連休に一泊2日、家族4人でバス旅行をした。郡上八幡や白川郷、飛騨高山、上高地を回る旅行である。バスの移動時間が長く、欲張りなコースなので、一つ一つの観光地は時間が短く、じっくり見ることができない。それでも上高地は90分の時間がとれたので、大正池でバスを降りて、河童橋まで歩くことができた。大正池では、穂高連峰や焼岳の眺めがよい。大正池は1915(大正4)年6月6日の午前に突然あらわれた池。焼岳が大噴火をおこし、その際に噴出した多量の泥流により梓川がせき止められてできた。大正池はできた当時、梓湖と呼ばれたこともあったが、大正年間にできたことから今の名称が定着した。河童橋のほうに歩いていく途中に、霞沢岳と六百山を望む梓川のほとりに、英国人宣教師ウォルター・ウェストンのレリーフ(石碑)がある。ウェストン氏は登山家として日本各地の名峰を制覇し、上高地にも訪れて山案内人・上條嘉門次とともに北アルプスに登る。そして上高地の魅力を1896(明治29)年、著書『日本アルプスの登山と探検』で世界に称賛している。「楽しみとしての登山」を日本に浸透させた功労者として、日本山岳会は氏の栄誉を称えて1937(昭和12)年に梓川沿いの広場にレリーフが掲げられた。河童橋まで来ると、たくさんの人でにぎわっていた。写真は、大正池と焼岳である。
大阪で研修があったので、大阪城に行った。最近山にあまり山に登れていないが、その分、城や歴史巡りが多くなった気がする。関ケ原や名古屋城に行ったり、沼田城・名胡桃城にも行った。大阪城は、ちょうど今、大河ドラマ「真田丸」の舞台にもなっているためか、平日だったけど、人でにぎわっていた。あまり時間がなかったので、天守閣は展望台に登って周りの展望を楽しみ、資料館は流すようにみた。大阪城のボランティアガイドさんに、40分ぐらいの時間で城内を案内していただき、石垣などの説明を受けた。案内していただけるとよくわかって、さすがに詳しいと思った。
豊臣秀吉が築いた大阪城には、秀吉は1年ぐらいしか住まなかったようである。豊臣秀頼は、1598年5歳の時に父秀吉が亡くなったあと伏見城から移り、23歳で自害するまで大阪城に住む。1614年秀頼と淀殿は、徳川との決戦を覚悟し籠城、15万とも20万ともいわれる幕府勢に「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」の二度にわたって攻め立てられ、1615年ついに豊臣政権は息の根を止められた。ここに、栄華を極めた豊臣家は滅亡し、比類なき大坂城は灰になった。現在、豊臣期の大坂城は土の下に埋もれている。石垣の積み方や石の刻印などから、江戸幕府が堀や石垣に至るまで天下普請によって造り直している。つまり、巨大な石垣や深い堀は、“秀吉の大坂城”ではなく、豊臣家が滅亡した後に、徳川家がつくったものである。ブラタモリで放映していた地下にある豊臣時代の石垣がみえる穴の蓋には、鍵がしっかりしてあった。大阪城は東、北、西の三方向が上町台地の崖となり、湿地帯に囲まれ、自然の地形の力で、強固に守られていた。幕末に徳川慶喜が大阪城から江戸に逃亡する際に出火し、建造物の殆どが焼失、更に終戦前日の大阪大空襲により焼失した。1665年に落雷によって消失した天守は昭和6年(1931)まで再建されず、266年間大坂城は天守を持たない城でもあった。その後、昭和40年(1965)に大阪城整備工事の一環として再建されたものでが現在の大阪城天守である。
