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ジグザグ山歩き

山歩き、散歩、映画など日々、見たこと、聴いたこと、感じたことなどつれづれに。

大関ヶ原展

2015-04-15 20:58:07 | 美術館、博物館

江戸東京博物館で開かれていた大関ヶ原展を観に行ってきた。日曜日ということもあってか、非常に混んでいた。根強い人気である。人が多すぎて、思うように見れない。確かに行列があまり進まないので、その分、ゆっくり見えるのだが、屏風とかの全体像とかがわかりにくいし、好きなところでじっくり見ることはできなかった。
この大関ヶ原展は、現存する最古の「関ケ原合戦図屏風」をはじめ、本多忠勝ら徳川四天王の具足や槍、石田三成の愛刀「正宗」、島左近の兜、大谷吉継の刀、家康にもたらされた「洋時計」など、国宝、重要文化財を含め、約150点以上が出品されている。また、ジオラマ・プロジェクションマッピングで、関ヶ原の合戦の様子を時系列に紹介して西軍、東軍それぞれどのような陣形を組んでいたのか、何時ころ形勢に変化が見られたのか、裏切った者は誰だったのか等々わかりやすかった。宇喜多秀家の寝返りや、大谷の踏ん張り、島津家のわずかな手勢で敵陣を突破して逃げ抜いた説明はわかりやすかった。
さらに、関ヶ原合戦前日に密約を交わした誓約書など、関ヶ原合戦にまつわる貴重な古文書を展示。有力武将たちがしたためた文書から、“信頼”“裏切り”“凋落”などが読み取れ、当時の情報戦が浮かび上がってくる。天下分け目の関ヶ原合戦のみならず、“戦場外の戦場”も読み解いている。戦場で家康を象徴した金の扇、結構大きいのには驚いた。長く江戸城に保管されていたもので、実際に慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)の関ヶ原の戦いでも用いられたそうである。本多忠勝の『蜻蛉切』。その切れ味を表して蜻蛉が刃先に止まっただけなのに真っ二つになったと言われる。鋭く光っていた。

