おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

フェイシズ

2023-02-13 07:08:53 | 映画
「フェイシズ」 1968年 アメリカ


監督 ジョン・カサヴェテス
出演 ジョン・マーリー ジーナ・ローランズ シーモア・カッセル
   リン・カーリン フレッド・ドレイパー ヴァル・アヴェリー

ストーリー
映画は、ある娼婦の家で飲み騒ぐ二人の男の描写に始まる。
家の主人であるジェニーをめぐって旧友と諍いを起こすリチャードは彼女に惚れているようだ。
帰宅した彼はすぐにでも妻マリアにそれを切り出したい。
しかし、いつも通りの夕飯をとり、ベッドに入り冗談を言い笑いあう。
そして翌日、リチャードは急に離婚の意思を妻のマリアに告げた。
妻はただ戸惑うが、リチャードはその場でジェニーに電話して会いに出掛けてしまう。
ジェニーと会ったリチャードは彼女の家に泊まると今までにない行動に出る。
一方、マリアは気晴らしに友人たちとディスコへ出かけた。
踊っていた若者チェットを自宅に連れ込み語り合うが、奔放なことを口では言いながら友人はすごすごと帰ってしまい、やがてマリアは彼とベッドを共に……。
しかし、目覚めたチェットはマリアが睡眠薬自殺を図ったと知りうろたえる。
必死に彼女を救おうとするうち、チェットはマリアへの愛に気づく。
マリアはチェットの必死の看病で救われるが、夫がやっぱり娼婦とはしょせんは金の間柄と帰宅してきた。
チェットは逃げ出し、家には2人だけが残され、深い沈黙が夫婦を包みこんでいくのだった。


寸評
関係が破綻した夫婦の三十六時間を描いているだけの非常にシンプルな物語であり、破綻に導く複雑な人間関係とかドラマは全くない。
リチャードらが娼婦の家でのパーティまがいのバカ騒ぎで、男たちと女たちが遊びほうける様子が延々と映しだされるだけで、僕はいい加減ウンザリしたのだが、かろうじて持ちこたえられたのはモノトーンによる前衛的とさえいえる映像がかけ巡っていくからであった。
中年の男たちが馬鹿騒ぎをやっている一方で、その妻たる中年の女たちが欲求不満の馬鹿騒ぎをやっている。
それぞれの夫と妻たちは結婚生活を維持しているが、中身は欲求不満が渦巻いていながら体裁だけを取り繕っているという欺瞞によって支えられている関係である。
題名が著すように、出演者の顔のアップが、彼ら彼女らにある鬱積した気分を示し、ドキュメンタリータッチの映像が退廃的なムードを出していく。
カメラワーク、映像は素晴らしいと感じるが、臨場感を感じないので馬鹿騒ぎによる会話が続くとその場に参加していない僕は退屈になってくる。

男たちに比べるとマリアの家に集まったディスコ帰りの女たちの様子は興味を持って見ることができた。
若いチェットは軽快なダンスを見せ、女性の一人は彼とダンスに興じる。
別の女性は引っ込み思案なのか、ダンスに自信がないのか踊ることを渋る。
はやし立てられてかろうじて付き合いのダンスを見せる。
夫への不満を述べながら家路についていく。
リチャードは結構な収入があるように見えるし、登場する人々の態度から家庭は裕福そうに感じさせる。
マリアにもリチャードにも濃厚なラブシーンが用意されているわけではないので、普段の生活のうっぷんを晴らす”中の上階級”の暇つぶしによる浮気とオフザケと見えてくる。
しかし、考えてみればこの感情は、世の家庭に一般的に存在しているものであるような気もする。
倦怠期と表現されるものかもしれないが、それぞれに不満も出てくるし、若い頃にはいいところばかりが見えていたのに欠点が目に付いてくるようになる。
リチャードのように「離婚したい」と言えればいいが、大抵の家庭ではそれが言い出せず、どちらかが我慢することで結婚生活を維持している。
子供のことであったり、離婚後の生活費のことであったりを考えると不満は表に出てこず、せいぜい冗談交じりに夫への不満やら妻への不満をグチる程度である。

リチャードが散々ジェニーとふざけあって、一夜を過ごしたあとに帰ってみると妻マリアはディスコで知り合った若い男チェットと不倫していてその男が窓から逃げていく。
リチャードとマリアは階段でタバコを吸って、それぞれ上と下に消えていくショットはこの夫婦の破綻を思わせる。
このショットはなかなか良かったのだが、ふたりはこれからどうするのだろう。
リチャードがジェニーと上手くいくとは思われないし、マリアとチェットが幸せな生活を築くとも思えないのである。
結局元通りなのか、それとも一人で生きていくことになるのか。
二人とも淋しい人生だな。

プーサン

2023-02-12 08:02:06 | 映画
「プーサン」 1953年 日本


監督 市川崑
出演 伊藤雄之助 越路吹雪 藤原釜足 三好栄子 小林桂樹 木村功
   八千草薫 杉葉子 菅井一郎 小泉博 加東大介 トニー谷
   平田昭彦 谷晃 山形勲 横山隆一 横山泰三 黛敏郎

ストーリー
三流どこの補習学校教師野呂(伊藤雄之助)は、税務署吏員金森風吉の家に間借りしている独身者だ。
久かたぶりに銀座へ出て目をまわし、トラックに轢かれそこなった。
当分右腕が利かず、学生泡田(小泉博)に黒板に字をかいてもらうが、かき賃一時間百円也を請求される。
学校経営者の土建屋(加東大介)から夜間担任に格下げされ、無体な時間外勤務を強いられても文句ひとついえぬ野呂が、心ひそかに想うのは間借りしている金森の娘--銀行事務員のカン子(越路吹雪)であった。
カン子は無類のガンコ娘で、同僚とはりあい、恋人とはりあい、張りのない野呂なんか念頭にもない。
野呂と金森は散歩中、戦記物で売りだし今は時めく代議士の五津元大佐(菅井一郎)に会釈された、というので大感激、警官の甲賀(小林桂樹)をまじえ外食券食堂で五津礼讃の一くさりをはじめる。
途中から一枚加わった学生泡田と甲賀が、話のはしばしに互いの身分を知り、掴みあいとなる。
つられて食堂中が大格闘、野呂は丼をもってにげだした。
さらに、野呂は学生たちの誘いにのってメーデーに参加し、宮城前の紛糾にまきこまれて拘置される。
同じ署内に選挙違反で検挙された五津もいたが、前後して裟婆に出てからは、五津は「牢獄記」出版でまたまた大ヒット、野呂はデモの写真が新聞に載ったために学校をクビになり、しごと探しに必死である。
漸く金森の妻らん(三好栄子)の世話でミシン会社荷造り係の口がみつかり、今や入社選考へでかけよう、というまぎわ、カン子自殺未遂の報がくる。
恋人との結婚を反対されてカンシャクをおこしたのである。
が、無我夢中の野呂は「人でなし!」と叫ぶらんの声を背に、とっととわき目もふらず選考場へかけつけた。
カン子への片思いの野呂は、彼女をしのんでヒヤシンスの花を買おうとするがお金が足りない。
その時、お金を貸してくれたのは病院の看護婦である織壁さん(八千草薫)だった。
野呂は不本意ながらも決まった会社へ早朝出勤していくのだった。


寸評
市川崑は鬼才という呼び名を与えてもいい監督で、五社に所属していながら一般的な娯楽作品とは一線を画す特異な作品を撮ったりしている。
「プーサン」もそんな作品の一つに挙げてもいいだろう。
ブラックユーモアを散りばめた作品で、これといったストーリーがあるわけではない。
数学教師の主人公が大家の娘に恋しているが、相手の女性は無視状態。
職場では格下げされ、やがてデモに参加したことがバレて首になり、大家の奥さんの紹介で不本意な仕事に再就職すると言うだけのものである。

野呂は学校経営者の加東大介から「あんたのような便利な男はいない」と言われるように、格下げされても給料を下げられても文句を言わず、結局夜間授業も昼の授業も押し付けられてしまう気の弱い男である。
その彼の優柔不断さと、彼を取り巻く人々のいい加減さが、単発ストーリーとして描かれていく。
風刺劇と言えばそう呼べなくもないが、滑稽な場面だけは散りばめられている。
野呂が交番で小林桂樹の巡査から「もっと神経を太く持たなきゃあ」と諭されていると、人を殺ししてきたという男がピストル持って現れる。
野呂は驚くが巡査は「xx君、本署に連行して」とたじろぐ様子もない。
娘を殺したと刃物持った女が自首してくるところ「xx君、事情を聞いてやって」と平然としている。
ところが、子供がやってきて「殺しました」とネズミを差し出すと、それに驚いて気絶してしまう。
あるいは美人の下着姿自殺未遂と、冴えない男の首吊り自殺が同時に起き、女性の方にはワッと警官が押し寄せ、男の首吊りの方には誰も行かないなどだ。
その他、木村功の医者とのやりとりや、学生たちとのやりとりなど、クスリとする場面は多々ある。

