ジグザグ山歩き

山歩き、散歩、映画など日々、見たこと、聴いたこと、感じたことなどつれづれに。

戦争イヤだ まちなかパレード

2015-09-07 22:01:32 | Weblog
調布のまちなか、9月6日(日)16時から行われた「戦争はイヤだ まちかどパレード」に参加した。集会が始まるころから雨が降り始めたが、人は続々と集まり、合計430名の参加があった。コースは、調布の消防署裏のあおぞら公園から出発し、旧甲州街道を東に歩いて行き、調布駅付近の西友前を通過し、国領駅北口を越えて、「こくきた公園」で、解散となった。職場の同僚も何人か参加し、家族連れで来ていた人もいた。沿道からもたくさんの人たちの応援があり、多くの人たちが同じ思いを持っているのを感じた。本当に安倍首相は、鈍感なのか、見ようとしていないのか。これだけ、あちこちで全国的に「戦争法案」反対の盛り上がりを見せているのにもかかわらず、日本を戦争できる「戦争法案」を押し通そうとしているである。パレードからの「訴え」にもあるように、日本は戦後70年間、憲法9条に守られて、他国民を殺すことも、他国民から殺されることもなかった。自衛隊は戦うために海外に行くことは禁止されているのである。それを「戦争法案」では、集団的自衛権の名のもとに、いつでもどこでも武力行使できる軍隊に変えようとしている。国民の生命を脅かす危険極まりない法案である。立憲主義を破壊しようとするアベ政治を許さない。調布の街の中を、「戦争反対」「平和憲法を守れ」の声が響き渡っていた。

原発問題

2013-12-23 16:15:34 | Weblog
  職場の人たちと、福島の南相馬市まで日帰りで行った。現地では、「安全安心プロジェクト」の吉田さんが案内をしていただけた。最初、飯館村を案内していただく予定であったが、東北道で事故渋滞などがあり、思ったより時間がかかり、結果的には、飯館村はあきらめて、南相馬市だけを案内していただいた。飯館村を通って、南相馬市に行く。自然豊かだった飯館村は、今は「居住制限区域」に指定されている。したがって、住むことはできないが、家に出入りすることはできるので、車の往来はあって、車はよく見かける。さびしい村となっている。村役場も移転中となっている。また、作付制限地域でもあり、田畑は一面に雑草が生えている光景が広がっていた。飯館村から八木沢峠を越えると南相馬市に入って、吉田さんと待ち合わせる。吉田さんは、もともとは東京に住んでいたが、現在は南相馬に住んでいるとのこと。東電の職員だったこともあり、放射線の測定の仕事にも従事したことがある。今回の訪問は、今なお続く福島の深刻な現実を目の当たりにした。
 南相馬市をしばらく車で行くと、仮設住宅がたくさん作られていた。原発で問題になっている一つは、20キロ圏内、圏外とか単純に距離で測って区別していることである。そのような状況で、隣同士で保障される家と保障されない家があり、そこで分裂状態にさせられているのである。海岸に近づくと復旧作業が続けられていた。瓦礫は片づけられていたが、まだ車がひっくり返ったりしていた。原発の近くで住んでいた人は、原発事故の前に、原発の恩恵を受けていて、事故が起きたら、多額の補償をいただいて、県外に避難をしている。本当に困っている人は、原発の恩恵を受けていなかった人たちで、今回の事故で、補償も受けられなくて、仮設などに住み、苦しんでいる。結局はお金のある人たちは避難をしている。市政に対しても批判的であった。市長は人の流出を防ぐために「国が安全と言っています」というが、その根拠になる証拠やデータはない。市の職員が300人減り、そのうち200人が医療関係者であるといわれる。安全でないことがわかっている人は移動しているのである。確かに故郷に残りたい気持ちは尊重されなければならない。しかし、避難が出来る費用や条件があっても、残ることを選択するならいいが、避難をしたくても、残らざるを得ないことが問題であるといわれる。津波で流されて、更地が続く。一部、流されないで残っていた住宅があったが、近づいてみると、悲惨な状況になっていた。新築の住宅が、流されて、ブロックにぶつかり止まったようであるが、とても住める状況にはなっていなかった。海岸線は広かったが、ここで大津波が押し寄せたと思うと、自然の猛威を感じた。津波に枝を落とされ、幹を伸ばす一本の松があった。枝が落ちているということは、そこの高さまで津波が至ったということである。曲ったガードレールが積み上げてある場所もあった。仮設置場では中が見えないための柵付けが組み立てられており、黒い袋で隠されている汚染物質が中に置いてある。平地になっているところは表土の5㎝ぐらい削って、汚染土を取り除くのである。その後、小高くなっている場所に車を走らせて、行くと、線量計の数値がみるみる高くなっていく。放射線はガラスを通すので、車の中でも外と変わらなくて、乗っていても測定ができるのである。新しく舗装された道路のところは、まだ数値は低かったけど、古いアスファルトになる場所で高くなり、山の斜面があるところはまた高くなっていた。また場所によって、数値が高くなったり、低くなったりする理由を尋ねると、事故後に雨が降った場所で集中的に汚染されたことも考えられ、どちらかというと南相馬市は風で流れて、数値は低くなり、飯館村や中通りなどには、山を越えて、放射線が流され、雨が降り、落とされて線量が高くなったようでもある。山側の表土をすべて削ることはできない。たとえできたとしても、裸の山になり崩れやすくなるし、川や海にも影響を及ぼして、自然の破壊につながっていく。2011年3月11日の夕方には、福島第一原発で勤務していた方から、すでに地震によって配管が破損したり外れたりして、水がどんどん流れ危険だということが吉田さんに連絡が入ったとのこと。東電幹部はその時点で避難をしていたのである。モニタリングポストは、600万円から800万円ぐらいかかっているといわれる。ポストの数値は、0.22mSvを示していたが、近くの土壌で線量計をあてると、0.74mSvであった。モニタリングポストの周りは除染されていて、コンクリートで底上げをされていて、遮蔽されているので、数値としては低く出てしまうのである。高いお金をかけて、モニタリングポストを作る意味があるのかなとも思ってしまう。モニタリングポストがあるところは除染しているので、ポストのある公園で子どもたちは遊ぶともいう。しかし、除染を一部の場所にしても、あまり意味がなく、それよりは、避難させた方がいいとも思われる。除染にも従事していた吉田さんは、除染は成功しないといわれる。飯館村の除染費用が3224億円町民一人あたり、5千万円を超える。このお金で皆引っ越しが出来るのである。原発事故の放射線の影響はガンのリスクも高い。後々にも影響する。少なくても避難するかしないかの選択ができることが重要である事を強調される。南相馬市内の山間の道を、車で南下すると吉沢牧場があり、看板の前に出た。その先は、立ち入り禁止になっていた。牧場の吉沢さんは、原発から20キロ圏内の家畜を殺処分するという国の方針に逆らい、今も300頭を超える牛の世話をしている。看板にはゲバ文字で「決死救命、団結」と書かれた、ブルドーザーが置いてあった。そして「殺処分反対」の文字があった。牛の頭や足などの骨もぶら下げていた。帰りも東北自動車道の二本松インターに行くために、飯館村を通ったが、公民館などで除染作業をしていた。しかし、そこだけ除染しても地域や山自体が汚染されているので、なかなか解決につながらない。除染は到底終わらない。放射能と闘っても勝てないという言葉が印象的である。いずれにしても、これだけ甚大な被害をこうむる原発施設。もし戦争になって、原爆を落とされなくても、真っ先に原発がある場所に攻撃をかけられれば、致命的になると思った。

