おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

波止場

2020-01-22 09:07:15 | 映画
「波止場」 1954年 アメリカ


監督 エリア・カザン
出演 マーロン・ブランド
   エヴァ・マリー・セイント
   リー・J・コッブ
   ロッド・スタイガー
   カール・マルデン
   パット・ヘニング

ストーリー
ニューヨークの波止場に働く沖仲士たちは、酒場を経営している悪らつなボス、ジョニー・フレンドリイ(リー・J・コッブ)の暴力によって支配されていた。
ある夜、沖仲士のひとりジョイが謀殺され、直接の犯人はジョニーの子分チャーリー(ロッド・スタイガー)であったが、チャーリーの弟でやはりジョニーの一味であるテリー(マーロン・ブランド)も片棒をかついでいた。
事件は波止場の正義派バリイ神父(カール・マルデン)やジョイの妹イディ(エヴァ・マリー・セイント)の痛憤をよそに闇から闇へ葬り去られようとしていた。
神父は犯人の発見に躍起となり、それを快く思わないジョニー一味は教会を襲った。
ちょうどその場に居合わせたイディは、危いところをテリーに救けられた。
彼女は、テリーが兄の謀殺に関係があるのではないかと疑ったが、彼の意外な純真さに惹かれ、2人の気持ちは次第に接近し、それとともにテリーの心はジョニー一味から離れて行った。
そこへまたまた、白昼、沖仲士のデューガン(パット・ヘニング)が事故に見せかけ殺される事件が起きた。
テリーはバリイ神父の忠告に従って、イディに事件の真実を告白した。
テリーはイディをアパートに訪れ、激しく愛を求めた。
しかしジョニイ一味に襲われて2人が危くのがれたとき、屍体となったチャーリーの姿を見つけた。
間もなくジョニー一味は、2つの殺人事件について法廷で尋問され、テリーはかれの犯罪事実を証言した。
翌朝波止場にあらわれたテリーは、沖仲士仲間から卑怯者としてボイコットされた。
テリーはジョニーの本拠にのりこみ、彼を打ちのめしたが、自らも子分たちの暴行をうけて半殺しにされた。
しかしテリーは渾身の力をふりしぼって立ち上がり、沖仲士たちの中へ歩いていった。
沖仲士たちはテリーの真の勇気を知った。


寸評
港湾労働者テリーを演じたマーロン・ブランドは本作でアカデミー賞主演男優賞を獲得し、名実共にトップスターになったのだが、僕がマーロン・ブランドと初めて出会ったのは1966年の「逃亡地帯」だった。
アーサー・ペンが監督したその作品で僕はすっかりマーロン・ブランドの虜になった。
この作品はそれより10年以上も前の作品で、さすがにマーロン・ブランドも若いし、僕は年齢的にもリアルタイムでこの作品を見ることは出来ずリバイバルでこの作品を見た。
改めて出演作品の履歴を見ると、1951年の「欲望という名の電車」を初め、この頃の作品の方が名作が多いようで、その後の存在感のある映画は1972年の「ゴッド・ファーザー」まで待たねばならなかったのは彼が高額ギャラを要求するトラブルメーカーだったことによるのかもしれない。

古い映画だが作品にテンポがあるし映像に迫力もあり今見ても十分に鑑賞に堪える映画だ。
冒頭でテリーが友人のジョイを呼び出す役を言いつけられ、それが元でジョイは殺されてしまう。
ドラマチックな展開で観客は自然と作品に引き込まれてしまう出だしがいい。
呼び出しに使われるのが鳩で、この頃はハトを飼っている人が多かったのかもしれない。
僕も子供の頃にハトを飼っていた時期があったが最近ではそのような人を見かけなくなった。
テリーはマフィアのボスであるジョニーに拾われた恩義を抱えていて、兄のチャーリーはそのボスの右腕となっているというのが背景にある。
テリーは元ボクサーで強かったが、兄を通じてジョニー一味から八百長を持ち掛けられボクサー家業を棒に振った過去も持っている。
兄のチャーリーはテリーに高圧的な態度で接しているが、実の弟を殺すことは出来ず自分の命を失うことになる。
この映画における人情部分だが、このチャーリーを演じているのが若き頃のロッド・スタイガーである。
古い作品を見ると彼等の若い頃の姿を見ることが出来るのも楽しみの一つだ。

ジョニー一味は自分達に都合の悪い証言をしようとする者を次々殺していくが、それならば批判の急先鋒であるバリイ神父を襲っても良さそうなものだと思うが彼は無傷である。
この神父は張り切り過ぎていて、僕にはちょっと違和感が生じたキャラクターだ。
僕はこの人物を演じているのは若い頃のジーン・ハックマンかと思っていたらカール・マルデンという俳優だった。
キャラクターでいえば、僕はイディという女性にも違和感があって、この二人のキャラクターは好きでない。

前述のように神父が大演説をぶち結構目立っているのだが、ラストシーンにおけるマーロン・ブランドが血にまみれながらも立ち上がり歩んでいく姿はまるでキリストではないかと思わせるので、エリア・カザンは宗教的な意味合いを持ち込んでいたのかもしれない。
この映画では裏切り者、チクリ屋というキーワードが度々出てくるのが興味深い。
なぜならエリア・カザン自身も1952年の赤狩りにおいて共産主義者の嫌疑がかけられ、カザンはこれを否定するために司法取引し、共産主義思想の疑いのある者として友人の劇作家・演出家・映画監督・俳優ら11人の名前を同委員会に伝えた裏切り者であるからだ。
その事が影響しているのかなと思うのは勘繰りだろうか。