ジグザグ山歩き

山歩き、散歩、映画など日々、見たこと、聴いたこと、感じたことなどつれづれに。

ライオン~25年目のただいま~

2017-04-14 21:49:28 | 映画
ガース・ディブィス監督の映画「ライオン~25年目のただいま~」を見た。
5歳の時、インドで迷子になり、25年経って青年になったサルーが母を見つけ出した実話が元になっている。インドの貧しい母子家庭に暮らし、兄と共にいたときにはぐれて、停車中の回送電車に乗ってしまい、眠り込んでしまい、遠い大都市コルカタへ迷い込んでしまった。家に帰るすべもなくて、オーストラリアへ養子に出された。里親に育てられ、大学生になった彼は、グーグルアースを使い、自分の生まれ故郷を探し当てて実親とも再会ができる。里子となって恵まれた生活を送っていたが、インドの実母や兄は自分を探し続けているのではないかと悩み続ける。一方で育ての親である里親に対する「罪の意識」もあって、なかなか言い出せない。だんだん不安定な青年期を送る。ある意味、自分のルーツ探しをし始め、自分を取り戻す旅に出たともいえる。オーストラリアの里親の社会状況とインドの子どものおかれている厳しい現実も垣間見えた。里子の弟が後から家族の一員となり、発達的に対応の難しさがあり、ニコール・キッドマン演じる母親が苦労する場面を見て、サルーも不安定になる。里親になって子育てをし、子育ての難しさと成長を見守ることを描き、子育ての多様性と包容力も感じられた。

海よりまだ深く

2016-05-23 21:37:26 | 映画
是枝監督の「海よりまだ深く」という映画を見てきた。
団地に一人住まいの母・淑子と、長男・良多、その元嫁・響子と11歳の息子・真悟の、家族をめぐるストーリー。それは“なりたかった大人”になれなかった大人たちの物語。台風の夜に、偶然ひとつ屋根の下に集まった“元家族”を描いていく。この映画の舞台にでてくるのが、清瀬にある旭が丘団地である。是枝監督が9歳から28歳まで実際に住んでいた団地である。かって憧れの集合住宅として全国に建てられた団地が、老朽化と住人の高齢化といった問題を抱えるようになり、シャッター商店街も目立ち、建てた当初のイメージと異なる状況に直面している。是枝監督は、「なりたいものになれなかったのは団地も同じなんですよね」と話す。このような団地のたたずまいをなりたいものになれなかった登場人物たちのせつなさと重ね合わせているかのようである。実際に映画でも、そこで撮影されたということである。日常の風景を切り取っているが、なかなか含蓄のある言葉がでてきたり、それぞれの役者がうまく演技をしていて、見終わって、味わい深さを感じた。テレサテン「別れの予感」の音楽が流れた。
「教えて 悲しくなるその理由 あなたに触れていても 信じること それだけだから 海よりも まだ深く 空よりも まだ青く あなたをこれ以上 愛するなんて 私には出来ない」