自由学園明日館の桜

2013-03-31 17:30:52 | Weblog
池袋で飲み会があって、ちょうど桜が見ごろの時期だったので、その近くにある自由学園明日(みょうにち)館の桜がきれいであるということで、観に行った。明日館は1921年に羽仁吉一、もと子夫妻が創立した自由学園の校舎として、フランク・ロイド・ライトの設計により建てられ、1997年に国の重要文化財指定を受け、現在はさまざまな催し物、結婚式などに使われているとのこと。桜が見事に咲いていて、ライトアップされていて、幻想的であった。

中島みゆき コンサート「縁会」

2012-11-17 16:52:53 | Weblog
中島みゆきのコンサートに出かけてきた。娘がチケットをプレゼントしてくれたのである。
場所は東京国際フォーラム。2階席の前列3番目の真ん中辺りである。顔はよく見えないが、音響設備は整っているようで、声は響き渡っていた。流石に素晴らしい歌唱力である。テーマは縁(えん)会」。宴会ともかけていると笑わせていた。聴きごたえのある曲が並んで、うれしかった。「時代」は懐かしかったし、「地上の星」はトンネルようなところから出てきて、歌いだし、紅白を思い出したでしょうと本人もコメントをしていた。途中で「お便りコーナー」というのをいくつかはさんでいて、会場に来た方たちが描いたものを読み上げていた。愛知から来た人は前日に来てしまって、いったん戻って、再度出直してきた人もいたようだ。中島みゆきさんのコンサートは、歌っているときと、お話しているときのしゃべり方のギャップが大きすぎる。ご自身で「ジェットコースター」と命名しているぐらいで、本当におしゃべりの声は歌っている声と大違いである。歌はもちろんよかったが、合間に挟む話も楽しめた。
コンサートなんてめったに行かないのであるが、有意義なひと時を過ごすことができた