主人公のトボケた味を、伊藤雄之助がこれ以上の適役はいないとばかりに上手く演じている。
伊藤雄之助自体がとても変わった感じのする役者さんで、トボケた役をやらせるとこんなに輝きを見せる俳優も珍しいと思う。
娘の交際相手をめぐって母娘が言い争うシーンで、その会話をバックに無言のままに部屋から出て行くところなどはやるせなさがにじみ出ていた。
本来ならヒロインになるだろう八千草薫を脇役において、容姿に劣る越路吹雪にヒロイン役をやらせているのも胡椒が聞いている感じだ。
ヒロインは主人公に肩入れするところなど微塵もなく、母親に家賃を値上げしようとふっかけさせているし、しかもその会話は隣の部屋に筒抜けなのである。
彼女が再度自殺を試みる場面なども可笑しい。

ただ、全体的に雑然としていて、思いついたシーンを並べて終わったという感じは否めない。
庶民のバイタリティは感じるが、真面目に生きるバカバカしさを笑い飛ばすドタバタ劇は10年後の植木等による「無責任男」を待たねばならない。

ファニー・ガール

2023-02-11 10:06:55 | 映画
「ファニー・ガール」 1968年 アメリカ


監督 ウィリアム・ワイラー
出演 バーブラ・ストライサンド オマー・シャリフ ウォルター・ピジョン
   アン・フランシス ケイ・メドフォード リー・アレン

ストーリー
人気のないウインター・ガーデン劇場の舞台、ジーグフェルド一座の名優、ファニー・ブライス(バーブラ・ストライサンド)は、1人で座っていた。
彼女の頭には過ぎさった日のことが次々と思いめぐった。
ファニーは、スターを夢みる一介の踊り子だった。
彼女はいつも失敗ばかりだったが観客にはこの失敗が大いに受け、劇場主キーニー(フランク・フェイレン)はギャンブラーのニック(オマー・シャリフ)の駆け引きで今までよりも高給で彼女を雇い入れねばならなかった。
ファニーの胸には、ニックが強くやきついた。
ファニーのショウは各方面で話題となり、彼女は、ジーグフェルド(ウォルター・ピジョン)一座のコメディアン・シンガーとして雇われることになった。
ここでも彼女は大喝采を博し、彼女の前に再びニックが現れ二人はお互いの気持ちに気がついた。
二人が再び会えたのは1年も経ってからのことで、ショウの一座が興行に行った先にギャンブル狂のニックが競馬に来ていたのだが、この再会は二人を結婚にまで導いた。
娘も生まれ、ファニーには幸せな日が続いた。
だが、ニックの仕事がうまくゆかなくなり、ニックはばくちで失敗、彼女はまた舞台に立つことになった。
人々はニックのことを、ミスター・ブライスと呼ぶようになった。
この言葉にニックの自尊心は傷つき、彼はギャンブルにおぼれ、ついには獄につながれる身となった。
舞台の上で思いにふけるファニーに、付人が時間を知らせにきたが、今日はニックの出獄の日である。
化粧室でメークアップする鏡の中にニックの姿が映った。
ファニーはとびついていったが、最後にファニーはニックに「私たち別れたほうがいいわね」と告げる。


寸評
成功したファニーの回想で映画は始まるが、その冒頭で叔母さんたちがファニーが美人ではないことや、特徴のある鼻のことを話題にしている場面が描かれる。
この映画を通じて僕はバーブラ・ストライサンドを知ったのだが、おばさんたちに言われるまでもなく、さして美人でもない彼女の顔立ち以上に大きな鼻が目に焼き付いたことを今でも思い出す。
その後、バーブラ・ストライサンドの出演作を見ることはなかったが、彼女の印象が薄れることはなかった。
彼女はそれほど強烈な印象をこの作品で残した。
単純なストーリー展開のせいもあって、オマー・シャリフを始め共演者はみなお飾りと化している感じだ。
ミュージカル映画としてはそんなにいい作品とは思わないし、ミュージカルナンバーも地味に感じるものが多く盛り上がりに欠けるが、バーブラ・ストライサンドが自然発生的に歌いだすと確かに人を引き込むものがある。
これはバーブラ・ストライサンドというシンガーの実力のなせる業かもしれない。
歌唱で圧巻なのはやはり名曲“ピープル”だ。
初めての愛を告白されて戸惑うファニーが恋に強く生きようと宣言する感動的な場面となっている。
紹介されるミュージカル・ナンバーは上記の「ピープル」以外に、「花嫁の唄」「女の子が美しくなければ」「私は大スターよ」「ローラ・スケート・ラグ」「ブルーなわたし」「セコハン・ローズ」「彼の愛がわたしを美しくする」「きみは女だ」「パレードに雨を降らせないで」「セイディー・セイディー」「白鳥」「ファニー・ガール」「マイ・マン」など。

主人公が美人ではない面白い女性というのがこの映画のバックボーンだ。
ファニーが劇場をクビになりそうになった時、劇場主に「パンの中にベーグルが混じっていると面白いでしょ? 私はベーグルなのよ!」と言って自分を売り込む場面がある。
僕はこの映画を見た時にベーグルって何なんだと思ったことを思い出す。
ベーグルってそんなに馴染みのあるものだったのだろうか、僕は今でもベーグルになじみがない。

内容はよくあるシンデレレラ・ストーリの部類に入るものだが、ファニーがスター街道を駆け上るのは順調すぎて、そこにドラマ性は感じない。
むしろファニーがニックに一目ぼれしてしまい、二人が時を超えて結ばれるラブストーリーの要素が強い。
下町の娘が気品ある男性に魅かれるのだが、ファニーがニックのシャツを見て「ゴージャス」とつぶやくのが面白いし、ファニーとニックの関係を端的に物語っていたと思う。
ドラマとして見れば、ファニーの名声にニックが埋もれてしまい崩れていく様が弱いと感じる。
ニックが罪を認識しながら横領事件に関与する姿が描かれても良かったように思う。
ファニーとニックは最後までお互いに愛し合っていたのだと思う。
相手を想うあまり、ニックはファニーから離れていき、ファニーは別れを切り出す。
そして悲しみをこらえて歌う歌が「マイ・マン」で、この映画の感動を締めくくる。
劇中劇として演じられているステージ場面が挿入されるが、あまり意味を持っていなかったように感じるし、劇中劇としての面白さもなかったのでハーバート・ロスの演出にキレを感じない。
結局この映画はバーブラ・ストライサンドの存在だけが際立っていて、アカデミー主演女優賞を納得させるものとなっている。

ファイヤーフォックス

2023-02-10 08:05:50 | 映画
「ふ」になりますが、前2回でかなり掲載しましたので、今回は思いつくままに拾い上げました。
2020/2/19の「ファーゴ」から「ファンタジア」「フィールド・オブ・ドリームス」「フィギュアなあなた」「フィラデルフィア」「42 ~世界を変えた男~」「フォーン・ブース」「フォレスト・ガンプ/一期一会」「ふがいない僕は空を見た」「武士道残酷物語」「淵に立つ」「普通の人々」「舟を編む」「不毛地帯」「プライベート・ライアン」「フラガール」「ブラック・スワン」「ブラッド・ダイヤモンド」「ブラッド・ワーク」「プラトーン」「ブリキの太鼓」「ブリッジ・オブ・スパイ」「ブリット」「ブレイブハート」「フレンチ・コネクション」「フレンチ・コネクション2」までが1回目でした。
2回目は2021/10/19の「ファンシイダンス」から「ファントム・オブ・パラダイス」「フィッシュストーリー」「風雲児 織田信長」「風林火山」「フェイク」「BU・SU」「豚と軍艦」「淵に立つ」「舞踏会の手帖」「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」「冬の華」「冬のライオン」「フライド・グリーン・トマト」「ブラス!」「ブラック・レイン」「ブリジット・ジョーンズの日記」「プリティ・ウーマン」「プリティ・リーグ」「ブルージャスミン」「フルメタル・ジャケット」「プレイス・イン・ザ・ハート」「ブレードランナー」「ブレードランナー 2049」「フレンジー」へと続きました。

「ファイヤーフォックス」 1982年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 クリント・イーストウッド デヴィッド・ハフマン
   ウォーレン・クラーク フレディ・ジョーンズ ロナルド・レイシー
   ステファン・シュナベル ディミトラ・アーリス

ストーリー
ソビエト連邦が、それまでの戦闘機を凌駕する高性能な新型戦闘機ミグ31を開発したとの情報がイギリス秘密諜報局のケネス・オーブリーによってNATOにもたらされる。
暗号名ファイヤーフォックスと名付けられたこの戦闘機は、最高速度マッハ6、アンチ・レーダー・システムを持ち、思考誘導兵器装置を装備するといった驚異的なジェット機で、NATO側がこれに匹敵する戦闘機を開発する場合、最低でも10年以上かかるというのだ。
そのため、NATOはその技術を機体もろとも盗み出すことを決定し、ロシア語をネイティブで話し考えることができる元米空軍パイロット、ミッチェル・ガントに白羽の矢を立てたのであった。
ベトナム戦争で心に傷を負ったガントは隠遁生活を送っていたが、世界最高の戦闘機を奪取するという要請を繰り返し受けるうち、遂に計画へ加わることを決める。
輸出代理業者になりすましてガントがモスクワのシェレメティエボ空港に降り立つ。
その夜、ガントはビリアルスクヘ送り込んでくれるぺイベル・ウペンスコイに会う。
だが、尋問してきたKGB局員をガントは殺してしまう。
翌朝、トラック運転手を装ったガントらは、偽造した通行証を手に目的地へ向かう。
途中でトラックを飛び降りたガントは、ファイヤーフォックス設計の中心的科学者で今回の作戦の協力者であるセミロフスキーと、ピョートル・バラノビッチ、そして彼の夫人であるナタリアに会う。
KGBは、中央記録コンピューターの膨大な資料をもとに、KGB局員殺害の犯人の正体がガントであることをつきとめたが、その報告がKGBのコンタルスキー大佐のもとへ入った頃、ガントたちも最終行動に入っていた。
そんな時、書記長が飛行訓練の視察に来る時間が早くなったことが判明して、基地内は対応に追われる。


寸評
ロシアがまだソビエト連邦と呼ばれていた東西冷戦時代の1976年9月6日に、亡命を求めるソ連のミグ25が函館空港に飛来するというミグ25事件があった。
ミグ25は航空自衛隊から発見されないまま北海道の函館空港に接近し滑走路に強行着陸したのだが、この事件により航空自衛隊の防空網を簡単に突破されてしまう危険が露呈して日本国内で大ニュースとなった。
パイロットのベレンコ中尉はソ連の説得に応じずアメリカ合衆国へ亡命し、ソ連側は機体の早期引き渡しも要求したが日米は機体調査が終わってから引き渡した。
講演者の名前は失念してしまったが、僕はこの時のミグ25調査に立ち合った方の講演を聞いたことがある。
その時の話を鮮明に覚えているのだが、「ミグはソ連の誇る戦闘機だと思っていたが、なんだこの程度のものだったのかと言うのが衆目の一致した意見だった」ということであった。

原作はこの事件をもとにしていると思われるが、ここでのミグ31は西側の戦闘機よりも性能がよく、10年は先行している優秀機となっている。
後年に傑作を乱発するクリント・イーストウッドだが、この頃はまだ演出に未熟さがあるように思う。
ポリティカル・フィクションぽくしたかったのか、ソ連に潜入する過程がじっくりと描かれるのだが、その丁寧さは逆効果でサスペンスとしての緊張感に欠けるものとなってしまっている。
これは娯楽作品としては致命的な欠陥で、ゆるやかなテンポは全体的に大味な印象をもたらしている。
ガントはベトナム戦争で心に傷を負っていて時々その幻影におびえる症状が出るようなのだが、作戦遂行中のどこでこの症状が出るのかと思って見ていたが大したものでなく肩透かしを食ってしまった。

ガントが商用を隠れ蓑にヘロインを密輸しているアメリカ人ビジネスマンに変装してモスクワに入りするところからKGBとの攻防が始まる。
ロシアに潜入しているスパイのウペンスコイと接触する場面ぐらいまではまだよかったが、職務質問をかけてきたKGB職員を早まって殺害してからの展開は目まぐるしいにもかかわらず間延び感がある。
成りすましを行う人物を次々変えて追跡を逃れていく様子に冗長感がある。
ガントはウペンスコイの相棒に成りすましてミグ31の開発者バラノヴィッチ博士がいる基地に向かうが、既にウペンスコイの相棒本人がコンタルスキー大佐の部下に逮捕されてしまっているということも上手く描けているとは言い難く物足りない。
ガントが奪ったミグ31が燃料補給する事で起きるスリル感も緊迫感に欠けている。
ジョン・ダイクストラ率いる“アポジー”によるSFXも上出来とは言えず、後方へのミサイル発射を予期せぬソ連パイロットは不自然に思った。
あげればきりがないほど粗さが目立つ作品だが、米ソ冷戦時代を思い出しながら見ていると結構楽しめる。
無理やり開発に協力させられているユダヤ人科学者や、命を投げ出すことをいとわない手引き者などの存在も興味が持てた。
妻が簡単に射殺されてその死に顔を見るバラノヴィッチ博士の射殺シーンはなかなか良い。
ミグをNATOに奪われたあの将軍はどうなったのだろう。
どうせなら、処刑シーンも描いておけばよかったのに。

昼下りの情事

2023-02-09 07:13:19 | 映画
「昼下りの情事」 1957年 アメリカ


監督 ビリー・ワイルダー
出演 オードリー・ヘプバーン ゲイリー・クーパー
   モーリス・シュヴァリエ ジョン・マッギーヴァー
   ヴァン・ドード

ストーリー
クロード・シャヴァッス(モーリス・シュヴァリエ)はパリの私立探偵である。
御依頼ともあれば、アメリカの億万長者フラナガン(ゲイリー・クーパー)とX夫人(リーゼ・ボウルディン)の濡れ場を盗み撮るという仕事も、やらねばならない。
依頼人のX氏(ジョン・マクギバー)がその写真を見て、フラナガンを殺すといきまく。
これを聞いたのが、シャヴァッスの娘アリアーヌ(オードリー・ヘップバーン)である。
彼女は父の扱う事件記録を読むのを楽しみにしていたが、チェロの勉強にコンセルヴァトワールへ出かけたものの、この事件が気になってたまらない。
フラナガンの泊まっているホテルへ来てみると、X氏がピストルをポケットに忍ばせているところにアリアーヌは出くわした。
アリアーヌの機転でX夫人は逃れ、危ういところを助かったフラナガンは、彼女と明日の午後を約束する。
食事と美しいムードミュージック、フラナガンのお定まりの手に、アリアーヌはすっかり参ってしまう。
何ヵ月後のある夜、アリアーヌはオペラ劇場で恋しいフラナガンに再会し、明日の逢瀬を約束する。
翌日ホテルを訪れたアリアーヌに、皮肉にも今度はフラナガンが参ってしまい、彼女がことありげに話した男たちのことに、気が揉めてたまらない。
偶然出会ったX氏に相談すると、彼の答は、シャヴァッスに頼め、だった。
シャヴァッスが調査してみればなんと、フラナガンが恋する女性は自分の娘アリアーヌであった。
事実を告げることもできず、シャヴァッスはフラナガンに、あの娘を愛しいと思ったら、パリを離れることだと報告したのだが・・・。


寸評
原題の「Love in the afeternoon = 午後の愛」を「昼下がりの情事」という邦題にしたのはヒットだ。
随分と扇情的なタイトルだが、内容は全く違っていてそのギャップが面白い。
この邦題を見てみだらな映画を期待する者はまずもっていないだろう。
なぜなら主演がオードリー・ヘップバーンだからだ。
「ローマの休日」の妖精が主演とあっては、みだらなものを期待する方がおかしいのだ。
中身はビリー・ワイルダーお得意のラブ・コメディである。
僕は一時期オード―リーの大ファンだったが、この映画のオードリーには魅力を感じない。
濃い眉、大きな瞳、愛くるしい笑顔は紛れもなくオードリーなのだが、それでも魅力はイマイチだ。
なぜ?
ヒロインのオードリーが輝くばかりの美しさなのに対し、相手のゲーリー・クーパーがどうみてもオジイチャンにしか見えず、プレーボーイのムードが感じられない事に尽きる。
この時ゲーリー・クーパーは56歳なのだが、「麗しのサブリナ」のハンフリーボガードだって55歳だった。
「ローマの休日」のグレゴリーペックだって彼等に比べれば若いとはいえ37歳で、この頃のオードリーは結構な年配と共演している。
ゲーリー・クーパーがミスキャストだと思うのは、最初はオードリーがゲーリー・クーパーに思いを寄せるからだ。
やがてその立場が逆転すると言うのがこの映画の見どころなのだが、中年の男が若いオードリーに夢中になるのなら納得なのだが、オードリーが中年のおじさんを追っかけるとなれば、それは違うんじゃないかと思ってしまう。
さらに問題なのはゲーリー・クーパーが、女性を虜にするオーラを発していないことである。
ゲーリー・クーパーはハリウッドを代表する大スターで、若いころは二枚目として恋愛映画も立派に努めていたと思うが、この映画の時点では西部劇の主役が似合う感じになっていて、ロマンスの香りがしないのが欠点だ。
どうやらビリー・ワイルダーはこの役をケ―リー・グラントにやってほしかったようで、それならば納得できる。
ケーリー・グラントとは1963年スタンリー・ドーネンの「シャレード」で共演を果たし、こちらはピッタリだった。

モーリス・シュヴァリエがいい役柄で娘を想う父親を好演している。
父と娘の二人暮らしだが、娘を可愛がり大人として扱っている姿が微笑ましい。
娘を心配する余りの行き過ぎたしつけを行っておらず、預かり物のコートを持ち出しても機知にとんだやり方で問い詰めている。
フラナガンの所へ報告に行く場面は、コメディのなかで少しホロリとさせられる。
それでも父親は娘を笑顔で見送るのだが、最後に父親のナレーションで二人が結婚したことを告げられるのは、やはり前述の年齢差が気になった為の処理だったのではないかと推測する。
コメディ要素があるので軽い映画となっているが、それにしても盛り上がりを感じなかったなあ。
可愛い盛りのオードリー・ヘプバーン主演映画だけに残念な思いが残る。
脚本にも参加しているビリー・ワイルダー痛恨のミスを感じる。

昼下がりの決斗

2023-02-08 07:50:09 | 映画
「昼下がりの決斗」 1962年 アメリカ


監督 サム・ペキンパー
出演 ジョエル・マクリー ランドルフ・スコット ロン・スター
   マリエット・ハートレイ ジェームズ・ドルーリー
   ジョン・アンダーソン エドガー・ブキャナン パーシー・ヘルトン

ストーリー
スティーブ・ジャッドは、かつて名保安官として鳴らした男だったが、今では人々から忘れ去られていた。
ところが、シエラ山中のコース・ゴールドに金が発見され再び彼が脚光を浴びることになった。
コース・ゴールドの人たちが、掘り当てた金を預け入れるために銀行の出張を熱望したため、その重任にふさわしい人として正義の男ジャッドが選ばれたのだ。
黄金を預かっての帰りの山道はあらゆる危険が予想されるため、彼は協力者2人を雇うことにした。
彼が適任者として選んだのはかつてUSマーシャルとして音に聞こえたガンマンのジル・ウェストラムと、ウェストラムの推薦になるヘック・ロングツリーである。
だがジャットが信用しているウェストラムは、実は1日10ドルの日当より莫大な黄金がめあてだった。
山への途中、3人はある小さな牧場で一夜をあかしたが、そこの娘エルサは、山に住むハモンド5人兄弟の1人ビリーに熱をあげ、3人が山へ行くのを知ると家を飛び出し同行した。
一目でエルサにひかれたヘックは、何かと彼女につくすのだった。
エルサはビリーのもとへやって来たが、ビリーとの生活は彼女が夢見ていたものとはまるで違っていた。
たまりかねたヘックは、彼女を兄弟から救い出したが、このことで一行は兄弟の恨みを買うことになった。
金引き取りの仕事を済ませたジャッド一行は帰路に着いたが、ある夜、ウェストラムはヘックを誘って黄金を盗み出そうとしたところをジャッドに気づかれ武器をとり上げられた。
そんな時、ハモンド兄弟が仕返しに来た。


寸評
スティーブ・ジャッドが町へやってくるとラクダと馬の競争が行われていて馬上のジャドは邪魔者扱いされる。
すでに自動車も走っているので開拓時代は終わりを告げるころだと思われる。
ジャドの名前を知ると誰もが「聞いたことがある」と言うから、彼はかなり名の売れた保安官だったことも分かる。
しかし一応正装して銀行に現れた彼の袖口はボロボロだし、契約書も眼鏡をかけてでないと読めないほどになっている。
金銭的には恵まれてはいなさそうで、かつての威光も落ちているということが冒頭で示される。
彼は相棒に、かつての助手であるジル・ウェストラムを選び、更にその相棒である若いヘック・ロングツリーも仲間に加えるのだが、やはり映画の雰囲気を作っているのは初老の二人、ランドルフ・スコットとジョエル・マクリーだ。
僕は「ワイルド・バンチ」でペキンパーと出会って、その時はウィリアム・ホールデン、ロバート・ライアンという老優の活躍に小躍りしたものだったが、それ以前に作られたこの作品を見ると「ワイルド・バンチ」の前哨戦のような気がする。

三人は金山に向かう途中の牧場で一泊させてもらうのだが、そこにいる若い娘がひと悶着に絡む。
父親との二人暮らしなのだが、父親は独善的で男とみれば悪人呼ばわりし、娘を男に近づけさせない。
エルサというその娘はやはり異性との交流を望んでいて、彼らが来るとドレスに着替えたりするのだが、父親はそれも許さない。
父親の理不尽さが描かれるが、その理由が妻の不貞からくるものだとやがて示される。
本筋とは関係ないので墓標での文言だけで描いているが、父娘の関係と娘が家を飛び出す理由づけとしては、その程度描いておく必要があったのだろう。

最終的には敵対することになるハモンド兄弟なのだが、彼らは荒くれ者でその品性のなさからエルサは夢を砕かれるが、荒くれ者なだけでスゴイ奴らだとか、とんでもない悪人にはとてもじゃないが見えない。
彼等との決闘は途中も含めて完全に勝負の先は見えていて迫力不足。
その分、ジャドとウェストラムの間での友情と欲望のやり取りにウェイトがかけられている。
途中でウェストラムがジャドにカマをかけるやり取りが面白い。
決闘に挑む二人が「昔のようにやろう」と言って出ていくのは何かの作品でも見たことがあり、老ガンマンの描き方としては常套手段なのかもしれないがやはり格好いい。

結末はしんみりともさせて味わいがあるのだが、欠落しているのがエルサと父親の関係だ。
あそこまで来たら牧場で起きていることは想像できるのだが、エルサは父親の死をどう感じたのだろう。
確執があった父親だが、それでもやはり悲しんだのだろか?
それとも父親からやっと離れることが出来てホッとしたのだろうか?
そんなことよりもヘックと一緒になれる喜びの方が大きかったのだろうか?
ペキンパー作品としては脚本も演出も粗削りでこなれていない印象を持つが、後年のペキンパーを知る上ではフィルモグラフィとして見ておいても良いのではないか。
やはり彼を発見した作品が一番面白い作品で彼の代表作だと思う。

秘密と嘘

2023-02-07 08:32:40 | 映画
「秘密と嘘」 1996年 イギリス


監督 マイク・リー
出演 ブレンダ・ブレシン ティモシー・スポール
   フィリス・ローガン クレア・ラッシュブルック
   マリアンヌ・ジャン=バプティスト エリザベス・バーリントン

ストーリー
ホーテンスの養母が亡くなり、彼女は生まれてすぐ別れたはずの実の母を探し始める。
福祉事務所で自分の養子縁組関係の書類を見た彼女は、黒人である自分の実母が白人だという記述に驚く。
一方写真家のモーリスは姉のシンシアとその娘ロクサンヌのことが気掛かりで、妻のモニカと話し合ってロクサンヌの誕生日に二人を新築の自宅に招待することに決める。
ホーテンスは実の母の住所を探し当て、悩んだ末に電話したところ、その実の母こそシンシアだった。
彼女は戸惑い、二度と電話しないでというが、やがて会うことを承諾する。
待ち合わせ場所で黒人のホーテンスに尋ねられて彼女は驚いた。
近くのコーヒーショップで話しているうちに、シンシアはホーテンスを身ごもった時の事情を思い出して泣き崩れ、何も言えなくなった。
反抗的なロクサンヌに悩まされていたシンシアは、やがてホーテンスと会うことが嬉しくて仕方がなくなる。
彼女は「私の友達ということにしておけば大丈夫よ」とホーテンスをロクサンヌの誕生日に招く。
そして誕生日、モニカとロサンヌはシンシアの“友達”に少し戸惑いを見せるが、モーリスは親切だ。
パーティーにはロクサンヌの恋人ポールとモーリスの助手のジェーンもいる。
やがて誕生ケーキが出てきたころ、シンシアは幸せのあまり、ホーテンスについての真実を打ち明けてしまう。
一同は驚き、ロクサンヌは怒って外に飛びだしていき、ポールも後を追う。
モーリスがバス停で座っていた姪とその恋人を説得して連れ戻す。
モーリスは妻が子供を生めない体であることを明かす。
なぜ最も愛し合うべき肉親どうしが傷つけあうのか、と彼は問いかける。


