蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

啓蟄のドライブ

2020年03月05日 | 季節の便り・旅篇

 冬籠りしていた虫たちが這い出る時が来た。コロナ籠りのご隠居も、そろそろ這い出さずばなるまい。

 カミさんが「蟹、カニ!」と耳についた蚊のように言い続けていた。「30年、あの蟹を食べてない!」
蟹と言っても、我が家にとっての蟹はただの蟹ではない。北海道で食べた毛ガニやタラバガニも、島根で寒さに震えながら食べた松葉ガニも、わざわざ取り寄せて食べた花咲ガニも、上海で観光客価格でぼったくられた上海ガニも、カリフォルニアのサンペドロ ~ポーツ・オコールで、カモメに睨まれながら食べた名も知らぬ蟹も、マイアミで食べたスト-ン・クラブも……それぞれに懐かしい思い出を背負っている。
 しかし、カミさんが言う蟹は違う……。

 うらうらと日差しが降り、車窓一面に七寸ほどに伸びた麦が緑の絨毯を拡げていた。目に映る景色は紛れもなく春だった。しかし、一歩外に出ると、戻り寒波の冷たい北風が吹いて身体を縮こまらせる。筑紫野ICから九州道に乗り、鳥栖JCで長崎道に右折する。ひたすら西に走り、武雄北方ICで一般道に降りた。ナビの示すままに、武雄、嬉野、鹿島を経ておよそ100キロ、2時間のドライブの後に辿り着いたのは佐賀県藤津郡太良町……「竹崎カニ」というブランドの蟹どころである。

 太良町のホームページに、こう書いてある『竹崎カニは、太良町を代表する特産物です。カニの種類は全国的には「ワタリガニ」として知られているものですが、太良町の竹崎地区近海で獲れるものは特に「竹崎カニ」とよばれて珍重されています。有明海の干満の差でできる広大な干潟、その干潟に棲むプランクトンや小動物は、1日1回は潮の引いた干潟の上で日光を浴びます。食べ物をおいしくする遠赤外線を多く吸収したそれら小動物は竹崎カニの格好の餌であり、それを食べる竹崎カニはそれゆえに、格段に美味であるといわれています。』

 30年ぶりに、なじみのY荘を予約、ひた走ってきた。夏場は雄、冬場は雌が美味いという。この啓蟄の時期はもちろん雌。サイズによって一匹4000円から8000円ほどの幅がある。
 コロナ旋風を吹き飛ばそうと、思い切った。大きなカニを選んで会席を付けて一人9000円!かつて、長崎支店長のころ、諫早に住んだ。太良町は、そこから45分の距離にある。あの頃は、5000円でこのサイズの蟹が食えた……過ぎ去った歳月を思う。
 いいじゃないか、30年分と思えば、1年当たり300円は安い!(呵々!)

 若女将が、自ら給仕してくれた。「コロナ騒ぎでキャンセルが多くて」という。平日のこの日、客は私たちだけだった。
 カニの甲羅に日本酒を注いで飲む「甲羅酒」も美味い。しかし、今日は車、思い出をお互いに振る舞いながら、なりふり構わずひたすら貪り食った。有明海の滋養で育った竹崎カニは、味が深く濃い。
 蟹は、決して会話が弾まない。かつて口うるさい取引先の接待に、この宿を選んだことがある。蟹を毟り啜り食べることに集中すると、話をするいとまがないのだ。作戦は成功した。

 顔中で蟹を食べ、飽食に酔った。帰途、「道の駅太良」で買い物をし、満腹が誘う眠気晴らしに矢沢永吉を顎で聴きながら、うららかな日差しの下を走り帰った。
 今夜は、着ていったもの全てと、その中身をシッカリ洗わないと、カニの匂いは3度替えてくれたお絞りでも、石鹸で手洗いしても消えない。それが、味の濃さでもある。

 念願を果たしたカミさんに言う。「次は、30年後だね!」

 今日は啓蟄である。
                             (2020年3月:写真:竹崎カニ)

落ち葉の小舟

2019年12月14日 | 季節の便り・旅篇

 木枯らしが舞い降りて、湯気を螺旋状の渦に巻いて湯の上を転がす。離れの鄙びた部屋に備えられた湯船は総檜、大人二人が脚を延ばして浸れるほどに広い。
 1年振りの平山温泉だった。小さな山の斜面に、木立に包まれた露天風呂付き離れが点在し、琉球畳が敷き詰められた部屋は、チェックインが終われば、もう気兼ね要らずの静寂に包まれる。師走も半ば、木々は紅葉し木枯らしが落ち葉を散らしていた。

 アメリカから帰省した次女は、カミさんと二人で「牡丹燈籠!」と戯れながら、「カラーンコローン」と下駄を鳴らして、少し小高い所にある大露天風呂に浸かりに行った。1時間半のドライブに疲れた私は、部屋に付いた露天風呂で、のんびり独りを楽しむことにした。
 板塀に囲まれた露天風呂の脇には、柊南天と楓が伸びている。湯気に温まれるせいか、ここの楓はまだ紅葉もせず、黄色い葉をいっぱい付けたまま夕日に弄らせていた。
 板塀の外の橡が、風に載せて落ち菜を湯船に届けてくる。湯気に戯れながら、小さな小舟となって湯の表を漂っていた。掛け流しの湯が、小さなせせらぎを聴かせながら流れ去っていく。その湯音に癒されて、身じろぎもせずに湯船に横たわっていた。