豊臣秀吉が築いた大阪城には、秀吉は1年ぐらいしか住まなかったようである。豊臣秀頼は、1598年5歳の時に父秀吉が亡くなったあと伏見城から移り、23歳で自害するまで大阪城に住む。1614年秀頼と淀殿は、徳川との決戦を覚悟し籠城、15万とも20万ともいわれる幕府勢に「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」の二度にわたって攻め立てられ、1615年ついに豊臣政権は息の根を止められた。ここに、栄華を極めた豊臣家は滅亡し、比類なき大坂城は灰になった。現在、豊臣期の大坂城は土の下に埋もれている。石垣の積み方や石の刻印などから、江戸幕府が堀や石垣に至るまで天下普請によって造り直している。つまり、巨大な石垣や深い堀は、“秀吉の大坂城”ではなく、豊臣家が滅亡した後に、徳川家がつくったものである。ブラタモリで放映していた地下にある豊臣時代の石垣がみえる穴の蓋には、鍵がしっかりしてあった。大阪城は東、北、西の三方向が上町台地の崖となり、湿地帯に囲まれ、自然の地形の力で、強固に守られていた。幕末に徳川慶喜が大阪城から江戸に逃亡する際に出火し、建造物の殆どが焼失、更に終戦前日の大阪大空襲により焼失した。1665年に落雷によって消失した天守は昭和6年(1931)まで再建されず、266年間大坂城は天守を持たない城でもあった。その後、昭和40年(1965)に大阪城整備工事の一環として再建されたものでが現在の大阪城天守である。
娘がバスボランティアで、東北に何度か行っていたので、一緒に行こうと声をかけられて、申し込もうとすると、時期が悪かったのか、さすがにゴールデンウィークの始まりで満席であった。それなら、少しでも福島にお金を落としてこようかとこじつけて、安達太良山に登ろうという話になって、近くの岳温泉に宿泊を予約した。26日に車で娘を迎えに行って、娘は夜勤明けなので、車の中ではずっと寝ていて、運転はこちらでした。その日は岳温泉に、午後4時半ころに着いた。夕食はバイキングで、これがなかなかよいメニューで、食べ甲斐があった。次の日に安達太良山に登ろうとしたら、強風と雪のため、ゴンドラが動いていない。こんな日に登っても、上は何も見えないし、危険であるため、登るのをあきらめる。そのまま、五色沼の方に行き、ビジターセンターに立ち寄る。スライドで五色沼の説明を聞き、ためにはなったが、散策するにも、雨が降っているので、会津の方に向かう。結局、ちょうど大河ドラマの八重の桜が放映中で混みそうだからと敬遠していた鶴ヶ城に向った。流石ににぎわっていたが、雨は止んで、見事な桜が城とセットで見ることが出来た。しかもボランティアガイドの話を聞くことが出来て、会津の歴史などを詳しく説明していただき、石垣の種類や組み方にも工夫がなされていることなどを知って、なるほどと思った。新島八重物語の紙芝居も見ることが出来た。大河ドラマ館にも入ったので、新島八重づくしであった。その日は磐梯山温泉ホテルに宿泊する。
次の日は、五色沼の方に行こうとしたら、ゴールドラインが凍結しているということで、どうしようかと迷い、安達太良山のゴンドラは動いているかを確かめるために電話を掛けると、動いているということだったので、急遽安達太良山に登ることにした。しかし、行ってみると、ゴンドラは動いているが、強風のため、止まるかもしれないという話だった。とりあえず乗ってみることにした。やはり上は雪景色で、視界は見えない。それでも人がたくさん歩いているので、心強い。ガスっている中、雪の上を歩いていくが、山頂は風が強くて、じっとしていられない。早々に下りてくると、徐々に天気が回復をしてきて、ガスっていて見えなかった霧氷も下りになるとよく見えてきて、なかなかの見ごたえのある風景になった。安達太良山に空はあった。薬師岳に下りてくると、安達太良山のおっぱいの形もよく見えてきて、なるほどと思った。娘は他の言い方はないのかという。帰りは途中からしっかり娘に運転をしてもらった。
