、表層心理で思考して、その結果を意志として行動しているのであれば、自己として存在していると言えるだろう。しかし、人間は、深層心理に動かされているから、自己として存在していないのである。人間は、自己として存在していないということは、自由な存在でもなく、主体的なあり方もしていず、主体性も有していないということを意味するのである。また、そもそも、自我は、構造体という他者の集団・組織から与えられるから、人間は、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。主体的に、他者の思惑を気にしないで思考し、行動すれば、その構造体から追放される虞があるからである。人間は、自己として存在できないのである。人間は、深層心理が、自我を主体に立てて、欲動によって、快感原則に基づいて、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我としての人間は、それに動かされて、行動しているのである。まず、自我の欲望であるが、人間は、自我として生きているから、自我の欲望が、生きる原動力になっているのである。自我の欲望が感情と行動の指令が合体していものから成り立っているから、感情が行動の指令を自我に実行させる動力になっているのである。人間は、深層心理が生み出した感情に動かされ、深層心理が生み出した行動の指令を実行するように、生きているのである。深層心理は、自我にこだわり続けるのである。深層心理が自我を主体に立てるのは、自我を中心に据えて、自我が快楽を得るように、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を動かそうとしているからである。感情は深層心理によって生み出され、人間は、表層心理では、直接に働き掛けて、感情を、生み出すことも変えることもできないのである。人間は、表層心理で、意識して、嫌な感情を変えることができないから、気分転換をして、感情を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、感情の転換を行う時には、直接に、感情に働き掛けることができず、何かをすることによって、感情を変えようとするのである。人間は、表層心理で、意識して、思考して、感情を変えるための行動を考え出し、それを実行することによって、感情を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、感情を変えようとするのである。次に、快感原則であるが、深層心理が自我が快楽を得るように思考することを、スイスが活躍した心理学者のフロイトは快感原則と呼んだ。快感原則とは、ひたすらその時その場での快楽を求め不快を避けようとする欲望である。そこには、道徳観や法律厳守の価値観は存在しない。だから、深層心理の思考は、道徳観や法律厳守の価値観に縛られず、ひたすらその時その場での瞬間的な快楽を求め、不快を避けることを目的・目標にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。もちろん、自我が快楽を得るということは、深層心理が快楽を得るということである。だから、深層心理にとって、自らが快楽を得るために、自我を主体に立てる必要があるのである。それでは、深層心理は、自我はどのような時に快楽を得ることができるのか。それは、欲動にかなった時である。だから、深層心理は、欲動に従って思考するのである。人間は、快楽を喜ばしい感情として味わい、不快を忌み嫌うべき感情として逃れようとし、快楽を得ることが行動の基盤になっているが、それは、行動の規範になり得ないのである。なぜならば、欲動にかなえば、快楽を得られるからである。欲動には、道徳観や法律厳守の価値観は存在しないから、人間は、悪事を犯しても、快楽を得ることができるのである。そこにも、人間の存在の問題の原点が存在するのである。欲動とは、深層心理に内在し、深層心理の思考を動かす、四つの欲望である。深層心理は、この四つの欲望のいずれかを使って、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。欲動には、第一の欲望として、自我を確保・存続・発展させたいという欲望がある。自我の保身化という作用である。第二の欲望として、自我が他者に認められたいという欲望がある。自我の対他化の作用である。第三の欲望として、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲望がある。対象の対自化の作用である。第四の欲望として、自我と他者の心の交流を図りたいという欲望がある。自我の他者の共感化という作用である。人間は、人間の無意識のうちに、深層心理が、自我を確保・存続・発展させたいという第一の欲望、自我が他者に認められたいという第二の欲望、自我で他者・物・現象という対象を支配したいという第三の欲望、自我と他者の心の交流を図りたいという第四の欲望のいずれかの欲望に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間は、それによって、動きだすのである。まず、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望についてあるが、これは、自我の保身化という作用をし、ほとんどの人の日常生活を、無意識の行動によって成り立たせているのである。毎日が同じことを繰り返すルーティーンになっているのは、無意識の行動だから可能なのである。日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないからである。また、人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェの「永劫回帰」(森羅万象は永遠に同じことを繰り返す)という思想は、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、人間は、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むと言っても、毎日が、必ずしも、平穏ではない。些細な問題が起こる。たとえば、会社という構造体で、社員が上司から営業成績が悪いと叱責を受けると、深層心理は、傷心から怒りの感情を生み出すとともに反論しろという行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を唆す。しかし、超自我がルーティーンを守るために、反論しろという行動の指令を抑圧しようとする。超自我も、また、自我を確保・存続・発展させたいという欲動の第一の欲望から発しているのである。もしも、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて、意識して、思考して、将来のことを考え、自我を抑圧しようとするのである。表層心理とは、人間の意識しての思考である。現実原則も、フロイトの思想であり、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望である。そして、社員は、表層心理で、現実原則に基づいて、意識して、思考して、将来のことを考え、謝罪して、ルーティーンの生活を続けるのである。また、深層心理は、構造体が存続・発展するためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないのである。だから、人間は、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。高校生が嫌々ながらも高校に行くのは、高校生という自我を失いたくないからである。次に、自我が他者に認められたいという欲動の第二の欲望についてであるが、これは、自我の対他化の作用をし、深層心理が、自我を他者に認めてもらうことによって、快楽を得ようとしているのである。人間は、他者に会ったり、他者が近くに存在したりすると、自我の対他化の視点で、人間の深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。深層心理が、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。ラカンは、「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)と言う。この言葉は、端的に、自我の対他化の現象を表している。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、深層心理の自我の対他化の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理の自我の対他化の機能によって起こるのである。