エベレスト3D

2015-11-08 21:02:32 | 映画
 「エベレスト 3D」は、1996年5月、世界最高峰のエベレスト(8848メートル)で日本人を含む8人の登山者が遭難死した実話を映画化した作品。バルタザール・コルマウクル監督(49)は、気温氷点下26度、風速320キロの強風が吹き荒れる“死の世界”を現地ロケと3D技術で再現し、登山家たちの壮絶なサバイバルを描いた。商業登山のパイオニアのロブ・ホール(ジェイソン・クラーク)率いるツアー隊と、スコット・フィッシャー(ジェイク・ギレンホール)が率いる隊が登頂に挑戦するが、参加者の体調不良や登頂を断念させられないガイドの心理もあり、下山が遅れて嵐に見舞われてしまう。エベレスト登山は商業化され、ガイドが顧客を連れて登るツアー隊で山頂付近が大渋滞に巻き込まれてしまうという商業登山の実態も描いている。他のチームとの動向、待ち時間の長さも影響したのである。
ロブ・ホールは、遅れて登っていた顧客のダグ・ハンセン(ジョン・ホークス)が登頂を強行したため下山が遅れる。監督は、「ハンセンは、頂上に近付きすぎた。人間の情けないところは、そこに吸い寄せられて戻れなくなること。何かに憑かれるとそういうこと、よくあるよね」と、語る。実はホールは1年前に頂上間近でハンセンを引き返させていたという伏線があり、ハンセンにとって、経費的にも費用が掛かりすぎるという中で、何とか今回は登頂しようという意識が働いたとも考えられる。また、ジャーナリストのクラカワーが参加したことも、ジョンとスコットの意識に微妙に影響をしたのではないかと言われている。一押ししすぎて無理をしたのではないかということである。さらに、ロブ・ホールの5月10日を登頂日に設定し、必ず晴れると戦術を組んだが、必ずしもそうならなかったことの判断ミスもあったといわれる。天候に恵まれるかどうかは決定的な差になる。天気予報には全力を注がなければならないのである。
このように、複数の要因が重なり、惨劇が起きたと思われる。そういう意味では、多くの教訓と示唆を与えた事故であったと思われる。
 新宿の映画館で、IMAX3Dで見たので、エベレストの臨場感を味わうことができ、見ごたえもあった。

『わたしに会うまでの1600キロ』

2015-09-27 06:56:39 | 映画
映画『わたしに会うまでの1600キロ』 (原題:Wild)を見た。シェリル・ストレイドのベストセラー作品が原作である。愛する母を突然失い、その喪失感から人生のどん底へと転落してしまったシェリル(リース・ウィザースプーン)が、トレーニングもせず、パシフィック・クレスト・トレイルという1,600キロもの砂漠と山道を徒歩で旅に挑み、母が愛してくれた本来の自分を取り戻すまでを描いている。『ダラス・バイヤーズクラブ』などのジャン=マルク・ヴァレが映画化。美しく壮大な情景、過酷な旅と共につづられる。リースの体当りの演技も圧倒される。
歩き出してすぐに「バカなことをした」と後悔するシェリル。詰め込みすぎた巨大なバックパックにふらつき、テントを張るのに何度も失敗し、コンロの燃料を間違ったせいで冷たい粥しか食べられない状態である。旅に出る前、シュリルは、どんなに辛い境遇でもいつも人生を楽しんでいた母の死に耐えられず、優しい夫を裏切っては薬と男に溺れていた。遂に結婚生活も破綻、このままでは残りの人生も台無しだ。母が誇りに思ってくれた自分を取り戻すために、1から出直すと決めたのだ。だが、この旅は厳しかった。極寒の雪山、 酷暑の砂漠に行く手を阻まれ、食べ物も底をつくなど、命の危険にさらされながら、自分と向き合うシェリル。歩いたのは、だいたい青森から鹿児島ぐらいまでの距離になるらしい。メキシコからカナダまで、アメリカを南から北に抜ける道で、極度の暑さの砂漠や寒さが厳しい雪山を通り抜けるのである。1,600キロの距離を3か月かけて1人で歩き通した。こうして厳しい旅の中で、一人でずっと自分のことやいろいろなことを考えた。
旅に出る前、彼女は優しい夫からも逃げて、浮気をし、刹那的な生き方をしていた。自分を愛してくれる男からどんどん逃げていって、どんどん自分をひどい目にあわせていく。というのは、子どもの頃にずっとひどい目にあっていたからだともいえる。愛されることに違和感があり、怖くなり、愛されることから逃げてしまうのである。しかし、一方で、母には愛されていたのである。母親に、「お父さんに殴られて、貧乏で。どこが楽しいの」って娘が言うと、思い出の中のお母さんは、『それは結婚は失敗だったけど、でも、こんなに素敵な娘を得られたじゃないの』って言う。物事をいつも肯定的にとらえる母親であった。母親は40過ぎて、娘と同じ大学に入る。しかし、45歳で癌でなくなってしまう。このように主人公は、母からは愛されていたからこそ、母の喪失は大きかったが、過酷な旅にでても、母のおかげで、自分を取り戻せたのかもしれない。また、母の旦那は暴力をふるい、母は貧乏であるが、いつも楽しそうに歌を歌っていたのを思い出し、その歌が、サイモンとガーファンクルの『コンドルは飛んでいく』。この歌は、アンデスの山の、4000メートル以上8000メートルとかの山の歌といわれる。なじみのある歌で、映画で流れると、見ている方も元気が湧いてくる。山歩きの意味も考えさせられる映画でもあった。

