蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

ススキのない観月

2022年09月11日 | つれづれに

「生命力」、「精力」、「憂い」、「悔いのない青春」、「なびく心」

 早朝6時、歩き出す首筋を撫でるように吹きすぎる朝風が、もうすっかり秋の爽やかさを包んでいた。日の出も遅くなり、散歩を終える6時半過ぎに、山の端を破る。坂道を歩けば、まだ微かな夏の残滓に汗ばむ。カミさんと天満宮迄歩いてお参りをしたが、あいにく小銭さえ持ってない。「ごめんなさい、今日のお賽銭はツケにしてください!」と、詫びながら2礼2拍手1礼する。
 歩き戻って熱いシャワーの後に浴びる冷水に、ようやく微かな冷たさを感じる季節だった。

 「中秋の名月」を愛でるに欠かせないススキを探して、南に走った。田圃の畔や道路ののり面、川土手、目を凝らしながら走れども走れども、ススキの姿はなかった。目立つのは、丈を伸ばすセイダカアワダチソウばかり。およそ30キロ走った朝倉で、予約しておいた「さくらよ風に」というおしゃれな名前の懐石料理の店でランチを摂った。

 ススキの開花時期には少し早く、またセイタカアワダチソウの花時にも早い。しかし、いつも中秋の名月の頃には、近場の叢でススキを刈って花瓶に差し、月見団子を供えていた記憶がある。年毎にススキが消えていくようで寂しい。

 ススキとセイタカアワダチソウには、因縁の闘いの歴史がある。
 1897年ごろに鑑賞用や蜂蜜を採る植物として、北米から輸入されたセイタカアワダチソウは、1940年代に日本全域に広まった。さらに1970年代に全国的に大繁殖を遂げ、日本においては完全に帰化植物となった
 アレロパシー(他感作用)という特殊な能力があり、放出する化学物質で他の植物の成長を抑制してしまう。ススキの群生が次第に駆逐され、周辺の野性の「秋の七草」や小動物や昆虫なども姿を消していき、栽培種の「秋の七草」がスーパーに並ぶ現状が生まれた。
 しかし、セイタカアワダチソウは繁茂しすぎると、自らのアレロパシーで自らの発芽まで阻害して衰退していき、今度はススキが盛り返してくるというのだ。
 ススキは、セイタカアワダリソウが枯らした土地に再び栄養素を与え、有害な化学物質を消化し分解する。ススキの復活のおかげで、土地は再び栄養を取り戻しつつあるという。
 厄介者の帰化植物に懸命に逆らい、何年も何年も踏ん張って最後の砦になったのがススキだった。そしてススキの群生によって、野原に土竜や蚯蚓、そして鈴虫などの秋の昆虫も帰って来た。女郎花、撫子、秋桜も、少しずつ戻りつつある。
 面白いことに、北米では逆にススキが侵略的外来種として猛威を振るっているという。

 冒頭に書いたのは、ススキの花言葉である。いずれも、私たち「昭和枯れすすき」世代には、もう縁のない言葉になってしまった。

 ススキのないままに、中秋の名月を迎えた。雲一つない夜空に午後8時過ぎ、石穴稲荷の杜を囲む山の端から、玲瓏と満月が揺るぎ昇った。戻り残暑の夜気が、まだ重い夜だった。
 300ミリの望遠レンズを噛ませたカメラを抱え、物干し台を三脚に見立ててシャッターを押し続けた。

 一昨夜2輪、昨夜は10輪、そして満月を讃えるように今夜2輪の月下美人が咲いた。本来クローンの鉢だから同じ日に咲かないといけないのに、この鉢も沖縄以来半世紀近く生きた後期高齢者である。少し認知症気味であり、そろそろ葉から育てた若い鉢に譲って、引退させる時期かもしれないーー噎せるほどの甘い芳香に包まれながら、そんなことを思う中秋の名月だった。
                   (2022年9月:写真:満月の中秋名月)」

秋の気配

2022年08月25日 | 季節の便り・花篇

 今年の秋は短いという。ラニーニャ現象の余波で、残暑は10月まで続き、11月の初めには、もう冬の気配が忍び寄ると。つまり、今年の爽やかな秋は2~3週間しかないということだった。美しい詩情豊かな日本の四季が、地球温暖化の煽りを受けて次第に春と秋が短くなり、夏と冬が長くなっていく―――二季なんて、なんだか寂しく、哀しい。人類の傲慢のツケである。

 早朝の散歩で、ふと涼風を感じた。何か月ぶりだろう、この気配は?花時の長いランタナ、眩しいほどの百日紅、その向こうの空に小さな秋雲のひと群れがあった。色白く美しい女子大生と思しき外国人と擦れ違った。「オハヨゴザイマス!」というたどたどしい日本語、「あ、ウクライナの留学生!?」と思ってしまった。
 近くの大学に多数のウクライナからの留学生が迎え入れられており、故郷の戦禍を少しでも慰めようと、様々な地域行事に招かれている。秋を感じた早朝、思いがけない邂逅だった。

 プーチンの非道によるウクライナの戦禍は、半年たっても終焉の気配はない。昨日の西日本新聞「春秋」にこんな一文があった。
 ――国立歴史民俗博物館館長などを歴任した考古学者、佐原真の言葉がある。「人類の歴史を400万年とするなら399万年間、人は武器と戦争を知らなかった」「400万年を4メートルに置き換えていうなら、人類は最後の1センチ以降で戦争を始めてしまった。(講談社「今読む名言」)▼石器に始まり鉄や刀剣を作り出した。鉄砲、毒ガスに核兵器まで開発、加えて大量殺りくをいとわない、狂気の指導者も生み出した。全て1センチの間に――前述に続けて佐原さんは「数ミクロンのところで地球と全人類の破滅を招きかねないほど武器を発達させてしまった」と語っている。武器を生み出した知恵と同様、私たちには武器を使わせない知恵も備わっている。そう信じたい――