 いつになくドライブに疲れていた。九州道を筑紫野ICから乗って南下する。1時間足らずの走りで、ナビは南関ICで降りるように指示するが、ここからだと山越えになるから、いつものように次の菊水ICまで走り抜ける。山鹿方面に下って、やがて左折して田舎道をしばらく走れば、もうそこが平山温泉。常宿のひとつ「湯の蔵」に着く。
 42度の源泉を、そのままかけ流しにしてあるが、寒い冬の露天は冷まされてややぬるめの湯になる。湯船に沈んで暫く馴染んでくると、もう少し熱めの湯が恋しくなる。そんな時には、壁のボタンを押すと、源泉をそのまま沸した熱湯が2分間吐口から注がれる仕組みである。
 滑らかな湯触りに癒されているうちに、うとうとと微睡んでいた。

 大露天風呂を満喫したカミさんと次女を伴い、「カラーンコローン」と下駄を鳴らしてお食事処に向かう。個室がそれぞれ用意され、気兼ねなく食事を楽しむことができる。アジア系団体が決して来ることのない、大人の隠れ宿である。
 (余談だが、洗浄トイレに音楽が仕掛けられており、聴こえてきたのがリストの「愛の夢」だったのには、思わずクスッときた。さすがに、訳ありカップルに相応しい選曲!そのほかは、ショパンの「ノクターン」、バッハの「G線上のアリア」だった。)
 食事は例によって年寄りには多すぎる。そして、凝り過ぎて素材の味を殺している感が強いが、板さんの頑張りだから許すことにしよう。絶品は、予め特有していた赤身の馬刺しだった。珍しく満室に近いお客の為に、料理を出すペースがやけに早い。途中から、少しペースを落とすよう頼んだ。
 白ワインのあと、温泉では必ず摂るようにしている地酒を、今夜は「ちよのその」と決めた。

 帰りに必ず用意してくれる夜食が、この宿の魅力の一つである。竹の皮を編んだ、藁屋根の田舎家風の籠に、お握りと沢庵が入っている。もう満腹で下も向けない状態なのに、寝る前になると必ず小腹が空く。お握りを食べ、再び部屋の露天風呂に入り、眠りに落ちた。
 次女は殆ど一晩中露天風呂を出入りしていた。カリフォルニアに永住を決め、アメリカ国籍に転じていても、日本の温泉には根深い執着があるらしい。

 夜明けの朝風呂は、大露天風呂と決めた。一人、坂道を上がると、朝風が切るように鋭い。(この日、山鹿市は氷点下2・5度だった。平山温泉辺りも、同じくらいの冷え込みだったのだろう。)
 広い岩風呂を独り占めして、師走の締めとした。

 帰路、大河ドラマ「いだてん」の金栗四三の生家や記念館をハシゴして、16時半、太宰府に無事帰着した。
 さぁ、いよいよ師走が「韋駄天走り」になる。
                  (2019年12月:写真:夜食のお握り)

山村の贅……一夜の舌鼓(その2)

2019年10月30日 | 季節の便り・旅篇

 夢も見ずに、何時ものように5時半に目覚めた。風呂を入れ直す間に、30分の下半身ストレッチで身体を覚醒させる。ゆっくり温まった身体を冷ましに、30分ほど宿の周辺を歩いてみた。矢部川のせせらぎに沿って遡行すると、因縁の矢部中学校があった。ドームの屋根を持った立派な校舎が改装中である。後で訊いたら、文科省がン十億掛けて小中一貫校に造り替えているという。文科省も、金遣いだけは巧い。一見素朴な寒村だが、豊かな底力があるのだろう。
 朝焼けが残る空を、白鷺の群れが川に沿って飛び渡っていった。

 フロント棟の個室で朝食を摂った。私は洋食、カミさんは和食。旅に出ると食欲倍増するカミさんは、今朝も健啖である。
 さて、帰路に迷った。太宰府に帰るには、3つのルートがある。昨日の羊腸のクネクネ道は、「胸がモヤモヤしてくるから、イヤだ!と」カミさんが言う。星野村に北上する第2のルートも同じような山道で、しかも先年の水害復旧工事の為、迂回路が設定してあるという。結局、第3のルート、東に向かって大分県の県境を山越えし、中津江から日田に下ることにした。距離も所要時間も伸びるが、舗装された広い道を幾つものトンネルで結んで走り易いという。途中、大山の「木の花ガルテンに」寄ることにして、「道幅優先」でナビを入れた。
 中津江村、2002年サッカーワールドカップ・カメルーンのキャンプ地に選ばれて名を広めた。ネットによると、こんな嬉しい裏話がある。
 「中津江村」という村名は実は消滅の危機にあった。2005年に実施された日田市との合併の際に、まったく別の地名になる予定だったのである。ただ、あのカメルーン代表を受け入れたという事実の重さと、それによる「中津江村」のネームバリューが認められ、独立した地名としてその名を残すこととなる。

 宿から徒歩1分の物産館「杣のさと」でお土産を買い、帰路に着いた。早朝の雨も上がり、抜けるような秋空に、盛りを過ぎたススキが風に揺れていた。山道ではあるものの、昨日とは打って変わった快適な走りだった。時折、バイカーが追い上げてくる。ハザードを点けて脇に寄ると、片手を上げて挨拶しながら追い越していく。お互いに気持ちがいいマナーである。
 松原ダムで小休止して、お互いに遺影(?)を撮った。

 梅干しで有名な大山町、「木の花ガルテン」で買い物をした。田舎料理のバイキングを楽しめる場所だが、まだ11時前で、たっぷり摂った朝食で空腹感など程遠い。
 カミさんにハプニングを用意しようと、こっそりナビを入れた。心地よい揺れに舟を漕ぎ始めたカミさんを眠らせたまま日田に下り、筑後川沿いに西に向かい、この旅3つ目の夜明けダムを過ぎて、杷木ICで大分道に乗った。甘木ICで降りて向かった先は、キリンビール福岡工場のコスモス畑だった。
 背丈を超えるほどの1000万本のコスモスが圧巻だった。一面のコスモスの後ろに、メタセコイアの並木が鋭い三角錐を秋空に突き上げる。このコントラストがいい。
 出店で久し振りの佐世保バーガーにかぶりつき、ノンアルコールビールで喉を潤した。ビール工場に付随する畑なのに、飲酒運転撲滅の時勢に合わせ、ビールは売っていない。

 午後2時過ぎに帰り着いた。久々のドライブ197キロ、「80代高齢者」は、一度もヒヤッとすることもなく、無事安全運転の二日間だった。
 帰り着いたニュースは、またまた閣僚二人の謝罪と発言撤回。第2次安倍内閣は、既に9人の大臣辞任を重ねている。その度に「任命責任は、全て私にあります」と庇いながら、一度も責任を取ったことがない安倍シンゾウの強シンゾウ!
 こんな嫌な娑婆を離れて、また旅に出ようと思った。

 久住高原に、紅葉が降りてきている。10月が終わろうとしていた。
            (2019年10月:写真:満開のコスモス)

山村の贅……一夜の舌鼓(その1)

2019年10月30日 | 季節の便り・旅篇

 鄙には稀な!……と言えば失礼になるが、こんな山深い村の旅の宿で、これほどのスマートなご馳走を頂くとは思わなかった。しかも、旅の宿に泊まると、ともすれば下を向けないほどの料理にお腹をかかえて呻吟することがあるのに、これは程よい満腹感だった。

 久し振りのドライブ旅行は、その豪華な佇まいに魅せられてネットで選んだ。
 「奥八女別邸・やべのもり」

 矢部川の畔、杉木立に囲まれた広い敷地に、7棟の平屋造りの離れ宿が並んでいる。それぞれが竹垣に隠され、多様な植栽に包まれた豪華な宿だった。
 その中で、最も広い73平米(23坪)の「釈迦岳」という離れを選んだ。福岡県八女市矢部村……周囲を囲む7つの山……釈迦岳、猿駈山、三国山、前門岳、文字岳、城山、高取山…それぞれが離れの名前になっていた。各離れには専用の駐車場があり、フロント棟でチェックインすれば、自分の離れの前に車で移動出来る。
 部屋に案内されれば、あとは自分たちだけの空間。接客は素朴純朴で、決してお上手ではない。しかし、何も構ってくれない気安さが却って心地よいのだ。アツアツの新婚さんや、人目を忍ぶ訳ありカップルには、格好の隠れ宿かもしれない。翌日、太陽が黄色く見えようと、朝の爽やかな大気と温かい湯煙りが癒してくれる。

 数段の階段を降り、玄関を開けると2畳ほどの広い玄関ロビーがある。そこを上がると、琉球畳を敷いた10畳ほどの座敷仕様のリビング。総ガラス張りの明るい部屋にソファーが置かれ、壁には大型のテレビが取り付けてある。その脇の8畳ほどのベッドルームには、クイーンサイズのベッドが二つ、そしてここにも40インチほどの壁掛けテレビが設置されていた。
 3間ほどの総ガラス張りの渡り廊下の奥にトイレと風呂場。2面にガラスが張られた浴室に、3~4人入れそうな御影石の大きな浴槽がある。この浴室とベッドルームに惹かれて、ネットでこの部屋を選んだのだった。
 実は此処は、八女市市有の「山村滞在施設」なのである。調光も、エアコンのリモコンも、シャワートイレも、全自動風呂も、全て最新の仕様で、居心地は申し分なかった。

 辿り着くまでに、小さなハプニングがあった。開設して1年ほどの新しい山宿である。まだカーナビに出ていないのだ。住所で入れても、以前は山林だったのか、そんな番地は存在しない。地図を睨みながら、近くの矢部中学校をナビに入れて筑紫野ICから九州道に乗った。秋の日差しが柔らかく注ぐ午後だった。
 ところが、八女ICで降りるはずなのに、何故かナビは更に南へ走れと指示する。首を傾げながら、八女ICで降りた。ナビが、離合で出来ないような細い田舎道を示し、暫く従っていると、何と一つ南のみやまICで再び高速に乗って南に下れという。道端に停めて、ナビを入れ直した。
 笑うしかない入力ミスだった。矢部中学校が、実は熊本県上益城郡にもあったのだ。十分確認しないまま、2行の上段にあった熊本県の矢部中学校を入れてしまったらしい。苦笑いしながら、みやまICから八女ICまで、九州道を走り戻る羽目になった。
 なに、急ぐことはない。365連休、無為浪々の徒食三昧の日々である。何の慌てることがあろう!……と、これは苦しい負け惜しみである。

 八女市黒木町を過ぎ、矢部村の標識を確かめる頃から、次第に山道が細くくねり始める。羊腸の曲折に神経を遣いながら登り詰めると、そこは長大な日向神ダム。右転左転に悩まされながら、「昔、ダムに沈む前に村を見ておこうと、友だちに誘われて来たことがある」と、カミさんが言う。ダム建設の計画が立ち上がったのは昭和28年(1956年のこと)、60年以上も昔々の想い出話だった。
 ダムを抜けて少し山道を脇に逸れたところに、その旅荘はあった。

 「八女黒毛和牛フィレ&フォアグラステーキ付き特別会席プラン 1泊2食付き15、500円」税サービス込みで一人17,500円を奮発した旅だった。それを「安い!」と感じさせる部屋の佇まいと料理の内容だった。
 地下水を汲み上げた心地よい湯に浸った後、オーストラリア・ワインYELLOW TAILのCabernet SauvignonとChardonnay、赤と白をカミさんと回し飲みしながら羊腸の山道の疲れを癒し、ほろほろと酔い、たんたんと舌鼓を打った。

