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ジグザグ山歩き

山歩き、散歩、映画など日々、見たこと、聴いたこと、感じたことなどつれづれに。

悪人

2010-09-12 08:35:42 | 映画
『悪人』は、第34回モントリオール世界映画祭で深津絵里が最優秀女優賞を受賞した映画である。朝日新聞夕刊に連載され、毎日出版文化賞と大佛次郎賞を受賞した吉田修一の話題作を映画化した犯罪ドラマ。九州のとある峠で起きた殺人事件をきっかけに、出会い系サイトで出会った男女が繰り広げる逃避行と愛を描いたお話。監督は、『フラガール』の李相日。罪を犯してしまう肉体労働者である清水祐一(妻夫木聡)。唯一の趣味のクルマに乗るとき以外は、親代わりに暮らす祖父母の面倒を見る日々。保険外交員の佳乃(満島ひかり)は殺される。祐一と行動をともにする女性は紳士服量販店で働く光代(深津絵里)。また家族を奪われたものにも言及している。祐一の祖母・房枝(樹木希林)はマスコミに追われる姿などを表現し、佳乃の父親・佳男(柄本明)は愛する娘を失い、身勝手な大学生に憎しみを覚える。こうした脇を固める演技派俳優の存在も大きい。
台本で監督が意識したのが祐一にどうつながっているか、人間関係の真ん中に祐一を置いたと述べている。例えば、漢方薬で騙された房江のお金は祐一のために貯めていたエピソードも入れたとのこと。それはかわいそうなおばあちゃんという描き方だけではなく、自覚の問題でもあるとも言われる。また、この映画は複雑な現実社会をあぶりだしている。人にはいろんな側面があって、善意と悪意、両方持っている。誰でもどこで、加害者になり、被害者になってしまうかわからない。その中で、誰が悪人で、誰が善人なのかは簡単に見出せないところに、現実社会、そして法治社会の難しさがある。こうした中、孤独感、地方の閉塞感、介護の問題、悪徳商法、人間関係が希薄になった現代社会の問題等も多面的に描かれているように思われる。「何でもっと早く光代に会えんかったとやろ」。祐一の思いは多くの人が思ったであろう。

告白

2010-06-14 07:58:50 | 映画
「告白」を見た。ある中学校の教師森口悠子(松たか子)が、終業式のホームルームで衝撃の告白を始めた。「命」と大きく黒板に書く。数ヶ月前、自分の幼い娘が校内のプールで溺死した事故は、じつはこのクラスの中の2名による殺人だったという。そんな衝撃の事実を知らされながらも、まるで深刻にうけとめず、好き勝手に騒ぐばかりの崩壊学級の少年少女たち。だが悠子は少しもひるむ事無く、二人に復讐を考え、告げた「ある事実」により、生徒達を凍りつかせてしまう。そして4月、クラスはそのまま2年生に進級。犯人のひとりAはクラスのイジメの標的になっていた。そして、もうひとりの犯人Bは登校拒否し、自宅に引きこもっていた。二人の少年の闇も描いている。このように冒頭から2人の犯人を明らかにしている。それでも立場や目線によって異なる「告白」によって、真相が明らかになり、最後までスクリーンから目が離せない。確かに、HIVの感染の問題など無理な設定や無神経さも感じるところもあるが、いじめ、親子関係、ひきこもりなどの問題を扱い、リアリティと緊張感も伝わってくる。
原作を読んでから映画を観た。難しいテーマと内容を扱った問題作をほとんど原作に忠実に描いているのはすごいと思った。隣に座っていた女の子は泣いていたし、暴力的なシーンが多いためか、終わってから、グロいという声も聞こえてきた。ただ、単純に残酷映画に終わっていない、リアリティを追及しながら、色々な問題提議をしている映画でもあると思う。デリケートな大人に比べると、中学生はまだ他者の痛みを実感できるほど成熟していない。平気で人を傷つけてしまう。その一方で被害者にならないように巧妙に立ち回る。自分より弱い相手を見つけて、いたぶり相手より優位に立とうとしたり、自分を正当化するために相手を悪者にしたり、ネガティブな事から現実逃避するようにわざと明るく振舞う集団心理などリアルな演出がされている。そして、妄想が膨らんでいく。そんな危うい精神バランスと残酷性も描かれている。子どもの自己顕示欲や問題の背景も描いている。決して肯定はしないが、正論だけではない、奥深さもある。「なんてね」
2009年の本屋大賞を受賞した湊かなえのミステリー小説を、『下妻物語』『嫌われ松子の一生』の中島哲也監督が映画化している。

