ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

基準さえあれば…?

2024-05-02 08:07:49 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「基準、基準」4月26日
 『不適切指導 処分基準遅れ』という見出しの記事が掲載されました。『教職員による児童・生徒への暴言など不適切な言動や指導を、懲戒処分の対象として処分基準に明記していない教育委員会は、都道府県・政令指定都市の67教委のうち18教委で、約3割に上ること』を報じる記事です。
 処分は、教員にとっては不利益を与えるものですから、教員の人権を守るためにも、基準を設け、行政側の恣意的な処分を避ける必要があることは当然です。ただ、基準を設けることのデメリットにも注意が必要であることを忘れてはなりません。
 それは、基準を設ければ、その基準に当てはまらないものは、どんなに悪質で子供を傷つけても処分はされないという誤った認識をもたせてしまうことです。私は教委勤務時に、体罰防止研修に講師として呼ばれることがありましたが、その際多くの教員の関心事は、「どのような行為が体罰に当たるか、どこまでなら体罰にならないか」ということでした。つまり、体罰が子供に及ぼす影響や教育に対する信頼を損なうことへの理解よりも、いかに処分の網の目を潜り抜けるか、という方向に意識が向いていたのです。
 近年の例でいえば、いじめ防止対策推進法ができると、子供や保護者がどのように感じ苦しんでいるかということよりも、規定に合致するかしないか、学校の責任が追及されるか否かという点に関心が向いてしまうという状況があります。正に本末転倒ですが、出来れば責任を負わされたくないと考えるのは人間の性であるとも言えます。
 さらに、基準の具体例についても疑問があります。『精神的な苦痛を与える』という規程はどうでしょうか。私など還暦を過ぎても人間が未熟なためか、他人から叱責されたり、間違いを指摘されたりすると、「精神的に苦痛」を覚えます。恥ずかしい、悔しい、情けないなどの感情が沸き上がります。子供も同じでしょう。そしてそうした感情は、適切に叱責や指摘がなされても生じるものです。また、何も苦痛を感じないような叱責や指摘では、そもそも意味がないとさえ言えるでしょう。この基準が独り歩きすれば、教員は何も注意や叱責ができなくなってしまいます。
 また、『他の児童生徒の面前での叱責』についてはどうでしょうか。もちろん、殊更恥をかかせるような叱責の仕方は適切ではありません。しかし、叱責は常に他の児童生徒がいないところで行わなければならないとしたら、学校は無秩序状態になってしまいます。授業中私語を続けている子供に対して「他の人の勉強の妨げにあるからしゃべりを止めなさい」と叱責してはいけないということで、授業終了後別室に呼び注意するようにするということは、あまりにも学校の実情を無視したやり方です。
 そんな馬鹿げたことは起きない、運用に当たっては常識というものがあるという人には、子供や保護者が「基準」を振りかざして自らの被害者性を強く主張するという事態への想像力が欠けていると言うしかありません。
 形式的に基準を定めることを求めるだけではなく、不適切な指導が子供や保護者を苦しめるということを実感をもって理解させる研修や啓発、教員養成の在り方を並行して考えていくべきだと思います。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする