きょうの朝ドラ「虎に翼」は一挙に時代が飛び、昭和43年の(全学連による)東大安田講堂立てこもり事件から、45年の安保闘争(いわゆる70年安保)へ、という政治の季節が話題の中心だった。昭和43年といえば、私が大学に入学した年であり、それからの数年間は私の青春(アオハル)時代だった。懐かしくないわけがない。いわゆる学園紛争といい、安保闘争といい、これらは私のすぐ身近で起こった出来事だから、関心を持たないわけにはいかなかったのである。
いつぞやのブログにも書いたことだが、昭和43年のあの「新宿争乱事件」があった当日、私は友人から「新宿の西口に行ってみないか」と誘われ、それを断った。機動隊から暴行を受け、ブタ箱行きになるのを恐れたためだが、この判断は正解だった。断っていなかったら、私はホントに機動隊にボコボコにされ、ブタ箱行きになっていただろう。
安田講堂立てこもり事件に関しては、「立てこもろう」と誘いを受けたわけではない。私が誘いを受けたのは、駒場構内の「第8本館」への立てこもりだった。こちらも私は断った。「立てこもれば、民青が攻めてくる。民青(いわゆる「地区ミン」)は機動隊以上に怖いぞ」という噂があったからである。
だから私は、大学構内立てこもりにも、新宿争乱にも直接コミットしたわけではないが、いつも「行く/行かない」の分水嶺の尾根伝いをふらふらとさまよっていた気がする。
きょうの朝ドラでは、(おそらく)機動隊に逮捕され、家裁送りとなった青年がヒロインの寅子と対峙するシーンが出てきたが、あの青年は私のアオハル的心情の化身だったのではないかと思うと、こみ上げてくる懐かしさを禁じ得なかった。
朝ドラ「虎に翼」に関しては、むしろアメリカによる民間人無差別虐殺の犯罪性を書くべきなのかもしれない。また、本ブログでは、きのうも予告したように、自民党総裁選の「朝生」的論戦について書くべきだったのだろう。
だが、自分自身の苦いアオハルの思い出がよみがえると、そうした「書くべき」は影の薄いものになり、どうでも良いことのように思えてくる。
とはいえ自民党総裁選に関しては、書くべき話題がわんさと押し寄せている。他に差し迫った話題がなければ、あすこそはこちらの話題に目を向けることにしよう。
いつぞやのブログにも書いたことだが、昭和43年のあの「新宿争乱事件」があった当日、私は友人から「新宿の西口に行ってみないか」と誘われ、それを断った。機動隊から暴行を受け、ブタ箱行きになるのを恐れたためだが、この判断は正解だった。断っていなかったら、私はホントに機動隊にボコボコにされ、ブタ箱行きになっていただろう。
安田講堂立てこもり事件に関しては、「立てこもろう」と誘いを受けたわけではない。私が誘いを受けたのは、駒場構内の「第8本館」への立てこもりだった。こちらも私は断った。「立てこもれば、民青が攻めてくる。民青(いわゆる「地区ミン」)は機動隊以上に怖いぞ」という噂があったからである。
だから私は、大学構内立てこもりにも、新宿争乱にも直接コミットしたわけではないが、いつも「行く/行かない」の分水嶺の尾根伝いをふらふらとさまよっていた気がする。
きょうの朝ドラでは、(おそらく)機動隊に逮捕され、家裁送りとなった青年がヒロインの寅子と対峙するシーンが出てきたが、あの青年は私のアオハル的心情の化身だったのではないかと思うと、こみ上げてくる懐かしさを禁じ得なかった。
朝ドラ「虎に翼」に関しては、むしろアメリカによる民間人無差別虐殺の犯罪性を書くべきなのかもしれない。また、本ブログでは、きのうも予告したように、自民党総裁選の「朝生」的論戦について書くべきだったのだろう。
だが、自分自身の苦いアオハルの思い出がよみがえると、そうした「書くべき」は影の薄いものになり、どうでも良いことのように思えてくる。
とはいえ自民党総裁選に関しては、書くべき話題がわんさと押し寄せている。他に差し迫った話題がなければ、あすこそはこちらの話題に目を向けることにしよう。