寸評
育ての親が亡くなり生みの親に会いたくなると言う話なのだが、人種問題も加わって家族とは、人生とはと感じさせる地味ながらもジワジワと心にしみてくる素晴らしい作品だ。
冒頭で黒人の葬儀の場面が描かれ、次には白人の太ったひげ面のおじさんが結婚式の写真を撮っていて、葬儀の場面から結婚式の場面に変わるギャップに戸惑うオープニングである。
黒人女性のホーテンス、写真館を営んでいるモーリスとモニカ夫婦、モーリスの姉であるシンシアと娘のロクサンヌ親子が描かれていくが、それぞれが抱える問題点がリアリティを持って示される。
シンシアとロクサンヌの親子関係はうまくいっていないが、原因は貧困にある。
ロクサンヌは市役所に勤めていると言っているが仕事は道路清掃であり、母親は段ボール工場の立ち仕事でなんとか生活を維持している。
親子間にまともな会話はなく、母親が娘に行先を聞いても答えることはない。
シンシアはモーリスが新居を構えたのに招待してくれないこと、連絡一つないことを気に病んでイライラ状態。
モーリスの妻であるモニカはいつもイライラしていて、夫を夫と思わないような態度を見せるし、義姉のことを良く思っていないような態度も見せる。
ホーテンスは兄たちと幸せに暮らしていたようだが、養子として迎えられており実の母を探そうとしている。
それぞれの生活が交互に描かれ、この時点では誰が主人公なのかよく分からない。

物語はホーテンスが役所を訪ねるところから急展開していく。
連絡をよこしてこなかったモーリスが姉の家を訪ねると、姉のシンシアは異常とも思える愛着を示し、この人は精神異常ではないかと思ってしまう。
シンシアが実の母親だと知ったホーテンスがシンシアに電話すると、「私の家には絶対に来ないで、二度と電話もしてこないで」と動揺するシンシアなのだが、自分勝手には見えるがシンシアの戸惑いは理解できところがある。
それでもホーテンスはシンシアに会おうとしているのだが、幸せに育ったはずのホーテンスはどうしてそんなにも顔も知らない実母に会いたい気持ちになったのだろう。
僕も父親の顔を知らないで育ったが、父親の生存を知っていても会いたいと思ったことなど一度もなかった。
母親と父親の違いがあるのかもしれない。
やがてシンシアはホーテンスと頻繁に会うようになっていくのだが、行先を聞く娘に「あなたも言わなかったでしょ」と出かけるのが愉快で、その為に娘は母親に男が出来たのではないかと疑うのも愉快。
親子のお互いの男関係について、避妊の話題を介して会話するのが面白い。

緊迫感が一気に高まるのが、ロクサンヌの21歳の誕生パーティをモーリスの家で行う場面からだ。
当初から不安定感を見せていたシンシアの感情が揺らぎ、話さなくていいようなことを話しだして、物語は一気に頂点に達する。
そこからモーリスの良識によって結末をストンと落とし、「人生っていいわね」と終わらせるのが心地よい。
人には誰でも家族を含めて人には明かせない生涯の秘密があり、幸せを維持するための嘘も必要なのだ。
写真館での撮影シーンが長いのも、写真に残すために行う偽りの表情を見せて嘘の必要性を示したんだろう。
ホーテンスはずっと冷静だったし、モーリスだけが凄くいい人に見えて、二人は立派過ぎたように思う。

緋牡丹博徒 鉄火場列伝

2023-02-06 07:54:00 | 映画
「緋牡丹博徒 鉄火場列伝」 1969年 日本


監督 山下耕作
出演 藤純子 鶴田浩二 丹波哲郎 若山富三郎 待田京介 里見浩太郎
   河津清三郎 疋田泰盛 古城門昌美 西田良 八尋洋 三島ゆり子
   中村錦司 榊浩子 五十嵐義弘 名和宏 天津敏

ストーリー
明治中頃の四国徳島。
緋牡丹のお竜(藤純子)は、子分清吉(高宮敬二)を重病のまま刑務所から出迎えたものの、折からの嵐の中で途方に暮れてしまった。
そんなお竜を救ったのが江口(待田京介)だった。
だが清吉は世話になった藍の小作人茂作(中村錦司)の家で他界してしまう。
その頃、百姓たちは地主である旦那衆にしいたげられて、小作料争議を起していた。
ところが旦那衆は江口を代表とする交渉を拒否し、さらに鳴門川一家の鳴門川兼蔵(天津敏)は旦那衆の命によって悪くどい仕打ちに出た。
鳴門川は四国一帯に勢力を伸ばす観音寺親分(河津清三郎)と手を結び、徳政一家を乗っ取ろうとしていた。
そんな折、茂作の息子猪之吉(五十嵐義弘)がイカサマをしたことから、江口が傷つけられ、千吉(里見浩太郎)が殺された。
遺体を引取りに来たお竜に対し、鳴門川、それに千吉の親分武井(名和宏)の殺気がみなぎった。
だが、居合わせた三次(鶴田浩二)の機転で事なきを得、お竜は窮地を救われた。
三次から鳴門川の悪事を聞いた武井はお竜と手を結び、観音寺を敵に回した。
そんなある日、清吉に怨みを持つ博徒の小城(丹波哲郎)がお竜に迫った。
だが、小城はお竜の態度に好意を抱き、勝負をあずけた。
お竜が熊虎(若山富三郎)を尋ねて道後へ向った留守の間に、鳴門川と観音寺は武井を闇討ちにし、阿波踊りの当日を迎えた。
三次は、武井に対する恩義から大尽賭博の真っ只中に乗り込んだが斬られてしまい、小城の看病のかいなく死んでしまったことでお竜の怒りは爆発し、阿波踊りに興ずる鳴門川を倒した。
一方、お竜から事の一部始終を聞いた熊虎(若山富三郎)も観音寺の前で盃を割ると容赦なく斬り込んだ。


寸評
「緋牡丹博徒シリーズ」は藤純子の名を不動にした人気シリーズで全8作があり、山下耕作は1作目とこの5作目を担当している。
本作の脚本に笠原和夫がシリーズ中で唯一参加しており、「鉄火場列伝」は山下耕作と笠原和夫の作品と言えるのかもしれない。
加藤泰の作品に盲目のおきみという少女が登場し人情物の要素を盛り込んでいるが、シリーズ中で一番人情物として成り立っているのがこの「鉄火場列伝」だと思う。
反面、他の作品で見られるお竜とゲストスターとの間に生まれる思慕の感情は薄められている。
鶴田浩二の仏壇三次は渡世のしきたりで叩き切った男の遺児である”お香代”を我が子として育てているが、最後には実の父親を殺した男なのだと告げてほしいと言い残して死んでいく。
お香代は実の両親を亡くし、三次にも死なれ、引き取って育ててくれそうな江口の妹・由美(三島ゆり子)とけなげに阿波踊りを踊ることで涙を誘おうとしているのかもしれないが、それにしては三次とお香代の描き方は消化不良感が拭えない。
母恋物語としてはお香代の実の母がすでに死んでいたことなどでエピソードが不足気味のように感じる。

