人生の最終段階で、どんな医療やケアを受けたいのか、自分の意思や望みをあらかじめ家族と語り合う。終末に向けたこの語り合いを厚労省は「人生会議」と名づけたが、それをすれば私は自分の意思や望みを実現することができるのか、--姥捨山と変わらない、お粗末なホスピスで不満をかかえ、不本意なまま死んでいく〈無念〉を避けることができるのか、自宅で家族に看取られながら、安らかに死を迎えることができるのか。
この問題を前回、前々回と2回にわたって考えてきた。今、私は次のように言うことができる。
厚労省の「人生会議」啓発ポスターに描かれた「小藪さん」状態は、「人生会議」を開き、自分の思いを家族に伝えたところで、しょせん逃れられるものではない。そういう現実が厚い壁のように、厳として存在するのだ。その壁を(まるで存在しないかのように)放置したまま、「人生会議」を開けばどうにかなると、根拠のない空虚な幻想(たわごと)を振りまく点で、この厚労省のポスターはやはり問題である。
厚労省がまずやるべきは、ターミナルケアの質の向上と、ホスピスの改善につながるような施策を、早急かつ具体的に実施することだろう。老人たちが「あそこでなら、最期を迎えてもよい」と思えるような、立派なホスピスがいくつも作られるようになることを、つよく私は望む。
もっとも、先立つものはカネである。介護従事者の安い給料が物語るように、介護の現場にはカネがない。高齢者の増加で、国の福祉予算がそれに追いつかない状態だということを、私は知っている。
厚労省の施策によってターミナルケアの現場が充実するのと、私がターミナルケアの利用者になるのと、どちらが先になるかは、おそらく神さまでも分からないだろう。
残念だけど、そう思うよ。
この問題を前回、前々回と2回にわたって考えてきた。今、私は次のように言うことができる。
厚労省の「人生会議」啓発ポスターに描かれた「小藪さん」状態は、「人生会議」を開き、自分の思いを家族に伝えたところで、しょせん逃れられるものではない。そういう現実が厚い壁のように、厳として存在するのだ。その壁を(まるで存在しないかのように)放置したまま、「人生会議」を開けばどうにかなると、根拠のない空虚な幻想(たわごと)を振りまく点で、この厚労省のポスターはやはり問題である。
厚労省がまずやるべきは、ターミナルケアの質の向上と、ホスピスの改善につながるような施策を、早急かつ具体的に実施することだろう。老人たちが「あそこでなら、最期を迎えてもよい」と思えるような、立派なホスピスがいくつも作られるようになることを、つよく私は望む。
もっとも、先立つものはカネである。介護従事者の安い給料が物語るように、介護の現場にはカネがない。高齢者の増加で、国の福祉予算がそれに追いつかない状態だということを、私は知っている。
厚労省の施策によってターミナルケアの現場が充実するのと、私がターミナルケアの利用者になるのと、どちらが先になるかは、おそらく神さまでも分からないだろう。
残念だけど、そう思うよ。
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