山野颯想

山野走、山野歩、山野逍遥など、山野にかかわる事柄を中心に記載しています。

ほしだ園地(私市駅~飯盛霊園・往復)

2013年11月18日 | 山野走

Img236

◆写真撮影:2010年11月23日、ほしだ園地にて

(星のブランコ)

現在僕は、心身共に山に行けない条件にあるゆえ、山日記を記載することができません。それゆえ、ブログを始めた20126月以前の山野行記から、抜粋して記してゆこうと考えました。

20111122日(火)

『山野走』

<私市駅~飯盛霊園・往復>

(所要時間:1時間3949秒)

[私市駅]63800→[星の里いわふね]→(かわぞいの路)→[ピトンの小屋]→(さえずりの路)71331[やまびこ広場]→(まつかぜの路) 73410[飯盛霊園・境界]73700(せせらぎの路) →(管理道)→[やまびこ広場]→(管理道)→(おねすじの路)→[ピトンの小屋]→81749[私市駅]

<御袋>

「WK医師は私を治してくれへん」「関西医科大病院へ転院させてほしい」と、御袋は不満を露にした。「関西医科大病院なら治してくれる」と言いたげだったが、あのとき御袋は「生きたい」という意思を明確に表していたように思う。

あのとき御袋は何故「生きたい」と考えたのだろうか。「お父ちゃんを残して先に逝けない」「先に逝ってしまったら、お父ちゃんが心配」と考えたのだろうか。それとも単に「死ぬのはいやや」「生き続けたい」と、生きることへの執着心だけだったのだろうか。今となっては分からない。

僕は御袋から直接聴いたわけではないが、兄貴に言わせると御袋は「お父ちゃんと別れたい」と言っていたそうだ。その話を兄貴から聞いたとき、御袋からそのような発言があったことを僕は信じることができなかった。それは親爺の認知症が進行するなかで、御袋の脳裏では処理することができない困惑するような様々な事態が生じていたのだろう、それゆえ発作的な「別れたい」発言となっただけなのだろうと当時僕は考えていた。

磐船街道入口に設置してある道路情報電光表示板にプラス2℃とあったが、然程冷気を感じることはなかった。何ゆえか終始御袋の様々なことを考え走り続けた。

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