 今回は、お品書きだけで1編のブログになる。
 前菜八寸(茄子とろめん、栗と占地の白和え、糸雲丹、手作り蒟蒻柚香漬け、鮎万年煮、朴葉寿司、馬もつ煮込み、柿玉子、銀杏串打ち)、お造り(旬の物五種盛り)、吸い物(里の恵みの茸の土瓶蒸し)、台の物(山女魚の姿焼き、粟麩田楽焼き、霞鱒子橘釜盛り)、肉料理(八女産和牛フィレ肉のグリルとフォアグラのソテー~赤ワインソースに季節の野菜を添えて、山葵の風味と共に~)、食事(八女味噌の焼きおにぎり茶漬け、香の物)、デザート(旬の栗を使ったロールケーキに果物を添えて)、珈琲。
 八女黒毛和牛のフィレにフォアグラを載せた主菜は絶品だった。鄙にも稀な!……と敢えて言う所以である。

 酔いを醒まして、再び湯船に浸かった。背もたれして横たわっていても、油断すると頭までズブズブと沈み込んでしまいそうな大きな湯船だった。白く渦を巻いて立ち上る湯気を見上げながら、何とか乗り超えてきた夏を思い出していた。失った体重も取戻し、夏バテからも漸く抜け出した実感がある。
 傍らを流れる矢部川のせせらぎさえ聞こえない静寂の中に、あとは、ただひたすら爆睡Zzz……。
                (2019年10月:写真:主菜・フィレ&フォアグラ)

神守る島、大島

2019年10月23日 | 季節の便り・旅篇

 玄界灘の沖合遥か48キロ、強い北風に波騒ぎ、白いウサギが跳び交う波濤の彼方に、世界遺産「沖ノ島」が霞んでいた。年間僅か50日しか見ることが出来ない貴重な姿を遥拝出来た僥倖。福岡県宗像市大島の北、素朴な佇まいの宗像大社沖津宮遥拝所で、風の中に暫し佇んで感慨に耽っていた。
 神宿る島・沖ノ島、そして神守る島・大島……48キロを隔てる海に、確かな神の道を見た。

 玄界灘の真っ只中に浮かぶ周囲4キロメートルの沖ノ島。宗像大社の神領(御神体の島)で、沖津宮が鎮座している。 2017年、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産の一つとして、ユネスコにより世界遺産に登録された。
 「神の島」と呼ばれ、島全体が宗像大社沖津宮の御神体で、今でも女人禁制の伝統を守っている。山の中腹には宗像大社沖津宮社殿があり、宗像三女神の田心姫神(たごりひめのかみ)が祀られている。
 島は一般人の上陸は許されない。男の神職がたった一人10日交代で島に渡るが、御前浜でまず全裸で海に入って禊(垢離)をしなくてはならない。そして、毎朝、神饌を供える「日供祭」が日課である。
 古墳時代前期、4世紀後半頃からとされるが、一般人の上陸が禁止されていたが故に手付かずで残ったおよそ8万点の関連遺物全てが国宝に指定されている。しかし学術調査されたのは祭祀遺構全体のまだ3割にほどであり、その多くはいまだ手付かずの状態で残っている。こうしたことから、沖ノ島は「海の正倉院」と称され、島全体が国の天然記念物に指定されている。

 NHK講座、博多座大歌舞伎の大向うの会「飛梅会」足立会長が講師を務める「歌舞伎のみかた」講座に初級・中級・上級と数年通ううちに、坐る席が固定し、近くの聴講生と親しくなり、講座が終わってお茶会をする7人の仲間が出来た。それぞれご贔屓の役者がいて、話題には事欠かない。何故かこの会も、私以外は全て女性である。
 同じ太宰府のYさん(Y農園の奥様)は、高麗屋の染五郎、糸島に住むKさんは、音羽屋の彦三郎・亀蔵兄弟、福津市のMさんは大和屋の玉三郎、太宰府のGさんは澤瀉屋の猿之助、もう一人音羽屋贔屓のSさんが転勤で徳島に去った後、新たに加わった糸島のYさんは松嶋屋の仁左衛門と播磨屋の吉右衛門。
 カミさんは、特に誰というより歌舞伎そのものが好きなのであり、その意味で歌舞伎役者全てがご贔屓ということになる。
 私は、専ら大向うで3階席から「松嶋屋~ッ!」「成駒屋~ッ!」などと声を落とすのを楽しんでいる。
 見得や所作の一瞬にタイミングを合わせて声を落とす、その緊張感がたまらない。だから、少々眠たくなる古典物でも、居眠りすることはない。但し、舞踊物だけは素人には難しく、おとなしく見入るだけである。だから、時々居眠りしてしまう。
 「飛梅会」から再三勧誘を受けたが、幕内に束縛されるのが嫌いだから、江戸庶民に留まって一般人として気儘に声掛けを楽しんでいる。敢えてご贔屓と言うならば、山城屋・坂田藤十郎の孫である成駒屋の壱太郎かな?
 もう講座は9月で閉講してしまったが、「このまま会わないのは寂しいから、時々美味しいもの食べながらお喋りしようよ」ということになった。その初回として、Mさんの縄張りで海鮮を楽しもうと、秋たけなわの一日を集まったのだった。

 Mさんが用意してくれた車に7人で乗り込み、宮地嶽神社に詣で、民宿「しらいし」のレストラン「達(だるま)」で海鮮料理に舌鼓を打ち、神湊から25分フェリーに揺られて大島に渡った。
 小さなバスに乗り込み、細く曲がりくねった山道に胆を冷やしながら、渡船ターミナルから宗像大社沖津宮遥拝所、日露戦争の砲台跡まで走り、再び遥拝所に戻って下車、沖ノ島遥拝の僥倖に巡り合ったのだった。
 Mさんが用意してくれたレンタカーで宗像大社中津宮、大島灯台まで案内してもらって、再びフェリーで神湊に戻った。
 Mさんが最後に用意してくれたのは、閉門間近に滑り込んだ宗像大社詣でだった。

