おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

鬼火

2022-04-13 07:29:09 | 映画
「鬼火」 1963年 フランス


監督 ルイ・マル
出演 モーリス・ロネ
   ベルナール・ノエル
   ジャンヌ・モロー
   アレクサンドラ・スチュワルト

ストーリー
アルジェリア戦争の元将校でインテリの男、アラン・ルロワ(モーリス・ロネ)は、以前は妻のドロシーとともにニューヨークに住んでいたが、アルコール依存症の治療のためにドロシーを置いてフランスに帰国していた。
ヴェルサイユの病院に入院し、アルコール依存症は完治したが、大人になり年を取ることを拒絶するアランは人生に絶望し、自殺することを決意していた。
壁の鏡には、7月23日の文字。彼の人生最期の日だ。
鏡の周囲には、彼を愛さなかった妻の写真、マリリン・モンローの自殺記事の切り抜き、悲惨な事件の切り抜きがあり、アランは拳銃の弾丸を点検する。
アランは自殺決行の前日にパリで友人たちを訪ねる。
家庭生活に安住するプチブルの友人や、極右軍事組織OASのメンバーとして活動する友人たちと再会するが、彼らに共感することができず、アランは虚無感を募らせてゆく。
エヴァ(ジャンヌ・モロー)らは麻薬に日々を送る退廃した生活を送っている。
物事を待つだけの希望と虚偽の青春。
待ちくたびれ荒廃に絶望を感じるのはアランだけなのだろうか。
昔なじみのソランジュ(アレクサンドラ・スチュワルト)が催す晩餐会での彼女の優しさも、アランの孤独感をつのらせるばかりだった。
翌朝、療養所に戻ったアランは、読みかけの本の最後のペーッジを読み終えると、静かにピストルの引き金をひくのだった。


寸評
アランはアルコール依存症だったが、今は完治して病院からも退院を促されているが病院に居ついている。
青春時代には情熱をもって過ごしていたのだろうが、今はその情熱もなくし、人を愛することも人から愛されていることも感じられず自殺する虚無的な男である。
何もなすべきことが見つからないという不安から死を選ぶブルジョワ青年でもある。
苦渋する男の最後の二日間を痛々しくスケッチしているのは認めるとしても、この男そのものには同調できない。

僕は自分の青春時代は充実していたと自己満足している。
特に学生時代は勉学を除いては情熱も満ち溢れていた。
その為に社会人となった時には虚脱感を覚えたもので、その時の感覚を思い起こせばアランの気持ちも分からぬでもないが、それでも死を選ぼうなどとはほんの一瞬でも思ったことはない。
当たり前のように高校に進学し、当たり前のように大学に行き、当たり前のように就職した。
平凡と言えば平凡と言えなくもないが、そうすることが当然と思い疑問など抱かなかった。
それまで情熱を注いできたことと離れて虚脱感はあったが、やがて新たなことへの情熱も湧いてきたのだ。
確かに僕もただ生きているだけの人生は拒絶する。
歳をとった今でもその思いは変わらない。
社会に必要とされる人間でありたいし、ライフワークと呼べるものを持ちたいし、何かに情熱を注ぎたい。
ただ何となく食べて寝てという生活を僕は送れない。
そうなった時には、もしかしたらアランのような感情が湧いてくるのかもしれない。
しかし僕は決してそのような晩年を送ることはないだろう。

アランは自らの最後を明日に控えている。
人生に絶望してのことなのだろうが、それでも彼は親友を初めとする友人たちを訪ねる。
彼らに何を求めたのだろう。
自らの死を押しとどめてくれるものを探していたのだろうか。
アランにとって彼らの生活は平凡に映るし、共感できるものはない。
友人たちは「また来いよ」と声をかけるが、アランに明日はない。
友人たちを初め多くの人々は平凡な生活の中に幸せを感じているがアランはそうではない。
すれ違う若者たちの笑い声に、かつての自分を重ねて微笑んでしまう。
青春時代は良かった、歳はとりたくないとは子供じみている。
いやアランは子供の純真さ、純粋さを持ち続けていたのかもしれない。
人は皆子供から大人になっていくが、大人になるとはどういうことなのだろう。
ただ単に年齢を重ねることではないことは確かだ。
僕は大人になれたと思っているが、それは僕の自己満足なのだろうか。
僕にも孤独を感じる時がやってくるのだろうか。
やってきたとしても僕はアランのような行動はとらないだろう。
だからこの映画には乗り切れないものがある。