 「終末時計」というものがある。ノーベル賞受賞者などの専門家が、人類滅亡を午前0時に見立てて、過去一年の世界情勢に基づき、人類滅亡までの残り時間を決めて、毎年発表している。一昨年は、「核と地球温暖化の脅威が深刻化した」として、1947年の創設苛最短となった。昨年は、コロナを巡り「深刻な地球規模の公衆衛生危機への対応を誤った」ことに加え「核や気候問題で進展を欠いた」として、前年の残り時間を据え置いた。
 その人類滅亡までの残り時間は、僅か100秒である!人類は既に、23時間58分と20秒を使い果たしてしまった。

 もうヒグラシの声も聴こえず、ツクツクボウシの声も遠い。今年は蝉が少なく、鳴き声も遠かった。歩く道端から、コオロギをはじめ、すだく虫の声が次第に濃くなっていく。
 石穴稲荷にいつもの願をかけ、坂を下って左に折れる頃、昇り始めた朝日が背中に届いた。6時半、夏至の頃に比べ、もう日の出が30分遅くなった。心なし日差しも背中に優しく、10メートルほど伸びた自分の影法師を追いながら歩く。細く長い脚に、「影で見ると、まだまだ若いな!」と自賛する。「脚があと10センチ長かったら、人生が変わっただろうな」という、負け惜しみの言い換えでもある。
 左折して坂道を上がり、もう一度左に曲がると、朝日が真っ向から顔を包んだ。多少優しくなったといっても、まだ夏の日差し、フッと汗が噴き出した。

 帰り着いて浴びるシャワーの温度を、43度に上げた。アメリカの娘を何度も訪ねるうちに、シャワー生活が染みついて、5月から10月頃まで我が家では風呂を沸かすことがない。そして、熱いシャーの後に、必ず冷水を浴びる。冬場は、湯冷めしやすい体質だから、下半身に熱いお湯と氷のような冷水を数回交互に浴びる。夏場、ぬるま湯のようだった水が、今朝は少し冷たく感じられた。こんなところにも、こっそり伺う小さな秋の顔がほの見えて嬉しい。
 朝食を終え、洗濯物を干す。夏の間、苛烈な日差しに汗みずくの地獄だったのに、今朝の日差しは、やはり優しく感じられた。
 干し終わるころ、空はすっかり夏雲に戻っていた。

 農園の奥様から、夏水仙(ナツズイセン)の写真がLINEで届いた。花時に葉がないから、裸百合(ハダカユリ)とも呼ばれるという。花言葉は、「深い思いやり」、「楽しさ」、「悲しい思い出」、そして「あなたの為に何でもします」
 ヒガンバナ科に属し、お彼岸の頃に咲くから「大切な人の想い」を連想させる花言葉だという。兄の初盆にも行けないままに、コロナの夏が過ぎようとしていた。
                     (2022年8月:写真:友人撮影のナツズイセン)

届かぬ祈り

2022年08月10日 | つれづれに

 8月7日、77年目の「長崎原爆の日」。式典で被爆者代表として、切々と訴える宮田 隆君の姿があった。同期入社の友人である。しかし、岸田首相をしっかりと見据えて訴えた彼の言葉は、予想通り首相には届かなかった。

 5歳の時に爆心地から2.4キロの自宅で被爆、8畳間から玄関まで吹き飛ばされたが幸い大きな怪我はなかった。しかし、彼の父は5年後に白血病で亡くなり、自身も10年前に発症した癌が悪化し、苦悩の日々を過ごしているという。
 ロシアによるウクライナへの無差別攻撃と核の威嚇に、「自ら訴えたい」と、6月の核兵器禁止条約締約国会議のウイーンに飛んだ。「HIBAKUSHA」と英語で書いたゼッケンを着け、英語で各国の若者たちに訴え続けたという。
 「Please, visit Nagasaki. To see is to believe, No more Nagasaki, Stop Ukraine.」

 ゆるぎない信念を込めた格調高い「平和への誓い」は、素晴らしかった。だから一層、その後の首相の挨拶の白々しさが際立った。その首相挨拶を、宮田君は「響かなかった」と切り捨てた。

 彼の誓いに耳を傾けよう。
 「(略)――本日ご列席の国会議員・県議会・市会議員のリーダーの皆さま、被爆者とじかに対面し、被爆者の実相を聞いて、世界に広く届けてください」

 「――第2次世界大戦から77年後の今、ロシアの核兵器の使用を示唆する警告によって、世界は今や核戦争の危機に直面しています。日本の一部の国会議員の核共有論は、私たち被爆者が願う核の傘からの価値観の転換とは真逆です。核共有論は、「力には力」の旧来の核依存志向であり、断じて反対です。今や核は抑止にあらず。今こそ日本は、核の傘からの価値観を転換し、平和国家の構築に全力を挙げるべきです」
 「――そして、日本政府は核兵器禁止条約に一刻も早く署名・批准してください。昨年発効した核兵器禁止条約は、私たち被爆者と全人類の宝です。この条約を守り、行動することは、唯一の被爆国である日本政府と私たち国民一人ひとりの責務であると信じます」

 「――私たち被爆者は、この77年間、怒り、悲しみも苦しみも乗り越えて、生きてまいりました。これからも私たちは、世界の市民社会と世界の被害者と連携して、核兵器のない明るい希望ある未来を信じて、さらにたくましく生きてまいります。核兵器禁止条約をバネに、新しい時代の始まりであることを自覚し、私たちは強い意志で、子供、孫の時代に一日3食の飯が食え、『核兵器のない世界実現への願い』を引き継いでいくことをここに誓います。」