 こうして、神と触れ合う一日が終わった。自ら運転することなく、巧みなMさんのハンドルに任せて、後部座席でのんびりと揺られる心地よさ!時には、こうして人の運転に身を委ねるのもいいものだ。
 朝、JR二日市まで車で送って下さったYさんのご主人に、地酒「沖ノ島」と「大島」を買って手土産とした。
            (2019年10月:写真:洋上遥かに見る「神宿る島・沖ノ島」)

夜の幻想

2019年08月18日 | 季節の便り・旅篇


 静かに夜の闇が落ちかかる。その闇を突きぬけるように、垂直にドローンが舞いあがった。長年憧れ続けた千人の舞が、今まさに始まろうとしていた。

 暑さに茹だり部屋籠りが続くと、身体ばかりか心までが内に籠り始める。このままでは本当に夏バテの餌食になる。そんな時、「山鹿灯籠祭と、菊池渓谷・阿蘇2日間」というツアーを見付け、迷わず申し込んだ。これで今年の夏を送り出すことができる……そんな思いだった。
 同時発生した3つの台風の最後の10号が超大型台風に発達し、焦らすように鈍足で九州四国を窺い始めたのはそんな時だった。「命にかかわる超大型台風!」「自分の命は自分で守ってください!」とテレビが緊迫感を煽り立てる。汗にまみれて台風対策を施し、15日の暴風雨に備えた。15日夜の踊りは中止となり、16日のツアーの催行も危いかと思われた。
 幸い、今回も北部九州は肩透かしに終わった。小雨と微風の中に山鹿市のホームページを開いて「16日の千人灯籠踊り実施決定」を確認したのは、そんな中だった。

 午後1時40分に福岡・天神をバスで発ち、15時35分に玉名温泉「ホテルしらさぎ」にチェックイン。束の間のまどろみの後、16時45分から早々と夕食。17時15分にホテルを発って、会場の山鹿小学校に向かった。
 鶴田一郎描く妖艶な灯籠の女性を写した団扇を手に、スタンド桟敷の最前列に座って祭の始まりを待ちながら、栞で山鹿灯籠祭の由来を読んだ。
 「その昔、菊池川一帯に立ち込めた深い霧に進路を阻まれた景行天皇のご巡幸を、山鹿の里人がたいまつを掲げてお迎えしました。以来、里人たちは天皇を祀り、毎年たいまつを献上したのが始まりです。室町時代になり、和紙で作られた灯籠を奉納するようになったと言われています。」
 「頭に金灯籠を掲げた浴衣姿の女性たちが、ゆったりとした情緒漂う「よへほ節」の調べにのせて、優雅に舞い踊る夏の風物詩です。 
 中でも、薄暗闇に千の灯が浮かび、櫓を中心にして渦のように流れ、揺らめく千人灯籠踊りは、観る人を幻想的な世界へ誘います」
 「よへほ」……聞き慣れない言葉である。元唄は男女の逢瀬・呼び合いを歌った土俗風の唄だったという。昭和の初めに野口雨情が詞を改め囃子詞となった。「よへ」は「酔へ」、「ほ」は肥後弁の相手の気を惹く「ほー」、あわせて、「あなたもお酔いヨ、ホラッ」というニュアンスとも書かれていた。

 午後8時、その時が来た。昨年まで総監督を務めたという山本寛斎が正面スタンドから手を振る。静寂の中に、何処からともなく涼やかなせせらぎの音が流れ始める。踊り子の列がしずしずと進んでくる。櫓の横で左右に分かれ、輪になっていく。一列2列……5列ほどの輪が櫓を囲んだ。
 圧巻だった。十重二十重と言いたくなるほどの千人の輪が頭の灯籠を光らせながら、うねるように舞い始める。決して難しい所作ではない。ゆったりと静かに揺れ動く幽玄の波だった。

  ぬしは山鹿の 骨なし燈籠
  よへほ よへほ
  骨もなけれど 肉もなし
  よへほ よへほ
  洗いすすぎも 鼓の湯籠
  よへほ よへほ
  山鹿千軒 たらいなし
  よへほ よへほ
  心あらせの 蛍の頃に
  よへほ よへほ
  とけし思いの しのび唄
  よへほ よへほ

 「ゆらり ゆらりと 酔い痴れる」……その言葉通り、ただただ夜の幻想の中で酔い痴れていた。
 カミさんと撮ったたくさんの写真の中から、3枚を組みあわせて風情を醸し出そうとしたが、あの浸り込む感動を表すには、あまりにも無力だった。
 こうして、今年の夏に別れを告げた。翌日辿った菊池渓谷の森林浴、緑を溶かし込んだせせらぎに身を浸しながら、気持ちはまだ千人踊りの輪の中にいた。
                  (2019年8月:写真:山鹿燈籠線に踊り)

駆け抜ける

2019年03月23日 | 季節の便り・旅篇

 羽田も福岡も、いつから空港はこんなに延々と歩かせることになったのだろう?
 手術以来初めての空路、最大の楽しみは、人口股関節が金属探知機に引っ掛かり、「これが目にはいらぬか!」とサイボーグ証明書を掲げることだった。
 無念残念、往路も復路もブザーが鳴ることはなく、呆気なく検査場を通過する羽目になった。「こんな警備で、オリンピックは大丈夫なのか?」と負け惜しみを言ってみたものの、チタン合金は金属探知機に反応しないのかもしれない。

 羽田空港の出口に、娘と上の孫娘が迎えに来てくれた。昼を済ませて、洗足学園音楽大学の前田ホールに向かう。1年生の下の孫娘が、歌劇「カルメン」全4幕の日本語上演に、合唱の一員として出演する。ゼミのメンバーを中心に、1年かけて全て手作りで完成させた舞台である。
 カルメン全曲は初めての鑑賞だった。粗削りながら、ひたむきさに好感が持てる3時間だった。たばこ工場の女工に扮した孫が、アドリブを加えながら自然体の演技で舞台を行き来する。カルメンやドン・ホセ、闘牛士のエスカミーリョが歌い演じる後ろで、終始さりげない演技を続けるのが見事だった。担当のパートがないと、ついつい立ち尽くすことが多いのに、初めての舞台にもかかわらず、見事な演技だった。(孫馬鹿じゃない!)

