おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

砂の器

2021-04-19 07:05:22 | 映画
「砂の器」 1974年 日本


監督 野村芳太郎
出演 丹波哲郎 加藤剛 森田健作 緒形拳
   島田陽子 山口果林 加藤嘉 春日和秀
   笠智衆 松山省二 内藤武敏 春川ますみ
   稲葉義男 花沢徳衛 信欣三 渥美清

ストーリー
1971年6月24日早朝、東京の国鉄蒲田操車場で殺害された男性の死体が発見された。
被害者の身元は不明で、事件の捜査にあたったベテランの今西刑事(丹波哲郎)と若手の吉村刑事(森田健作)は聞き込み捜査から、被害者は殺害の数時間前に現場近くのバーで若い男と一緒に酒を飲んでいたことを突き止める。
バーのホステスの証言によると、被害者は強い東北弁訛りで「カメダ」という言葉を何度も発言していたという。
東北の各県から「カメダ=亀田」姓の人物がリストアップされたが該当者はなく、今西と吉村は秋田県亀田に行ったが手がかりは何一つ発見できなかった。
その帰り、二人は列車内で天才音楽家の和賀英良(加藤剛)に遭遇する。
8月4日、何一つ手がかりのないまま捜査本部は解散、規模を縮小した継続捜査に移行する。
その日、中央線の列車の窓から一人の女が白い紙吹雪を車外に撒き散らしていた。
その娘のことを新聞のコラムで知った吉村にはある疑問が生まれた。
紙吹雪とは布切れだったのではないかと思った吉村は新聞社に問い合わせ、紙吹雪の女こと銀座のホステス高木理恵子(島田陽子)の元に向かうが、彼女は関与を否定して姿を消す。
そのバーには和賀が婚約者で前大蔵大臣令嬢の田所佐知子(山口果林)を伴って来店していた。
8月9日、被害者の身元は岡山県在住の三木謙一(緒形拳)と判明する。
しかし岡山には「カメダ」という地名はなく、三木の知人にも「カメダ」という人物は存在しなかった。
それでも今西は執念の捜査で、島根県の出雲地方には東北弁によく似た方言があり、そして亀嵩(かめだけ)という土地があることを突き止めた。


寸評
松本清張原作のサスペンスだが犯人探しの推理劇ではない。
なぜなら加藤剛が演じる和賀英良が早々に登場するので、この事件の犯人は和賀英良であることがすぐに推測されてしまうからだ。
全く関係のない主演級の人物が登場すれば大抵の人はそう思うだろう。
したがってサスペンスとしては、被害者と和賀英良の関係はどうだったのか、また和賀英良が殺人を犯す動機は何だったのかに目が向く。
時折、和賀英良の登場シーンが描かれるので、その思いは増幅されていく。
今西刑事の捜査はローカル色豊かな土地をめぐることになり、秋田県亀田、出雲地方、石川県などに通じるローカル線の風景が事件解決の困難さを感じさせる素晴らしい映像となっている。

国内においては原爆病、優生保護法による中絶など、根拠のない差別が行われてきたが、ハンセン氏病もその一つで随分と人権を無視した扱いを受けてきたことは周知の事実である。
この作品でもハンセン氏病に犯された本浦千代吉(加藤嘉)が幼い息子を連れて、迫害を受けながら放浪の旅を続ける姿が描かれる。
巡礼姿となった親子が登場すると同時に音楽監督である芥川也寸志の協力の下、菅野光亮によりこの映画の為に作曲された「宿命」が流れ出す。
ハンセン氏病の父と幼い秀夫が日本中を放浪するシーンは屈指の名場面となっている。
もっと言えば、このシーンがあるからこそ「砂の器」は名作たりえている。
四季折々の日本国中を差別を受けながら放浪する親子だが、作品はその姿を捉えるだけでセリフはなく音楽だけが流れる。
映し出される映像は過酷な旅、差別を受ける姿を描き出すと共に、父の本浦千代吉が見せる息子秀夫に対する人並み以上の愛情である。
このシーンは映像と音楽が一体化した正に映画ならではのもので、小説では絶対に表現できないものだ。
その事は原作者である松本清張氏も認めていたと聞く。
終盤の今西刑事がすべてを明かにする捜査会議と、犯人である天才音楽家が自ら指揮する協奏曲の発表会、そして彼の暗い過去でもある日本全土を貫く父と子の道行きの回想シ-ンがカットバックで描かれる構成は見事と言うほかない。
間延びすることのない展開だが、紙吹雪の女の下りは都合よすぎるように思う。