そのために、深層心理が、怒りという感情と復讐という行動の指令という自我の欲望を生み出すことがあるのである。男子高校生は、同級生から馬鹿だと言われると、思わず、拳を握りしめることがあるのである。人間は、常に、深層心理が、自我が他者から認められるように生きているから、自分の立場を下位に落とした相手に対して、怒りの感情と復讐の行動の指令を生み出し、相手の立場を下位に落とし、自らの立場を上位に立たせるように、自我を唆すのである。しかし、深層肉体の意志による、深層心理の超自我のルーティーンを守ろうという思考と表層心理での現実原則の思考が、復讐を抑圧するのである。しかし、怒りの感情が強過ぎると、深層心理の超自我も表層心理での思考が功を奏さず、復讐に走ってしまうのである。そうして、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。人間は、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすとわかっていても、深層心理が生み出した感情が、深層心理の超自我も表層心理での思考を圧倒し、深層心理が生み出した行動の指令のままに、自我が動かされることがあるのである。人間の表層心理での思考、すなわち、理性には限界があるのである。ここに、人間の存在の問題の原点があるのである。次に、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという欲動の第三欲望についてであるが、これは、対象の対自化の作用をし、深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとする。対象の対自化は自我の志向性(観点・視点)で他者・物・現象を見ることなのである。対象の対自化には、有の無化と無の有化という作用がある。有の無化には二つの作用がある。その一つは、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えている。)という一文で表現することができる。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を思うように動かすことことができれば、深層心理は、喜び・満足感という快楽が得られるのである。校長の快楽は、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を支配しているという満足感である。社長の快楽は、会社という構造体の中で、会社員という他者を支配しているという満足感である。さらに、わがままも、他者を対自化しようという欲望から起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できることが物を支配しているということなのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えるということが現象を支配していることなのである。カントは理性という志向性で、ヘーゲルは弁証法という志向性で、マルクスはプロレタリア革命という志向性で、ハイデッガーは存在論という志向性で、フロイトは無意識という志向性で、現象を支配しようとしたのである。さらに、対象の対自化が強まると、「人は自己の欲望を心象化する」のである。「人は自己の欲望を心象化する」には、二つの作用の意味がある。その一つは、無の有化の作用であり、もう一つは有の無化の作用である。「人は自己の欲望を心象化する」の無の有化の作用の意味は、「人間は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造する。」である。人間は、自らの存在が不安だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子は自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子に求めるのである。神の創造、自己正当化は、いずれも、非存在を存在しているように思い込むことによって心に安定感を得ようとするのである。「人は自己の欲望を心象化する」の有の無化の作用の意味は、「人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込む。」である。犯罪者は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、服役しているうちに、犯罪を起こしていないと思い込んでしまうのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという欲望であるが、深層心理は、自我と他者の共感化という作用によって、その欲望を満たそうとする。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするためにあるのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合って、信頼できる構造体を作ることにあるのである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じ、自我の存在が確認できるからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなかったことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという目的であり、表層心理で、抑圧しようとしても、抑圧できなかったのは、屈辱感が強過ぎたからである。つまり、ストーカーになる原因は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという欲望が消滅することを恐れてのことという欲動の第一の欲望がかなわなくなったことの辛さだけでなく、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという欲望がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるからである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。二人が仲が悪くても、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れると、二人は協力して、立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象である。さて、人間は、ルーティーン通りの行動を行っている間は、深層心理が生み出した自我の欲望のままに行動するのである。しかし、深層心理が怒りなどの過激な感情とともに侮辱しろ・殴れなどのルーティーンから外れた過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できなかった場合、人間は、表層心理で、自我に利得を得ようという現実原則の視点から、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するかを思考するのである。それでは、なぜ、深層心理が過激な感情とルーティーンから外れた過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、超自我が抑圧できなかった場合、人間は、表層心理で、自我の存在を意識して、現実原則の視点から、思考するのか。それは、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自らの存在を意識するのは、他者の存在は脅威だからである。だから、人間は、他者の存在を感じた時、自らの存在を意識するのである。自らの存在を意識するとは、自らの行動や思考を意識することである。そして、自らの存在を意識すると同時に、思考が始まるのである。それが、表層心理理での思考である。さらに、無我夢中で行動していて、突然、自らの存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時も、突然、自らの存在を意識することがあるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自らの存在に危うさを感じた時、表層心理で、自らの存在を意識して、現実原則の視点から、思考するのである。ニーチェは「意志は意志できない」という。同じように、思考も意志できないのである。深層心理の思考が人間の意志によって行われないように、表層心理の思考も人間の意志によって行われないのである。人間が自らの存在を意識すると同時に、表層心理での思考が始まるのである。


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