スキー

2012-02-22 21:45:16 | Weblog
土日で、高校生二人を連れて、清里にあるスキー場に行ってきた。ロッジ山旅に泊る。一日目、天気は曇りで、風が吹いていた中、12時半頃から4時半頃まですべる。二日目は、朝9時頃からすべり、12時半頃まで楽しむ。ロッジ山旅の方に、朝は-18度といわれる。スキー場に行くのに道路が凍っていて、立ち往生している車も多かった。それでもこの日は、快晴で気持ちよく滑れた。思ったほど、膝が痛くなかったので、調子よく滑ってしまった。その2日後に通院をすると、医師から膝の調子はどうですかと聴かれて、よくなっている気がしますと答えたが、水はたまっていたようで、左ひざが20cc、右ひざが10ccだったとのこと。まだまだですねという感じで、とてもスキーをしたことは言えなかった。スキー場では赤岳が正面に見えて、富士山も見ることが出来、展望も良く、久しぶりに山の空気に触れた気分になった。

謹賀新年

2012-01-04 10:51:26 | Weblog
 年末、年始は家族で愛知の実家に行った。大晦日は海のある知多半島に足を運び、美味しい刺身料理を食べて、温泉にも入った。足の調子がよくない母も歩くのはおぼつかないながらも一緒に行った。妹も膝を痛めており、親子揃って足を痛めていたのである。夜は、紅白歌合戦を見る。今回は東日本大題震災の復興支援で、特別の年であり、歌の力を感じた。終わってからは妹夫婦の近くの神社に初詣。おでんや日本酒を振舞っていただけた。元旦に東京に戻る。東名もそれほど渋滞にはなっていなくて、比較的すんなりであった。1月3日は、丹沢の大山に参拝をした。膝を痛めてから山に登るのは控えていたが、少しずつ調子がよくなってきたので、登ってみようかなと思い、出かけた。しかし、少し無理をすると、痛い。さすがに山頂まではいけない。途中の神社までである。神社からの下りはケーブルに乗ろうと思ったが、並んでいたので、ついつい待つのがじれったくなり、歩いてしまった。何となく足が重くなる。帰りは弘法の里湯に入る。その後は、妻の実家に行き年始の挨拶をする。今年いただいた年賀状の中には、昨年、大腸がんや血管の病気に罹ってしまったというのが書かれてきたりして、辛い。私の膝などまだいいほうであるが、段々、あちこちにガタがきやすい年齢にもなってきている。本当に今年はみんなが少しでも元気になり、良い年になるように願うしかない。今年もよろしくお願いします。

川越マラソン応援

2011-11-30 21:23:39 | Weblog
 川越マラソンのハーフ一般の部に娘が出場したので、応援に行ってきた。娘は先週も横須賀マラソンの10キロを走っていて、そこでは一緒に走るつもりだったのだが、私は膝を痛めてしまって断念していたのである。娘は12月にはホノルルマラソンのフルマラソンにも出場する予定である。
 川越水上公園がスタート地点で、すごい人で賑わっていた。良く見ると、招待選手の吉田香織(アミノバイタルAC)選手が練習をしていた。地元の川越女子高校出身である。そして、本番、ハーフの部で最初に走ってきたのが、男子の部、実業団の新電元工業でコーチを務める前田衆さんが1時間9分5秒で優勝した。その後、大学の招待選手などの人たちが続々と走ってきて、女性のトップが吉田選手であった。1時間16分36秒でゴールした。あわててカメラに電源を入れて撮ろうとしたら、笑顔を振りまきながら、あっという間に過ぎてしまった。招待選手やAの選手が続々ゴールしていく中、娘はFだったので、まだまだ先と思っていたのだが、思ったより早く走ってきたので、あわてて写真を撮る。記録はハーフ一般女子で、1時間46分36秒、ネットタイムで一時間43分35秒で、37位の好成績だった。本人は2時間を切るのを目標にしていたので、大満足である。終わったあと、うろうろしていたら、ちょうど40代、50代女子ハーフマラソンの表彰式が行われていた。表彰されている人たちを見ていると、とてもその年齢には見えなく、若々しい。日頃のトレーニングの賜物でもあると思った。