以下、関ヶ原の戦いを覚書で、メモしておきたい。
福島(東)対 宇喜多(西)この両軍の激突で始まった戦は(一説には、先鋒の福島隊より先に、井伊、松平の小隊が仕掛けたとも言われる)各所で激戦が展開されていく。1600年7月、石田三成 は 「徳川討伐」 の挙兵を宣言!関ヶ原という場所は四方を山に囲まれたくぼ地であり、その中に入った東軍を、山の上に布陣した西軍が完全に包囲している状況。これは誰がどう見ても 「西軍有利」。実際、後世にこの布陣図を見たドイツ軍の将校も、見た瞬間に「西軍必勝!」と叫んだそうである。
大谷吉継(西)の孤軍奮闘、黒田、細川(東)と石田三成隊の死闘など、後世に語り継がれた名勝負が続く中、一方で数々の諜報、謀略という裏側での駆け引きも密かに進んでいた。 関ヶ原には参加はするが動かない勢力。寝返りを思慮する者達。多くの武将が、疑心暗鬼の不安を抱える中、西軍の大勢力である小早川秀秋が動いた。徳川方からの調略の結果か、石田三成への私怨(三成の報告により、大幅な減封を受けた)か、味方であるはずの大谷隊に軍勢を向けたのだ。多勢に無勢の大谷隊は玉砕。圧倒的有利と言われた西軍は、これを境に大混乱に陥り、敗退した。
石田光成は「内府ちかひの条々」 を交付して諸国の大名に集結を呼びかけた。「内府ちかひの条々」 の 「内府」 とは 徳川家康 の事で、「ちかひ」 とは 「違い」、つまり間違っているという意味。その内容は、家康 が勝手に婚姻(結婚)や知行(領地)の斡旋を行ったり、無実の 前田家 や 上杉家 を攻撃しようとしたり、他にも勝手に手紙をやり取りしたとか、城の一部を無断で改修したとか、大なり小なり様々な 徳川家康 の罪状を並べたて、家康の討伐を訴えた文章(檄文)。そして、豊臣五大老の中国地方の大名 「毛利輝元(毛利元就の孫)」 を総大将として軍勢を整え、関所を封鎖して西側の大名家が 徳川軍 に参加できないようにし、さらに 大阪城 にいる東軍の武将の家族を人質に取って、必勝体制を整えて、挑んだ。しかし、石田三成 と他の 「武断派」 の武将の確執は、「朝鮮出兵」 の中で起きていたといわれる。石田光成はもともと 豊臣秀吉 の一番の側近で、秀吉に様々な報告を行ったり、秀吉の命令を各地に伝達する役目を持っていた。そのため彼によって、失敗や罪状を秀吉に報告され、処罰を受けた人が多くいたのである。それでいて自分は 豊臣家 のトップにいる彼は、とにかく多くの武将から陰口を叩かれまくる存在であった。そこで、小早川秀秋も大の 石田三成 嫌い!だった。と言うのも、朝鮮出兵の時の彼の失態を 石田三成 が 豊臣秀吉 に詳細に報告し、彼は 秀吉 におもいっきり怒られたあげく、領地も没収されていたのである。しかもそのあと、彼と 秀吉 の仲を取り持ってくれたのは他ならぬ 徳川家康 であった。
関ヶ原の戦いで一進一退の最中、徳川家康は痺れを切らし、小早川秀秋 の部隊に鉄砲隊を向け、一斉射撃した!東軍から鉄砲を撃たれたのだから 小早川秀秋 は怒って西軍に付きそうだが、秀秋 はこれにビビって 「家康が怒っている!」 と思い、あわてて寝返りの準備を始めた!徳川家康 が 小早川秀秋 が小心者であることを見越して行った催促だったとも言われている。関ヶ原が東軍の勝利に終わると、家康は寝返った小早川秀明らの軍勢に石田光成の佐和山城を攻め落とさせるとともに、大阪城を接収する必要があり、そこには豊臣秀頼親子がいて、さらには西軍の大将的な位置にいる毛利輝元がいて、黒田長政・福島正則を介して、輝元を大阪城から退去させ、開城を実現した。
この戦いで徳川についたものは、300年の栄華が待っていたし、刃向かった者に栄華が訪れるのは、明治維新まで待たないといけなかったといわれる。また、明治維新の主力になった、薩摩藩、長州藩、長宗我部系の坂本龍馬を代表とする土佐浪士たちは、すべて関ヶ原で敗者になった末裔で、その彼らが幕府を倒すパワーの源になったといわれるのも歴史は続いていたのかもしれない。

