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世界に一つだけの姥花日記

貴方は貴方らしく私は私らしく、世界にただ一つだけのきれいな花を一生懸命咲かせましょう。
シニア主婦の平凡な日記です。

バレエの思い出

2024年11月07日 | 日常の生活

バレリーナの森下洋子さんを皆さんはよくご存知だと思います。

有名人などとは全くと言っていいほど縁のない私ですが、彼女だけは少しの間ですが、ご縁がありました。

あえてここでは「洋子ちゃん」と昔の呼び名で書かせていただきます。

世界的な名バレリーナを「ちゃん」付でお呼びする失礼をお許しください。

この度、彼女が秋の叙勲で旭日重光章を授与されたことで急に昔のことを懐かしく思い出しています。

 

彼女と私の故郷広島には私の知る限りでは当時2つのバレエ団がありました。

「葉室潔先生」と「洲和みちこ先生」!葉室バレエ団はモダンバレエ、洲和みちこバレエ団はクラシックバレエ。

洋子ちゃんは、はじめ葉室潔先生の元でバレエを始め、確か小学校2~3年の頃でしょうか、

葉室先生の勧めで本格的なクラシックバレエをと洲和先生の元へやってきました。

私は幼稚園生のころから洲和みちこバレエ団で、将来のバレリーナーを夢見、バレエ大好きな女の子でした。

初めて主役をもらったのは確か小学校1年生の時の発表会「親指ひめ」だったと思います。

それから毎年子供バレエ劇の主役を演じるようになりました。

毎週土曜日の午後と日曜日の午前がお稽古日で、当時は広島のほぼ中心地千田町レッスン場がありました。

<小学校2年生「魔法のお城」の主役の男の子>

普段は内弟子の先生の指導でしたが、時折、また冬夏の1週間の特訓レッスンでは洲和先生がやってきて、

棒を片手にトントン、ピシピシとよく叩かれました。すご~く厳しい先生でした。

<小学校4年生の時の秋の発表会 蝶々の夢 後ろ向かって右側が私>

自慢ではありませんが、小学生だった私は当時洲和みちこバレエ団ではプリマ的存在だったかも

<私の最期の舞台となった小学校5年生の秋の発表会 「青い鳥」のチルチル役>

 

 

ところがです!洋子ちゃんの踊り方は別格、全く違いました。

何だか異分子が転がり込んできたような衝撃とショックを子供心に抱いたことを今でもはっきろ覚えています。

すでにその頃、洋子ちゃんは休みになると上京し、橘、牧阿佐美バレエ団でお稽古されていて、

一地方の私たちバレエ団の子供たちとは、踊り方がまるで違いました。

発表会でも一緒に踊ることは目立ちすぎてできないほど、素晴らしかった。

小学校6年生の時にはついに単身上京!

ご両親は広島市の中心街で「キッチン森下」を経営し、経済的に洋子ちゃんを支えていたと聞いています。

キッチン森下は当時広島カープの選手たちも出入りし、とても繁盛していたとのことです。

ご両親の協力と本人の強い意志力があってこそ、今の世界的バレリーナ「森下洋子」が生まれたのですね。

<洋子ちゃんと私 春の遠足 私中1、洋子ちゃん小学5年生>

<奥の黒い洋服 洲和みちこ先生>

 

私はと言えば、小学校6年生の秋に、ツベルクリン反応が陽性となり、医師から激しい運動は禁じられ、

バレエレッスンも暫くお休みすることにしました。

中学生になり再開、が勉強との両立が次第に難しくなり、レッスンもお休みがち、とうとうやめてしまいました。

大人になってもバレエの憧れは続き、一時バレエ教室にも通いましたが・・・・・。

 

洋子ちゃん、改めて叙勲受賞おめでとうございます。いまでもまだ舞台に立っていらっしゃるのですね。

まさにバレエ界のレジェンド、応援しています。

 

コメント (8)
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