ジグザグ山歩き

山歩き、散歩、映画など日々、見たこと、聴いたこと、感じたことなどつれづれに。

夏の大島

2008-07-30 11:21:05 | Weblog
夜発舟泊を含めて4泊5日で、職場の夏季行事で大島に行く。初日夜、竹芝桟橋11時発の舟に乗り、次の日、大島岡田に5時頃着く。9時半頃に三原山山頂口から三原山に登り、火口のお鉢周りをしながら、テキサスコースへの分岐に出て、テキサスコースを下りて、大島公園に着く。登り自体は30分ぐらいで登れて、火口の周りを歩く感じであったが、下りは海沿いまで歩くので、標高差があって、下りの距離の方がずっと長い。全体で歩いた距離は約10キロぐらいである。昼には大島公園に着き、そこでお昼を食べて、キャンプ場に向かう。子ども達は元気で、キャンプ場に着いてからもプールに入ったりして楽しむ。今回はずっとキャンプ場のデッキテントで泊ることになった。2日間は自転車を借りて、野田浜まで行き、海に入ったり、秋の浜に行き、みんなで飛び込みをしたりする。秋の浜の日は、土曜日であったので、ダイバーも多かった。最終日は片づけをして、キャンプ場のバスで、元町まで送ってもらって、竹芝桟橋まで舟で帰路に着く。キャンプの最中、朝早く起きて、釣りをしたり、男の子達は船の中やキャンプ場でも暇があるとトランプをしたりしていた。今回はずっと天気がよくて、帰るときに曇っていてぱらついたりしたが、本当に天気に恵まれた行事となった。夜は夜で、肝試しや花火をしたり、満点の星空で流れ星を見たりすることもできた。こうして、子ども達は大島の山や海を満喫し、無事、船泊含めて4泊5日の行事を終える。私が寝たデッキテントは、チャックをあけていて、たくさんの蚊に刺されたりして、寝不足になったりしながら、私自身は、海で体力を使い、急坂のある大島の道をサイクリングするにはとてもハードであったことも確かである。家に着いてからは、ぐったりで、ビールやお酒を飲んで、ぐっすり眠ることができた。次の日は休みだったのでゆっくり起きて、洗濯をしたり、片付けしたりして、用事を済ませたりしたら、1日が過ぎた。2日連続で休みが取れたので、2日目はやっと元気が出てきて、映画「ランジェ公爵夫人」を見たり、末廣亭で落語を聞きに行ったりした。