 翌日は久し振りの歌舞伎座。カミさんの道案内で、迷うことなく東銀座に降り立ち、木挽町広場に辿りついた。夜の部。仁左衛門、雀右衛門、錦之助、孝太郎、秀太郎、左團次による「近江源氏先陣館・盛綱陣屋」。詳しくは歌舞伎に目がないカミさんの世界であり、そちらに譲る。勘太郎がいつの間にか成長し、高綱の一子小四郎を立派につとめていた。
 「雷船頭」。始めて観た演目だった。幸四郎と猿之助が、偶数日奇数日交代で船頭役をつとめる。今日は偶数日の幸四郎の出番だった。その踊りの見事さは言うまでもないが、亡き富十郎の遺児・鷹之資が、落ちてきた雷の役をおどけた所作で楽しく演じていた。久し振りに「天王寺屋!」という大向うを聴いて嬉しかった。
 最期は「弁天娘女男白浪・浜松屋店先より、稲瀬川勢揃いまで」弁天小僧と南郷力丸を幸四郎と猿之助が、これも偶数日奇数日で交代して演じる。今日は、猿之助が弁天。小気味よく楽しそうに演じていた。
 1階席を奮発したから、大向うで声を掛けられないので、少し欲求不満が残った。

 3日目。多摩美大に走って、上の孫娘の卒業制作を観る。山肌を這い上るようにいろいろな学舎が並ぶ。この前来たのは秋だった。木々の種類が多い学園である。ガラスや金属工芸は文字通りの力作、卒業生たちの気負いと力みが各作品に見られて、なんとも微笑ましかった。
 圧巻はテキスタイルの部だった。染と織りの緻密な彩りが美しく華やかで、ついつい足が止まる。孫が最後に、自分の作品に案内してくれる。ほかの作品と異なり、布ではなく、細引きと糸で織り為した大作だった。
 縦2.5メートル、横1メートル、奥行10センチほどの木枠を2枚立て、様々な太さの細引きや糸を染めて織り、紡ぎ、張った作品には、「透き間」とタイトルがつけてある。
 「プライバシーに敏感になった今の社会では、個人のスペースは閉塞的なものになる傾向にある。故に、より広く光を感じる、風通しが良い、そういった心地よさを公共のスペースに求められるのではないかと思う。
 空間は一本の線で区切ることが出来る。そこで面になりきらない線の集合でも壁になりうると考えた。視線を切る、動線を作るといった機能を持ちつつ、圧迫感が少なく空気を通す室内用の壁として今回の作品を提案する」
 4か月をかけたという労作である。このまま、何処かの美術館に置きたいと思った。(再び、孫馬鹿ではない!)
 間もなく卒業式を終えた上の孫娘は、自動車メーカーに就職し、社員寮で一人暮らしを始める。将来、内装など車の色彩に関わる仕事を目指している。

 その夜、ようやく家族全員が顔を揃え、Hungry Tigerで孫二人の労いと祝いの宴を張り、翌日、婿と下の孫娘に送られて羽田を発った。

 駆け抜けた3泊4日の横浜の旅だった。24度に届くほど温かく、それでいて強い風が吹き荒れる日々だった。孫馬鹿に尽きる……それもよし。それぞれが自分の道を見付け、巣立っていく。
 歳を取るのも、決して悪くはない。
                  (2019年3月:写真:孫の作品「透き間」部分)


落ち葉の隠れ宿

2018年12月07日 | 季節の便り・旅篇

 乱調の季節の歩みを取り戻すように、一気に酷寒が来た。3日前の24.9度という異常な暖かさ!82年ぶりに12月の記録を塗り替えた日が嘘のように、7度の寒風が落ち葉を吹き散らせている。今夜は3度まで下がり、山では雪が舞うという。

 限度いっぱいに膨れ上がった23キロのスーツケース二つを預け、10キロほどの機内持ち込みキャリーケースを引いて、次女は無事にロサンゼルスに帰って行った。見送った淋しさよりも、疲労困憊して溜息を吐きながらベッドに倒れ込んだ一夜が明けて、ようやく2週間振りに老いた二人の日常が戻ってきた。2週間の慌ただしい帰国の締めは、雨に包まれた露天風呂の一夜だった。

 39度ほどの、私にはややぬるめの掛け流しの部屋付き露天風呂に沈む。いつまでも浸かっていたい心地よさに、股関節をねぎらって至福の時が流れた。
 枝先から滴り落ちる雨の雫が、ポトンポトンと小さな泡坊主を浮かべる。散り敷いた落ち葉を叩く雨音に、吐口から注ぐ湯の音も紛れて消える。時折、風に払われた落ち葉が湯の表に舞い落ちる。取り払うのも惜しくて、そのまま湯に漂うままにしていた。

 42度の源泉が、そのまま檜の湯船に注がれ、自然の風に冷やされて39度ほどになる。ぬるい時はボタンを押せば、2分間だけ熱湯が注がれるという。20度を超える季節外れの大気に丁度いい湯加減となって、疲れた私を柔らかに包み込んでくれた。カミさんと次女は、岩盤浴に出掛け、私一人が部屋の露天風呂をほしいままにした。

