あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、なぜ、快楽を求めて生きているのか。(自我その312)

2020-02-01 18:05:53 | 思想
人間は、なぜ、快楽を求めて生きているのか。しかし、この問いは、最初から躓いてしまう。なぜならば、人間は、誰しも、意識して思考して、そのような生き方を志向しているわけではないからである。すなわち、人間は、誰しも、意志して快楽を求めて生きているわけではないからである。人間は、誰しも、無意識に思考して、快楽を求める生き方をしているのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して思考して、意志で、快楽を求める生き方をしているのでは無く、人間の無意識のうちに、深層心理が思考して、快楽を求める生き方をしているのである。しかも、人間は、深層心理で、この世に、既に、快楽が存在していると思い、人間に、既に、快楽を感じる心が存在していると思っているから、人間に、快楽を求めて生きるという目標ができるのである。もしも、人間は、深層心理で、快楽がこの世に既に存在していると思っていなければ、また、快楽を感じる心が既に存在しなければ、生きる目標が生まれず、従って、生きる意味が存在しないのである。生きている充実感を覚えることもや生きがいを感じることも、快楽以外の何ものでも無いのである。つまり、人間は、誰しも、快楽を求めて生きることから外れた生き方はできないのである。だから、人間はなぜ快楽を求めて生きているのかという問いを立てても、人間は快楽を求めて生きるようになっているから、そのように生きるしか無いのだと答えざるを得ないのである。しかも、快楽を感じる心も深層心理であり、快楽を生み出す心も深層心理であるから、人間は、表層心理で意識して思考し、なぜ快楽を求めて生きているのかという問いに解答を与えようとしても、人間の無意識のうちで、深層心理が、快楽を求めて生きるようにしているから、解答は与えられないのである。快楽を求めて生きるしか道が無いのだと答えざるを得ないのである。しかし、確かに、人間の表層心理での思考は、深層心理の範疇には食い込むことができない。だから、人間の表層心理での思考は、深層心理の思考を動かすことはできない。しかし、人間を一現象として捉えるならば、深層心理の傾向を知ることができる。人間を一現象として捉えるならば、深層心理の傾向を理解することができるのである。人間を一現象として捉えるならば、深層心理が基点になり、人間の心理がどのように展開され、深層心理が、どのようにして、快楽を生み出しているのかがわかる。端的に言えば、人間は、自我の現象にしか過ぎない。深層心理は、自我を主体に立てて、自我の欲望を生み出し、快楽を得ようとする。つまり、人間は、常に、深層心理が生み出した自我の欲望によって動かされて、快楽を得ようとしているのである。それでは、自我とは何か。自我は、自分や自己とは異なる。自分や自己は、人間が、自らを指し示すだけの抽象的な存在でしかない。自我とは、自分や自己の具体的なあり方である。自我とは、人間の、構造体の中で、あるポジションを得て、その務めを果たすように生きている、自分や自己のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は社会的な動物だと言われるのは、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、組織・集合体という構造体の中で、ポジションを得て、それを自我として、他者と関わりながら、その務めを果たすように生きているからである。人間は、単に、他者と関わり合いながら暮らしているから、社会的な動物だと言われるのではなく、人間は、構造体の中で、自我を持って、他者と関わり合いながら暮らしているから、社会的な動物だと言われるのである。人間が人間であるためには、構造体に属し、自我を持っていることが、必須条件なのである。さて、構造体、自我には、さまざまなものがある。具体例を挙げると、次のようになる。家族という構造体には父・母・男児・女児などの自我がある。学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我がある。店という構造体には、店長・店員・客などの自我がある。仲間という構造体には、友人という自我がある。カップルという構造体には、恋人という自我がある。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民(日本人という庶民)という自我がある。都道府県という構造体には、都知事・道知事・府知事・県知事、都会議員・道会議員・府会議員・県会議員、都民・道民・府民・県民という自我がある。市という構造体には、市長・市会議員・市民という自我がある。町という構造体には、町長・町会議員・町民という自我がある。人間の最初の構造体は、家族であり、最初の自我は、男児もしくは女児である。フロイトが提唱した精神分析の思想に、エディプス・コンプレクスがある。エディプス・コンプレクスとは、男児は、母親に対して近親相姦的な愛情を抱き、父親を憎むようになるが、父親や社会がそれに反対し、家族という構造体から追放される虞があるので、意識にとどめることができずに、無意識(深層心理)の中に抑圧してしまう精神現象である。男児は、家族という構造体の中で、男児という自我を持ったから、エディプスの欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)を抱き、快楽を得ようとしたのである。