緋牡丹のお竜は通り名の通り右肩に緋牡丹の刺青を施しているのだが、その刺青を見せることは稀で、本作では斬られた肩口の間からわずかに見える緋牡丹を披露している。
お竜の小太刀による立ち回りなどに工夫を見せているものの、そこに至るまでの盛り上がりは任侠映画としてはもう少し用意されていても良かったのではないかと思う。
任侠映画の見どころは、主人公が我慢に我慢を重ね、ついに堪忍袋の緒が切れて殴り込みに行くところにある。
「鉄火場列伝」では阿波踊りの雑踏の中でお竜が鳴門川に拳銃を突きつけて路地に連れ出すところから最後の大立ち回りに入っていくという展開で、感情の高まりを味わう時間を我々に与えてくれていない。
お竜は兄弟分の四国道後の熊虎親分の助けを借りて殴り込みをかけているのだが、宿敵の一人である観音寺は熊虎親分によって成敗されている。
観音寺一家相手に大暴れしている熊虎親分の結末が描かれていないので、そちらは一体どのような決着を見たのか結論が欠落している。
最初に観音寺に一撃を加えているので仕留めただろうことは想像できるのだが、その後も乱闘は続いていたのだから、やはり最終決着は示すべきだった。
お竜と鳴門川の対決は熊虎親分の活躍と同時並行的に描かれているが、最後は因縁があって決着が持ち越されていた小城によって後始末をつけてもらっている。
小城はどのようにして後始末したのだろうか。
山下耕作は任侠映画の傑作「総長賭博」を撮っているが、そこでの名和宏の描き方をここにも持ち込んでいる。
最初は主人公に敵対してそうな雰囲気を出しているのだが、最後には改心したかのような振る舞いを見せて殺されていくという役回りである。
完全な悪役が圧倒的に多い名和宏だが、山下作品においてはいい役回りを得ている。
鶴田浩二、待田京介をダブル・ゲスト的に描いたことで中身が散漫になってしまったことは否めない。
藤純子の大きな瞳はこの頃最盛期だった任侠映画の華だった。

緋牡丹博徒 一宿一飯

2023-02-05 08:50:57 | 映画
「緋牡丹博徒 一宿一飯」 1968年 日本


監督 鈴木則文
出演 藤純子 鶴田浩二 若山富三郎 待田京介 村井国夫 菅原文太
   城野ゆき 白木マリ 山城新伍 玉川良一 小島慶四郎 天津敏
   遠藤辰雄 西村晃 水島道太郎

ストーリー
明治十七年秋。上州の農民たちは、高利貸倉持(遠藤辰雄)に収穫物をカタに取られ困っていた。
倉持がことあるごとに農民に襲われるという事態が起り、戸ヶ崎組が乗り出して農民をなだめる一方、戸ヶ崎(水島道太郎)の舎弟分笠松一家が事態収拾にあたった。
そんな時、笠松の賭場では、艶気をふりまき、背中に弁天の刺青を入れたおれん(白木マリ)が、胴元を危うくするほどつきまくっていた。
そこで笠松(天津敏)は戸ヶ崎の客分緋牡丹のお竜(藤純子)に応援を頼んだ。
お竜は見事な手並みでおれんに勝った。
一方、笠松はひそかに倉持と結託、上州一帯の生糸の総元締会社設立を図っていた。
この計画を察知した戸ヶ崎は、農民に犠牲を強いる笠松のやり方に怒り、笠松一家に殴り込んだ。
その時は、お竜は戸ヶ崎のはからいで四国の熊虎一家を訪ねていた。
戸ヶ崎が殴り込んだことをお竜はそこで聞いたが、戸ヶ碕一家は笠松一家によって全滅したのだった。
お竜は急ぎ上州に戻ったが、そこはもう日の出の勢いの笠松一家の勢力圏になっていた。
後日のことを考慮した戸ヶ崎によって彼の娘まち(城野ゆき)と結婚して戸ヶ崎組の跡目を継いだ勇吉(村井国夫)は血気にはやって殴り込んだが、逆に私刑を受ける有様だった。
お竜はそんな勇吉を何かと助けていたが、関八州の親分の一人宮内(藤岡重慶)がその後楯となってくれた。
一方笠松は邪魔なお竜を消そうとして襲ったが、一匹狼の周太郎(鶴田浩二)に阻まれた。
しかし、笠松にはもう一つ企みがあった。
戸ヶ崎組の経営する郵便馬車の権利を手に入れることだった。
笠松はまちを脅し、ついにその権利書を手に入れたのだ。
憤怒に燃えた勇吉は、笠松組と争いなぶり殺しにあってしまった。


寸評
緋牡丹博徒シリーズ全八作中、鈴木則文は8作目の「緋牡丹博徒 仁義通します」以外で脚本に参加している。
そして第二作目の本作を監督しているが、監督を務めたのはこの作品のみである。
シリーズ第1作目の「緋牡丹博徒」は矢野組の組長だった父親を辻斬りで失い、「緋牡丹のお竜」となった藤純子が仇を討って二代目を踏襲するまでが描かれたが、本作で緋牡丹のお竜が全国を回りながら悪党を成敗していくというスタイルが形作られた。
お竜を助ける男として前作は高倉健だったが、それを継ぐ者として高倉健以上となると鶴田浩二しかいない。
敵役は天津敏と遠藤辰雄なのだが、ここでは菅原文太が天津敏の子分として登場し敵方に加わっている。
菅原文太はこれ以後は敵役をやることはなく、お竜を助ける男として登場し、その極め付けが第6作の「緋牡丹博徒 お竜参上」だろう。

お竜が助っ人の男にほのかな愛情を感じるのは毎回のことなのだが、ここではそれを補完するように二組の男女が登場する。
一組は上州富岡で賭場を荒らしている白木マリと西村晃の夫婦で、西村晃は以前に制裁を受けたために男性機能を失っている男である。
白木マリは天津敏に体を提供し、それを渡世上のことと西村晃は渋々黙認しているのだが、二人の絆は強い。
男と結ばれることのないお竜との対比として描かれている。
白木マリはお竜にイカサマを看破されたことで天津の逆鱗に触れ、夫の西村晃ともども痛めつけられるが、逃げた先の廃屋でお竜と鶴田に助けられる。
それがお竜と鶴田の再会の場でもあるため、このシーンは因縁のあった白木真理との和解と、鶴田浩二への愛が芽生えると言う二つのエピソードを再会を通じて同時に描き出すいい場面となっている。
もう一組は水島道太郎の一人娘・城野ゆきと水島一家の跡目を継いだ村井国夫である。
特に城野ゆきは天津敏に騙されて郵便配達の利権を取られ、おまけに犯されてしまう。
父の仏壇の前で泣き崩れ「私は汚れてしまったんです」と慟哭する城野ゆきに、背中の緋牡丹を見せて悲しみを分かち合うのだが、このシーンは本作屈指のハイライトとなっている。
「女だてらに…、こぎゃんもんば背負って生きとっとよ。だけん、私にはゆきさんの気持ちがよう分かりますばい。
女と生まれて人を本当に好きになったとき、いちばん苦しむのは、こん汚してしもうた肌ですけんね…。だけん、身体じゃなかつよ。人を好きになるのは心。肌に墨は打てても、心にゃあ誰も墨を打つこつはでけんとです…」と諭すのだが、その言葉と共に片肌を脱いで緋牡丹の刺青を見せる藤純子に目が釘付けになってしまうシーンだ。
シリーズの中では滅多に刺青を見せないのだが、このシーンでは緋牡丹の刺青がはっきり描かれていて一番印象に残る。
これまた惚れた男と一緒になれないお竜の宿命を歌い上げているのだ。
鶴田浩二は廃屋の場面でお竜に、こんな血生臭い世界からは足を洗えと諭し「ドスよりお針の方が似合うと思うぜ」と語り、去って行ったお竜が落としていったかんざしを拾う。
そして殴り込みに行く段になってこのかんざしをお竜の髪にさしてやる。
こういうラブシーンがたまらなくいいのだ。
ただし鶴田が残党の鉄砲であっけなく命を落とすのは工夫がなくいただけない。

緋牡丹博徒

2023-02-04 08:49:05 | 映画
「緋牡丹博徒 お竜参上」は2020/2/11に掲載しています。
「緋牡丹博徒 花札勝負」は2021/10/6に掲載しています。