チューリヒ美術館展

2014-11-09 17:06:26 | 美術館、博物館
 チューリヒ美術館展が国立新美術館(六本木)で開かれていたので、観に行ってきた。スイスが誇る美の殿堂チューリヒ美術館。18世紀末にチューリヒの町の芸術家や鑑定家たちが立ち上げた小さな集まりに端を発し、積極的な作品購入とコレクターからの寄贈に支えられ、現在、2万人のチューリヒ芸術協会の会員に支えられている。中世美術から現代アートまで10万点以上の作品を所蔵している。本展ではチューリヒ美術館の近代美術コレクションから74点を紹介。印象派を代表するモネの大作、セザンヌ、ゴーギャン、ルソーらポスト印象派の代表作や、ホドラー、ヴァロットン、クレー、ジャコメッティといったスイスゆかりの作家の珠玉の作品、カンディンスキーやモンドリアンら抽象画家の名作、さらにはムンク、マティス、シャガール、ピカソ、ミロといった20世紀美術の巨匠の作品など、まさに「すべてが代表作」といえる作品が並んでいる。会場は、ムンクやシャガールなど一人の芸術家を特集した「巨匠の部屋」が8室と、表現主義やシュルレアリスムなど美術運動を紹介する「時代の部屋」が6室、計14室を交互に辿る、珍しい構成となっている。「巨匠の部屋」では、出品されているのは幅6メートルにおよぶモネの大作《睡蓮の池、夕暮れ》は見どころである。また、初期から晩年まで各時代のシャガールの代表作6点が展示されている部屋も、特に印象に残った。セガンティー、ホドラー、ヴァロットン、ココシュカ、クレー、ジャコメッティなどスイスゆかりの巨匠の部屋もあり、まとめてみられる貴重な機会であった。ホドラーは左右対称にものを描く(パラレリズム)が特徴である。人物や風景など対象に合わせて輪郭の描き方も変えていて、独特な輪郭の描き方をしている。ヴァロットンは冷静に対象物を描いた画家で、イメージでいうと一瞬一瞬の場面を描いているようである。ヴァロットンは輪郭よりも、色使いで対象物をきちんと描いた画家といわれる。ココシュカは表現主義(感情を作品に反映させて描く事をいう)の画家と言われているが、元々詩人的感性もあってか、独自の道を進んだ画家といわれている。「時代の部屋」では、セザンヌの傑作《サント=ヴィクトワール山》をはじめ、ファン・ゴッホ、ルソーなどのポスト印象派の部屋、ピカソとマティスの対比が際立つキュビスムとフォーヴィスムの部屋、ミロ、ダリ、キリコ、マグリットのシュルレアリスムの部屋まで近代美術の歴史を一気に紹介している。今回の展覧会の流れとして、対象物を描くことからはじまり、印象派のように対象物を自分の感覚で描く様になり、そして、表現主義のように対象物の内面を描くことを目指していった。さらに、抽象絵画や近代絵画など抽象的な表現をするようになっていったともみれるようである。
 世界的な金融都市でもあるチューリヒの富と、スイスの人々の美への慧眼を象徴するようなチューリヒ美術館展は、日本とスイスの国交樹立150年を記念する展覧会でもある。2017年には新館を完成させて、スイス最大の美術館となるそうである。

101年目のロバートキャパ

2014-04-13 22:20:52 | 美術館、博物館
恵比寿にある東京都写真博物館に行き、「101年目のロバートキャパ」展と「黒部と槍」展を見てきた。目的はロバートキャパ展であったが、「黒部と槍」展も行っていたので、これも見たいと思って、見てきた。「黒部と槍」は、黒部の主と呼ばれた冠松次郎(かんむりまつじろう)、槍ヶ岳周辺の登山道を整備した小屋主の穂苅三寿雄(ほかりみすお)の撮影した山岳写真の展示である。大正時代、昭和初期の撮影で、もちろんモノクロではあるが、迫力のある写真が並んでいた。
キャパは戦時下にあって、同時代に生きた人々を映し続けたともいえる。特に、人の表情やしぐさなどをとらえるのが上手い。戦車の上で鼻をほじる男の子の写真もある。カメラを手に、戦場を駆け抜けたキャパは戦場以外でも人の喜びや悲しみ、苦悩の表情をとらえている。ユーモアあふれる作品がならび、人間に対する愛情や暖かみなども感じる。キャパは人柄的にも女性にもてて、イングリッドバーグマンとも恋に陥り、バーグマンからは結婚を切望されたともいわれる。女性の魅力もうまく引き出している。今回、最愛の女性といわれているゲルダ・タローの眠る写真も日本で初公開されている。キャパが最後に使っていたNikonのカメラや印刷原稿用にプリントしたビンテージプリントも展示してあった。