八ヶ岳のキレット越え

2008-07-23 11:47:06 | 山歩き
最近暑くなってきたので、高い山で、少しハードなところと思って、また八ヶ岳のキレットをつなぎたかったので、天女山~権現~赤岳~真教寺尾根~天女山と歩いた。深夜3時半頃に天女山駐車場に着き、雨模様の天気。様子を見て登るかを決めようと、車の中で一眠り。仮眠を少しとって、4時半頃、まだ降っているが、とにかく途中で敗退をしてもいいから歩き始めようと、歩き出す。前三ツ頭の手前辺りから青い空が姿を現しはじめ、雲の上の南アルプスが見える。下は雲でガスっていたが、上は晴れていたのである。富士山や南アルプスを見ながら権現までの稜線を歩く。権現山頂で8時近くになり、時間的には赤岳もいけるかもしれないとつい欲を出し、キレットを越えることにした。最初の方にある鉄梯子が長く、こんなところがたくさんあるのかと不安にもなる。ツルネではたくさんのコマクサが咲いており、赤岳に登る途中もところどころにコマクサがこんなところで風に吹かれてながらも、そよそよと咲いていて癒される。キレット小屋は改修中で営業をしていなかった。小屋脇には白いコマクサも咲いていた。小屋が営業していないためか、キレット越えをする人は少なく、一人出会っただけである。赤岳への急登はきつい。最近体が鈍ってきているのと体重が増えてきているため、なおさらである。赤岳では、強い日差しの中、富士山だけが雲に隠れずに見える。日焼けで腕がひりひりしてきたし、真教寺尾根を下りるのに時間がかかりそうだと思い、短時間休憩して、下り始めることにした。真教寺尾根の分岐を小屋の人に聞いてみたら、登りの途中にあって気づかないはずがないとまで言われた。登りでは巻き道を歩いたか、ただ赤岳頂上につくことばかり考えていたので、真教寺尾根分岐の道標を見逃していたのである。真教寺尾根は清里にもつながっているのに気づき、一度登ってみたいとも思っていた尾根である。最初、鎖やはしごが続いていて、疲れた体にはなかなかの曲者である。そして、その後の尾根歩きも長い。真教寺尾根で会った女性の方は、この日は、この尾根をピストンしており、昨年も歩いて、肋骨を折って、治癒して、再挑戦したとのことである。いただいたゼリーが美味しかった。この方に美し森ファームに車が置いてあって、そこまで一緒に歩けば、車で天女山まで送りますと言われた。八ヶ岳横断自然歩道を歩き出して、とても長かったので、車の誘惑に甘えておけばとよかったと思ったぐらいである。まぁ、自然歩道も森林浴ができて、牧場や高原などの風景を見ながらの歩きもあって、それはそれなりに楽しめた。天女山への道標に沿って歩いているのだが、くねくねしていて、疲れているせいか、相当大回りもしているような気もした。いずれにしても久しぶりの長いコースを最後まで歩きとおせて満足した。



巨匠たちの対決

2008-07-17 11:00:32 | Weblog
東京国立博物館で「対決―巨匠たちの日本美術」展を見た。
中世から近代までの日本美術巨匠の中から関連性に着目し、2人を選び出し、「対決」形式で紹介するところに特色がある。対戦リストは以下のとおりである。
運慶 vs 快慶、 雪舟等楊 vs 雪村周継、 狩野永徳 vs 長谷川等伯、 本阿弥光悦 vs 長次郎、 俵屋宗達 vs 尾形光琳、 野々村仁清 vs 尾形乾山、 円空 vs 木喰、 池大雅 vs 与謝蕪村、 伊藤若冲 vs 曽我蕭白、 円山応挙 vs 長沢芦雪、 喜多川歌麿 vs 東洲斎写楽、 富岡鉄斎 vs 横山大観
非常に豪華な顔ぶれである。一人一人だけでも展覧会が成り立つといってもよい。滅多にない企画と言われているので、混むのを予想して、夏休み前の平日に駆け込みで出かけた。それでも非常に人が多い。この人の多さだけで、見るのに時間がかかり、疲れてしまうが、音声ガイドを聞きながら、見てまわった。結局2時間以上もかかった。
雪舟と雪村の絵はなんとなくユーモラスが漂う。二人の接点はなかったようではあるが、後で生まれた雪村は禅僧の先輩である雪舟の雪という字を名前に使っている。応仁の乱から戦国へと向かう激動の時代の前半と後半で雪舟と雪村は生きて、禅僧画家の二人は、時代や権力者の価値観に影響されていて、それぞれの生き方が絵にも現れているのではないだろうか。雪舟には強さと自己主張を感じ、雪村には気負いはなく、のびのび描いているのではないかと言われている。
大雅vs蕪村は、同時代の好敵手であったらしく、大雅の「十便帖」と蕪村の「十宜帖」は好対照で見ごたえがあるが、大河は、“浅間山真景図”など山を描いているのにも目に付いた。画面手前に浅間山があり、左手奥に筑波山、右手奥に富士山があり、山岳風景画が、前掲の岩から中景、遠景の山に至るまで遠近感が自然に描かれている浅間山からの風景を見て、再構築して作られたのではないかと言われる。大雅は山好きであったらしく、自然や山を描く作品が多い。
 見ごたえのある作品ばかりを駆け足でみて、会場を出たら、炎天下の暑さで現実に戻る。昼食で入った店で生ビールをグィッと飲むとなんともいえない心地よさ。絵のことはあまり良くわからないが、とにかく、昔から巨匠達はいて、偉大な作品を数多く残していて、自分の目で触れることができたこと自体、満足である。