アンナプルナ南壁 7、400mの男たち

2015-03-29 10:15:57 | 映画
下高井戸シネマで、「滝をみにいく」と「アンナプルナ南壁 7、400mの男たち」を見た。ともに山に関する映画で、興味深かった。特に、「アンナプルナ南壁 7、400mの男たち」は、世界的にも登頂が困難を極めるとして有名なヒマラヤ山脈のアンナプルナ南壁における救出活動を描いた山岳ドキュメンタリー。当時の貴重な映像を交えながら世紀の救出劇を振り返る。
世界第10位、ヒマラヤでも屈指の標高8091メートルを誇るアンナプルナ。サンスクリット語で「豊穣(ほうじょう)の女神」という賛辞を贈られながら、登山者の4割近くが亡くなるというキラー・マウンテンの異名を持つ。その過酷さのために「登山人生のゴール」と語るアルピニストもいるという。2008年5月、危険度が突出して高いこの山の南壁に挑んだスペイン人登山家のイナキ・オチョア・デ・オルツァは途中高山病に見舞われ、同行者がSOSを発信。その報を受けた世界10か国12人の登山家は、危険を顧みずイナキの救出に向けて出発した。
 事故から数年後、スペインの監督、パブロ・イラブとミゲルチョ・モリナは、救出活動に参加した12人を訪ね歩いた。鍛錬された肉体と強靱(きょうじん)な精神力、高いスキルを持つアルピニストたちの素顔は、医者や学者、軍人、写真家など様々だ。自らの登山計画を断念してまで参加したウーリー・ステック、カザフスタンの登山家デニス・ウルブコら世界的登山家が語る、命懸けで山と向き合う信念や死生観が胸を打つ。
 世界的に有名な登山家たちが一報を聞き、何を思いどう行動を起こしたのか。ドキュメンタリーではあるものの、救出劇の映像だけでなく、その時の彼らの心情をカメラは丹念に追いかける。死もいとわぬ勇気ある彼らの行為に対して、登山界のアカデミー賞といわれるピオレドール賞が贈られた。しかし、この作品の撮影後、1人が登頂の途中で命を落とした。常に隣り合わせの死を意識しながら、危険な山に挑む男たち。山と真摯(しんし)に向き合い、含蓄ある言葉の数々が印象深い。言葉に重みがある。
「登山という言葉の延長線上にあるものーそれは限界との闘いだ。高い山に登ると焼けるような筋肉の痛みや寒さや空腹、疲労などに苦しめられる。問題は、その辛さとどう向き合い、どうやり過ごし、受け入れ、不快を快適に変えるかだ。山は力技で登るのではなく、心で登るんだ」
「山に登るのは、死ぬためじゃない。今こうして生きていることをかみしめるためだ。」
「現場に駆けつけ全力を尽くさなくては。必ず助けられると信じて動く。何もせず投げ出すのは間違いだ。信じて最後の瞬間まで最善を尽くすんだ。」