 筑紫野ICから九州道に乗り、小雨の中をスピードを控えめにしながら南下、菊水ICで降りて山鹿温泉方面に走り、途中から左折して田舎道を行くと、やがて平山温泉郷に着く。かねてから常宿の一つにしている宿に着いたのは、およそ1時間半後だった。
 片道85キロ、ふと思う。術後のドライブとしては、一番長い距離ではないか。オートマ車だから左足は使わないものの、座りっぱなしの1時間半は、それなりに股間に負担を与える。
 山の中の細く曲がった坂道の途中に幾つもの離れが建つこの宿、雨の中を下駄履きで坂道を上り下りして大浴場に行くのはちょっと不安もあり、それに面倒だった。だから選んだ、露天風呂付き離れのこの宿、肌を包む湯の温もりに陶然としながら、雨を聴いていた。

 湯上りの火照った身体を布団に包んで微睡むうちに、夕飯の時間が過ぎていた。岩盤浴からようやく戻ってきたカミさんと娘を連れて、お食事処に向かう。所々に灯された光に、葉の上に散り落ちた枯れ紅葉が輝くのも風情だった。
 そこそこに満足できる夕飯ではあったが、やや創作が過ぎ、素材本来の持ち味が消されている料理があり、少し残念だった。料理人の工夫したい気持ちはわかるが、素材の鮮度に恵まれた九州の宿は、やはり素材そのままで味わいたいと思う。遠く異郷の地で暮らし、日頃新鮮な和食には恵まれない娘だからこそ、本来の和食を食べさせたかったと思う。これも親心。
 しかし、この宿の優しさは、食後持ち帰る夜食にある。竹の皮で作られた、一見田舎の藁屋根の家に見立てた弁当箱に、お握りと沢庵が包まれている。夜更けの露天風呂から上がって、小腹が空いたところで頬張るお握りは、替えがたい味わいがあるのだ。

 一夜明けて、大浴場に向かったカミさんと娘をよそに、朝風呂も部屋付き露天風呂で済ませ、帰途に就いた。途中広川SAで買い物と昼食を済ませ、帰り着いた午後から、娘は帰国の為のパッキング作業に忙殺された。いつもの慌ただしい時間である。

 雨が少しずつ冷たくなっていった。娘との別れの時が近付いていた。
                 (2018年12月;写真:雨に濡れる枯れ紅葉)
 

真っ向勝負

2018年11月16日 | 季節の便り・旅篇

 吐口から落ちる湯の音が、深い夜の暗がりに静寂を呼ぶ。湯船に差しかかる紅葉は既に枯葉色。乱高下する温度変化で、今年は目を瞠るような鮮やかな紅葉を見ることはなかった。ようやく季節に気温が追い付き、俄かに冷たい風が吹き始めた。夜気に濃くなった湯気が、湯の上を捩れるように這う。人っ子一人いない露天風呂を、今夜も独り占めして夜が更けた。

 宿に着いてすぐに飛び込んだ大浴場は、未就学の姉弟を連れた父親とお爺ちゃんの家族連れに占められていた。吐口の下の半畳ほどの湯船はピリッと熱い。48度の源泉から送る間に少し冷まして、そのままかけ流しているから、多分43度はある。熱めの湯が好きな私にとっても、ちょっと覚悟が要る。
 その湯が岩の隙間を通って、4畳くらいの第二の湯船に注ぐ。此処は逆に冷え過ぎて、入ったら出るに出られぬ38度くらいの湯だった。そこを、姉弟が潜ったり泳いだり騒ぎまわり、鼻血まで出して遊んでいた。折角楽しんでいる家族連れである。しぶきを浴びながら、じっと我慢してぬるま湯に浸っていた。一家が露天風呂に移ったのを機に、ようやく熱い湯船に沈んで、術後の股関節を労わった。

 術後3ヶ月半の検査と診察を受けた。毎日のストレッチを重ねたお蔭で、左足の筋力は右足並みに回復していた。「7000歩程度の長距離歩行や、坂道、階段、山道の歩行も可能となり、日常生活に殆ど支障ないレベル。ただ、端坐位保持後の起立動作時(要するに、長く椅子に坐った状態から立ち上がったとき)に、鼠蹊部及び股関節外側に軽い疼痛が残る(但し、数歩歩けば、この痛みは消える)」
 理学療法士のリハビリ報告書を見て、医師が言う「まだ、痛みが残ってますね。どうします?まだリハビリ継続可能ですから、もう少し頑張ってみましょうか?」(同一病気でのリハビリ治療は、150日が限度)
 その言葉に、安心して九州道に乗った。鳥栖JCTを左折して大分道に乗り、我が家から50キロ、1時間足らずで原鶴温泉に着いた。新車の走りが心地よかった。
 
 夕食で飲んだ冷酒の酔いを醒まし、露天風呂を独り占めした。「日本の名湯100選」に選ばれた湯である。「殿の湯」、「姫の湯」の入り口に掲げられたパネルに、こうある。
 「アンチエイジングの湯。源泉かけ流しで、加水も加温もしていません。本物の純生の温泉に、どうぞごゆっくりお楽しみください。男性は、いつまでも元気で、逞しく、格好よく、女性はいつまでも若々しく、美しく、しなやかに」
 ちょっと手遅れか、と苦笑いしながら……しかし、この肌触りの滑らかさはどうだろう!我が肌ながら、とろりすべすべとして、まるでしなやかな女体に触れているように……夜気が呼んだ、ひとりよがりの妄想だった。
 原鶴温泉「やぐるま荘」、部屋数は少ないが、広い敷地に贅沢な空間が広がり、浴室の広さでは原鶴でも1、2を争うとか。