男児の母親に対する近親相姦的な愛情は、単なる性欲という欲求ではなく、男児が、家族という構造体の中で、男児という自我を持ったから、深層心理が生み出した独占欲である。母親の愛情を自らだけのものにして快楽を得ようとしたから、父親と衝突したのである。もちろん、エディプスの欲望(母親に対する近親相姦的な愛情)は深層心理がもたらしたものであり、深層心理とは、人間の無意識の思考の働きであるから、男児には罪はない。思考とは、一般的に、人間が、表層心理で、意識して行うことを指しているが、実際には、人間は、まず最初に、深層心理が、人間の無意識のうちに、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。快感原則とは、フロイトの用語であり、道徳観や社会的な価値観を有さず、ひたすらその場でのその時での快楽を求め、不快を避けようとする欲望である。しかし、深層心理とは、人間の無意識の心の働きであるが、決して、無作為の動きも本能的な動きもしていない。深層心理も、思考するのである。深層心理は、人間の無意識のうちに、瞬間的に思考し、人間は、表層心理で、意識して、思考するのである。ラカンが「無意識は言語によって構造化されている。」と言っているのは、その謂である。ラカンの言う「無意識」とは、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、論理的に思考しているということを意味する。深層心理のの思考は、言語を使って論理的に為されているから、「言語によって構造化されている」と言うのである。つまり、深層心理は、人間の無意識のままに、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、論理的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出しているのである。人間は、無意識に、深層心理の生み出した自我の欲望のままに行動すれば、それは、無意識の行動となる。人間は、表層心理で意識せずに、深層心理が生み出した感情のなかで、深層心理が生み出した行動の指令のままの行動である無意識による行動が多い。特に、日常生活において、無意識による行動が非常に多い。ニーチェが言うように、人間を含めて森羅万象は、永劫回帰(同じことを永遠に繰り返す)なのである。だから、人間も、基本的に、ルーティーンに沿って毎日送るのである。ルーティーン通りに生活すれば、人間は、表層心理で考えないから、楽なのである。だから、人間は、基本的に保守的なのである。しかし、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、表層心理で、意識して、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出し行動の採否を思考することもある。表層心理での思考の結果が、意志による行動となるのである。現実原則とは、フロイトの用語であり、長期的な展望に立って、道徳観や社会的規約を考慮しながら、自我に利益をもたらそうとする欲望である。快感原則は、その時その場での快楽を求めようとするのだが、現実原則は、快感原則を超えて、後に、快楽を得ようとすることである。さて、深層心理は、次の三種類の機能を使って、快感原則を満たそうとする。第一の機能として、深層心理は、自我が他者に認められることによって、快楽を得ようとする。それが、自我に対する対他化という機能である。自我の対他化を細説すると、次のようになる。他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。認められたい、愛されたい、信頼されたいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、評価されること、好かれること、愛されること、認められること、信頼されることがあれば、喜びや満足感という快楽が得られるのである。自我の対他化は、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。第二の機能として、深層心理は、自我で他者・物・事という対象を支配することによって、快楽を得ようとする。それが、他者・物・事柄に対する対自化の機能である。他者・物・事に対する対自化の機能を細説すると、次のようになる。他者の対自化とは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。わがままな行動も、深層心理の他者を対自化することによって起こる行動である。物の対自化とは、自分の目的のために、対象の物を利用し、満足感という快楽を得るのである。事柄の対自化とは、自分の志向性で(観点・視点)で、事柄を捉えて、満足感という快楽を得るのである。他者・物・事柄という対象の対自化については、「人は自己の欲望を対象に投影する」(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、他者を支配しようとする。人間は、物を利用し、事柄を自らの志向性で捉えようとする。人間は、実際には存在しないものを、自己の欲望によって創造して、実際に、この世に存在しているように思い込む。)という言葉に集約されている。第三の機能として、深層心理は、自我と他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとする。それが、自我と他者の共感化である。自我と他者の共感化を細説すると、次のようになる。