次の日は、五色沼の方に行こうとしたら、ゴールドラインが凍結しているということで、どうしようかと迷い、安達太良山のゴンドラは動いているかを確かめるために電話を掛けると、動いているということだったので、急遽安達太良山に登ることにした。しかし、行ってみると、ゴンドラは動いているが、強風のため、止まるかもしれないという話だった。とりあえず乗ってみることにした。やはり上は雪景色で、視界は見えない。それでも人がたくさん歩いているので、心強い。ガスっている中、雪の上を歩いていくが、山頂は風が強くて、じっとしていられない。早々に下りてくると、徐々に天気が回復をしてきて、ガスっていて見えなかった霧氷も下りになるとよく見えてきて、なかなかの見ごたえのある風景になった。安達太良山に空はあった。薬師岳に下りてくると、安達太良山のおっぱいの形もよく見えてきて、なるほどと思った。娘は他の言い方はないのかという。帰りは途中からしっかり娘に運転をしてもらった。
隅田川の花火大会を観にいった。その日、昼間は映画「インセプション」をみたのだが、前日までの2泊3日の海での行事の疲れがどっと出てきてしまったのか、うつらうつら寝ながら見てしまった。ワンシーンワンシーンが意味があって、内容の深い映画ではあるとは思うが内容を理解する前に寝てしまったのはもったいなかった。夕方になっても、暑さがひかない中、相方と一緒に両国駅まで行き、娘とも待ち合わせをしていたので合流した。噂にたがわない人であふれていた。駒方橋や吾妻橋を一方通行のところを警察官の誘導で歩きながら見る。花火はきれいだし、ドカーンと打ち上げられて、気持ちは昂ぶる。色鮮やかな光の競演である。吾妻橋では、警察官の花火はきれいですが、立ち止まらないでくださいと繰り返しアナウンスが流れていた。警察官は、我々は見たくても見えないのですから、仕事に協力してくださいとか、警官にカメラを向ける人もいたので、われわれを撮らなくてもいいですから、とにかく進んでくださいと思わず笑いをとりながら話をしていたアナウンスもあった。吾妻橋からはスカイツリーを見ながら押上駅の方に歩いて、帰路についた。人がいっぱいで疲れたけど、夏の風物詩を楽しむことができた。
調布から自転車で、多摩川をずっと下って、羽田空港まで行った。職場で、高校生が前々から行きたがっていたので、進路が決まったら行こうという話をしていた。進路が決まり、一緒に行くことにした。調布の職場を9時40分に出て、ターミナルには12時頃に着く。そこでお昼を食べて、ターミナルの中を歩いて回って、帰ってきた。高校生の乗る自転車は早いので、どんどん先に行き、ついていくのが精一杯。
行きは、登戸の橋で、神奈川側に渡り、丸子橋で東京側に戻ってきた。弁天橋あたりから飛行機が見え初めて、海の香りもしてきた。漁船もあって、都心らしくない雰囲気もあった。羽田というと、埋立地であるので、空港のある町というイメージであるが、海に囲まれたこの土地は、かつて「羽田猟師町」(漁師町ではない)とも呼ばれていて、漁業の盛んな町だったらしい。まだ名残は残っている雰囲気だった。
羽田に飛行場が開設されたのは1931年であり、羽田の町は敗戦直後の1945年9月に羽田の飛行場をGHQが軍事基地にするために撤収し、海老取川以東(つまり、現在の空港構内)に住んでいた約1200世帯、3000人に対して、48時間以内の立ち退きが命じられたという。そのことを記した碑もあった。弁天橋には赤い鳥居があって、いわくつきである。穴守稲荷神社の跡地に旅客ターミナルビルが建つことになり、鳥居は取り壊されることになっていたが、けが人が続出し、祟りがどうのこうので騒がれた。ターミナル前の駐車場に移され、その後、空港拡張計画により、今ある弁天橋東詰めの地へ移設されている。ある意味、海だから、どんどん空港も拡張ができるわけである。弁天橋からターミナルまでは結構距離もあった。