 気負わない料理が美味しかった。やたら創作料理風に凝り過ぎた料理を出す温泉宿が増えた中で、素材の味と食感をそのまま生かした素朴な料理がいい。その、真っ向勝負な味が心地よく、「今年訪れた温泉では一番!」とお女将に告げた。化粧塩に飾られて反り返った大振りな鮎の塩焼き。此処は、鵜飼で知られた筑後川の畔、骨を外して舌鼓を打った。
 2合の冷酒を二人でもてあまして部屋に戻り、下を向けないほどの満腹感に布団に倒れ込んだ。この宿は、チェックインした時に、既に部屋に布団が敷いてある。
 「温泉に入られて、ゆっくり夕飯までおやすみ下さい」
 初めて経験した、嬉しい心遣いだった。

 帰路は一般道を走る。途中寄った「道の駅・原鶴ファームステーション・バサロ」で旬の富有柿をはじめ、したたかに買い物をした。
 「バサロ」とは、方言で「どっさり」、「沢山」を意味するという。その名に恥じず、しかも昨年の7月5日九州北部を襲った記録的な集中豪雨で大きな被害を受けた、朝倉市杷木町の復興に少し貢献したかなと、些細な自己満足に浸りながら帰った道は35キロ。
 ナビは、距離より所要時間を優先するものらしい。
 
 帰り着いた家は、たった一夜の留守なのに、しんしんと冷え切っていた。留守の間に、初冬の気配が忍び込んでいた。
                  (2018年11月・写真:やぐるま荘「殿の湯」)

湯船に沈む

2018年06月03日 | 季節の便り・旅篇

 五月晦日、後姿が遠くなる初夏を引き留めるように、ホトトギスが頻りに鳴く。すっかり達者になったウグイスが澄み切った囀りを添え、緑の梢の間を縫って、ルリビタキとおぼしい鳴き声が湯船に転がり落ちてくる。早めのチェックインで、誰一人いない露天風呂を我がものにして寛いでいた。
 昨日の船乗り込みの声掛けで痛む股関節を揉みほぐし、疲れた太ももを撫でさする。アルカリ性単純硫黄泉が肌をぬめるように柔らかにさせ、我がむくつけき太ももが、さながら女体のようなすべすべと悩ましい肌触りに感じられて、ひとりほくそ笑んでいた。
 湯船に差しかかる緑の葉陰に垣間見る空は、梅雨空の鈍色。斜めに傾いたお日様の姿は何処にもない。昨年より23日早く、平年より8日早く迎えた北部九州の梅雨入りは5月28日だった。5月の梅雨入りは2013年以来5年振りという。

 熊本県山鹿温泉に近い平山温泉、常宿のひとつ「湯の蔵」、こんもりとした小山の深い木立の坂道に点々と離れの部屋が置かれ、24時間掛け流しの露天風呂がそれぞれの部屋に付いている。部屋まで案内されたら、あとはチェックアウトまで気儘な空間と静寂をほしいままに出来る山宿である。
 アジア系団体が決して来ない宿。6室の「福亭」と10室の「寿亭」が木立の中に配されている。今回は古民家風の「寿亭」の一室「西岳」を選んだ。重厚な岩風呂が、静かに湯音を奏でていた。

 我が家から九州道をひた走って1時間20分、およそ80キロの山あいにその宿はある。ナビは難関ICで降りることを薦めて来るが、山越えの道が好みでなく、少し距離を伸ばして菊水ICで降り、山鹿温泉に向かう途中から左に折れて、菊池川沿いを平山温泉に走る。鉛色の空が少し明るくなってきた。

 二日降った雨が早々と中休みとなり、眩しいほどに晴れ上がった午後、六月博多座大歌舞伎・二代目松本白鸚、十代目松本幸四郎襲名披露の船乗り込みは、3万人の群衆の歓声に包まれた。福岡の歓楽街・中洲を囲む那珂川の分流・博多川沿いの博多大橋の袂に陣取り、カミさんの歌舞伎仲間二人と一緒に下ってくる船を待った。痛む股関節のこともあり、キャナルシティ―博多の乗船から追いかけてくる気力はない。
 用意のいい仲間は折りたたみ椅子を持参、年寄りをいたわって座らせてくれ、日傘まで差しかけてくれる。次第に集まってくるご贔屓たちの群れの中で、談笑しながら1時間半ほど日差しを浴びていた。遠く川上に見えてきた船が、川端ぜんざい広場に横並びに船を並べて口上が述べられる。
 やがて、賑やかなお囃子に乗って船が近付いてきた。「高麗屋~っ!」と声を掛けながらカメラを向けた。十艘ほどの船に分乗した役者さんたち。披露公演だから、重鎮の皆さんが揃い踏みである。素顔で見ると、改めて年輪を感じる。
 白鸚、幸四郎、仁左衛門、魁春、鴈治郎、孝太郎、高麗蔵、彌十郎、友右衛門、梅玉、亀鶴、壱太郎、廣太郎、松之助、吉弥、錦吾、宗之助、寿治郎、笑三郎、笑也、猿弥……。
 老いても爽やかな仁左衛門が際立って印象的だった。密かに贔屓している壱太郎の若さが瑞々しい。祖父の坂田藤十郎は流石にご高齢、今回の船乗りみは辞退された。
 声が枯れるほど、声を掛け続けた。「高麗屋~っ!」「松嶋屋~っ!」「加賀屋~っ!」「成駒屋~っ!」「大和屋~っ!」「明石屋~っ!」「八幡屋~っ!」「緑屋~っ!」「紀国屋~っ!」「澤瀉屋~っ!」……相次ぐ屋号を叫び、汗が噴き出る。
 「幸四郎さ~ん!」と黄色い声を掛けて上気したカミさんの仲間たちとアイスコーヒーで喉を潤した後、元気な彼女たちは「切り紙アート展」に向かい、私は痛む股関節に脚を引き摺りながら一人車を走らせて帰った。

 部屋付き露天風呂で何度も脚をねぎらい、山宿の夜が更けて行った。静かな夜……限りなく静かな夜だった。
                (2018年6月:写真:24時間掛け流し部屋付き露天風呂)