緒形拳が善良な巡査として登場するが、しかし彼の善意は必ずしも報われるものではなく、逆に不幸を呼び込むものになっているのは人の世の難しさを表していて興味深い。
三木巡査は親子を救おうとした善意によって、この親子は永遠に引き裂かれてしまっている。
父親を病院に入院させ、子供を引き取ることにするが、子供は三木巡査の元から逃げ出してしまう。
そして別人となって音楽の道で成功した主人公を偶然見つけてしまい、またもや善意によって実父との再会を熱心に勧めたことで悲劇が起きている。
一滴の水が注がれただけで崩れてしまう砂の器の如く、危うい状況の下にいるのが人間社会なのかもしれない。


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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
原作よりはましですが (FUMIO SASHIDA)
2021-04-19 08:06:22
それほど良い映画とは思っていません。
ただ、原作はとてもひどく、電子音で人を殺したするなど、ほとんど「トンデモ小説」です。
原作では、主人公は、黛敏郎を思わせる前衛作曲家ですが、映画では古典的な、というよりも通俗的な作曲家になっていますね。
松本清張は、黛敏郎が嫌いだったとのことです。
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題名のない音楽会 (館長)
2021-04-20 06:50:15
黛敏郎さんの番組を長い間見ていました。
砂の器は放浪シーンがなければ通俗映画でしたね。
返信する
Unknown (風早真希)
2023-02-02 16:16:36
ここでご紹介されている「砂の器」は、まさに日本映画史に残る名作だと思います。
そこで、この映画を初めて観た時の感動を思い出して、感想を述べてみたいと思います。

野村芳太郎監督の「砂の器」は、松本清張の原作の小説を遥かに凌駕している、まさに日本映画の歴史に残る名画の1本で、宿命のもつ哀しみを打ち破ろうとする人間の栄光と挫折を描いた作品です。

映画「砂の器」の冒頭の画面一杯に広がる、北辺の夕焼けを背景に、襤褸をまとった幼児がただ一人、濡れた砂を手に一杯盛って、無心に作り続ける砂の器は、朝の陽光を浴びて、ただひたすら崩れ去るしかないという寓意を込めた、このタイトルシーンに我々観る者は、映画的陶酔感に酔いしれ、「砂の器」という映像的世界に引き込まれていきます。

親と子の貧困と宿命のどうしようもないしがらみを、あらゆる手段で振り切り、天賦の音楽の才能で人生に立ちはだかる壁を打ち破ろうとする、一人の人間の成就するかに見えた栄光と、その後に訪れる残酷な挫折を、砂の器に盛られたものを人生のもろさに重ね合わせ、深い哀惜と共感をもって映画「砂の器」は描いていきます。

裕福で家柄も良い出自の人々にとって、その人間の持つ才能は恵まれた環境を後ろ盾として、順調に育ち、そして自然と評価され、頑丈で壊れない"鉄の器"の中で、その人間の人生は例えそれが一抹の虚像であっても、容易にぐらつくものではありません。

しかし、自分自身ではどうしようもない自己の出自による、宿命のもつ哀しみとつらさが、音楽の才能に恵まれたばかりに、宿命からの脱却が、やむなく犯罪へと突き進んでいくというアイロニーになっています。

松本清張の大ベストセラーの原作の「砂の器」は、彼の初期の代表作だと言われていて、社会と人生を投影させた、静かで哀愁に満ちたサスペンスの高揚は、人生の深淵を垣間見せながら、栄光と破局が同時に訪れる最終章へとなだれ込んでいきます。