無理が出来ない

2011-10-30 10:23:22 | Weblog
思いも寄らなかった膝の痛み。これほどひどくなるとは思ってもいなかった。膝を痛める前は、階段の上り下りが楽しみぐらいだったのだが、こうなると、階段の上り下りが辛い。正座はもちろん、胡坐をかくことも出来ない。私自身、山に登っていたので、膝は丈夫だと思っていたのが、違っていた。膝に負担がかかりすぎて、傷めていたのである。山歩きで、杖も持たなくて登ったり、下りも平気で走るように下ったりしていたのは、今から考えると、負荷が大きかった。日常も足を鍛えるからと、錘を足につけて、仕事や歩いたりしたことも負担になっていたと思う。そこに、今年の6月頃からいきなりジョギングを始めて、仕事前や夜勤明けを含めて、6キロ近く連日走り出して、9月からは10キロを越える距離を走って、痛くても筋肉痛で、鍛えれば足が丈夫になり、痛みも消えるだろうと思っていた。逆に、痛みが快感になっていた面もあって、走り続けた。ところがどっこい、筋肉痛ではなくて、膝自体を痛めていたのである。まさかここまでひどくなるとは思わなかった。結果的には足腰を鍛えているつもりが、傷めていたことになる。日常的には、あまり運動をしていないのに、年を重ねてからのいきなりの運動では、膝への負担は大きかったといえる。自分で招いたのだからしょうがない。これ以上傷めないためには、しばらくは、週に一回、通院をし、安静にするしかない。それにしても山に登っている時はあまり痛くならなかったが、ジョギングを始めたらいきなり痛み出してもいる。使う筋肉も違うだろうし、山で使う足の筋肉はそれなりについていたのもあったかもしれない。また、それだけ、ランニングは足に負荷が大きいのと、私自身、走る姿勢の問題もあると思うし、ストレッチもしないで走り出したり、靴も普段の運動靴で走っていたことなど色々と考えられる。加齢が進んでいるのに無茶をしていたことになる。いずれにしても、無理が出来ない体、これ以上ひざを痛めないために、ジョギングはあきらめるしかない。好きな山に登れるようになって、ぼちぼち、のんびりでも歩けるようになると良い。あまり考えると、段々気分が落ち込んでくるので、自分の体をいたわれということだと思いなおして、しばらくは映画を観たり、温泉や寄席に行ったりして、気分転換をはかりたい


膝の痛み

2011-10-17 11:40:57 | Weblog
あまりにも膝が痛むので、整形外科に通院をした。レントゲンを撮ってもらい、変形性膝関節症であると診断される。写真は、レントゲンで撮った左右の膝の骨。膝の骨が磨り減っていて、一種の老化により進むものであると言われる。変形性膝関節症は調べてみると、簡単に言えば、関節の軟骨が磨り減り、さらに骨が変形し痛みを生じる病気。半月板、軟骨が変性劣化しクッション機能を失った時の症状である。筋力低下、加齢、肥満などのきっかけにより膝関節の機能が低下して、膝軟骨や半月板のかみ合わせが緩んだり、変形や断裂を起こし、多くが炎症による関節液の過剰滞留があり、痛みを伴う病気であるとされている。段々老化現象が現れてきているなと思った。夏からはじめたジョギングで、無理をして、ひざに負担がかかっていた。膝の半月板や軟骨を酷使していたのである。「酷使しすぎです。今はジョギングはやめてください、歩けなくなりますよ」と医師に言われる。ウオーキングはいいということなので、山歩きはいいのかな。怖くて聴けない。12月まではジョギングは無理と言われたので、11月にエントリーをしていた横須賀マラソンは断念せざるを得ない状況になった。残念である。膝に関節液がたまっており、抜いてもらったら、たっぷり出てきた。太い注射なので、細菌が入りやすく、3日間ぐらいは湯船にははいらないようにとのこと。リハビリもしてもらって、これからも注射とリハビリには通ってくださいと言われた。無理が利かない体になっていることも痛感した。

梅酒の会

2011-09-05 15:49:53 | Weblog
梅酒の会は『山大好き♭温泉好き好き♭』というブログを発信しているnoriさんつながりの方が集まる。参加者はnoriさん、どらにゃんこさん、いぶし銀さん、くるるさん、松本さん、ペコさん、tabetai 3号さん、つばさとの8名である。会場は大磯からタクシーで行き、noriさんと同じ職場であるいぶし銀さん邸である。洒落た素敵な家で、中は吹き抜けの空間があって、そこで会は開かれた。ゆったりできる部屋で、家族で迎えていただいた。ありがとうございます。noriさんとは以前、塔ノ岳の尊仏山荘で出会い、ブログでつながってきて、今回参加させていただいた。したがって、noriさん以外は初対面であった。少し緊張気味で、さすがに梅酒は甘さがあるので、量は飲めなかったが、色々な梅酒などが揃って、少しずつ味わいながら、いぶし銀さんが素敵なつまみも用意していただいて、楽しい一時を過ごした。浜松から来られた松本さんはドイツの話をされて、興味深く聴いた。午後2時頃から始まり、6時近くまでお邪魔した。あっという間に時間が過ぎ、帰る時には外は薄暗くなっていた。大磯までだとちょっとした小旅行気分である。不思議な縁で、こうした会に参加が出来るのは嬉しかった。人のつながりの広がりを感じた。参加された方々、ありがとうございます。