 「唯一の被爆国」として、これまで日本政府は、いったい何を成し遂げてきたというのだろう??核兵器禁止条約に批准しない日本に、どこの国が耳を傾けるというのだろう!!アメリカの核の傘の下で、卑屈に尻尾を振る為政者の姿が本当に情けないと思う。
 取材した記者が、こう締めくくった。「(被爆者代表の彼の)言葉は、リーダーだけに向けられたものではない。核の脅威が顕在化した今こそ、一人でも多くの被爆者の声に耳を傾けてほしい。そして、惨禍を経験した人に思いを寄せることが、『力には力』にあらがい、核なき世界をたぐると信じている」

 戦争の惨禍は、常に主導者や権力者には及ばない。いつも犠牲を強いられるのは国民であり、権力者が上の目目線でいう「弱者」である。被爆地広島の出身者でありながら、この日の首相挨拶に核兵器禁止条約に触れる言葉はなかった。宮田君の真摯な祈りは、首相には届かなかった。
 虚しい夏の日差し、長崎の空が何かが哀しかった。今日も大宰府は37.4度!添えるに相応しい写真も、見当たらない。代わりに、平和な太宰府の早朝の夏雲を添えよう。
                   (2022年8月:写真:大宰府の朝雲)

炎天に、秋立つ!

2022年08月07日 | 季節の便り・花篇

 例年になく、百日紅(サルスベリ)の紅が濃く感じられる。その紅の花房を、午後の苛烈な日差しが容赦なく叩く。この炎天に、姦しいセミの声も絶え、人声もしない日曜日である。洗濯物を取り込む背中に、重みを伴うような日差しが痛い。

 猛暑日が当たり前になった。37.4度という体温を超える暑さも、近年は異常とは言えなくなった。どう弁解しようと、地球温暖化はもう否定できない。40度を超える炎熱に死者が相次いだヨーロッパをはじめ、旱魃と洪水のニュースが後を絶たない。天災に名を借りた実は人災、ロシアの暴挙が世界中の食材と燃料の流れを滞らせ、便乗も含めた値上げのカーブが登り続ける。
 世界最多のコロナ第7波は衰えを見せず、人口7万1千あまりの小さな大宰府市でさえ、連日三桁の感染者を出し続けている。「重症化リスクの高い高齢者は、不要不急の外出を避けてください!」と、国のトップは無策のツケを高齢者に向けてくる。「ざけんなよ!いま発症しているのは若者や子供たちであり、最も自粛して家に籠っているのは高齢者だろう!」と憤っても虚しい。アベ、スガに続くキシダ政権、これほど貧弱な閣僚を据えた内閣も珍しい!茶番の朗読劇しかやる能力のない人間が、国の政治を司っている日本の将来に、若者は何の希望を見出だせるだろう。
 ―――腹を立てても甲斐なく、暑苦しさが一層増すだけだった。

 8月7日、立秋。暦の中の秋は、現実には35.6度、微塵の気配さえ感じられない立秋だった。懸命に小さな秋を探してみても、8月3日に、昨年より4日早くツクツクボウシが鳴き始めたこと、朝の散策の傍ら、小さな水音を立てる湧き水の辺りでウスバキトンボの小さな群れを見付けたこと――子供の頃、ボントンボといって、空一面に払いのけたくなるほどの群れが飛んでいた。確かに秋に向かう小さな気配ではある。
 子供の頃、もう一つ空を覆う季節の生き物がいた。アブラコウモリ(家蝙蝠)である。日暮れになると、石を投げれば当たりそうなほど空一面を蝙蝠が覆っていた。天の川と並び、今は失われてしまった風物詩の一つである。
 気になっていることがある。我が家の軒下に棲んでいたアブラコウモリがいなくなった。この春まで軒下に落ちていた小さな糞や虫の食べ滓が、梅雨明けの頃から見当たらくなった。数年前には子供まで生まれていたから、少なくともひと番いは命を全うしていた筈なのに。また一つ、風物詩が失われていく。

 異常気象も、毎年繰り返し叫ばれると当たり前になってしまう。人間の適応力を超える速さで、環境悪化が加速しているのだろう。環境で滅ぶか、核で滅ぶか、残された選択肢を政治が自ら狭めつつ日々が過ぎ去っていく。この夏に、まだ滅びの色は見えない。

 7月2日始まった我が家の庭のセミの羽化は、7月21日72匹を数えて終わった。昨年の29匹に較べれば多いが、かつて120匹を越えた年に較べれば少し物足りない。ニイニイゼミ、クマゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ、そしてツクツクボウシの季節になった。早朝の薄明に「カナ、カナ、カナ!」とヒグラシが鳴き、日が昇ると「ワーシ、ワシ、ワシ!」と姦しいクマゼミに変わる、やがてアブラゼミが「ジリ、ジリ、ジリ、ジリ!」と油照りの午後を引き継ぐが、今日の炎熱の午後はセミさえも鳴かない。木立の下で、蟻に引かれる骸も増えてきた。6年も7年も地中で暮らし、這い出て羽化してもせいぜい1か月、ひたすら繁殖の為だけの鳴きたてるセミの健気さ。雌に出会うこともなく、地に落ちるセミもいるだろう。そのひたむきな生きざまが哀れを誘う。
 やがて、「オーシーツクツク!」とツクツクボウシが懸命に秋を呼び寄せてくれるだろう。