この原作の発表当時から、その映画化に執念を燃やし続けた野村芳太郎監督と脚本家の橋本忍の名作「張込み」のコンビは、この構想を15年間も温め続け、共同でプロダクションを設立してまで映画化にこぎつけたそうです。

橋本忍は「一人で生まれることはできない。一人で生きていくこともできない----しかし魂はみんな孤独なのだ」というコンセプトのもと、この優れた砂の器のシナリオを完成させました。

推理小説の映画化は難しいとよく言われますが、橋本忍のシナリオは原作を換骨奪胎し、推敲を重ね六稿目でようやく納得のいくシナリオが完成したそうです。

原作の小説は、犯人が幼年期の人生の恩人である元警察官の三木巡査(緒方拳)を殺害する動機に説得力が欠けるとの書評が数多くありましたが、橋本忍のシナリオは、その弱点をカバーしようとする優れた内容になっていると思います。

模範的な巡査で、人に対してもひたすら親切であったという三木巡査が、あるきっかけで、成人した和賀(加藤剛)の存在を知り、懐旧の念から上京して和賀に対して、現在もなお生きているハンセン氏病の父親(加藤嘉)との再会を強硬に迫った事が、成功を目前にした和賀にとって、自己の出自の発覚を恐れた、打算的な殺意を生んでしまったという一般的な解釈に対して、橋本忍はそこから更に深く突っ込んで、三木巡査の善意からの和賀への説得であるとはいえ、それだからこそ耐えられない人間の心に、ある意味、強引に踏み込んでくることへの反発・抵抗する気持ちが、殺意へと向かっていったとする解釈へもっていきます。

また、この時の和賀の心理的な深層心理を考えてみると、人目には哀れだと見える親子の巡礼の旅が二人にとっては、何事にも代えがたく嬉しく懐かしいものであり、その状況を引き裂いて、父親を療養所へ送ってしまった三木巡査への幼い日の恨み・憎しみが根付いたままであったとも言えると思います。

だからこそ、この父子の永遠の別れになる、亀嵩駅の停車場で列車を待つ父親のもとへ必死に走り、父親へすがりついて泣きじゃくる和賀のシーンが、この映画の中でも最も感動的なシーンになっているのだと思います。

この亀嵩駅での別れのシーンは、映画史に残る、まさに名場面のひとつとして長く記憶に残り、思い出すたびに目頭が熱くなってきます。

そして、この映画の白眉とも言える、ピアノ協奏曲「宿命」の新作発表会と新進作曲家として脚光を浴びる和賀を追い詰める警視庁の捜査会議、そして、そこに回想され、掘り起こされる和賀の思いがけない暗い宿命的な過去。

この三つの演出上の同時進行と交錯する場面が、流麗で悲愴ともいえる「宿命」という演奏される曲によって、胸を締め付けられるように盛り上げていく、最後の40分間の長いワンカットは、野村芳太郎監督と脚本家・橋本忍のこの映画に賭ける思いが全精力で注がれており、小説では味わえない映画という表現媒体のもつ強み・素晴らしさが最大限に発揮されていると思います。

この映画での現地ロケは17,000km、フイルムの使用量は20,000メートルで通常の映画の約10本分ということで、厳しい冬の竜飛岬、早春の信濃路、初夏の北関東、真夏の奥出雲、紅葉の阿寒と日本全国を漂泊していく親子の巡礼の旅を、撮影監督の川又昴は、格調高く日本の四季の風景の美しさ・たたずまいを丹念に心を込めてカメラに収めていて、この映画にある種の風格を与え、より感動的なものにしていると思います。

まさしくこの「砂の器」という映画は、後世にまで長く語り継がれる価値のある名画だと思います。
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二人の功績 (館長)
2023-02-03 08:30:56
若しはこの映画においての芥川也寸志の音楽と川又昴のカメラの功績が大きかったと思っています。
放浪シーンは抜群でした。
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