「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「春の行方は」

2023年01月20日 | ニュース・世相

                

新年が明けて少しの間をおいて動き始める大切な行事、それが春闘・賃上げ・昇給・ベースアップ、などと呼ばれて、大きく言えば世の中を動かすほどの力を持つ大切な行事・行動である。
世の中が順調に動き、人々が順調に働き、食べて遊んで楽しい時を過ごすことで消費をする。その健全な循環行為が順調に進行すれば、各家庭の生活水準が上がる。その分収入の上乗せが重要となる。

収入に見合った消費をする活動が、社会全体の経済を動かし、企業は利益を上げそれを労働力を提供する従業員に還元する。ざっくり言えばこんな図式になるのかな。それこそが平和と呼べる社会現象なのだろう。浅学非才、大企業の中で守られてきた人間の戯れ言と思って聞き流していただけると有り難い。

要するに、今の大きな話題は、物価上昇による実質賃金・実収入の目減り分を、この春闘交渉によってどこまで改善させるのか、はたまた企業の横暴に打ち負かされてどうにもならないのか、賃上げの行方が注目されているということだ。私たち年金生活者には賃上げ闘争も定期昇給もないのだから、今さら何をか況んやではあるが、物価上昇のあおりはモロに受けているわけだから、働く人たちの賃金ベースの上乗せは、やがて年金額の上乗せにも跳ね返って来ることに、幾ばくかの期待をかけたくなりますよね~。そうでないと片手落ちだよね~と単純に考える次第。

所得倍増論・日本列島改造論に乗っかって、トントンと給与が跳ね上がる闘わない春闘も経験してきた。全くその逆の時代も長く経験した。兎に角目を見張る物価上昇。しっかり賃上げ、年金アップを願いたい春ですね~。いったいどっちへ向いて行くのやら。

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「寒アヤメ!」

2023年01月19日 | 季節の移ろい・出来事

        

今年も大寒の入りを前にして、我が家の庭の片隅に清楚な寒アヤメが咲いた。
この寒さの中で、しかも日陰の存在ながらちゃんと季節を心得、時季が来たことを忘れずに花開いている。
控えめな薄紫色は、この季節にお似合いの優しさを投げかけてくる。そして「早く正月気分を終えて本格的始動の時期ですよ」と催促されているようにも見える。

過去にも書いたと思うが、「寒アヤメ」としての花言葉は見つからない。アヤメ一族の仲間として「よい便り」「メッセージ」「希望」の花言葉が、共通一次試験の季節にふさわしい温かい心を投げかけてくる。ついつい調子に乗せられて、ヨ~ッシッ!寒さなどに負けていられようか、と奮い立つ気持ちを後押ししてくれるみたいでもある。

そんな気持ちの一方で、新聞の三面記事に目をやると、まさに目を覆いたくなる惨状が並んでいる。アヤメの花言葉などどこかへ吹っ飛んでしまいそうな、気持ち塞がれるこのごろ。
13才の女の子が、スマホの扱い方で怨みを重ねたら、刃物で母親の寝込みを襲って殺害するところまで行き着く。逆に母親が無抵抗の6才の我が子を殺めてしまう。愛が憎しみに変わったのか、交際相手であった大切な女性を人通りの絶えない繁華な街角で殺害する。もう書きたくもない記事がいっぱい。

強い国が隣接の弱い国を侵略して我が領土を広げて憚らない、国家による強盗殺人行為を1年間もやりたい放題にさせる国際連合。ロシアがやるのなら我々も、と拳を振り上げて脅しにかかるCHNという国。理不尽がまかり通る世の中で、最終的に我が国を守るのは我が国、我が国民である。飛んでくる火の粉は払わねばならない。次から次に火の粉が飛んで来ない策を打ち立てなければならない。他人任せでいいのかね~。頼りにする他人様に火の粉が飛び始めたら、他人の防御に手を貸せるのだろうか。

けなげに咲く寒アヤメを見ていたら、寒い時期が全て負のイメージばかりではない。むしろ暑い夏を地下にある力強い根っこで力を蓄えてこそ、寒の最中に花開くのだ。
何にもしないでもこれから先の世の中を生きていけるなら有り難い。NIPPONを囲む海、周辺の島は、押し寄せるには恰好の標的とならぬよう最善を尽くさないと、花を愛でていられる優雅さなどなくなってしまいそう。                   