帰りは東京側をずっと自転車で走らせる。帰りは、さすがに少しお尻が痛くなったり、足腰がきつくなったりしながらも、帰り着くことが出来た。その高校生はまだ余力を十分残している感じであった。羽田まで自転車でいけたことに大変満足して、喜んでいたのは何よりであった。
行きは、登戸の橋で、神奈川側に渡り、丸子橋で東京側に戻ってきた。弁天橋あたりから飛行機が見え初めて、海の香りもしてきた。漁船もあって、都心らしくない雰囲気もあった。羽田というと、埋立地であるので、空港のある町というイメージであるが、海に囲まれたこの土地は、かつて「羽田猟師町」(漁師町ではない)とも呼ばれていて、漁業の盛んな町だったらしい。まだ名残は残っている雰囲気だった。
羽田に飛行場が開設されたのは1931年であり、羽田の町は敗戦直後の1945年9月に羽田の飛行場をGHQが軍事基地にするために撤収し、海老取川以東(つまり、現在の空港構内)に住んでいた約1200世帯、3000人に対して、48時間以内の立ち退きが命じられたという。そのことを記した碑もあった。弁天橋には赤い鳥居があって、いわくつきである。穴守稲荷神社の跡地に旅客ターミナルビルが建つことになり、鳥居は取り壊されることになっていたが、けが人が続出し、祟りがどうのこうので騒がれた。ターミナル前の駐車場に移され、その後、空港拡張計画により、今ある弁天橋東詰めの地へ移設されている。ある意味、海だから、どんどん空港も拡張ができるわけである。弁天橋からターミナルまでは結構距離もあった。
帰りは東京側をずっと自転車で走らせる。帰りは、さすがに少しお尻が痛くなったり、足腰がきつくなったりしながらも、帰り着くことが出来た。その高校生はまだ余力を十分残している感じであった。羽田まで自転車でいけたことに大変満足して、喜んでいたのは何よりであった。
3月の終わりに、少年団の付き添い兼運転手で、あいかわ公園、宮が瀬ダムに行った。伝道から蛭ヶ岳に登るときによく、車で宮が瀬湖の近くを通っていた。ゆっくり宮が瀬ダムに行くこともなかったので、今回は子ども達と一緒に行って、大きなダムを見ることが出来た。観光地として、大々的に開発がされてきたのを感じた。あいかわ公園もアスレチックがあったりして、子どもは楽しめる。ふれあい広場には『ふわふわドーム』があり、子ども達はジャンプして、はしゃいでいた。花の斜面もあって、もう少し経てば、花がいっぱいになって、見ごろを迎えそうであった。宮が瀬ダムは156mもあり、下からみあげると高い。上にエレベーターであがると、展望が開けている。横浜方向が見え、ランドマークが見えた。湖の上には丹沢山などの山もあった。『水とエネルギー館』があって、入ってみた。故障中も多かった。無料であるので、予算も限られて、修理がおぼつかないのかもしれない。ダムの上から、高取山や仏果山も登れるようなので、いずれこのコースを歩いてもいいかもしれない。
妻の両親と、妻の兄弟の3家族で、福島県いわき市にあるスパリゾートハワイアンズに行った。ここは、もとは常磐炭鉱が危機的な状況に置かれた中、町おこし事業として起こした常磐ハワイアンセンターである。ここを舞台として描いた映画が、フラガールである。名称「常磐ハワイアンセンター」を「スパリゾートハワイアンズ」に発展的変更を行われてきている。映画「フラガール」が公開されたこともあり、最近では、観光客も増加しているようである。