映画「小三治」

2010-06-13 11:19:29 | 映画
小三治の映画を見に行ってきた。以前に見てはいるのだが、そのときは宿直勤務明けで疲れきっていて、集中できなかった。今回、東京写真美術館のホールで上映されているので、再度、足を運んだ。監督は、鈴本演芸場などでの寄席、全国各地を巡っての独演会や落語会へ3年半同行し、噺家・小三治の姿を撮り続けた。また、多彩な趣味の世界に没頭する小三治をカメラは追う。「遊びは真面目にやらないと遊びにならない」という。師匠の小さんからは「おまえの噺は面白くない」といわれたことで小三治はもがき続けたという。志ん生からは、落語を面白くする秘訣は「面白くやろうと思わないことだよ。」そして、「落語はもともと面白くできているんだから、素直にそのままやればいいのだ。それを無理に笑わせようとしたり、わざと面白くやろうとするからつまらなくなっちゃう」といわれる。笑わせようとしなくてもいい、自然体が一番と思えるようになってきた。本物の芸とは無理に笑わせるのではなく、客が思わず「笑ってしまう芸」であるという信念ではないだろうか。落語も技術ではなく、究極的には心である小三治は語る。
登場人物の役割が変われば一瞬にして、表情や口ぶり、しぐさをなりきって変えることが出来るのも小三治の特徴であると席亭は言う。また、名人といわれる小三治が、「俺にはこの仕事は向いてないってことだね。自分が楽しくやれないってことはストレスの元です」などという。これだけ人をひきつける噺ができても、日々、悩みが大きく、格闘し続けている人間小三治の姿を知る。
何気なく、テーブルを拭いてしまう小三治は「柳家の伝統だよね、テーブル拭くの。小さんの癖だよね」。といって、弟子達がみんなおなじようなことをしているのを以前指摘されたことがあるという。まさに弟子は師匠の背中を見て育つことを強調している。
小三治が鈴本演芸場にての独演会の最終回、最後の一席で、初めての「鰍沢」を演じているが、それはそれでよかったが、やはり、落語は寄席など生で見るのが一番いい。
 終わってから、「世界報道写真展」を見て、午後は府中の映画館で「告白」を見る。「遊び」に夢中になった日である。

マイレージ、マイライフ

2010-05-24 09:39:32 | 映画
『マイレージ、マイライフ』は、今のアメリカ社会の現状や仕事と生き方、人と人とのつながりについてなどのテーマが盛り込まれている。
主人公のライアン(ジョージ・クルーニー)はリストラ宣告人。訴訟を恐れる企業に代わり、リストラ対象者にくびを言い渡す仕事である。年に322日間も出張している。結婚願望もなく家族とも距離を置く彼の唯一の目標は、航空会社のマイレージを1000万マイルためること。「バックパックに入らない物は背負わない」がモットーだ。面倒な人間関係を嫌い、出張先で出会った女性とその場限りの情事を楽しむ毎日だ。地に足のついた暮らしよりも忙しく動き回る自分の姿に酔っていて、一年中飛行機に乗り出張ばかりのなかで、ワンランク上のサービスを受けて優越感に浸る。仕事のストレスを紛らわすためにマイルを貯めている。しかし、一方で、マイルを貯めることはライアンにとっては救いでもある。仕事を続けるためには必要なことである。そのライアンは、彼と同じく出張で全国を飛び回っているアレックス・ゴーラン(ヴェラ・ファミーガ)と出会い、同じ価値観を持つ二人は意気投合、ベッドを共にする。そうした中、現れたのが、大学を首席で卒業した新入社員のナタリー・キーナー(アナ・ケンドリック)。出張を廃止してネットで解雇通告を行うシステムを提案。楽しみな出張を奪われてなるものかと猛反対のライアンだが、彼女の教育係を押し付けられた。そんな折、ライアンは姉のカーラ(エイミー・モートン)から、あることを頼まれる。3週間後に結婚する妹のジュリー(メラニー・リンスキー)のために、彼女と婚約者が写った看板を持ち歩き、出張する先々で写真を撮ってきてほしいということだ。看板はかばんからはみ出ている。ライアンはナタリーとともに出張を続ける。ナタリーは、人を“きる”ことで初めて目にした様々な人生に衝撃を受け、さらに自らの仕事を皮肉るかのように、恋人からメールだけで別れを告げられたことにショックを受ける。ライアン、ナタリー、アレックスが初めて顔を合わせた時、現代っ子ではあるが、結婚願望の強いナタリーは、アレックスに対して「気軽な関係」としか言えないライアンを非難する。しかし、ライアン自身も、気持ちが変化してきた。「バックパック」に何か入れたい、と思い始めてきた。
監督は『JUNO/ジュノ』『サンキュー・スモーキング』のジェイソン・ライトマン。
邦題は『マイレージ、マイライフ』であるが、原題は「UP IN THE AIR」である。上空からの撮影が多いのだが、地に足が着いていない、有頂天になっているという意味もあるかもしれない。ジョージクリーニのライアン、リストラ宣告人を演じているのだが、人間臭さがあって、いい味を出している。歳を重ねると哀愁が出てくるが、そういった雰囲気もある。人生、いっぱい背負っても、あの世には持っていかれないが、しかし、何も背負わない人生の寂しさも何気なく伝わってくる。どのようにして生きるかは人それぞれの生き方である。しかし、実際には自分の思うように生きていくことは難しいが、思うように生きたとしても、何かが埋まらない場合もある。なにを大切にしたらいいかはメッセージとして出している気がする。それでも世の中は単純ではない。

