ジグザグ山歩き

山歩き、散歩、映画など日々、見たこと、聴いたこと、感じたことなどつれづれに。

小三治の「宗論」

2010-06-25 10:54:01 | 落語
またまた末広亭である。一日たっぷり落語を楽しんだ。小三治目当てであるが、昼の主任の扇遊も「妾馬」を熱演して、よかった。別名「八五郎出世」とも言われている。他の師匠方の話も面白くて、味のあるのが多かった。
夜の主任の小三治は出てくるのが少し遅れて、それは、出るときに手ぬぐいを持っていないことに気づき、取りに行ったからと説明。結局のところ、扇橋の演目がはっきりしないことに端を発しているのだと話す。ネタ帖を見ながら、演目を決めるのだが、扇橋がなんのネタを上げたのか、楽屋でいくら聞いても要領を得ない。おかげで予定が狂った。「ねー、なんですか『梅干しの歌』って?」。こんなさりげない話をしていても小三治が話すと笑いが巻き起こる。俳句会の話もして、小三治は「大安の日と決めりけり、梅雨あける」と自分の句を紹介し、40年句会に出ているが、なかなか句はうまくならなく、俳句の評価は難しいとも言う。「古池や蛙飛込む水の音」そんなにいい句ですかねえ、芭蕉だからほめるのでしょうと強調する。三年くらい前から、人にわからなくてもいいから自分がいいと思う句を詠もうと決めた。扇橋の「山奥の大安開くホウの花」という俳句も披露して、評価をしていた。なかなか演題が決め兼ねない話をする。扇橋は先代の三木助師匠にきびしく育てられたが、変な弟子になってしまい、えてしてそんなものだといいながら、同じ桂三木助の弟子だった喜久蔵。キビシイ圓正師匠にだって、マラゲーニャなんてする弟子がいるんだからと話す。笑いが起きる。マクラが長くなったので、今日はなにを話すかなと思っていたら、演目は「宗論」。キビシイ親に、コノ子ありを引っ掛けたのかな。流石。親子で仏教とキリスト教の教義を巡って口論が始まる。旦那が浄土真宗の門徒であり、息子がキリスト教信者になって不満であり、番頭相手に愚痴っているところから始まるのである。

告白

2010-06-14 07:58:50 | 映画
「告白」を見た。ある中学校の教師森口悠子(松たか子)が、終業式のホームルームで衝撃の告白を始めた。「命」と大きく黒板に書く。数ヶ月前、自分の幼い娘が校内のプールで溺死した事故は、じつはこのクラスの中の2名による殺人だったという。そんな衝撃の事実を知らされながらも、まるで深刻にうけとめず、好き勝手に騒ぐばかりの崩壊学級の少年少女たち。だが悠子は少しもひるむ事無く、二人に復讐を考え、告げた「ある事実」により、生徒達を凍りつかせてしまう。そして4月、クラスはそのまま2年生に進級。犯人のひとりAはクラスのイジメの標的になっていた。そして、もうひとりの犯人Bは登校拒否し、自宅に引きこもっていた。二人の少年の闇も描いている。このように冒頭から2人の犯人を明らかにしている。それでも立場や目線によって異なる「告白」によって、真相が明らかになり、最後までスクリーンから目が離せない。確かに、HIVの感染の問題など無理な設定や無神経さも感じるところもあるが、いじめ、親子関係、ひきこもりなどの問題を扱い、リアリティと緊張感も伝わってくる。
原作を読んでから映画を観た。難しいテーマと内容を扱った問題作をほとんど原作に忠実に描いているのはすごいと思った。隣に座っていた女の子は泣いていたし、暴力的なシーンが多いためか、終わってから、グロいという声も聞こえてきた。ただ、単純に残酷映画に終わっていない、リアリティを追及しながら、色々な問題提議をしている映画でもあると思う。デリケートな大人に比べると、中学生はまだ他者の痛みを実感できるほど成熟していない。平気で人を傷つけてしまう。その一方で被害者にならないように巧妙に立ち回る。自分より弱い相手を見つけて、いたぶり相手より優位に立とうとしたり、自分を正当化するために相手を悪者にしたり、ネガティブな事から現実逃避するようにわざと明るく振舞う集団心理などリアルな演出がされている。そして、妄想が膨らんでいく。そんな危うい精神バランスと残酷性も描かれている。子どもの自己顕示欲や問題の背景も描いている。決して肯定はしないが、正論だけではない、奥深さもある。「なんてね」
2009年の本屋大賞を受賞した湊かなえのミステリー小説を、『下妻物語』『嫌われ松子の一生』の中島哲也監督が映画化している。