 今年も、2匹のハンミョウ(道教え)が我が家の庭で狩りを続けている。庭師が入って綺麗に刈り揃えられた庭木の緑の中で、一段と百日紅の紅が燃え上がるようだった。
                       (2022年8月:写真:百日紅燃える)

宴、尽きることなく

2022年07月07日 | 季節の便り・虫篇

 3月15日 鶯 初鳴き
 3月27日 ハルリンドウ 開花
 4月 3日 ベニシジミ 初見
 4月 6日 イシガケチョウ 初見
 6月10日 ホトトギス 初鳴き
 7月 1日 クマゼミ 初鳴き
 7月 2日 アブラゼミ 羽化1号
 7月 4日 アブラゼミ 初鳴き
 7月 5日 ヒグラシ 初鳴き、クマゼミ 羽化1号

 こうして、今年も宴が始まった。もう20年近く、この時期になると、夜陰に紛れて庭の八朔の木の下に立つ。60ミリのマクロを噛ませたカメラを手に、およそ2時間かけて、蝉たちの羽化に立ち会い、命の不思議に寄り添うのが習慣になった。もう何度も何度も撮っているのに、数十枚の連続写真を撮ってしまう。三脚が立たない高さだから、自らを三脚にして目の高さの誕生を撮り続ける。
 夕方の散水では、いやというほど藪蚊に苛まれるのに、何故かこのセミ誕生の2時間余りは、一度も蚊に刺されたことがない。謎を謎に残したまま、今夜もTシャツの腕を剝き出しにしたまま、カメラを支え続けていた。
 生まれたばかりのセミの羽の、この神々しいまでの美しさはどうだろう!
 多い時には120匹を超えていたセミの羽化が、ここ数年40匹から60匹に減っていた。それに呼応するように、かつては160個も実っていた八朔が、近年は30個程度に減っている。古木になって生命力が衰えてきたのもあろう。また、地下根を数百匹のセミの幼虫に吸わせている疲労もあるのだろう。命誕生の宴の席にも、それなりの歴史があるのだ。
 ニイニイゼミ、ヒグラシ、アブラゼミ、クマゼミと夏を追い立て盛り上げ、やがて8月半ばからツクツクボウシが秋風を呼び始める。最短最早で終わった今年の梅雨、6月から押し寄せてきた猛暑、既に37.2度まで記録して、どこまでこれから高温の日々を重ねるのだろう。虫たちの世界にも、それなりの異変もあるのだろうが、目につくのはむしろしたたかな順応力である。
「ジリジリジリジリ!」と暑苦しく絡みつくアブラゼミ、「ワシワシワシワシ!」と頭に共鳴するほど姦しいクマゼミ、いずれも油照りの夏の暑さをうんざりするほど思い知らされる鳴き声なのに、コロナ禍で聴く鳴き声に、ふっと元気をもらったような気がした。
 6年も7年も地中に潜んで命を育み、ようやく地上に出て羽化し、束の間の命を種の維持の為だけに鳴きたてる。胸板を激しく震わせながら雌に訴える雄の健気さは、80余年生きた老体にまで、明日への命を吹き込んでくれるように思えた。。

 それに較べて、人間の脆さ!七夕を前に、新型コロナ感染者数は増加の速度を上げ、福岡県に再び「コロナ警報」が発出された。第7波はお盆頃のピークを予想させながら、上昇のカーブを急角度に持ち上げようとしている。再開した気功も読書会も、再び中断のやむなきに至った。。
 7月6日夕刻、第4回目のコロナワクチン接種通知が届いた。すぐにPC を立ち上げてWebを開き、5分で12日15時の予約を完了した。徒歩10分の近場の接種会場で、モデルナを選んだ。「ファイザー→ファイザー→モデルナ→モデルナ」のパターンである。重症化予備軍の後期高齢者に、躊躇う余裕はない。副反応がとやかく論じられているが、幸い3回目まで殆ど気にするほどの副反応はなかったから、迷わず早い時期優先で申し込んだ。
 カミさんには10日前に通知が来たが、緑内障手術を6月30日に控えていたから、「術後2週間以降」という眼科主治医の指示に従い、7月23日の予約を取った。

 世の中のすべてがコロナを軸にうねり、今までとは異質な社会を作りつつある。ITとかSNSとかという横文字の美名のもとに、「情報弱者」という上から目線の一括りで取り残されていく高齢者。高度成長を成し遂げ、一流国家の地位を維持し続けたのは、その高齢者たちだったという事実も、もう「年寄りの愚痴」でしかない。

 羽化開始から5日で10匹を数えた。昨夜は4匹の競演、多いときは10匹を超えるセミたちが鈴なりになって羽化する。
 娘からLineが来る。「毎晩ご苦労さま。夜も猛暑だから、水分摂ってね!セミの羽化見てて倒れたとか、しゃれにならん。朝、ジイジの脱皮見つけるみたいなのは嫌だわよ!」
 いつも、遠くから心配してくれる娘である。

 一段と遠くなった「昭和」が、「頑張れよ!」と囁きかけてくる。
 シンドイ夏になりそうである。
                     (2022年7月:写真:始まった羽化の競演)

時の過ぎゆくままに

2022年05月20日 | つれづれに

 とどまることなく、急ぐこともなく、時は淡々と過ぎて行く。しかし、人の心の中に流れる時間の速さは、一瞬も同じということはない。置かれている状況により、時に速く、時にまどろっこしいほどに遅く過ぎて行く。そして、歳を重ねるほどに、余生が短く折り畳まれていく度に、次第に週や月の変わりゆく速さに戸惑いながら過すことになる。
 我が家の物差しは単純である。「え、笑点?!もう1週間が過ぎたの!!」