101年目のロバートキャパ」展
40年の生涯の中でスペイン戦争など5つの戦場を写した写真家として知られるキャパですが、約7万点とも言われる作品の中には、同時代を生きる人びとや友人たちへの思いをこめて写されたカットが数多く存在します。
本展は、キャパの真骨頂ともいえるユーモアや生きる喜びが表れた作品を中心に構成し、編集者としてキャパの盟友であり続けたジョン・モリス氏へのインタビュー映像などを通して、次の100年に向けた新たなキャパを見ていただく機会になります。
「伝説のカメラマン、キャパ」ではなく、挫折や失意を味わいながらも、笑顔を忘れず多くの友人と友情を深め、女性たちと恋に落ちたボブ(キャパの愛称)の等身大の魅力をこの機会にご覧ください。
(公式ページより)


「黒部と槍」展
初期山岳写真史にその名を刻む二人の偉業
東京都写真美術館では、戦前のわが国の登山史上もっとも著名な登山家の一人であり、黒部渓谷の地域探査や山岳紀行文で知られる冠松次郎と、北アルプスで最初期に山小屋経営を行い、山岳写真や槍ヶ岳を開山した播隆上人の研究でも知られる穂苅三寿雄を紹介する展覧会。同展は日本が世界に誇る美しい自然をテーマに、現存するオリジナルプリントや多彩な資料で初期日本山岳写真史にその名を刻む二人の偉業を検証する。
情報提供:イベントバンク

江戸絵画の19世紀

2014-04-04 21:13:09 | 美術館、博物館
府中美術館で、「春の江戸絵画まつり 江戸絵画の19世紀」と称して、展覧会が開かれていたので、観に行ってきた。「春の江戸絵画まつり」は、この時期の恒例となっているようである。府中美術館は府中の森公園内にあり、ちょうどこの時期は、桜も満開で見たかったのもあって、出かけてきた。

3世紀におよぶ江戸時代、その最後となるのが19世紀です。それより前の18世紀には、応挙、若冲、蘆雪(ろせつ)、蕭白(しょうはく)らが活躍しました。奔放で画期的な創造の時代として知られています。では、続く19世紀は、どんな時代だったのでしょうか?「江戸絵画の19世紀」は、浮世絵、文人画、洋風画をはじめとするさまざまな作品を通して、この時代全体の特色と魅力を眺める展覧会です。[美術館サイトより]


今回は、江戸時代の中でも後期~晩期に当たる19世紀の作品が並ぶ。鈴木其一の「毘沙門天像」や谷文晁の「不動尊像」などの作品には圧倒され、浮世絵画家は北斎・広重・国芳らの作品が揃っていた。小泉斐(あやる)の「富岳写真」は富士山に登った時のスケッチで、このころ、こうして富士山に登って描く人がいたのだと思った。
帰りも桜の花びらがひらひら舞い、桜のトンネルの中を歩いた。


名取洋之助展

2013-12-29 17:28:14 | 美術館、博物館
「報道写真とデザインの父」として知られる写真家、名取洋之助(1910~1962年)の展覧会が、東京の日本橋高島屋で開催されていて、12月29日で終了するとのことで、観に行ってきた。名取は日本で最初に本格的な報道写真の概念をもたらし、新しいデザインと写真表現の発展に寄与したといわれている。
 実業家の家に生まれた名取は1928年、18歳でドイツに渡った。写真やデザインを学び、グラフ週刊誌に写真を発表し報道写真家となった。33年に帰国した後は欧米の写真雑誌に写真を送り続け、日本社会の姿を伝えた。一方で、木村伊兵衛や伊奈信男らと「日本工房」を設立。海外に日本の文化を紹介する目的で作られたグラフ誌『NIPPON』(1934年創刊)では、グラフィックデザイナーの亀倉雄策、写真家の土門拳ら優れた人材を登用し、注目を集めた。戦後の岩波写真文庫(1950年創刊)など、名取の指揮により優れた写真と斬新なデザインで作られた刊行物は、時代を切り開いていったといわれる。
 本展は、名取が現地グラフ誌のために撮影した36年のベルリンオリンピックや37年にアメリカグラフ誌「ライフ」の契約写真家としてのアメリカ大陸横断、朝鮮半島、写真集『ロマネスク』や岩波写真文庫に収められた中国各地の写真などを含めた作品約150点と、編集に携わった刊行物やグラフ誌、撮影日誌などの資料約100点で構成。芸術的あるいは主観的な写真作品を批判し、現実のメッセージを直接に伝える報道写真を切り開いた名取の実像を伝える。写真という一瞬を伝える情熱をかけた名取の迫力が伝わってくるような展覧会である。撮影に使用したカメラ、初出品となる日誌やスクラップブック、パスポートなども展示し見どころが満載である。
 娘・名取美和が創設した、タイ北部チェンマイにあるHIV母子感染孤児のための生活施設「バーンロムサイ」の活動紹介を同時開催(無料)していたので、見てきた。
帰りに恵比寿にある東京都写真美術館に寄ったが、年末年始の休館日になっていた。残念。