他者と理解し合いたい、愛し合いたい、協力し合いたいと思いで、他者に接することである。つまり、自我と他者のの共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。それがかなえられれば、喜び・満足感という快楽が得られるのである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の機能であり、連帯感という快楽が得られるのである。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。人間は、自我無くしては快楽を得られず、属する構造体無くしては自我が得られないから、自我に執着し、自我を保証する構造体に執着するのである。このように、人間は、深層心理が、構造体において、自我を主体に立てて、快感原則に基づいて、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとしているのである。人間は、自ら意識していないうちに、深層心理が、まず、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を、心の中に、生み出すのである。そして、そのまま。深層心理が生み出した自我の欲望のままに行動すること。すなわち、無意識の行動もあるが、人間は、表層心理が、深層心理の結果を受けて、自我を主体に立てて、現実原則に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について許諾するか拒否するかを意識して思考することもあるのである。これが広義の理性である。現実原則とは、長期的な展望に立って、自我に利益をもたらせようとする欲望である。人間は、表層心理で、意識して思考し、深層心理が出した行動の指令を許諾すれば、そのまま行動する。これが意志による行動となる。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。これが狭義の理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出すから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。しかし、その後、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多い。これが、所謂、感情的な行動である。また、先に述べたように、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに、表層心理で意識せずに、行動することがある。一般に、無意識の行動と言い、習慣的な行動が多い。それは、表層心理が意識・意志の下で思考するまでもない、当然の行動だからである。さて、人間は、誰しも、自由に生きたいと思っている。自由とは、深層心理が、快感原則によって、生み出した行動の指令のままに行動することである。しかし、深層心理の快感原則には、道徳観や社会的規約の志向性(観点・視点)が存在しないから、人間が、自由に行動すると、恐ろしい社会になる。短時間で、人類は滅びるだろう。しかし、ほとんどの人は、自らの自我に力が無いから、他者の非難を浴びるのが恐いので、人間は、表層心理で、現実原則に基づいて思考し、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧せざるを得ないと思っている。そこで、政治家・金満家・著名人となることを目指す。まさしく、権力者である。そうすれば、他者は、自我を認めてくれ、自我の欲望を追求しやすいからである。吉本隆明も、「人間の不幸は、わがままに生まれてきながら、わがままに生きられず、他者に合わせなければ生きていけないところにある。」と言っている。わがままに生きるとは、他者を対自化して、自分の力を発揮し、支配し、思うままに行動することである。他者に合わせて生きるとは、自我を対他化し、他者の評価を気にして行動することである。つまり、自分の思い通りに行動したいが、他者の評価が気になるから、行動が妥協の産物になり、思い切り楽しめず、喜べないのである。しかし、権力者・金満家・著名人になれば、他者や対象物や対象事の対自化をすることが、認められ、思い切り楽しめるのである。しかし、人間は、深層心理の対自化による自我の欲望を全て認められれば、自己の欲望のために、他者の命さえ、軽視するのである。深層心理の対自化による自我の欲望は、放置すれば、果てしなく広がるのである。だから、権力者・金満家・著名人に対して、警戒を怠ってはならないのである。しかし、大衆は、往々にして、「人は自己の欲望を他者に投影する」(人間は、実際には存在しないものを、自己の欲望によって創造する。)のであり、権力者を過大評価するのである。そして、権力者に利用されて、破滅の道を歩むのである。確かに、ニーチェの言う「力への意志」とは、弱い自我から脱却し、強い自我へと、自我の拡充を求める、深層心理の対象の対自化の欲望である。しかし、他者という対象を支配することでは無く、自我という対象を支配する欲望なのである。ニーチェは、自我という対象を支配することによって快楽を得ようとし、また、人々にそれを求めたのである。このように、人間は、本質的に、深層心理が、快楽を求めるように作られている。だから、快楽を求める生き方から逃れることはできない。しかし、どのような快楽を求めるかは、ひとえに、人間の個々人の、意識しての思考、すなわち、表層心理での思考に掛かっているのである。



コメントを投稿