涼を求めて西沢渓谷

2008-07-14 10:18:55 | Weblog
非常に暑くなりそうであったので、涼を求めて、西沢渓谷に行った。最近、高い山に登っていないので、少しハードな山行もしたかったのであるが、心身とも疲れ気味なのか、手ごろな渓谷歩きになってしまった。西沢渓谷は奥秩父の国師ヶ岳 ( 2592m) にその源流がある笛吹川の上流に位置する渓谷である。一周、約9kmのコースである。往路は沢をすぐ横に見ながら上流へ上流へと登って行く。「三重の滝」から「人面洞」「龍神の滝」「恋糸の滝」「貞泉の滝」「母胎淵」「カエル岩」などの名前が付けられた滝や淵が有り、バラエティーに富んでいる。「七ツ釜五段の滝」からきつい登りを登りきったところが、西沢渓谷の終着点である。復路は古いトロッコ軌道が残っている緩かな坂道を景色を楽しみながら歩く。トロッコ軌道は昭和8年から昭和43年まで、馬に引かれたトロッコが木材搬出のため行き来した名残である。また、この渓谷は全国で24箇所選ばれている森林セラピー基地にも認定されている。
帰りは、「花かげの湯」に入って、恵林寺にも寄ってみた。恵林寺は1330年、夢窓国師(むそうこくし)によって開かれ、臨済宗妙心寺派の寺で、戦国武将・武田信玄の菩提寺でもある。武田信玄や柳沢吉保の墓所もある。観光スポットになっているようで、観光バスなどの団体さんも訪れていた。快川国師の遺偈(いげ)「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」(あんぜんかならずしもさんすいをもちいず しんとうめっきゃくすればひもおのずからすずし)で有名な三門もある。広い境内は見て楽しむところがたくさんあった。本堂拝観料300円を払って、見学をした。本堂の回廊を歩き、鳥が鳴いているようなうぐいす廊下があったり、庭に出て、武田信玄公や柳沢吉保の墓所をみて、夢窓国師の築庭があったりした。



たてもの園

2008-07-07 11:56:38 | Weblog
小金井公園の中にある「たてもの園」の見学の企画があり、参加した。現地保存が、難しくなった文化的、歴史的に価値がある建物が移築復元され、一般公開されている。建物のほとんどが中に入って見学できるので、いくつか入ってみた。中に入ると、ボランティアのガイドの方がいて、その説明を聞いているだけで楽しいし、勉強になる。今回、建築に詳しい福祉士も同行した。
建築家の建物もあって、本当に細かいところで、工夫をして作っているのを聞いて、驚く。なかでも注目は『前川國男邸』である。昭和17年の戦時中に建てられており、建築資材を制限され、その他にも100平方メートル以内などいろいろな法律で非常に困難な状況の中建てられている。玄関を入って、中央のリビングは、吹き抜けになっており、機能的に作られた家である。南側の採光も大きく、かなり広く感じる。テーブルは台形になっていて、その理由は4人が座った時に全員がちゃんと重ならずに立派な庭を眺められるようにとのことらしい。書斎をのぞくと、窓を広くとり、窓の雨戸・障子などが綺麗に組み合わせができて、すっきり見えるようになっており、さりげなく細かいところでこだわっている。床と壁の境目にある壁の下の巾気は、汚れたり、壊れやすい壁の下部を保護するのが目的であるが、さらに目立たないように巾気の下部の部分を削って作られていたりと、遊び心なのか、かなり細かく工夫して作られていることが説明された。ガイドの方はこういったことは普通のガイドブックには書かれていなくて、裏本があるともいわれた。こうして説明を聞いていると時間がたつのも早い。家の設計自体も建築家の学生にとっては学ぶことが多くて、学生がよく設計図やメジャーを持って、見学に来るとのことである。
その後は、常盤台写真場や茅葺の家の中に入ったりしながら、見学し、宮崎 駿監督のアニメ「千と千尋の神隠し」のモデルになった「子宝湯(昭和4年)」という銭湯等もいろいろと見学をして、最後に高橋是清邸をみた。高橋是清は、港区赤坂にあったこの邸宅二階書斎で暗殺(2・26事件)される。現在、ここに復元されているのである。政治家は透明性が必要だと2階の窓を大きくとってあったり、自由の発想を持たなければと、あえて、畳の大きさも自由に変えてつくられていたりした。思想が建物に反映されているのだと思った。狙われやすい立場にもあったので、暗殺者の出入りを意識したような作りもあった。結果的にここで発想の自由がきかない軍部に暗殺されることになったと説明を受ける。
外に出てからは、小金井公園で、ビールを飲みながら、お昼を食べた。その後は室内展示をみてから、吉祥寺に移動し、飲み会から参加の人と合流し、焼き鳥で有名な「いせや」で二次会、さらに他の店で三次会だった。「たけおか」の仲間とよく歩き、よく学び、よく飲んだ一日であった。日ごろの疲れが出たのか、うとうとしたりしたが、リフレッシュできた。