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「28年前のあの日」

2023年01月17日 | 思い出話

東京は世田谷区三軒茶屋、静かな町の一角に佇む会社の単身赴任寮。
いつも通りに起きて、身支度を整え朝食のテーブルから見たテレビの画面。先ずこの目に飛び込んできたのは、数か所から立ち昇る真っ黒い煙、その下からメラメラ燃え上がる真っ赤な炎。周辺には大きなビルや小さな四角い建物のほとんどが傾いて、今にも倒れそうな光景。まさにこの世の物とは思えないテレビ映像。しばらくしてから我に返り、急いで食事をして一刻も早く会社に行き、状況の把握とこれからの動作について話し合おうの一念であった。
           

急いで出勤してみると言わずもがな、事務所はパニック状態。本社と全国各地に点在する工場との情報交換に追われたあの日を今も鮮明に思い出す。
新幹線が大阪でストップ。岩国工場の製品輸送が貨車から船便に変更。工場と本社の人の往来は全て航空便に変わり、羽田空港での送り迎えとなった。
そんな個人的パニックも乗り越えたあの日から、紛れもなく28年という歳月が流れた。なんと言ったらいいのか、言葉が見つからない。

何年が過ぎようと、記憶にとどめておかなければならないことはある。28年という歳月は、人々の記憶を薄れさせていく時の流れではあっても、決して忘れてはならない。1月17日午前5時46分を迎えると、一瞬にして還らぬ遠い人となった面影を偲んで涙する人も数知れない。そして今を生きる私たちは、「世の中、いつどこで何が起きるか判らない」という教訓を胸にしなければならない。

毎年のことながら、11日後には誕生日を迎えることもあって、あの日あのときの強烈な印象を思い起こし、今の幸せに感謝の念を呼び起こさせてもらっている。

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「タスキをつなぐ!」

2023年01月15日 | スポーツ・観戦

                 

世にスポーツと言う名は数々あれど、純粋な日本が発祥となるスポーツは多くない。が、今や「駅伝」(エキデン・EKIDEN)は世界に広がっていると聞く。
発祥の経緯は諸説あるようだがそのひとつに、その昔の書簡伝達は人間の脚で走ることでいち早く先方に届ける「飛脚」という職業にゆだねられていた。東海道五十三次のように、宿場から宿場をつないで交代で走り続ける。それをスポーツ化した、頭のいい人がいたというか先見の明を持った人がいて、現在の一大人気スポーツに発展させたということらしい。

暮れには全国の高生生男女が都大路を走る全国高校駅伝がある。正月元旦は、全日本実業団の代表による「ニューイヤー駅伝」として定着している。正月二日三日は、選ばれた大学20校による箱根山を越える「箱根駅伝」が衆目を集める。そして1月半ばには天皇杯・皇后杯を競う全国都道府県対抗駅伝が、男女に別れて行われる。
今日はその皇后杯、女子駅伝が都大路を駆け抜けた。

それぞれの都道府県を代表する、中学生・高校生・一般社会人が9人でチームを作り、ゴールを目指してタスキをつなぐ。
受けたタスキは何が何でも次の走者に渡す・つなげる。つなげなくていいのはアンカーだけ。といっても、アンカーは今年の成績全体を来年の新チームにつなげる役割を背負っているのかもしれない。いわゆる責任重大、重いタスキを肩に掛けて走ることになる。一人が何人を抜き去る頑張りを見せても必ず最終結果につながるわけではない。またその逆があっても結果的な成績は全員が背負うことになる。考えようによっては、厳しい感じがしないでもない。

人間社会にも似たようなことはある。円満で幸福な国家を受け継いだリーダーは、そのタスキを円満で幸福なままを後者につないで行くべきである。ところが、安っぽいリーダーが突如不満や不安を抱くと、その不安や不満への憎悪を増幅させて、気に入らぬものは潰しても構わない論調を後者に受け継がせてしまう。無謀な侵略戦争や国内紛争の絶えない国は、自身の中に芽生えた怨念をそのままタスキとしてつなごうとしているのではないか。

駅伝本来の目的は、一人一人が精一杯の幸せを求めて努力する尊さをタスキに込めて次につないでいくことである。駅伝発症の国NIPPONが、その貴重な精神を世界に伝播していきたいものである。