アイガー北壁

2010-04-10 18:19:21 | 映画
ベルリンオリンピック開幕直前の1936年夏、ナチス政権下のドイツで、国威発揚策の一環として、アイガー北壁登頂を利用しようとした。山岳史上最大の悲劇とも呼ばれる実話を基にした山岳映画。当時前人未踏だったアルプス連峰のアイガー北壁に挑んだドイツ人の山岳猟兵であるトニー・クルツとアンディ・ヒンターシュトイサー。後を追うオーストリア隊ともども順調に登頂を続けるが、オーストラリア人の負傷や悪天候などに見舞われ、断念する。成功者にはオリンピック金メダル授与が約束されて、マスコミも大いに盛り上がったが、登頂を断念した途端に冷たくなる。 ドイツ人新聞記者がナチスの国威発揚のため初登頂を利用しようとして麓のホテルから望遠鏡でトニーとアンディを追う。また、トニーのかつての恋人で、新聞記者をしているルイーゼの姿もあった。初登頂を目指す各国からの登山家や、世紀の瞬間を見届けようという報道関係者や見物客が集まってきていて、その対照的な姿も見所でもある。いずれにしても、この映画は、アイガー北壁の全景や、登山者の行く手を阻む自然の脅威を見事に表現した映像や壮絶な登頂の様子に圧倒された。

ハートロッカー

2010-04-02 19:19:48 | 映画
ハートロッカーは、戦時下のイラク・バグダッドで爆発物処理に従事する特殊部隊EODを扱った映画である。戦争は人を殺す行為であるが、爆弾処理班は人を救うことを扱う仕事であり、この映画の特殊性があるともいえる。2004年、イラク・バグダッド。駐留米軍のブラボー中隊・爆弾処理班の作業中に爆発が起き、班長のトンプソン軍曹が爆死してしまう。トンプソン軍曹の代わりに派遣されてきたのは、ウィリアム・ジェームズ二等軍曹。彼はこれまでに873個もの爆弾を処理してきたエキスパートだが、その自信ゆえか、型破りで無謀な行動が多かった。部下のサンボーン軍曹とエルドリッジ技術兵はあと39日でEODの任務から外れる予定だったが、恐れ知らずのジェームズにより、これまで以上の危険にさらされることになる。このように、この映画はイラク戦争で、爆弾処理のエキスパートとして従軍し死と間近で対面している兵士たちの葛藤のドラマを描いている。戦争に魅力を感じ麻薬のようにのめり込む兵士の姿を、不安定に動き回る手持ちカメラを使い、リアルな映像で描きだした。兵士の緊迫感、高揚感、虚無感などが良く伝わってくる作品となっている。
監督は「ハートブルー」「K-19」のキャスリン・ビグロー。第82回アカデミー賞では作品賞以下6部門を受賞、ビグローは女性で初めての監督賞受賞者となった。戦争特派員クリス・ヘッジの著作「戦争の甘い誘惑」からインスピレーションを得たといわれている。


