プーチンはなぜウクライナとの戦いに勝つことができないのか、敗けざるを得ないのか。ーーこの問いに対する政治哲学の答えは、次のようなものだった。
すなわち、プーチンがウクライナを征服したとしても、この統治者(プーチン)に対して被治者(ウクライナの人民)は「服従への意思(「あんたの命令なら、従ってもいいよ」という気持ち)」を持つことがないから、この統治者(プーチン)は被治者(ウクライナの人民)との間に持続的な支配−服従関係を築くことができないのである、と。
では、どういう条件があれば、ウクライナの人民はプーチンに対して「服従への意思」を懐くようになるのか。プーチンはこの戦いの勝者になることができるのか。
この問いに答えるには、我が国の岸田首相や、アメリカのバイデン大統領のことを考えてみればよい。
日本の国民は岸田首相に対して「服従への意思」を懐き、アメリカの国民もバイデン大統領に対して「服従への意思」を懐いている。それはなぜかといえば、彼らが選挙によって国家の元首になった人物だからである。
日本の国民は総選挙で(岸田氏が総裁をつとめる)自民党に票を投じ、アメリカの国民は大統領選挙で(バイデン氏を候補者に指名した)民主党に票を投じた。
選挙で票を投じたということは、彼らが岸田氏を、あるいはバイデン氏を、「我々のリーダー」として認め、受け入れたということにほかならない。だから日本の国民が岸田首相に対して(ぶつくさ文句を言いながらも)「服従への意思」を懐き、アメリカの国民がバイデン大統領に対して「服従への意思」を懐くのは、ある意味当然のことなのである。
ウクライナの人民がプーチンに対して「服従への意思」を懐くことがあるとすれば、それは、彼らが選挙でプーチンを「我々のリーダー」として選んだ場合である。だが、そういうことは絶対に起こり得ない。プーチンがウクライナの人民に対して配ったのは投票用紙ではなく、砲弾の嵐だったのだから。
私の夫も息子もプーチンによって殺された。その私がどうしてプーチンに対して「服従への意思」を懐くことができるのか、ーーウクライナの女性たちは、そう口をとがらせることだろう。
だがーー、と言う人がいるかもしれない。選挙を経なくても、長期の支配−服従関係を築くことができたケースがあるのではないか。たとえば戦前日本の天皇の場合はどうなのだ、と、この人は言うかもしれない。
う〜む。これについては、次回にまた改めて考えてみよう。
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