ここで、温泉に入ったり、フラダンスショーを見たりして、楽しんだ。温泉は、でかい大浴場があったり、「江戸情話 与市」は、江戸時代の雰囲気がある大露天風呂があった。また、次の日は、距離はあったが、妻の両親を連れて、会津若松の鶴ケ城まで観光。途中の高速道路では磐梯山が良く見えた。子ども達は、プールに入ったりする。スパリゾートハワイアンズは、ハワイをモチーフにしているだけあって、雰囲気もかもし出して、浴衣代わりにアロハ風の服を着て過ごす。さすがにダンスは見ごたえがあり、映画「フラガール」の雰囲気をここで味わった。
ここで、温泉に入ったり、フラダンスショーを見たりして、楽しんだ。温泉は、でかい大浴場があったり、「江戸情話 与市」は、江戸時代の雰囲気がある大露天風呂があった。また、次の日は、距離はあったが、妻の両親を連れて、会津若松の鶴ケ城まで観光。途中の高速道路では磐梯山が良く見えた。子ども達は、プールに入ったりする。スパリゾートハワイアンズは、ハワイをモチーフにしているだけあって、雰囲気もかもし出して、浴衣代わりにアロハ風の服を着て過ごす。さすがにダンスは見ごたえがあり、映画「フラガール」の雰囲気をここで味わった。
職場の職員旅行で、大井川鉄道に乗って、寸又峡に行った。
大井川本線は、大井川を縫うように走り、大井川を何回か渡る。
金谷から終点の千頭まで、SLが走っており、11時58分発のSLに乗った。
平日なのに金谷駅では人でごった返しており、たくさん乗り込んだ。
SLでは、名物車掌の杉森康之さん(62)が、車両や近隣の案内を名調子で話をしてくれた。各車両も回ってハーモニカ等も披露してくれた。SLからは、煙がよくでていて、雰囲気はあるが、近隣住民の洗濯物が汚れるなと少し、気にはなってしまった。
千頭からはバスで寸又峡のホテルまで送ってもらって、ホテルで荷物を置いて、寸又峡の夢のつり橋を渡るハイキングコースを歩いた。何人かで歩き、気持ちのよい散策ができた。寸又峡は繁華街もなく、奥まったところにあるので、静かな雰囲気であった。
寸又峡のホテルに泊って、大井川にかかっている蓬莱橋に行った。蓬莱橋は大井川にかかる橋で、島田市街地から牧之原台地(茶畑)を結ぶ農道であり、歩行者と自転車が通行できる。全長897.4m、通行幅2.4mの全国でも数少ない木造の賃取橋でもある。平成9年に「世界一長い木造歩道橋」(897.4m)としてギネス社に認定されたそうだ。橋を往復して、歩いた。2日目の昼は焼津の魚センターで食べて、帰路に着いた。
大井川本線は、大井川を縫うように走り、大井川を何回か渡る。
金谷から終点の千頭まで、SLが走っており、11時58分発のSLに乗った。
平日なのに金谷駅では人でごった返しており、たくさん乗り込んだ。
SLでは、名物車掌の杉森康之さん(62)が、車両や近隣の案内を名調子で話をしてくれた。各車両も回ってハーモニカ等も披露してくれた。SLからは、煙がよくでていて、雰囲気はあるが、近隣住民の洗濯物が汚れるなと少し、気にはなってしまった。
千頭からはバスで寸又峡のホテルまで送ってもらって、ホテルで荷物を置いて、寸又峡の夢のつり橋を渡るハイキングコースを歩いた。何人かで歩き、気持ちのよい散策ができた。寸又峡は繁華街もなく、奥まったところにあるので、静かな雰囲気であった。
寸又峡のホテルに泊って、大井川にかかっている蓬莱橋に行った。蓬莱橋は大井川にかかる橋で、島田市街地から牧之原台地(茶畑)を結ぶ農道であり、歩行者と自転車が通行できる。全長897.4m、通行幅2.4mの全国でも数少ない木造の賃取橋でもある。平成9年に「世界一長い木造歩道橋」(897.4m)としてギネス社に認定されたそうだ。橋を往復して、歩いた。2日目の昼は焼津の魚センターで食べて、帰路に着いた。