アメリカンスナイパー

2015-02-26 10:00:49 | 映画
同じ日に偶然、戦争映画を2本見た。フレッド・ジンネマン監督の「地上より永遠に」とクリント・イーストウッド監督の「アメリカンスナイパー」である。昔と現在の映画である。
「地上より永遠に」は、海岸でバート・ランカスターとデボラ・カーのラブ・シーンのポスターを見かけることはあったが、実際に映画で描かれているのは、太平洋戦争前夜のアメリカ軍ハワイ基地内における軍人たちの腐敗でもある。いわば、軍隊批判の映画でありながら、戦時における不倫劇やロマンも描かれている。モンゴリー・クリフト扮するプルー・イットが味わう暴力や非道の数々は、軍隊における組織の非人間性となる。それでも軍隊を愛してやまない主人公の運命も考えさせられる。
「アメリカンスナイパー」は、イラク戦争で、海兵隊の狙撃記録を上回る160人という新記録を打ち立てた狙撃手の物語である。特殊部隊ネイビー・シールズ最強の狙撃手となったクリス(ブラッドリー・クーパー)は、イラク戦争の最前線で目覚ましい活躍を見せる。だが、同時にテロリストにとって高額の賞金首となるのだった。主人公は結局、約1000日の最前線勤務を務めあげ、まさに「伝説」というあだ名にふさわしい海兵隊員として崇められることになる。しかし、同時に心が病んできた主人公の苦悶もある。戦争の狂気に取りつかれつつ、故国で待つ家族をこよなく愛する主人公の光と影を描いている。スーパーヒーロの映画では決してない。
クリスは父親から「お前は羊たちを略奪者たる狼から守る番犬たれ」と教えられて生きてきた男。クリスのよりどころが「自分には力がある」「自分は番犬である」「だからか弱き国民を、敵のオオカミから守らねばならない」「俺にはその責任がある」なのだ。だが、イーストウッドは、「強いアメリカ」「幻想のアメリカ」というアメリカの価値観という名の神話そのものを打ち崩している。クリスが犬に殴り掛かるシーンに象徴されている。彼が殴ったのが狼でなく「番犬」だった。ここにも深い意味がありそう。
人を殺すという極限的な行為は、正義のためとはいえ、人間の精神に深い影響を与えることは間違いがない。クリスはでっち上げられた戦争の大義を疑わないから罪の意識はないはずだった。しかし、彼は崩れていく。殺しという業が無意識に溜まり、PTSD(心的外傷後ストレス障害)になる。精神の障害に苦しむことになる。除隊後、自分と同じようにPTSDに苦しむ帰還兵を救う活動をして、彼なりの贖罪だったのが、結果的には仇になってしまう。単純な戦争映画ではないことだけは間違いがない。
この2作の映画。戦争のもたらす闇の部分や運命をしっかり描いている。

ハンナ・アーレント

2014-04-14 21:32:53 | 映画
監督は『ローザ・ルクセンブルグ』のマルガレーテ・フォン・トロッタ。主演はバルバラ・スコヴァ。ハンナ・アーレント(1906-1975)は第二次世界大戦中にナチスの強制収容所から脱出し、アメリカへ亡命したドイツ系ユダヤ人。『全体主義の起源』などの著作で現代思想界に大きな影響を与えている政治思想家である。600万人とも言われるユダヤ人を強制収容所に送った際の輸送責任者だったルドルフ・アイヒマンのイスラエルで行われた裁判を傍聴したアーレントは、ザ・ニューヨーカー誌にレポートを発表した。映画では、アイヒマンの裁判の様子を実写で白黒映像が時折挿入される。被告アイヒマンは、自分は命令に従っただけだから、虐殺に責任は無いと言うのである。責任は命令を下した者だけが負えばいいと。ハンナはこれを「悪の凡庸さ」と呼んだ。命令を遵法した官僚に過ぎないとした。あの極悪人を表現するのに凡庸とは何事か、ナチスの加害性を曖昧にするつもりか、と。世間から激しい非難を浴びることになるのである。さらに、一部のユダヤ人組織のリーダーが、少数のユダヤ人を救うためにナチ協力をしたと書いた。アーレントはユダヤ人社会から裏切り者扱いされ、激しい批判に晒された様子が描かれている
ハンナ・アーレントが、学生たちを前に「悪の凡庸さ」の概念について講義する8分間は圧巻である。人間は考えることによって存在するということを強く訴えている。難しい内容の映画ではあるが、考えさせられる映画でもある。