ふたりの写真家

2013-03-14 13:50:01 | 美術館、博物館

「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」展が横浜美術館でで開催されていたので、観に行ってきた。
世界的な写真家の「ロバート・キャパ」という名が、もともとは、アンドレ・フリードマン(1913年生/1954年没)とドイツ人女性ゲルダ・タロー(本名ゲルタ・ポホリレ、1910年生/1937年没)の二人によって創り出された架空の写真家であったということはあまり知られていない。
タローは、ユダヤ系ドイツ人、フリードマンもハンガリー出身のユダヤ系の亡命者である。1934年にパリで出会い意気投合した二人は、1936年春に「ロバート・キャパ」という架空の名を使って報道写真の撮影と売り込みをはじめる。仕事が軌道に乗りはじめてほどなく、フリードマン自身が「キャパ」に取ってかわり、タローも写真家として自立するが、その矢先の1937年、タローはスペイン内戦の取材中に26歳で死亡する。
この展覧会は、キャパとタローそれぞれの写真作品による二つの「個展」で構成されている。死後50余年を経てなお絶大な人気を誇るロバート・キャパと、その陰でほとんど紹介されることのなかったゲルダ・タロー。約300点にのぼる豊富な写真作品と関連資料によって二人の生涯と活動の軌跡を辿りながら、両者の深いつながりと個性の違いを浮かび上がらせていると案内にはある。展覧会では、「キャパコレクション」193点が展示され、タローのものと確認された写真のオリジナルプリントを中心とする83点を含めて、関連資料も展示される。
ロバートキャパに興味を持ったのは、ロバート・キャパの代表作「崩れ落ちる兵士」について、作家の沢木耕太郎さんがNHKでも出演した推理ドキュメント番組が放送されたのを見たからである。丹念な取材で描き出されるのは、「崩れ落ちる兵士」の写っているのが死の瞬間ではなく、兵士は滑って転んだだけで、しかも撮影者はタローだった、というのである。ただ、二人は反ファシズムということではかわりなく、二人のどちらかが撮ったかが重要ではなく、一緒のその現場で撮ったという事実である。
そして、そのあとのキャパの活動や写真の輝きが重要でもあると思われる。キャパ(フリードマン)は、アーネスト・ヘミングウェイやジョン・スタインベック、パブロ・ピカソらとの交流でも知られており、写真が展示されている。そして、イングリッドバーグマンの美しさが際立った写真もあった。キャパはバーグマンンの恋人であった時期がある。バーグマンの結婚生活が行き詰っていたちょうどそのころ、夫との離婚を考えている時だったので、バーグマンはキャパに結婚を申し込むが、彼は断った。家庭を持っているバーグマンとの関係はいつまでも続くものではないと、リアリストのキャパは考えていたといわれている。
また、トロツキーの演説をとらえた写真から、スペイン内戦や第二次世界大戦、インドシナ戦争などの戦争写真、インドネシアでの死の一ケ月ほど前に、日本にも立ち寄って、撮影した写真もあった。日本の名所にはあまり興味を示さず、一般の人々の表情をとらえている。当時の吉田茂首相にも撮影を持ちかけられたが、関心を示さなかったと言われる。そういえば、キャパの写真は必ず人が映っていて、表情などをうまくとらえている。その中にも、温かいまなざしとともに、人間の中に潜む差別意識や社会的なメッセージもその中から伝わってくるのもある。よくこの瞬間を撮れたものだと思ってしまう写真が多い。キャパ(フリードマン)の原点はタローにあるのかもしれない。