映画「小三治」

2010-06-13 11:19:29 | 映画
小三治の映画を見に行ってきた。以前に見てはいるのだが、そのときは宿直勤務明けで疲れきっていて、集中できなかった。今回、東京写真美術館のホールで上映されているので、再度、足を運んだ。監督は、鈴本演芸場などでの寄席、全国各地を巡っての独演会や落語会へ3年半同行し、噺家・小三治の姿を撮り続けた。また、多彩な趣味の世界に没頭する小三治をカメラは追う。「遊びは真面目にやらないと遊びにならない」という。師匠の小さんからは「おまえの噺は面白くない」といわれたことで小三治はもがき続けたという。志ん生からは、落語を面白くする秘訣は「面白くやろうと思わないことだよ。」そして、「落語はもともと面白くできているんだから、素直にそのままやればいいのだ。それを無理に笑わせようとしたり、わざと面白くやろうとするからつまらなくなっちゃう」といわれる。笑わせようとしなくてもいい、自然体が一番と思えるようになってきた。本物の芸とは無理に笑わせるのではなく、客が思わず「笑ってしまう芸」であるという信念ではないだろうか。落語も技術ではなく、究極的には心である小三治は語る。
登場人物の役割が変われば一瞬にして、表情や口ぶり、しぐさをなりきって変えることが出来るのも小三治の特徴であると席亭は言う。また、名人といわれる小三治が、「俺にはこの仕事は向いてないってことだね。自分が楽しくやれないってことはストレスの元です」などという。これだけ人をひきつける噺ができても、日々、悩みが大きく、格闘し続けている人間小三治の姿を知る。
何気なく、テーブルを拭いてしまう小三治は「柳家の伝統だよね、テーブル拭くの。小さんの癖だよね」。といって、弟子達がみんなおなじようなことをしているのを以前指摘されたことがあるという。まさに弟子は師匠の背中を見て育つことを強調している。
小三治が鈴本演芸場にての独演会の最終回、最後の一席で、初めての「鰍沢」を演じているが、それはそれでよかったが、やはり、落語は寄席など生で見るのが一番いい。
 終わってから、「世界報道写真展」を見て、午後は府中の映画館で「告白」を見る。「遊び」に夢中になった日である。

新緑の乾徳山

2010-06-07 06:25:54 | 山歩き
新緑を求めて、乾徳山に登った。乾徳山はお気に入りで、何回か登っているのだが、新緑の時期の記憶があまりない。グリーンシャワーを浴びに出かけた。乾徳山も最近は人気が出てきたのか、バス停近くの広い駐車場はいっぱいになっていたので、別の小さい駐車場に車を停め、歩き出す。道満尾根の入り口がわかりづらく、鹿柵があって、そこに沿って歩いていたら、行き止まり。戻って、鹿柵の中に入れることがわかり、入って、道満尾根につながる道を登っていった。道満尾根を歩いて、扇平に出て、山頂に向かう。登りも下りも新緑が輝いていて、しっかり、森林浴ができた。山頂の展望は雲が多くて、富士山は霞勝ちながらも頭だけ雲の上に出る。人も多かった。単独や家族連れ、多人数のグループで登っている人もいて、頂上直下の鎖場は降りる時にちょうどグループが登ってきて、下りられないと思い、巻き道を通って下りたが、下りてみると、ちょうどその時は人が切れそうだったので、少し待って、再度登り返して、降りてみた。ここの鎖場は、先月妙義山に登っているせいか、いつもより楽な感じがした。ここの鎖場は落ちても途中で止まるが、妙義山の鎖場は落ちたら切り立ったがけ下まで行ってしまうので、怖さを感じたし、緊張した。この違いもあるし、乾徳山の方は鎖の距離も短いので、まだ登り易いし、巻き道もあるから安心でもある。下りは扇平から国師ヶ原経由で徳和に下りた。帰りははやぶさ温泉で汗を流す。帰りの高速は見事に渋滞にはまり、行きの倍の時間がかかる。