クライマーズハイ

2008-07-05 21:05:41 | 映画
 原田眞人監督の「クライマーズ・ハイ」をみた。
1985年8月12日、群馬県御巣鷹山にJAL123便が墜落、死者520人の大惨事が起こった。生存者は4名のみである。事故当時、地元紙の社会部記者として取材に奔走した経験を持つ作家・横山秀夫が、17年の時をかけて書き上げたベストセラー小説を映画化したものである。主演は堤真一で、架空の新聞社である「北関東新聞社」で取材の事故全権デスクを任命される。悠木和雄の下で取材に走り回る社会部記者・佐山達哉役は堺雅人(34)が演じる。女性記者・玉置千鶴子役は、昨年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した「殯(もがり)の森」の主演・尾野真千子(26)が演じている。
クライマーズハイとは登山で、気持ちが高揚し興奮状態が極限まで達して恐怖感さえ麻痺してしまう事だそうである。この映画は、これになぞって、記者達の熱い一週間を描いた力作である。また、多くの遭難者を出している谷川岳でのロッククライミングシーンがあり、それと日航機が墜落した御巣鷹山との23年のタイムラグを交互に写しながら映画は進行している。
この映画は、新聞記者たちの人間模様をメインに描いているが、内容も盛りだくさんである。新聞業界内部の軋轢もリアルに描かれている。その中で、悠木はダブルチェックを信条としてはいるが、スクープと誤報は紙一重であって、究極の判断でも悩むことになる。
映画を観て、事故の3日後の8月15日というのは、中曽根首相の靖国参拝が騒がれた年でもあったことに気づく。中曽根首相の靖国参拝記事を優先させようとする社長や上司達との確執も交錯して、記事のつばぜり合いがあったことも描かれている。新聞の使命と権力との関係はいつでもついて回る課題でもある。一方でこの年は、清原と桑田のPL学園が甲子園で優勝をした年でもあったようである。
乗客名簿に子どもの名前が出てくる。原田監督は「美谷島健君の名前は、僕にとって日航機墜落事故の原点。『美谷島健、9歳』。乗客名簿に見た時、『お父さんもお母さんもいないところで、彼は亡くなったんだ』と。その衝撃をずっと引きずっていた。映画では子を思う親の心を中心に描いた。その気持ちに突き動かされて撮った」と語っている。美谷島さんは、私の職場ともつながりがあって、今は卒園した子どものフレンドホームさんでもあった。健君の母親、美谷島邦子さんは、「8.12連絡会 日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故被災者家族の会」の事務局長を務めておられる。