映画『精神』

2009-11-29 17:10:27 | 映画
『精神』という映画を観た。監督は、ニューヨーク在住の映画作家・想田和弘。『選挙』(2007)に続く観察映画第2弾。
撮影は、岡山県岡山市の「こらーる岡山診療所」を主な舞台として、2005年の秋と、2007年の夏に行われた。延べの撮影日数は30日程度。約70時間分の映像素材を得た。編集作業はニューヨークで行われ、約10ヶ月間を要した。リサーチをしない、構成表やシノプシスを書かない、カットは長めに編集し余白を残す、といった具合である。撮影の大部分は、想田と想田の妻で製作補佐の柏木規与子の2名で行われた。舞踊家・振付家である規与子は、以前こらーるの行事で踊りを披露したこともあり、患者の多くと既に顔見知りだった。
これまでタブーとされてきた精神科にカメラをいれ、「こころの病」と向き合う人々を撮影している。前作『選挙』に続き、ナレーション・説明・音楽一切なしで、観客が自由に考え、解釈できる作品にしている。また、モザイク一切なしで描いたドキュメンタリーである。「被写体にモザイクをかけると、偏見やタブーをかえって助長する」と考えた監督は、素顔で映画に出てくれる患者のみにカメラを向けている。確かに見ていくうちに患者であるかどうかがわからなくなるところもあった。
 映画は、精神科診療所に集う人々の精神世界を通して、患者の精神のありようを探ると同時に、精神科医療を取り巻く課題も浮き彫りにする。こらーる岡山診療所は、現在も代表を務める山本昌知医師が中心になり、1997年に設立された。当事者本位の医療がモットー。「こらーる(合唱)」という名前には、「病める人の声に、それを支援する人が声を合わせることによって、合唱が生まれる」という意味が込められている。
 診療の場面では、山本医師は、励ましたり押し付けるのではなく、患者に「あなたはどうしたいの」と必ず聞き返している。なるべく当事者の考えを尊重し、寄り添う姿勢が感じられる。医師の個人的な損得ぬきで患者と接する場面も描かれている。患者の衝撃的な告白もあって、患者の悲惨さを考えると、福祉政策の貧困も垣間見られる。一方、映画が撮られ始めたのは小泉政権のもと、「障害者自立支援法案」が可決された2005年秋。「自己責任」や「受益者負担」のかけ声のもと、福祉政策や社会構造が改変期に突入しているのもあって、患者たちの生活や将来の展望に不安が増していた時期でもあって、その辺も結果的に描かれている。
想田は自分の観察映画を次のように説明している。
「観察映画は、世界を作者の視点で描写することに徹するのであり、映像や音声を「言いたいこと=メッセージ」に従属させないのである。 また、観察映画は客観主義にも組しない。それは、観察の主体=制作者がカメラを通して観たり体験したことを綴る主観的な表現方法である。(……)そもそも、僕は客観的なドキュメンタリーなど、原理的に存在し得ないと考えている。」
つまり、撮影者が或る社会的な場へ入っていき、主観的であっても、なるべく先入観なしに、その有り様を映し出すのが観察映画ということであろうか。
想田は自分がこらーる岡山診療所で一番強く感じた「わからない感」でしめくくりたかった、ともいっている。まさに観察映画であり、『精神』で感じた実感であろう。



THIS IS IT

2009-11-08 15:52:03 | 映画
映画「THIS IS IT」を観た。今年6月25日に急死したマイケル・ジャクソンが、ロンドンで開催するはずだったコンサート「THIS IS IT」のリハーサルと舞台裏を収めた音楽ドキュメンタリー。今年4月から死の直前まで100余時間分の同コンサートのリハーサル風景が録画されていたのをまとめている。楽曲やパフォーマンス映像、舞台裏でのマイケルの素顔が記録されている。監督は、ロンドン公演そのものの演出も務めていたケニー・オルテガ。
マイケル・ジャクソンはまさに米音楽界のスーパースターである。キング・オブ・ポップと彼が称されるのもうなずける。私は特別、ファンというわけではないが、この映画を観て、率直にすごさを感じた。色々な噂があったが、マイケルの真摯な姿と迫力あるステージには脱帽である。環境破壊への警鐘も訴えている。とても同年代の50歳とは思えぬ若さとエネルギー、素晴らしい歌とダンス。世界各国から選りすぐられたトップダンサーよりも、マイケルの方が上手である。最高の舞台を作るために、緻密なやり取りが行われ、真剣に取り組んでいる姿も印象的だ。
この映画で直接的には“死”については描かれていない。これほど完成度の高いリハーサルをみると、まさか、情熱的なマイケルが公演直前に亡くなるとは考えられないという声は多い。そうした中、麻酔薬プロポフォールを大量注射した主治医に殺人の疑いがかけられている。一方で、このリハーサルで、マイケルの演出は完璧を目指している姿もみえる。マイケルは完璧を狙って、自分で自分を追い込んでしまっていたところもあったのではないのだろうか。そして、リハーサルも完璧を求め、興奮した状況の中で行われ、連日、極度の不眠の状況に陥り、強い睡眠薬を使わなければならなくなったのではないかと分析する専門医もいる。真相はよくわからないが、マイケルジャクソンと言う稀代のエンターテイナーの残したものは大きい。ロンドン公演が実現していたら、確かに歴史に残ったと思われるが、こうして、ドキュメンタリーでも残されたというのは意義が大きい。マイケルジャクソンという天才ミュージシャンのすごさと人柄と目指そうとしたものが伝わってくる。それにしてもロンドン公演は実現してほしかったと強く思った。