それでも夜は明ける

2014-03-15 12:34:11 | 映画
原作は1853年発表の『Twelve Years a Slave』である。監督はスティーヴ・マックイーン。1841年、奴隷制廃止以前のニューヨーク、家族と一緒に幸せに暮らしていた黒人音楽家ソロモン(キウェテル・イジョフォー)は、ある日突然拉致され、南部の奴隷主に売られ12年間ルイジアナ州のプランテーションで奴隷として暮らし、その後解放されるという実話が元にある。奴隷制に後ろめたさを感じている雇い主もいたが、限界はある。奴隷制を当たり前と感じている狂信的な選民主義者エップス(マイケル・ファスベンダー)ら白人たちの非道な仕打ちに虐げられながらも、彼は自身の尊厳を守り続けるために生きようとした。
ソロモンが、首に縄をかけられたまま爪先立ちの姿勢で放置される場面がある。そんな彼の様子を、白人からはテラスの上から見下され、黒人奴隷からは、見て見ぬふりをされている。ソロモンは、自由証明書を持つ自由黒人。生まれ育ったアメリカ東部では、白人同様の生活を営んでいるが、白人ではない。さりとて黒人奴隷社会の一員でもない。複雑な立ち位置で、孤立感、精神的葛藤と試練を描く。確かにソロモンは12年間で、奴隷からぬけて、自由黒人になったので、夜はあけたのかもしれない。しかし、そのまま悲惨な奴隷社会の中で、奴隷となっている人は夜は明けていないのも事実である。ソロモンの生きざまを通して、自由への希望を持ち続けることや自尊心の大切さを描いていると思うが、と同時に奴隷制における奴隷の絶望的な実態も描かれているため、奴隷制に目を向けると、邦題の「それでも夜は明ける」に、少し違和感を感じるところでもある。そして、その後の奴隷制度廃止後も黒人は人権を得るまでに長い時間がかかっている。また、今日の社会でも、差別と偏見の中で、ソロモンのように自分の人格や知性を隠し、ひたすら頭を低くして今日を生き抜こうとしている人や生きた心地がしないで差別を受けて生きている人が、世界中にまだたくさんいるでしょう。物語の舞台は19世紀アメリカだが、実は現代的な意味もある。一方で、これだけ奴隷制の過去の壮絶な事実を黒人監督のもとで映画化できるようになったのは、時代の変化でもあるのは確かだと思う。米アカデミー作品賞に輝いた。

隣る人

2013-12-04 10:57:46 | 映画
「隣る人」という映画を観た。監督は刀川和也さん。小舎制の児童養護施設「光の子どもの家」は、5人の子どもと担当の保育士が一緒に暮らす複数の「家」がある。そこで暮らす子どもと職員の姿を8年間にわたり撮り続けたドキュメンタリー映画である。全編を通してナレーションも音楽もない。間に挿入された職員ミーティングでの話や、職員へのインタビューで子どもの背景や置かれた状況を伝えている。時系列に沿った編集ではなく時間も行きつ戻りつして描かれている。この映画には、何人もの子どもと職員の方達が登場しているが、登場人物では、「むっちゃん」と「まりなちゃん」と保育士の「まりこさん」が中心に撮られている。
監督は「何気ない日常」の中にこそ、こどもたちにとって極上の宝物といえるものが詰まっているという。自分のことをちゃんとみていてくれる存在が重要である。まりこさんはどんなあなたも好きと抱きしめる。子どもが担当保育士の布団にもぐりこんで、世界で一番いい匂いがするという場面もある。このようにかけがえのない存在がいることで、子どもたちは生きていく糧になる。一方、実親が施設で生活する子どもと再び一緒に暮らそうとするが、思うようにはいかない現実も撮っている。担当保育士がママと呼ばれるシーンがあり、まさに母親代わりをしているのであるが、複雑である。「隣る人」というのは、子どもの存在を丸ごと受け止める人という、施設の理念だそうである。そういう視点は重要であるし、今日求められていると思う。しかし、これは職員の献身的な努力や犠牲で成り立っていることも事実であり、一方で疲れ切って、バーンアウトする職員もいる現実もある。続けたくても疲れ切ってしまう人もいる。その辺は弱いと思う。そして、危惧するのは、日常にカメラが入ったら、非日常になる気がする。やはりカメラを意識せざるを得ない状況になるのではないかと思ってしまう。また、子どもや親の顔をそのまま出して、現状を撮ることは、その子たちの今後の親子関係や人生にとって、大丈夫なのかと不安も感じた。それだけ児童養護施設にカメラが入ることは難しいことである。このように気になるところはあったが、社会的養護や児童養護施設の現状には触れているし、家族や親子とは何か、人と人の関係はどうあったらよいかなどを探っているのも確かでしょう。

