ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

粘り強く努力する

2024-05-26 08:52:16 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「欠けていること」5月21日
 『全国の中学生に、さまざまな分野で活躍する人が語る「授業」』である連載企画『14歳の君へ わたしたちの授業』に、シンガーソングライターアンジェラ・アキ氏が登場しました。その中でアンジェラ氏が語る二つの言葉が印象に残りました。
 まず、音楽に興味のない子に対して語りかけた、『アニメの主題歌を鼻歌で口ずさむとか口笛でもいいから、まずはメロディーを楽しんでほしい(略)ダンスが好きな子は手をたたいて、曲のリズム感を体験するのもいいと思います』という言葉です。
 アニメの主題歌を鼻歌で歌っているだけでは、教科音楽の評価は5段階で1でしょう。授業では、自分の好きな曲だけ歌っているわけにはいきませんし、鼻歌では発声法がなってないと言われてしまいます。手をたたいてリズムをとっても、音階についてはゼロ評価になります。
 私は音楽の授業を否定しようとしているのではありません。音楽や美術といった芸術系の教科における指導と評価の難しさについて指摘しているだけです。私はカラオケが大好きです。午前11時の開店から押し掛け、午後8時まで9時間、60曲くらい歌い続けます。上手くはありません。音程もリズム感も中の下というところでしょう。特に嗄れ声は聞きにくいらしく、「おかしな声」とよく言われます。ですから、他人とはカラオケには行きません。付き合ってくれるのは連れ合いだけです。
 こんな私は、知り合いの芸術系の教員、今は大学の教授になっている方と、下手の横好きのカラオケ好きは音楽教育ではどのように評価するのか、という議論をしたことがあります。技能は×でも、音楽への関心意欲態度は〇なのか、総合評価はどうなるか、親に習わされて嫌々ピアノ教室に通い上手に弾けるけれど音楽なんて大嫌いという子供とどちらが高評価になるのか、などという話です。
 結論は出ませんでしたが、今でも私の中に残っている疑問です。それを久しぶりに思い出したのです。音楽教育は、下手だけど好きな音楽が流れると自然に鼻歌が出て体がリズムを取り出すような子供と、内申書の評価をよくするためにリコーダーの練習を怠らないけれど音楽なんて大嫌いという子供とどちらを育てることを目指すべきなのか、好きで上手な子供なんでしょうけれど。
 次に印象に残ったのは、『なぜ学校で勉強するのか、と聞かれたら、努力することを身につけるため、と答えます。自己管理できる能力は将来も生きてきます。私も努力を続け、念願のデビューを果たせました』という言葉です。
 勉強の意義を、知識の習得でも、技術を身につけることでも、自分なりの思考の枠組みをつくることでもなく、努力することを身につけることであるという指摘は新鮮でした。私が子供だった頃までは、こうした考え方は珍しくなかったように思います。こんなこと勉強して何になるの、という問いに対する答えとして、「遊びたいと思うのは人として当然の気持ちだけど、それに負けて自分を甘やかし遊んでしまうようでは一人前にはなれません。嫌なこと、辛いことでも我慢して努力し続けることで、人として大切なことが身につき、良い大人になれるのです」というような趣旨の戒めが語られることがあったのです。
 それを精神論に過ぎないということもできますし、大人や社会が子どもを自分たちの都合の良いように枠にはめようとしているだけだという指摘も間違っていないでしょう。それじゃあ、お母さんはそうしてきたの、という反論も大人に痛いところを突いているかもしれません。
 前例を踏襲して大人しく生きていればそれなりに報われた時代と異なり、変化が激しく手本になるモデルなど存在せず自分で道を切り拓いていくことが求められる現在は、自分がやりたいこと好きなことをとことん追求するのが大事で、じっと我慢なんて時代遅れという指摘も間違っていないと思います。それでもなお、今の時点で興味がないことであっても、人生の先輩の教えに敬意を払い、自分を抑え学ぼうとするという姿勢は貴重なものだと思ってしまうのです。
 と同時に、それは現在の学校教育において軽視されているとも感じるのです。我慢して続ける、好きじゃないけど取り組む、そうした経験が、自己管理能力の基盤となる、それは今でも通用する原理なのではないでしょうか。社会に出て「仕事」をするとき、嫌なことの方が多いのですから。
 

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