タローは、キャパに勇気と熱意を与えたという。まさに「キャパのまなざしは、戦地にあっても、そうでない時も、状況ではなく、立ち会っている人間に迫っていきます。そこにある事実を、ただ情報として伝えているだけではない。いろいろな読み込みが可能で、美術館に展示される意義があると思っています」である。
 


セガンティーニ 光と山

2011-12-22 22:16:13 | 美術館、博物館
 新宿の損保ジャパン東郷青児美術館で開催中の「セガンティーニ ―光と山―」展を観た。日本では33年ぶりの開催になるそうだ。この春に開催される予定が、東日本大震災のため延期になっていた。年末に近いこの時期に開かれることになったようだ。12月27日までと開催されるとなっていたので、休暇が取れて、行ってきた。アルプスの山々に抱かれ41歳の若さでこの世を去ったセガンティーニの色々な側面を見ることが出来た。
セガンティーニの画法は短いタッチの色で画面を埋めていく分割法という絵画技法で、分割されている細かな色彩が離れて見ると混ざり合い、明るい発色になるという。細い線を並行に並べた形で、点描法に通じるが、「櫛で描いたようなタッチ」はイタリア独自のものである、ということである。《アルプスの真昼》のような、アルプスの強烈な光に包まれた大自然と人と羊が浮かびあがってみえる。
 このようにジョヴァンニ・セガンティーニ(1858-99年)は、アルプスの風景を描いた画家として知られているが、それだけではない。
 生まれ故郷であるイタリアで活躍した初期は、フランスの画家ミレーに影響を受けた農民生活などを題材にした作品を多く描いている。やがてスイスのアルプスに魅せられ、澄んだ光を求めてより高い山地サヴォニンに転居しながら、雄大なアルプスを舞台にした写実的な作品に取り組む。新印象派風の明るい色彩技法もこの頃に確立した。さらにより高地となるエンガディン地方マローヤに移り住み、エンガディン地方やブレガリア谷の山々に囲まれた谷を舞台に、象徴主義的な母性・生・死などのテーマを融合させながら、多くの代表的な作品を描いた晩年。それぞれの時代から厳選した作品や、肖像画、自画像などの作品を通して、今回の展覧会は、画家の全貌を紹介する回顧展となっているとのことである。なかなか見応えのある作品が並んでいた。この美術館にはゴッホの「ひまわり」なども展示されていた。満足して美術館を出る。

法然と親鸞

2011-11-10 21:25:28 | 美術館、博物館
東京国立博物館で、「法然と親鸞 ゆかりの名宝」を観た。平日だというのにたくさんの人で賑わっていた。法然没後800回忌、親鸞没後750回忌を機に合同展である。各寺院に伝わる絵巻や書、仏像といった国宝・重要文化財94件を含む189件が一堂に会し、2人の思想や生涯、信仰の広がりなどを紹介する。阿弥陀仏の力で万人の救済を目指した浄土宗の宗祖、法然は平安時代末期から鎌倉時代にかけて、それまで貴族中心とされていた仏教を、庶民の救いという視点に立って浄土宗を開いた。親鸞は40歳年下の弟子でたとえ地獄に落ちようとも、法然の教えを信じて念仏をすると決断して、浄土真宗の宗祖となった。鎌倉仏教の二大宗祖のゆかりの展示である。仏像では、重要文化財「阿弥陀三尊坐像」は、大きくて迫力がある。中央の阿弥陀如来(中尊)は4メートル近くある。右に観音菩薩、左に勢至菩薩が控える。極楽で阿弥陀如来が説法する様子を表しているとのこと。死後は極楽に行きたいという人々の思いも込められている。絵画の「阿弥陀二十五菩薩来迎図」は死後迫る人を阿弥陀如来が迎えに来る姿が描かれた。阿弥陀如来と25人の諸菩薩が左上から右下へ雲に乗り、山肌を一気に下るスピード感である。これを見て救われた人は多いと思う。天災や戦乱が重なったこの時代に、救いを求めていた人々は念仏を唱えれば極楽にいけるという教えにすがる思いだったに違いない。震災や津波、原発事故と未曾有の天災や人災に見舞われた今年、このような展示会が開かれるのも意義があるのでしょう。