ヴィヨンの妻

2009-10-17 19:51:27 | 映画
「ヴィヨンの妻」は生誕100年の太宰治の短編小説の映画化である。太宰の人生をからめながらも,太宰の作品の複数の物語を題材にしている。ヴィヨンというのは、高い学識を持ちながら悪事に加わり、逃亡・入獄・放浪の生活を送ったフランスの中世末期の近代詩の先駆者フランソワ・ヴィヨンのことである。(オフィシャルサイトより)
浅野忠信演じる作家の大谷は死ぬことばかり考えている。酒と女に依存している。男の弱い部分をさらけだしている。退廃的ではある。男は弱いな駄目だなーと思ってしまう。それでも、どこか憎めない。それにしても浅野忠信はかっこよすぎるし、顔色は健康そのものであるのが違和感を感じた。松たか子演じる妻の佐知はそんな夫を受け入れて、たくましい女性である。周りを明るくさせる魅力的な存在である。現代の風潮ではそぐわない男と女の関係かもしれないが、今でも通じるようなテーマがある気もした。サブタイトルは「桜桃とタンポポ」となっている。桜桃は痛みやすいけど甘味があって愛されるという意味をこめているらしい。一方、タンポポは、どんな環境にも対応して成長し、誠実な美しさを意味しているそうである。監督は最後の佐知の台詞のためにこの映画は存在すると言っている。最初の幼い時の「鉄管回し」のシーンから始まり、このシーンと最後のシーンは意味がある。太宰治の作品をうまくまとめていると思った。また、松たか子と広末涼子の競演も見所がある。すれ違いざまの広末涼子のあの微笑みは見事である。早速、太宰治の短編「ヴィヨンの妻」の部分だけ読んでみた。



レイチェルの結婚

2009-08-31 21:42:19 | 映画
精神疾患を抱えた人や家族の苦悩は大きい。その背景も何か深い過去があったりする。それを描いたのが「レイチェルの結婚」であるといえる。薬物依存症の治療施設を退所したキム(アン・ハサウェイ)は、姉のレイチェルの結婚式を控えた実家へと戻る。しかし、家族や新郎新婦の友人等が集っているが、みなの違和感のある態度を感じ、緊張感が走る。つまり、キムの存在が家族の緊張や衝突を引き起こしていく。お互いに眠っていた内面の葛藤がキムの存在によって、露になってくる。つまりそれぞれのトラウマが葛藤として出てくるのである。そこでおきる家族間の心理的な葛藤や苦悩がリアルに描かれている。精神的な疾患は、周りはなかなか理解しにくい、というよりはキムのようなパーソナリティ障害を抱えている人の全てを受け入れるのは非常に困難である。そこで衝突が生じたりする。それでも一触即発で、犠牲も出やすい面もあるが、こうした病気は苦悩や葛藤を避けて、過去を埋もれたままにしていては、克服されていかないのかもしれない。レイチェルの結婚をきっかけにして、何かが動いたようにも感じた。
また、この結婚式には白人、黒人、アジア人と様々な人種が集っている。レイチェルの夫は黒人である。自然になっている。黒人の大統領が生まれたアメリカである。時代の変化を感じる。
 シドニー・ルメットの娘ジェニー・ルメットが脚本。ジョナサン・デミ監督が「最も美しいホームビデオ」を目指し、リハーサル無しでの撮影で作られている。人間の内面の暗い部分を抉り出しているが、今のアメリカ社会の中で、共感する部分とか何か訴えるものがあると思われる。こうした低額で作られた小規模な映画であるが、アン・ハサウェイはアカデミー賞にノミネートされ、この映画も色々な賞をとって、高い評価を得ている。