おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

太陽の墓場

2021-05-17 06:07:20 | 映画
「太陽の墓場」 1960年 日本


監督 大島渚
出演 炎加世子 津川雅彦 伴淳三郎
   佐々木功 川津祐介

ストーリー
大阪の小工場街の一角にバラックの立ち並ぶドヤ街がある。
安っぽい看板を下げた建物の中では、愚連隊風の若い男ヤスに見張らせて、元陸軍衛生兵の村田が大勢の日雇作業員から血を採っていた。
花子がそれを手伝った。
ポン太は三百円払うのが仕事だった。
動乱屋と称する男は国難説をぶって一同を煙にまき、花子の家に往みつくことになった。
ヤスとポン太は最近のし上った愚連隊信栄会の会員で、この種の小遣い稼ぎは会長の信から禁じられていた。
一帯を縄張りとする大浜組を恐れる信は大浜組の殴り込みを恐れてドヤを次々に替えた。
二人は武と辰夫という二人の少年を拾い、信栄会に入れた。
仕事は女の客引きだった。
ドヤ街の一角には、花子の父寄せ松、バタ助とちかの夫婦、ちかと関係のある寄せ平、ヤリとケイマ達が住んでいた。一同は旧日本陸軍の手榴弾を持った動乱屋を畏敬の目で迎えた。
花子は動乱屋と組んで血の売買を始めたが、利益の分配でもめ、信栄会と組んだ。
信の乾分の手で村田は街から追い出された。
動乱屋のもう一つの仕事は、正体不明の色眼鏡の男に、戸籍を売る男を世話することだった。
その戸籍は外国人に売られ、その金で武器を買い、旧軍人の秘密組織を作るのだと豪語した。
戦争や革命を夢みて、目的なく生きる人々が集まった。
やがて信栄会は内部分裂し、信と花子は喧嘩別れした。
仲間のパンパンのぶ子をつれて大浜組に身売りしようとしたヤスは信に殺された。
武はこの世界に嫌気がさしたが、その武に花子の心はひかれた。
村田をひろい上げた花子は、動乱屋と組んで再び血の売買を始めた。
バタ助は動乱屋に戸籍を売ると、その金で大盤ふるまいをして、首を吊った・・・。


寸評
東の山谷に対して西の釜ヶ崎は最下層の日雇い労働者たちが巣食う場所だ。
どこからがセットで、どこまでがロケかと思わせる釜ヶ崎の雰囲気がこの映画の半分を占めている。
釜ヶ崎で撮影を行ったことがこの作品に価値を付く加えていると感じるくらい釜ヶ崎のリアル感がいい。
そのリアル感でもって釜ヶ崎の住人を演じている役者たちが本当の住人に見えてくる。
寄せ松・伴淳三郎 、寄せ平・渡辺文雄 、バタ助・藤原釜足、動乱屋・小沢栄太郎、村田・浜村純、泥棒・田中邦衛、バタ屋・左卜全、ちか・北林谷栄などがなりきっていた。
ボロボロの薄汚れたシャツを着ている彼らに比べると、炎加世子の花子や津川雅彦の信がかっこよく見えるし、川津祐介のヤスや佐々木功の武などもまだましなように見えてしまう。
それくらい釜ヶ崎の住人たちは喘いでいる。

「太陽の墓場」というタイトルは「太陽の季節」に対抗したものなのかもしれない。
上流階級層がリードした「太陽族ブーム」の影で、世の中には戦後の成長に取り残された多くの国民がいるのだと叫んでいるようだ。
花子は「世の中変わるんか! ここにいるルンペン野郎達は救われるんか!」と叫ぶ。
「死んだら終わりや」と言いながら、過酷な現実を生き抜く主人公花子はひどく冷徹に見えてしまう。
実際、花子の周りを取り巻く人間たちは、いとも簡単に死んでいってしまう。
彼女自身は、自分が生きていくためには他人の命などどうでもいいようですらあるのだ。
花子を演じた炎加世子の性的魅力と強さが際立った作品だ。
無敵と思える花子も結局は隣に男が必要な女で、彼女のそばには常にワルをやらかす男がいる。
女の強さを描くと同時に弱さも描いて、女の持つ両面をうまく写していた。

悲しげに鳴り響くギターがなんともいえない雰囲気を醸し出し、長い静止ショットを繰り返すカメラワークは役者の様々な表情を捉えている。
その表情からは不満や嘆きはあっても、希望の光を見出すことはできない。
清毒合わせ呑むとは時々耳にする言葉だが、彼らは毒しか呑むことができない人間たちだ。
社会が変わることなどを期待せず、自分自身だけがなんとか生きていくために喘ぎ続けるしかないという彼等の宿命が描かれている。
実に辛い映画だ。
常に男の相棒を必要とする花子は村田とともに駆け出していく。
その先に光明が見えているわけでないが、一体彼らはどこへ行こうとしているのだろう・・・。
舞台となったあいりん地区は平成の世が四半世紀を過ぎても未だに喘いでいる。
バラック小屋は消えたのかもしれないが、そこで暮らす人びとの暮らしは一向に改善されたように思われない。
そこから抜け出せない人間たちが存在し続けているからだ。
格差社会はますます彼らを置いてきぼりにするような気がしてならない。


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2 コメント

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これを見ると (指田文夫)
2021-05-18 21:06:05
1960年当時の大阪は、日本と言うよりも、アジアですね。そして、この映画は非常に抒情的だと思います。大島渚は、意外にも抒情的と言うのが私の考えです。

佐々木功が。友人を殺すときにバックに流れるのはガムラン的な音楽です。
これは、音楽の真鍋理一郎が、「アジア的だから」と理解したものだそうです。
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大阪駅前もかつては・・・ (館長)
2021-05-19 07:31:07
当時は大阪駅前の阪神百貨店裏なども戦後の闇市を思わせるような一角が残っていましたよね。
大阪は大都市の一つだと思いますが、他の地域とは明らかに違った雰囲気がります。
私はそんな大阪が好きなんですけどね。
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