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バランスのある食事を」

2023年01月14日 | 季節の移ろい・出来事

                                      
                 緑の野菜をついばむヒヨ

南天・クロガネモチの実・ピラカンサなど、赤く熟れた実を腹一杯食べたヒヨ。次に狙うのは緑の野菜の葉っぱ。普段は木の枝から枝を渡って食事をするが、緑黄野菜を補給するとなると、危険を冒してでも地面を這って、白菜・大根の葉・キャベツなど手当たり次第食い荒らす。

我が家のあちこちにある南天も、大木になりかけているクロガネモチの実も、隣の空き地のピラカンサも残りわずかまで食い尽くした。来る日も来る日も数組の夫婦か親子か恋人同士か、とにかく入れ替わり立ち替わりやって来て、大きなトラブルもなくちゃんと食べて、大きなフン害をまき散らして飛び去っていく。

それもこれも、バランスのとれた食事に専念することで、野生故の生き抜く方程式を心得ているということなのだろうか。
人間も、朝に昼に晩にテレビから流れるグルメ番組のレシピというレシピに、必ず付いてまわるのが栄養のバランス・食物のバランスという決めぜりふを、ミミタコに叩き込まれていても、実際に守られてはいないのが実情。だからお医者さんは繁盛するし外食産業も、テレビショッピングの青汁屋さんも繁盛する。

時々は窓の外を眺めて、野鳥の生態や食事体系を観察するといい。安易に通販に飛びついて、努力もしないでかっこいい結果だけを求めるアンバランスを改善しましょうや。好みのもの、口当たりのいいものを食いたい放題食ってちゃ、元気で長生きは覚束ないだけでなく、成人病医療費が嵩んで、本当に治療が必要な人に医療が回らなくなりそうですよ。あんまり他人のことは言えない。自分はどうかね。ウ~~ン!!

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「間違い探し!」

2023年01月13日 | つれづれ噺

               

右と左の絵を敢えて違うものを描いて間違いを当てさせる「間違い探しゲーム・クイズ」が、新聞にも雑誌にも色んなところに載っている。
意識して違いを描いているのだから、探す方も必死で探し、当ったら拍手がもらえる。描いた側は、今度はもっと分かりにくい微妙な間違い問題を提出しよう・・・と、イタチごっこは果てしなく続く。そこは、クイズやゲームであったり遊びの世界だからまあ許されるし笑って済ませられる。

ところが、ゲームでもない、遊びでもない普通の生活の中で、他人の間違い探しを趣味とする、あまり性格の佳くないと感じる人の何と多いことか。
などというと、不幸な世界に生きていらっしゃるのね、なんて同情されるかもしれないが、実際に皆さんも周囲を見回してごらんなさい。そういう性格の方がはるかに多いことに気づかれると思うが如何?

もう一つ言うなら、他人の失敗や失言・失策を、得たり賢しと論う(あげつらう)人も少なくない。あげつらわないまでもフォローしたり寄り添って慰めたりなどはしない。放っておいてくれる方がまだマシな話しである。
ちょっとしたミステイクを上手にやんわり指摘して、間違ってはいけない間違いの訂正を求める。こんな流暢なことができるのは、可愛い孫の間違いを見つけた時くらいのものではないか、などと、まるで自分のことを言っている気がしないでもない。

営利を追求する企業の中の重要なポジションという立場ならいざ知らず。ボランティアの集まりが基本の地域活動などで、その道に少し詳しい知識を持った人が、元の職場での地位を今も引きずっているかのような言動、つまりスタンドプレーには閉口する。閉口せずに対抗・抵抗すればボランティア活動が壊れそうになる。静かに身を引くかという結論に至る。

知識や眼力の鋭さをひけらかす間違い探しは、間違い探しクイズやゲームの中だけにしていただけると有り難いのだが。と誰に言うわけでもなく、己自信によく言って聞かせよう。

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「冬休みを終えて!」

2023年01月11日 | つれづれ噺

              

地元の小中高ともに令和4年度の三学期が、昨日10日から一斉にスタートした。
それに合わせたわけではないが、私たちのグラウンドゴルフ同好会も、長い冬休みを経て昨日からスタートした。
メンバーは男子6人・女子4人計10人。最高齢85才、最若年70才、平均年齢77、5歳という決して若くはないしかも小さな同好会である。が、その中味と熱意は、大きな団体に引けを取らないやる気と充実感に溢れている。と、代表は思っている。