「鵜呑みにする」という言葉は、鵜が口にした魚は噛まずに丸呑みにするため、人の言葉の意味を理解しないまま、相手の言葉を信じ込んでしまうという意味で使われている。
家族で愛知の実家に行ったときに、名古屋の街を歩き、矢場町で、特産物フェアーをしており、そこで鵜飼の実演をしていた。とても興味深いものであった。
鵜飼は、魚をのみ込む鵜の習性を利用した漁法である。本来の鵜飼は、鵜匠が10から12羽の鵜を手縄さばきで操り、鵜が次々に魚を捕っていく日本の伝統漁法の一つである。かがり火の明かりや櫂を船べりに打ち付ける音にびっくりして、逃げる鮎を、捕えていくそうである。
鵜匠は、木綿でできた紺色の漁服(りょうふく)に胸あて、ザッと開いたスカート状の腰蓑(こしみの)を身につけ、風折烏帽子(かざおりえぼし)を被り、足中(あしなか)を履いた姿を説明した。
風折烏帽子は篝火から頭髪を守り、胸あては火の粉や松ヤニをよけ、腰蓑はワラででき、寒さと水を防ぐ。足中は普通のワラジの半分の長さしかないが、船底が魚の脂で滑りやすいので、滑りにくくしている。
実演では、鵜匠が籠から一羽の鵜を取り出す。首ひもで途中まで縛ってあった。この手ごろな縛り方が難しいようである。アユを次から次へと飲ませて首紐で縛られているところまでたまり、その後、一挙に吐かせた。手早い作業である。鵜は鮎の向きを変えながら、頭から飲み込んでいる。鵜は渡り鳥で、野生であり、神経質なため、一旦人間の手が加わると、繁殖能力もなくなる。オスかメスかの区別もつかないとも言われた。
鵜匠の仕事は、鵜飼をするための準備などで、腰みのも手作りで、365本の藁で作ったり、鵜飼の時期よりシーズンオフの方が返って忙しいともいわれる。実演していただいた人も16年の経験であるが、鵜飼は奥が深くて、一生突き止められない技であることを強調された。伝統技も、日々精進の中で行われていると思った。
家族で愛知の実家に行ったときに、名古屋の街を歩き、矢場町で、特産物フェアーをしており、そこで鵜飼の実演をしていた。とても興味深いものであった。
鵜飼は、魚をのみ込む鵜の習性を利用した漁法である。本来の鵜飼は、鵜匠が10から12羽の鵜を手縄さばきで操り、鵜が次々に魚を捕っていく日本の伝統漁法の一つである。かがり火の明かりや櫂を船べりに打ち付ける音にびっくりして、逃げる鮎を、捕えていくそうである。
鵜匠は、木綿でできた紺色の漁服(りょうふく)に胸あて、ザッと開いたスカート状の腰蓑(こしみの)を身につけ、風折烏帽子(かざおりえぼし)を被り、足中(あしなか)を履いた姿を説明した。
風折烏帽子は篝火から頭髪を守り、胸あては火の粉や松ヤニをよけ、腰蓑はワラででき、寒さと水を防ぐ。足中は普通のワラジの半分の長さしかないが、船底が魚の脂で滑りやすいので、滑りにくくしている。
実演では、鵜匠が籠から一羽の鵜を取り出す。首ひもで途中まで縛ってあった。この手ごろな縛り方が難しいようである。アユを次から次へと飲ませて首紐で縛られているところまでたまり、その後、一挙に吐かせた。手早い作業である。鵜は鮎の向きを変えながら、頭から飲み込んでいる。鵜は渡り鳥で、野生であり、神経質なため、一旦人間の手が加わると、繁殖能力もなくなる。オスかメスかの区別もつかないとも言われた。
鵜匠の仕事は、鵜飼をするための準備などで、腰みのも手作りで、365本の藁で作ったり、鵜飼の時期よりシーズンオフの方が返って忙しいともいわれる。実演していただいた人も16年の経験であるが、鵜飼は奥が深くて、一生突き止められない技であることを強調された。伝統技も、日々精進の中で行われていると思った。