「糸が脆ければ」4月25日
専門記者田原和宏氏が、『学びほどく』という表題でコラムを書かれていました。その中で田原氏は、『アンラーン』という言葉を紹介なさっていました。意味については、『英和辞典には、「習慣などをわざと捨てる、意識的に忘れる」とあるが、鶴見さんはアンラーンを「学びほぐす」「学びほどく」と訳す。学校で教わる知識は、型通りに編んだ毛糸のセーターのようなもの。ほどいて毛糸に戻し、自らの体に合わせて編み直して、ようやく自分のものになる。アンラーンとはそんな作業なのだ』と書かれています。
恥ずかしながら、私は、アンラーンという言葉を初めて知りました。自ら考え問題を解決し、新しい問いを作っていく、今の時代に求められる能力を身に着けさせるために役に立つ概念だと思います。
特に私が注目したのが、毛糸のセーターをほどいて編み直す、という比喩でした。私が幼い頃、母は古いセーターをほどいて新しいチョッキやセーターを作ってくれました。セーターをほどくとき、毛糸を巻くのを手伝わされました。私が両手を出し、そこに母が毛糸を巻きつけていくのです。
そのとき、毛糸が切れてしまうことがあります。古くて痛んでいたり、元々品質が悪かったりしたせいだと思われます。切れたところを結んで使うことはできるのですが、そうなると編み機では編めず、手作業になるので大変でした。
なぜこんなことを思い出したかというと、アンラーンにおいても、元になるセーターの毛糸、つまり学校で学んで身に付けた知識や技能が質の悪いものであれば、それを再構成した「自分の体に合った」知識や技能も、質の悪い役に立たないものになってしまうと考えたからです。
近年、学校教育、特に従来型の学校教育、教員から子どもへの一方通行の知識注入型(私個人はそう考えていないが)の授業で身に着ける知識について、個性や創造性が重視される現代においては役に立たないものというような捉え方が広がっています。そうではなく、やはり質の良い知識が豊富にあってこそ、それをもとにして再構成する自分だけの知の枠組みも豊かなものになるのではないでしょうか。
学校での学びを軽視せず、真剣に吸収しておく、そんなことの意味を再評価すべきだと考えます。