12月21日から20日間の冬休みというか、年末年始をゆったり過ごそうと話し合った。
新年再開の初日、冷たい北風の中ではあったが、7人が参加して、いつも通りラジオ体操・片足立ち・スクワット・肩甲骨運動などをこなし、ゲームに入れば白熱のがんばり。20日間のお休みは適度な骨休めになったようで、皆さん張り切っている。おなじように、しばらく合わなかった分おしゃべりも弾む弾む。

新年度のスタートに合わせて、新たな試みも提案して了承を得た。
やはり何かの変化を持たせることは気分一新に欠かせない要素である。何をどう変えると言うほどのことでなくていい。ちょっとした発想の転換でまた一つ、クラブを振る腕に力が入ることもある。

何も替えない、従来のやり方を守る。これはこれで意味のあることではあるが、3年4年同繰り返す繰り返すばかりではマンネリで新鮮味が失われる。ましてやご高齢者の集まり、小難しい理屈じゃなくごく簡単なことでいい。
常に仲間の話に耳を傾け、世間との間合いにアンテナを広げ、少しでも楽しい時間になるよう考えながらやってみる。
澱んだ水にはコケが生えるの防ぐと同じで、水を入れ替えたり新しい水を足してみる。あらたな雰囲気が生まれる。
皆が皆双手を挙げて賛成しなくても、「やってみようよ」という雰囲気が少し強ければことは成る。楽しい日々が始まった。

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「成人を祝うのは?」

2023年01月10日 | ニュース・世相

                                                     

正月明けて2週目に入る1月7・8・9日 が3連休となった。9日は8日日曜日の振り替え休日でもあり、「成人の日」のハッピーマンデーでもあった。そんなわけで、成人式も3連休の中日8日に設定する地域と、いわゆる成人の日9日に設定する地域に別れたようだ。
成人式の設定日がどっちであろうと格別異論はない。が、成人年齢を18才に切り下げて初めて迎える成人の日である。

公式には20才を迎えた男女を集めて「成人式」という言葉はふさわしくない、使えないという解釈からか「二十歳を祝う会」「二十歳の祝賀会」と名目変更を余儀なくされた。そりゃそうだよねー、成人年齢は18才と法律で決められて、実際に選挙権も発生するし色んな法制の下で大人としての扱いを受けるのだから。18才が成人の日とするべきだ、「成人は二十歳」という概念を変えていくべきではないか、というご意見もうなずける。

そこでやぶにらみ流の思考は、若者から大人への切り替えがなんで18才なの?ここに問題があるのではないか。つまり、大人という概念はそもそも何なの?ということである。
義務教育を終えて15才。それから3年間高校という一応の高等教育を終えて18才。その時点で如何ほどの社会経験を積めたのか、大人としての責任感がどれだけ培われたのか。少なくとも私個人を例にとっても、高校卒業した時点で大人の仲間入りと言われてもね~。という白けた気持ちが強かった。要するに幼かった。だからせめて2年間の社会経験・人生経験をしたうえで、二十歳の成人が極めて当たり前と感じて来た。

半世紀以上も昔と、AI全盛の今とでは、若者の質が違うんよ。そんな古い考えはもはや通用しないんよ。と言われそう。それも理解できる。
しかし、半世紀前の18才は、自立・自律という意識の強さは、現代人とは比べ物にならないのじゃないかねー。生きること、生活することが目の前に立ちはだかっていて、それを自ら乗り越える基礎体力を身に着けていたような。もちろん、それは少数派かもしれないが。

ちょっと話がずれたが、兎に角法制で18才が成人と決めたのだから、二十歳は「祝う会」で、18歳が「成人式」とするのが妥当なところかしらねー。ややこしやややこしや。                                  

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「祈り」

2023年01月09日 | 趣味・・エッセイ

              

 『祈り』
  ❝ 一年の計は元旦にありと言われるように、迎春準備には毎年神経を使う。
    慣れた作業のはずなのに、忘れ物対策に時間が要るようになった。
    それでも鏡餅は手作り、それ以外は買い物で準備万端整え、先ずは神棚の手入れとお飾りを。
    続いて仏壇の掃除からお供え物や花生けなどで仕上げる。