白洲正子 神と仏、自然への祈り

2011-04-04 11:12:07 | 美術館、博物館
世田谷美術館で、「白洲正子 神と仏、自然への祈り」の展示が開催されていたので、観にいってきた。日本文化に造詣が深く、様々な紀行文を執筆し名作として語り継がれている白洲正子の生誕100年を記念した展覧会となっている。同館の開館25周年記念展でもある。『かくれ里』、『十一面観音巡礼』、『近江山河抄』、『明恵上人』など自身の著作の中で触れた神像や仏像、屏風、絵巻、工芸品(国宝・重要文化財を含む)などの名品を、正子が訪ねた寺社などから集め、彼女の著作と関連づけながらの展示である。つまり、展示エリアが著作の本のタイトルごとに分かれていて、正子自身が旅先で出会った神や仏、自然が紹介されている。白洲正子の目を通す作品は素朴さを感じさせるのが多かったし、白山信仰の開祖である奈良時代の泰澄にも興味を魅かれた。
「泰澄大師は山岳信仰の創始者で、神仏習合の元祖であるといっていい。私はこの思想が日本のすべての文化にわたる母体だと思っているが、(略)」『かくれ里』
隣接している砧公園は桜が咲き始めていた。

いきるちから

2011-01-05 08:40:51 | 美術館、博物館
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
今年の元旦は仕事で、泊り勤務であった。2日に明けで、キムタク主演の「ヤマト」を見た。相変わらずのキムタクで、なにをやっても許されて、ヒーロー扱いは変わらない。3日には休みで、チャップリンの「独裁者」をみて、午後は妻の実家への挨拶。4日は府中美術館に行き、現在開催されている「いきるちから」展を観る。このように正月は仕事も入っていたので、何となくのんびりもして、天気が良いのに、初登りは出来ていない。
「いきるちから」展は、木下晋の描く鉛筆画は迫力があった。描いているのは最後の瞽女といわれた小林ハルや元ハンセン病患者の桜井哲夫、実母や姉など苦難の人々である。瞽女とは唄や三味線を弾きながら物語を聞かせて、旅する盲目の女性芸人集団である。芸能の伝播者でもある。木下は鉛筆で103歳である小林ハルの深いしわが刻まれた肌、白髪の一本一本までを緻密に描いている。老いが奥深い生の中から浮き彫りになってくるかのような迫力で迫ってくる。木下自身が、3歳の頃、一家離散となり、母と逃亡していた弟が餓死をしている体験を持つが故に、生の深さが描けるようにも思えてならない。
私自身、もともと小林ハルという人物には強く惹かれるものがあった。生後100日で失明。瞽女として厳しい道を歩き、すさまじい地の底を這うような生き方をしてきた人の言葉は重い。「良い人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行」。自分を支えてくれる人は楽しく、意地悪をする人は自分を鍛えてくれていると思えばいいということである。「生の深い淵」を生きてきた人間のもつシワや目が見えなくても何か訴える目や表情には人生に鍛えられてきた力を感じるものがあった。