「緋牡丹博徒」 1968年 日本


監督 山下耕作
出演 藤純子 高倉健 若山富三郎 待田京介 大木実 山本麟一
   若水ヤエ子 疋田圀男 金子信雄 土橋勇 清川虹子 山城新伍

ストーリー
九州の博徒矢野組の一人娘竜子(藤純子)は、堅気の男との結婚をひかえて父に死なれた。
父が暴漢に闇討ちを受けたのだ。
竜子は一家を解散し、矢野の死体のそばに落ちていた財布を手がかりに犯人を探そうと旅に出た。
小太刀の免許を持ち、博奕にも優れた腕を持つ竜子は全国津々浦々の賭場を流れ歩くうち、五年の歳月が過ぎていた。
明治十八年の晩春、岩国のある賭場ですでに“緋牡丹のお竜”の異名をとっていた竜子が胴師のイカサマを見破ったことから、いざこざが起り、竜子は旅の博徒片桐(高倉健)に助けられた。
片桐の人柄に惹かれた竜子は一部始終を打ち明けたが何故か片桐は無言だった。
やがて二人は別れたが、その時には証拠の財布は消えていた。
一方、竜子の唯一の子分で矢野殺しの犯人の顔を覚えているフグ新(山本麟一)が道後でいざこざを起し、岩津一家と熊虎一家の対決騒ぎにまで発展した。
それを知った竜子は早速道後に向ったが、彼女の気っぷの良さに大阪堂万一家の女親分おたか(清川虹子)が仲裁に入り、竜子と熊虎(若山富三郎)は兄弟分の盃を交したのである。
やがて竜子とフグ新はおたかの勧めで千成一家二代目加倉井(大木実)の圧力下にある大阪に出た。
賭場で竜子と対した加倉井は、その後、彼女を手寵めにしようとしたが、竜子を救ったのは、片桐だった。
片桐は加倉井の兄貴分で、竜子の父を殺した犯人が加倉井だった。
だが片桐は博徒の義理から、加倉井をかばって真相を打ち明けなかった。
そんな時、犯人の顔を知るフグ新が加倉井に会い、すべてを悟ったのだった。
しかしそのフグ新は卑怯にも加倉井に斬られ、竜子に真相を打ち明けると、息を引き取ってしまった。
得意の小太刀を持ったお竜が熊虎の子分である不死身の富士松(待田京介)と千成一家に殴り込んだのは間もなくのことだった。


寸評
藤純子を当時当代一の人気女優に押し上げた人気シリーズの第一作で、シリーズで常連となる登場人物が紹介されるように出てくる。
若山富三郎が四国道後の熊虎一家の親分熊虎としてひょうきん役を引き受け、待田京介がその子分の不死身の富士松を演じて渋い役回りを見せる。
清川虹子が大阪堂万一家のお神楽のおたかとして貫録の女親分を演じてお竜を助ける。
若水ヤエ子も熊虎の妹清子として時々顔を見せることになる。
タイトルが出る前の藤純子による口上、クレジットタイトルの背景に描かれる本引き賭博の様子などで作品のムードは最初から盛り上がりを見せる。

物語は第一作とあって、お竜が呉服問屋へ嫁ぐことになっていたのを、一家を構える父親が辻斬りに会って亡くなったことから、渡世人の道に入る経緯が先ず描かれる。
お竜は父の仇を探して旅に出るが、岩国で不死身の富士松と知り合いになり、熊虎と兄弟分の盃を交わすことになるのだが、そのきっかけとなるのが岩津組の金子信雄とのもめ事である。
悪役として定評のある金子信雄だけに、この一家との争いがメインになるかと思っていたら、金子信雄はおたかのとりなしですぐに消えてしまう。
代わって登場するのが大木実で、彼がおたかと争う千成組の二代目として出てきた時点で、高倉健との関係やお竜が探し求める仇の正体など、大体の筋書きが読める。
簡単に筋書きが読めるのも任侠映画を肩を凝らさずに見ることが出来る一因となっている。

竜子は緋牡丹のお竜と名乗るので、この作品では牡丹の花が何回も出てくるし、藤純子も緋牡丹の入れ墨を何回か見せる。
きりっとしたたたずまいが魅力の緋牡丹お竜なので、片肌を脱いで女の魅力を見せるシーンはシリーズの中では珍しく、これだけ見せるのはこの第一作を置いて他にない。
そのようなサービスも大いにあるのだが、全体としての仕上がりとしては雑なところがある。
クライマックスの殴り込みシーンでは、高倉健の片桐がいつそんな瀕死の重傷を負っていたのかわからない。
大木実の加倉井にわざと斬られてやる演出があっても良かったのではないかと思う。
大阪を去ることになっていた高倉が加倉井の所へ戻ってくる経緯も端折り過ぎの感がある。

任侠映画全盛の時には何本かのシリーズ物が撮られていたが、その中では高倉健の「昭和残侠伝」とこの藤純子主演の「緋牡丹博徒」シリーズが双璧だった。
両シリーズとも、主演俳優が唄う決して上手くはない主題歌が僕の耳に残る。
東映は男優の会社で、僕が映画を見始めた時代劇の時代から多くのお抱え女優さんがいたが主演女優と呼ぶにふさわしい人はいなかったように思う。
藤純子は主演を張り続けることができた初めての女優だったように思う。
それを決定づけたのが緋牡丹のお竜だった。
あの何とも言いようのない色香は娘の寺島しのぶには出せないものである(演技力は娘が上だけど)。

ひとよ

2023-02-03 08:33:48 | 映画
「ひとよ」 2019年 日本


監督 白石和彌
出演 佐藤健 鈴木亮平 松岡茉優 音尾琢真 筒井真理子 浅利陽介
   韓英恵 MEGUMI 大悟 佐々木蔵之介 田中裕子

ストーリー
15年前の土砂降りの夜、家で静かに遊ぶ3兄妹の姿があった。
父による日常的な暴力のせいで、子どもたちの体は傷だらけだった。
そこに母・こはる(田中裕子)が帰宅する。
タクシー運転手のこはるは、たった今、父をタクシーでひき殺してきたのだ。
「ほとぼりが冷めたころ、15年経ったら戻ってくる」と言い残し、こはるは家を出ていく。
そして事件から15年が過ぎた。
電気屋で働く長男の大樹(鈴木亮平)は、子どものころからの吃音が治らずにいた。
妻の二三子(MEGUMI)とはうまくいっておらず別居中。
次男の雄二(佐藤健)は東京で風俗雑誌のしがないライターとして働いている。
美容師を夢見ていた長女の園子(松岡茉優)は、街のスナックで働き、仕事で大量の酒を飲んでは泥酔して朝を迎えることが多い日々を送っている。
母のタクシー会社は「稲丸タクシー」として甥の進(音尾琢真)が引き継いでいた。
そんな中、突然こはるが帰ってきた。
こはるは昔のように朝食を作り四人で食卓を囲むが、会話は弾まずぎこちない空気が流れる。
母を恋しがっていた園子は戸惑いながらも好意的で、徐々に嬉しさをあらわにしていく。
大樹も母の気持ちを汲み取ろうと努力していたが、雄二の態度はひときわ冷たいものだった。
そして、週刊誌にこはるの記事を書いていたのは雄二だったことが発覚する。
そんな中、稲丸タクシーの新人運転手・堂下(佐々木蔵之介)が10万円を前借りした。


寸評
長男の大樹は吃音で、幼少期より人とのコミュニケーションに苦手意識があり、妻と上手く意思疎通が出来ず離婚の危機にある。
小説家を夢見ていた次男の雄二は兄妹と距離をおいて、東京でうだつのあがらないフリーライターとして働いているが、15年前の事件に縛られ、その事件をネタにした記事を書いている。
末っ子の園子は事件によって美容師になる夢を諦め、スナックで働きながら生計を立てているが、毎夜酔いつぶれて気持ちは荒れている。
思い通りにいっていないのは稲村家の子供たちだけではない。
女性従業員は認知症の祖母を抱えており、祖母の徘徊に手を焼いている。
採用された堂下は離婚しているらしく、子供との面会も久しぶりという状況である。
子供たちは事件後に世間から嫌がらせを受け、人生が変わっていったはずだが、その過程がわからないので母親と子供たちの間にある溝が不鮮明に感じる。
僕はこの映画に物足りなさを感じたのだが、それはなぜそうなったのかの説明が全くない点にあったと思う。
大樹はなぜ妻と意思疎通が出来なくなってしまったのか、雄二は事件の何に縛られているのか、園子はなぜ美容師の夢を諦めねばならなかったのかなどがよく分からないし、特に次男の雄二が自分達のみに起きた事件を記事にしている気持ちが僕にはイマイチ伝わらなかった。

それでも役者たちは頑張っている。
主人公の佐藤健は雰囲気十分だし、鈴木亮平も松岡茉優も魅力的で、キャラクターを存分に演じている。
もちろん田中裕子はこのような役をやらせると上手い。
雄二が子供の頃にやらかした万引きで、店主に切るタンカに笑ってしまう。
祖母に手を焼いている女性従業員から「こはるさんのような度胸があれば」と言われ、「度胸なんかじゃない!」とすごむ所なども迫力を感じさせる。
次男の雄二に責められた母親は見つかるように堂々と万引きを行う。
義弟と子供が店主に詫びに来るが、子供の不始末を母親がケリをつけたように、母親の不始末は子供がケリをつけろと言っているように思えた。
やりたくないことを親にやらされたとか、親のせいで自分はこんな風になってしまったとか、子供はともすれば何でも親のせいにしたがる。
子供だけではない、他人のせいにする輩はどこにでもいる。
そんな人間にはなりたくないものだ。