天使の分け前

2013-05-15 16:42:31 | 映画
イギリスのケン・ローチ監督の最新作『天使の分け前』を観に行ってきた。本作は、昨年のカンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞した作品で、5月31日に閉館する銀座テアトルシネマのクロージング作品に選ばれた。同館は、銀座1丁目に根付いた映画館として、長らく映画ファンに愛されてきた。
主人公はグラスゴーに住む若者ロビー(ポール・ブラニガン)。職も家もないうえに、親の代からの宿敵にしつこく付け狙われ、ケンカ沙汰が絶えない。恋人と生まれてくる赤ん坊のために人生を立て直したいが、再びトラブルを起こす。しかし、恋人との間にできた子どもがじき生まれることを鑑みて、刑務所送りではなく社会奉仕活動をするよう言い渡される。そこで出会ったのが現場の指導者でありウイスキー愛好家であるハリーと、ロビーと同じように失業中の作業仲間だった。 ロビーは、“テイスティング”の才能に目覚め、自分に自信を持ち始める。そして、仲間たちと一世一代の大勝負に出る。
スコッチ・ウイスキーで有名なスコットランド。この地は今、不況にあえいでいて、若年層の失業率が、異常に高いという。本作の舞台はグラスゴー。失業中の若者の軽犯罪も多い。呑んだくれて、駅のホームに侵入。つまらないことでの喧嘩。社会保障手当の不正受給。万引き、器物損壊・・。裁判所では、こういった事件を起こした若者に、社会奉仕を命ずる。公共施設のペンキ塗りや、墓地の清掃やら。定職もなく、軽犯罪を犯した若者たちの社会奉仕活動を指導、面倒を見る指導員が大のウイスキー好きだったのである。
「天使の分け前」とは、ウイスキーが樽の中で熟成される間、年に2%ほど、自然に蒸発していく分量のこと。したがって、樽で長く熟成されるほど、ウイスキーの量が減り、香り高く、旨くなるという。10年もの、20年以上のものなど、年数が増えるごとに、「天使の分け前」が増える、というわけである。
主人公のロビーを演じたポール・ブラニガンは、脚本を書いたポール・ラヴァティが取材で出会った若者で、主役に抜擢されたとのこと。
ローチ監督は、「ウイスキーは味わう以上に嗅ぐことが必要だと知った。これは気に入ったよ。アルコールとは、ただ喉に流し込むものではない。ただ意識を失わせるものでもない。念入りに味わうものなんだ」と話す。
コメディタッチの映画ではあるが、映画自体もなかなか味わいのある内容であった。27年間続いた映画館、銀座テアトルシネマのクロージング作品としてもふさわしい映画でしょう。
 
帰りに、かわいい天使がビルの横から覗き込んでいたのを後ろから撮った。