 新聞のコラムに殴られた。5月16日、西日本新聞朝刊の「春秋」である。
 「――――▼親と子が生涯であとどれくらい一緒の時間を過ごせるのか―――盆や正月など年に何回あるか。年齢や男女で異なる平均寿命などいくつかの数字を掛け合わせて答えを導く。大半の人が残り時間の少なさに驚くようだ▼大手時計メーカーが大切な人と過ごせる生涯の残り時間を算出している。例えば親と別居している30代後半の人が母親と会える残り時間は計26日ほど。50代前半では計10日足らずに。相手が父親になるとさらに半減する。残り時間は年をとるほどに減っていく―――」

 父が逝ってから39年、母の没後21年になる。転勤族で、沖縄や長崎に出たり入ったりしたが、隣同士とはいうものの、父と12年母とは21年一緒に過ごせた幸せを、今になって改めて実感させられた。

 翻って、横浜の長女や、ましてアメリカに住む次女と,あとどれくらいの時間を一緒に過ごせるのだろう!算出するのも躊躇うほど、残り時間は少ないとわかっている。電話だけでなく、スマホのLINEや、パソコンのSkypeで、いつでも無料で顔を見て話すことが出来る。しかし、そうそう毎日使うわけでもない。このコラムを、むしろ娘たちに読ませたい――とは思うものの、却って精神的な負担をかけるかもしれないと躊躇う気持ちもある。

 コラムの最後は、こう締めくくってあった。
 「――――▼親への最高のプレゼントは「時間」ともいわれる。自分の時間を使い、電話をかけたり会いに行ったり。声を聴くだけでも気分や体調の違いは感じられる。会えばなおさらだ▼母の日や父の日でなくとも、思い立った日に。時は有限である――――」

 4月の終わりに、長女と上の孫娘が「生存確認」に来てくれた。それに先立ち、傷んでいた客間の網戸を張り替え、庭の雑草を一掃した。家中の網戸23枚を二日がかりで張り替えて、もう10年ほどになる。今回は傷んだ2枚だけの張替えだったが、自分でやるのはもうこれが最後だろう。
 二人が帰った後、思い立って玄関と客間の障子10枚を5年ぶりに張り替えた。34年前に我が家を新築する際に、いくつか拘った。「客間と仏間は純和風にすること」、「壁は土壁にすること」、「軒は70㎝迄長く伸ばすこと」、「客間の障子は雪見障子にすること」。
 以来、数年毎に自分で障子を張り替えているが、雪見障子は二度手間がかかる。隠し桟を錐で突いて外し、抑えの板バネをドライバーで押さえて外す必要がある。好きで立てた雪見障子だから、苦にはならないし、むしろ無心に張り替えを楽しむのが常だった。
 逆さまに立てて上から貼ることで、刷毛から落ちた糊が貼ったばかりの障子を汚すことがない――父から習った張り替え方だった。海辺に住んでいた頃、いつも着物姿だった父が、尻を端折って波打ち際で障子を洗っていた姿が今も目に浮かぶ。5年間あしらっていた竹の模様を、玄関は松に、客間は雲竜の透かし模様にした。何故だか「95%UVカット」と銘打ってある。貼り終わったら、部屋が一段と明るくなった。
 この障子貼りも、おそらくこれが最後だろう。長女に「5年後は頼む」とlineしたら、「とっくに、断念している」と返事が来た。つまり、業者に頼むということだろう。失われていく昭和の風物詩が、また一つ。

 早朝6時の散歩が、もうすっかり明るい。通学路の階段下に、数年前からヒルザキツキミソウ(昼咲月見草)が群れ咲くようになった。早朝散歩の何よりもの慰めである。
 曇天の今朝、時折雨粒が額に落ちる。雨の匂いが次第に濃くなり、あと10日ほどでこの辺りも梅雨にはいる。
                    (2022年5月:写真:ヒルザキツキミソウ)

せせらぎの宿

2022年05月09日 | 季節の便り・旅篇

 悍馬のように気紛れに乱高下する季節の変動に翻弄され、すっかり疲弊してしまった。コロナ禍の警戒が緩んだ中に、制約なしのゴールデン・ウィークも終わり、もう来週には梅雨の走りが現れるという。昼間の庭仕事で汗にまみれるというのに、朝晩の風の冷たさに、この時期になってもまだ暖房カーペットを片付けられないでいる。こんなことは今までなかった。
 かつて、沖縄慶良間諸島・座間味島のダイビングを楽しんでいた頃は、5月の連休にはビーチベッドを庭に広げ、海パンで日焼けオイルを塗って身体を焼いていた。6月末の沖縄の梅雨明けと同時に島に渡る。観光客も少なく、絶好のスキューバ・ダイビングやシュノーケリングの時期だった。ただ、いきなり南国の日差しに曝されると、火傷に近い日焼けに苦しむことになる。だから、5月の連休の間にしっかりと「下焼き」をしておくのが、私の流儀だった。もう、遠く霞み始めた思い出である。

 4か月振りの「生存確認」に、横浜の長女と、浜松の自動車会社で車の内装デザイナーとして働く孫娘が、空路と新幹線で来てくれた。力仕事や押し入れの片付けなど申し出てくれるが、半ば老々支援状態の私たちにとっては、元気な顔を見せてくれるだけで嬉しい。
 連休中休みの日曜日・月曜日に、4人で温泉に出掛けることにした。「ゴールデン・ウイークは遠出しない!」と決めて40年、2キロの渋滞でも嫌という大宰府原人を、30キロ渋滞に慣れた関東人が「それは、渋滞と言わない!」笑う。午後に走り始めた九州道は渋滞もなく、更に鳥栖JCから長崎道に乗っても、呆気ないくらいスイスイだった。佐賀大和ICで降りて山道を20分ほど走り、54キロを1時間足らずで走り抜けて、2時前に宿に着いた。
 春の確定申告の還付金を、全額使い切ると決めて、檜露天風呂付離れの宿を奮発した。私たちはツインベッド、娘と孫は和室、シニアプランだから、チェックインも2時である。娘が探してくれた温泉だった