他の人にはたんなる一夜の出来事であったとしても、本人には人生を変える大きな出来事であったということは誰にでも起こりえるし、誰もが有していることでもあるだろう。
大樹の離婚問題を含め、家族の再生を感じさせるラストであったが、それまで描かれてきた内容からすればすこし安易な結末で、僕がこれまで見てきた4本の白石作品とは趣が違って見えた。
佐々木蔵之介が演じた堂下と子供の関係はどうなったのか、堂下は子供をどうしたのかは気になる。
なぜ描かなかったのだろう。

必死剣 鳥刺し

2023-02-02 09:42:31 | 映画
「必死剣 鳥刺し」 2010年 日本


監督 平山秀幸
出演 豊川悦司 池脇千鶴 吉川晃司 戸田菜穂 村上淳 関めぐみ
   山田キヌヲ 矢島健一 油井昌由樹 つまみ枝豆 俊藤光利
   村杉蝉之介 高橋和也 木野花 小日向文世 岸部一徳

ストーリー
江戸時代。東北の海坂藩で近習頭取を努める兼見三左エ門には暗い過去があった。
三年前、藩主である右京太夫の愛妾、連子を刺殺したのだ。
当時、政治に興味を持つ連子が右京を通じて藩政に口出ししていることは周知の事実。
冷酷で恣意的なその進言は悪政の元凶となっていたが、独善的な右京の存在もあり逆らえる者はなく、連子の言葉ひとつで人命さえも奪われてゆく毎日。
三左エ門が連子を刺殺したのはそんな時だった。
最愛の妻、睦江を病気で亡くした三左エ門にとって、それは死に場所を求めての行動だったが、下されたのは意外にも寛大な処分で、一年の閉門後、再び藩主の傍に仕えることに。
釈然としない想いを抱きつつも、亡き妻の姪である里尾の献身によって、再び生きる力を取り戻してゆく。
そんなある日、三左エ門は中老の津田民部から、右京暗殺計画の情報を入手したと聞かされる。
民部こそ、連子刺殺事件で三左エ門の斬首刑を止まらせた人物。
今またこの重大事を明かしたのは、“鳥刺し”という技を持つ天心独名流の剣豪、三左エ門に対して、計画を阻止することで藩への貢献の機会を与えるためだった。
そして、討つべき相手は直心流の達人、帯屋隼人正。
右京太夫の従弟であり、彼に苦言を呈する唯一の存在だったが、今では決定的な対立が生じていた。
三左エ門は藩命に従うことを決意し、里尾の愛をも真正面から受け止める。
やがて訪れる隼人正との決着の日、三左エ門を過酷な運命が待ち受けていた……。


寸評
時代劇と言えば藤沢周平しかないのかというほど藤沢周平の原作が映画化されている。
「たそがれ清兵衛」 「隠し剣 鬼の爪」 「蝉しぐれ」 「武士の一分」 「山桜」 「花のあと」 と大人気だ。
この作品も例にもれず原作は藤沢周平である。
もっとも、藤沢作品は風景描写や立ち回りの描写の美しさに際立ったものが有ると思うので、原作を忠実に映画化すればそれなりの雰囲気を持った作品に出来上がるのだろう。
かつて時代劇は残酷描写の競争が流行り、女性や子供の観客を遠ざけてしまった経験を有しているが、藤沢作品は男女の関係においても細やかに描いているのでその懸念はないものと思われる。

キャスティングの妙と言えるのが、大男の豊川悦司に小さな池脇千鶴をからませたところ。
この対比が作品にどのような効果を表していたのか、あまり感じるところはなかったが、とにかく目に付いた。
幽閉されていて運動不足で太ってしまったとでも言いたいのか、入浴シーンのトヨエツはブクブクだ。
それが意図されたものだったのかは分からないが、あの醜態を見せる必要があったのかどうか疑問だ。
なんか違和感があって、もっと精悍な体つきでも良かったのではないかと思った。

兼見三座エ門がなぜ寛大な処置をされたのかは、物語である以上想像できるし、家老の津田民部が策略を巡らしていることは同様に想像できてしまう。
したがって彼が生かされている理由が明らかになっていくスリリングさはない。
過去の出来事が順次挿入されて、側室の連子の非道ぶりと、藩主右京大夫の無能ぶりが描かれ、三左エ門が連子を殺傷に至った経緯を補足する。
そして亡くなった妻・睦江の闘病生活とそれを支える三左エ門とそれを補佐する里尾の姿も描かれる。
里尾の想いはこの頃から芽生えていたのか?
芽生えていたとしたら、睦江はそのことを感じていたのか?
そのあたりがもう少し描き込めていたら、もっと情緒あふれる作品になっていたのではないかと思う。
それでも一夜の契りで生まれた子供を抱いて、迎えに来ることが出来ない三左エ門を村はずれの道で待ち続ける里尾の姿は涙を誘う。
ラストシーンンをもっと感極まる演出があればと惜しまれる。

バカ殿の右京太夫(村上淳が好演)は、ただバカなだけだから、一番の悪人は津田民部ということになる。
最後に津田民部が正体を現して、バカ殿と一緒に三左エ門が斬し殺される様子を見物している様子の底意地の悪さは秀逸で、いつもながら岸部一徳は上手い。
それだからこそ、騙された三左エ門が武士の意地として、必死剣鳥刺しで津田を死出の道連れにするところがカタルシスを喚起し、「それを使うときは私は死んでいる」と言っていた意味が判明する。
殺陣とドラマがクライマックスで融合する典型的な展開で、殺陣の久世浩の気合の入れようが伝わってくる。
一番カッコ良かったのは御別家と称される帯屋隼人正を演じた吉川晃司だったな(第一、この人は正義だもの)。
最後は女とともにささやかな幸せに旅立つ作品が多い藤沢作品だが、これはちょっと違った結末で、他の作品と比較すると面白い。

ビガイルド 欲望のめざめ

2023-02-01 09:12:16 | 映画
「ビガイルド 欲望のめざめ」 2017年 アメリカ


監督 ソフィア・コッポラ
出演 コリン・ファレル   ニコール・キッドマン
   キルステン・ダンスト エル・ファニング
   ウーナ・ローレンス  アンガーリー・ライス
   アディソン・リーケ  エマ・ハワード

ストーリー
南北戦争さなかの1864年、アメリカ南部のバージニア州。
世間から隔絶された女子寄宿学園には園長のマーサ、教師のエドウィナと5人の生徒が静かに暮らしていた。
ところがある日、負傷した北軍兵士マクバニーが見つかり、やむを得ず学園で看護することに。
男子禁制の園に突如現われた敵兵に女たちは警戒しつつも興味を抑えることができない。
女性に対して紳士的で美しいその男性と触れ合ううち、誰もが彼に心を奪われてゆく。
しかし、次第に彼女たちは情欲と危険な嫉妬に支配されるようになっていく。
学園の秩序を守るのか、それとも、欲望を選ぶのか。
彼女たちが最後に下した決断とは・・・?


寸評
心理スリラーといった趣のある作品だ。
昼間の映像は木漏れ日などの自然光を多用しているが、夜間の描写はランプやロウソクの光を用いて学園の鬱屈した空気とその中に潜む狂気を感じさせている。
女だけの世界に突然敵側の男が入り込んでくる。
男が無理やり侵入したのではなく、理由があるにせよ彼女たちが招き入れたのだ。
女たちは年齢に関係なく男に興味津々である。
女たちの心に秘めた思いが、わずかの仕草に現れてくる。
女たちが見せる微妙な動きがミステリアスだ。
女たちが男を求めている色情狂に見えてくる。
男は紳士的だが、やはり男だ。
粗野な男ではないが本性を見せだし、片足を失ってからは正体を見せたという感じである。
男は女たちを恫喝するが、女たちはそれでもひるんだ様子はなく、まるで男を支配しているようだ。
男は単純だが、女の心の底は計り知れない。
彼女たちには、何事もなかったかのように明日からの生活が待っているのだろうか。
女は怖いと思わせ、ソフィア・コッポラらしいともいえる雰囲気を出した作品だったと思うが、僕は「ロスト・イン・トランスレーション」ほどのインパクトを感じなかった。