ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

「人生会議」いろいろ(その2)

2019-12-18 10:30:57 | 日記
人生の最終段階で、どんな医療やケアを受けたいのか、自分の意思や望みをあらかじめ家族と語り合う。この語り合いを厚労省は「人生会議」と名づけ、その必要性を啓発するポスターを作った。
「人生会議」が必要なのは尤もなことだと私は思うが、なぜかこれに対しては風当たりが強い。ポスターのイメージキャラクターは、酸素チューブを鼻につけ、ベッドに横たわるお笑いタレントの小藪さんである。一体何が問題なのか。

この問題を、私自身の体験に即して考えてみたい。私が見舞いに訪れたアルツハイマーの老人をRさんと呼び、この老人が入院していた病院をT病院と呼ぶとすれば、私は、姥捨山と変わらないT病院のような医療施設で、Rさんと同じように不本意なまま死んでいくことを望まない。強く、強く、これを忌避する気持ちを否めないのである。

だから私は、この自分の意思を、まだ頭が確かなうちに、妻や息子や娘に知らせておきたいと思うし、この意思を尊重してもらうべく、家族間で確認する「人生会議」のような場を設けることは、とても有意義だと考える。

しかし、まあ、そう結論を急がず、もう少しよく考えてみよう。問題は、家族を相手に「人生会議」を行うことで、私は自分の意思が尊重され、これが確かに実現されると期待できるかどうかである。

私が寝たきり状態になったとき、私の家族は、私の介護を負担に感じ、これを介護専門の施設に任せようと考えるだろう。彼らにもそれぞれ自分の生活があるから、私の介護にかまけていられないことは、私にもよく理解できる。

私にしたところで、寝たきり老人の介護という重労働を、年老いた妻や、それぞれの家庭を営む子供たちに押し付けるのは申し訳ないと思うし、それはそれで私自身の心の負担にもなる。私は心の負担を取り除こうとして、(私のケアをビジネスライクに引き受けてくれる)介護専門の施設に期待し、そういう施設に自分を移して欲しいと、自分のほうから申し出るかも知れない。

私の知り合いのR氏の場合は、介護専門の施設でも手に余るということで、行く先々の施設から見放され、いくつもの介護施設をたらい回しにされた。私も寝たきりになれば、いくつもの介護施設をたらい回しにされた挙句、重度の身障者を引き受ける医療施設、ーーあのT病院のような収容施設に送られるのだろう。

この社会にはお粗末ではあるものの、寝たきりになった老人をきちんと(死ぬまで)ケアし、看取ってくれるベルトコンベアー式のシステムが出来上がっている。そして私は、だれかのケアが必要になった時点で、自分や家族の意思・願望の如何にかかわらず、否応なくこのベルトコンベアーに乗せられることになる。一旦乗せられてしまえば、私は苦痛や不満を訴えることは許されない。家族は家族で、このような境遇に私をおいたことを後悔し、後々苦しみ続けることになる。
(つづく)
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