 標高200メートル、嘉瀬川のせせらぎに包まれる山間の温泉は、多発性関節リュウマチに苦しむ亡き母がよく逗留していた。福岡と佐賀の県境の尾根、背振~金山山系の南の山間にある。齋藤茂吉や、青木繁も好んで通ったという。加えて、笹沢左保記念館があると聞き、ひと風呂浴びる前に訪ねることにした。
 上州新田郡(ごおり)三日月村で生まれた渡世人の木枯し紋次郎、宿場町で巻き込まれた厄介ごとを片付け、流行語となった「あっしにはかかわりのないことでござんす」と言いながら道中合羽を翻して去って行く。去り際に、5寸の長楊枝で何かを吹き刺すのが約束事の、一世を風靡したテレビドラマの原作者である。
 せせらぎを2度渡り、川沿いに上流に15分歩いたところに立派な記念館があった。ボランティアの館長に、小一時間楽しく話を聴いた。1960年(昭和35年)から2014年(平成14年)まで活躍した著名な作家、笹沢左保の旧邸の書斎に、貴重な直筆原稿や出版された初版本が多数並んでいて圧巻だった。

 その往復を楽しませてくれたのが、いろいろな種類のトンボだった。清流がカワトンボやオハグロトンボ、イトトンボ、チョウトンボなどを足元に送ってくる。マクロも望遠レンズも持ってきていないし、標準ズームで腹這いになって狙ったが、ピントが合わない。後ろに立った娘が、最新のスマホのマクロレンズで肩越しに撮った一枚の方が鮮明なのが悔しい!

 湯に浸かる。少ない客足を見て、大風呂の露天に浸った。今回も独り占めだった。泉歴は古く、38度のぬるめの泉温と、ぬるぬるした心地良い肌触りという特徴から、「ぬる湯」と呼ばれているという。
 吐口からの湯音に、鶯の冴えた声が混じる。そして何よりもの癒しは、せせらぎが届けてくれた、黒川温泉以来30年振りに聴くカジカガエルの鳴き声だった。清流に住む小さな蛙である。繁殖期の4月から7月にかけて、渓流の石の上などで縄張りを主張する雄の声が、男鹿の鳴き声に似ているから「河鹿」と書く。「繁殖音」と書くと何だか切ないが、清流のせせらぎに混じって届く声は、限りなく優しかった。

 いつまでのほくほくと暖かい身体をベッドで休めた後、夕暮れ迫る食事処の個室で摂った夕飯は豊かだった。地酒を3種並べた利き酒セットにほろほろと酔いながら、娘と孫と過ごすせせらぎの宿の至福!

 やすむ前に、部屋の檜露天風呂で身体を癒した。山道のドライブに揺すられた肩の神経痛が、優しい「ぬる湯」で解されていく。「キキキキ!」と鳴く澄み切ったカジカガエルの声は、眠りにつく耳元迄届いて来た。
                      (2022年5月:写真:娘が撮ったカワトンボ)

避密の旅、三度

2022年04月21日 | 季節の便り・旅篇

 コロナ禍に窮した旅行業界に差し伸べた、福岡県の支援である。旧秋の企画に、娘の手を借りながらスマホで申し込んだ。50,000円分の旅行クーポンが、25,000千円で手に入った。一度の旅で、一人10,000円まで使え、更に地域クーポンが2,000円分付いてくる。
 普段泊まることのない高級な宿を探し、筑後川温泉で1回、原鶴温泉で1回、それぞれ露天風呂付個室を利用した。例えば、25,000円の宿が15,000円、地域クーポンを加算すれば実質1万3,000円で利用できる仕組みである。もちろん、コロナ禍の中での企画だから、県を跨ぐ利用は出来ず、福岡県内という制約が付く。
 いずれも先輩の勧めに誘われて、料理と泉質に優れた一夜を満喫した。二つ目の宿では、豪勢な食事を摂っているときに、救急車が走り込んできた。個室の露天風呂で転倒し、頭を打った高齢の客が運ばれていった。岩風呂の怖さを思い知りながら、「やがて我が身」と気持ちを引き締めた。

 「緊急事態宣言」、「まん延防止等重点措置」が相次ぎ、利用制限や期限延長が何度も続いて、残る1万円の利用は年を越した。ようやく4月7日に解禁となり、しかも利用期間は4月28日までという。慌てて、取り扱いの旅行社に駆け込んだ。最後は新鮮な魚を食べる宿にしようと、候補地の中から民宿を選んだ。糸島市の芥屋漁港の傍の民宿である。一人1泊8、800円に旅行クーポン5,000円が使え、更に地域クーポンが1,000円付くから、実質一人1泊2,800ということになる。

 旅立ちの日は生憎の曇り空だった。「旅」というには恥ずかしく、僅か50キロ、都市高速と西九州自動車道を使えば、1時間ほどの近場である。翌日の晴天予報に期待し、一番の楽しみは明日に残して午後1時に家を出た。
 「二見ヶ浦」―――伊勢湾の夫婦岩で有名な観光地と名を同じくし、糸島半島の北に夫婦を並べた岩があり、しめ縄が張られている。曇天の海の色は冴えないが、少年時代の10年間を海辺で育った私にとって、海には懐かしい匂いがある。昨年の春も、佐賀県呼子の宿で伊勢海老や烏賊の生き造りなどの海鮮を満喫した帰りに、此処に立ち寄った。1年振りの海に、カミさんもはしゃいでいた。
 