    年改まって手を合わせる元朝、特別に意識するわけでもないのに、神棚には強い父の面影が重なり、
    仏壇には優しい母の面影が重なる。
    亡き父や母の見守りによって生かされていると信じて、今年も家族揃って明るく元気な一年になるよう神仏に祈りを捧げる ❞ 

元旦に目が覚めると、枕元に真新しい白い下着の上下が並べてある。隣には、時に毛糸のセーターであったりジャンパーなど、防寒用の新品の着るものが並べてある。
清らかな下着を着けて気持ちを改め、風邪など引かず元気な1年を過ごすように、という両親の言葉にはしない気持ちが、下着に重ねられている。
子供ころの元朝は、おおよそこんなものであった。出来がよかろうとそれなりだろうと関係なく、何がしかの期待を持たれる正月を迎えたものだった。

そんな思いは、特段に感謝だとか恩を受けたとか言うのではなく、ごく普通に親が6人の子供をしっかり守り育てた、その中の一人がオレなんだよね~という軽い感情ではある。しかしそれは、自分の命が続く限りこの頭から離れない感情でもある。

元気な80才として迎えた年末年始に、少し思いを込めて神棚や仏壇の正月準備をした。そうして迎えた元朝は、ご来光の写真撮影に震えた手でお灯明をともし掌を合わせたら、ふと頭に浮かんできたのが、冒頭の「祈り」であった。 252字の葉書随筆にまとめて書き残した。

世の中にはもっと大きな祈りを捧げて、人間の良心を呼び覚ましたいことは山ほどある。が、今自分に出来る小さな祈りではあっても捧げたいと思った次第。

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「二人目の成人式」

2023年01月08日 | 思い出話

                 
                    成人式を迎えた大学2年生

当市の成人式が1日早く、市民文化会館で行われた。正月休みで帰省中の大学2年生の孫君が、スーツにネクタイで参加した。その帰りに我が家に寄って、その晴れ姿を見せてくれた。5人いる孫のうち、2番目の彼が成人となった。本人にとっては単なる通過点であって、特別な感慨も感動も感じさせてはくれないが、何はともあれジジババにとって二人の孫の成人式は感動ものである。

我が家の前で幼稚園バスからの受取、放課後児童教室のお迎えなど、まさしくこの手で大きく支えて来た感のある孫次男坊君。お兄ちゃんに続いて先ずは無事に成人となる日を迎えたことは、大いなる慶びである。

友達とつるんで成人式には行かないような話をしていたが、両親の説得に反論しながらも「会場まではみんなを誘って行く」ということになり、なんとか出席したらしい。
「今どきの若い者は・・・」などとあまり言いたくはないのだが、成人になったということ、成人式を迎えたということに、今少し自覚を持って捉えて欲しいなと思う。今まではまだまだ半人前扱いだったのよ、それが今日から一人前の人間として、大人として世に認められる。その分何かと自由度が増える。その代わり個人の責任が生まれるのよ。そんな大きな変わり目、節目となる記念すべき日なんだよ・・・。

などというごく当たり前の話は、もう耳にタコができて耳の穴を通って鼓膜まで届かなくなっているのかな。それとも、もう二十歳になる今までに何もかも経験済みで、成人の意味も新鮮さもカンケーない時代になったのかねー。

スーツにネクタイといういで立ちは、成人式を迎え、大人の一歩を踏み出す記念に袖を通すもの、首に巻き付けるもの。などと自分で決めていた人間は古かったのかねー。しかも、成人式に着るスーツは何が何でも自分で稼いで自分で選ぶものだと決めていた。ネクタイ?ネクタイだけは誰かがお祝いにプレゼントしてくれるかも。などと、胸を高鳴らせて二十歳を迎えたのは、なんと60年も昔の話かぁ。時代は移り人の気持ちも価値観も変わるよねー。だから時の流れを自覚して、時代遅れの常識論をぶちまけても所詮空しい。ならば声を小さくして静かに見守るのがいいのかもね。

ただ、昭和38年、1963年のあの成人式の日。誰にも負けない笑顔で式場への階段を一歩一歩上がった感触は今も忘れない。

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