 カリフォルニアに住む嵐ファンの次女にせがまれて、以前訪れた「櫻井神社」、カミさんは初めてだったが、静謐な古い神社の佇まいにご満悦である。そのあと、「芥屋の大門」の岩峰を望み、展望台に続く「トトロの森」の木立のトンネルを覗いていたところに、宿から電話が入った。チェック・インの1時間前だが、部屋の用意が出来たからいつでもどうぞ、と。そこから民宿迄は車で2分だった。
 芥屋の大門遊覧船の乗り場の脇にある民宿は、客は2組だけで、3階1フロアを独占した。海鮮尽くしの夕飯を、壮麗な夕日が飾った。唐津と壱岐の狭間の海に真っ赤な太陽が落ちた。右手遥か遠くには、対馬も見えるという。
 
 カリフォルニアには、数多くの夕日の記憶がある。ロングビーチで見た夕日、ラグナビーチで見送った夕日、ヨシュアツリーパークで沈んだ夕日。さらに、メキシコ・ロスカボスでダイビングの後、砂浜に寝っ転がって浴びた夕日―――数知れない夕日の記憶の中でも、サン・ノゼ・デル・カボ空港からロサンゼルスに帰る機上から、遥か太平洋の水平線を真っ赤に染めて沈む夕日が、最も鮮烈な記憶だった。あれほど濃い深紅の夕焼けは、前にも後にも、これに勝るものは見たことがない。
 歳をとるほどに、夕日への思いが深くなるのは何故だろうか?

 一夜明けて快晴の春の空の下、べた凪の海を「芥屋の大門」遊覧に出た。客は僅か4人、海風が吹き抜ける中では、もうマスクも要らない。玄海国定公園を代表する「日本三大玄武洞」の中でも最大のもので、六角形や八角形の玄武岩の柱状節理が玄界灘の荒波をガシっと受け止めている。海蝕洞窟は高さ64メートル、開口10メートル、奥行き90メートル。べた凪のこの日、遊覧船は洞窟の中まで滑り込んだ。「避密の旅」の掉尾を飾る圧巻の景観だった。

 興奮覚めやらないままに、「志摩の四季」で魚と花を、「伊都菜彩」で野菜を買い込み、楽しみにしていたイチゴのソフトクリームで締めくくって、一気に帰途についた。112キロの春旅だった。
 「Withコロナ」―――長く閉じていた気功教室も読書会も、今月再開する。私たちの人生に、「怯えながら、ただ耐えるだけ」の時間はもう残されていない。一歩、踏み出そう!
                       (2022年4月:写真:芥屋の落日)

縺れ飛ぶ

2022年04月06日 | 季節の便り・花篇

 枯葉の上に一人用のピクニックシートを拡げ、脚を伸ばして寝っ転がった。見上げた空は春色、数本の木々が青空を突き刺す中に、花吹雪を舞わせる桜が1本、散る花びらを額に受けながら、目を閉じて木漏れ日の優しい眩しさを瞼に受けた。時折葉先を揺する春風に乗って、シジュウカラやヤマガラの囀りが運ばれてくる。真っ盛りの春にも、早くも初夏への滅びの気配があった。今年の季節の走りは気紛れである。季節を狂ったように右往左往させるのも、結局は人間のなせる業が原因だろう。
 値上げの春である。庶民には音を上げる春、全ての元凶は狂ったロシアにある。ウクライナの国旗は、麦畑と青空を表すという。覿面、小麦の価格が高騰、ロシアへの経済制裁で原油価格が高騰、この二つで、自給率の乏しい日本は忽ち息切れし始めた。値上げの範囲は、日々拡大を続ける。将来に夢を持てない若者は、益々乏しい夢を摘み取られていく。そんな不穏な世情に、新型コロナが第7波に向かってグラフの鎌首を擡げようとしている。
 言いたくない!書きたくない!!とぼやきながら、ついつい目を逸らせない自分に疲れて、青空の中を歩き始めた。カミさんは親しい友人とランチ&ショッピングに出掛けた。貴重な憂さ晴らしである。

 切り株に坐って、昨日の夕飯の残りの散らし寿司を食べた。博多では3月3日ではなく4月3日に雛祭りをする。遠い昔々に雛だったカミさんが、久しぶりに散らし寿司を作った。2合の寿司が二日分になる年寄り夫婦である。今夜、カミさんは頂き物の釣りたての鰤を煮付けて食べるから白飯にして、多分残った一人分のチラシ寿司は、昼に続いて私が処分することになるだろう。

 観世音寺のハルリンドウが、私を秘密基地「野うさぎの広場」に駆り立てた。10日前、観世音寺に見つけた翌日、期待を込めて急ぎ足で訪れた広場には、一輪の花の姿もなかった。毎年、足の踏み場に困るほど群れ咲く広場である。もう終わったのか、まだなのかと迷いながら1週間が過ぎた。3日前に再び観世音寺を訪れ、20輪ほどのハルリンドウを這い蹲って撮った。
 期待半分諦め半分で、再び広場を訪ねることにした。古いカメラで使い慣れた50ミリのマクロに接写レンズを噛ませ、接続用のリングに付けた新しいミラーレスカメラがずっしりと肩に重い。

 良かった!小さなハルリンドウが、僅かながら5輪ほど花開いていた!!昼時を過ぎていたが、飯より写真が先と、例によって枯葉の上に這い蹲った。枯葉色の広場に、散り落ちた桜の花びらに交じって、真っ青なハルリンドウが笑っていた。これこそ、春色だった。僅か5輪!しかし、少ないが故に、一層愛しく思われるのだ。

 目の前の楓の若葉に、イシガケチョウがとまっていた。近くに好みのイヌビワでもあるのか、この九州国立博物館周辺や裏山にはイシガケチョウが多い。ボランティアをやっていた22年前から6年間、初めて博物館裏の湿地で水を吸っているこの蝶に出会って以来、すっかりお馴染みになった。まるでおぼろ昆布のような文様が「石崖蝶」のネーミングとなった。飛翔が速い蝶だが、とまる時は殆んど羽を拡げたままだから、接写機能付き望遠レンズがあればいい寫眞が撮れる。
 その1頭にもう1頭が縺れた。縺れ合いながら、広場中を飛び回る。それを目で追いながら、ちらし寿司を口に運ぶ。虫キチ・蝶大好きの私にとって、至福の時間だった。蝶たちにも待ち望んだ恋の季節だった。地表すれすれに飛び回るたった1頭のキチョウが、なんだか可哀想になるほど、縺れ合う2頭のイシガケチョウは楽しそうだった。

 微睡みかけたところに、スッと冷たい風が吹いた。春の日差しは暖かくても、吹く風にはまだ冬の残渣がある。シートを畳んでショルダーに納め、ストックを突いて帰路に就いた。今日のストックは枯れ枝のマイ・ストックではなく、たくさんの山道を歩いて来た本物の山用のLEKIのストックである。いろいろな山の想い出がいっぱい詰まったストックの握りには、熊の姿とYOSEMITEという文字が刻印されている。

 辿る山道に、イノシシの狼藉は一段と凄まじかった。イノシシも懸命に生きているのだ。「頑張れよ!」と声を掛けたくなる午後だった。
              (2022年4月:写真:「野うさぎの広場」のハルリンドウ)

酣(たけなわ)の春

2022年03月28日 | 季節の便り・花篇

 シートを拡げるのを躊躇うほど、足元に春が溢れ咲いていた。スミレ、ホトケノザ、カラスノエンドウ、ムラサキサギゴケ、オオイヌノフグリ、蹲って目を凝らさないと見えないほどの小さな白い花もある。少しでも花が少ない空間を見つけ、小さな斜面にシートを敷いた。政庁跡山門手前東側に、ポツンと孤立した一本の桜の木の根方が、今日のランチテーブルだった。早春に訪ねたシナマンサクの木の近くである。
 西側は端から端までの桜並木、日曜日の今日は殆んど家族連れのシートに覆われ、晴れ上がった青空は最高の花見日和だった。
 シートの主役はコンビニのおにぎりと漬物とポテトサラダ、簡素ながら、時折風に舞う満開の桜の花が豪華なご馳走にしてくれる。

 2月と5月を慌ただしく行き来する不順な天候が、福岡市内より3日ほど遅れていた開花を、あっという間に満開にして見せた。着るものに惑う人間をよそに、花は20度を超える一瞬を見逃さず、爛漫の春を届けてくれた。昨年は3月24日に、親しい友人ご夫妻とお花見ピクニックを楽しんだ。不慮の障りで今年はご一緒出来ず、今日27日にカミさんと二人のお花見となった。
 「今年も来ることが出来たネ!満開の桜だよ!!」
 二人合わせて165歳、日毎年毎に明日が来年が、必ずしも約束されたものではなくなる年齢である。だから、朝の目覚めが嬉しいし、暦を捲る手に安堵の吐息が掛かるのだ。

 コンビニで買い物を済ませ、太宰府図書館の駐車場に車を置いて、御笠川沿いの桜並木の散策路に歩き出た。見晴るかす一本道は、満開の桜のトンネルだった。行く人戻る人、脇をかすめる自転車、皆マスク姿で表情は見えないが、青空に映える万朶の桜を見上げる眼差しは同じだった。
 毎年、同じ場所同じアングルで写真を撮ってしまう。同じ絵面でも、去年とは違う、と言い訳しながらシャッターを落とすのだった。一瞬だけマスクとサングラスを外させ、桜並木を背景にしたカミさんの写真をスマホで録って、娘に「生存確認」のLINEを送る。

 春風が川面に縮緬のさざ波を走らせた一瞬、カミさんが小さく叫んだ。
 「あ、カワセミ!!」
 この川にはカワセミが住む。時折枯れ葦の葉先を霞めて、翡翠色の小さな光が走る。見上げていた桜から目を落とした時には、すでに光は飛び去っていた。

 「世に中は、三日見ぬ間の桜かな」
 江戸中期の俳人、大島蓼太の句という。一瞬で移ろい行く世の中を、見事に17文字に籠めた。
 多分、此処一両日で花吹雪が始まるだろう。その吹雪を浴びるのも又良し。お握りを頬張る頭に、時折一片の花弁が舞う。うらうらの日差し、揺蕩う春風、文字通り「春風駘蕩」の午後が過ぎていった。

 「明日ありと思ふ心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」(親鸞上人絵詞伝)
 嵐に吹き散らされるのもいい。軍歌に度々謳われた暗い一面もあるが、潔い散り際は日本人の心に消すことのできない思いを沁み込ませてきた。夜桜はどこかおどろおどろしく、「桜の木の下には死体が埋まっている」という言い伝えも、何故か素直に心に沁みてくる。
 全てを受け止めて、今日も爛漫と桜は咲き誇っていた。

 次第に増えていく人影を避けて帰路についた。学校院跡から戒壇院、そして確かめたいことがあって観世音寺の参道に折れた。期待は裏切られなかった。叢の中に7輪ほどの小さなハルリンドウが咲いていた。酣(たけなわ)の春の便りの総仕上げだった。
                  (2022年3月:写真:ムラサキサギゴケ)