「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「春を呼ぶ その4」

2010年01月16日 | 季節の移ろい・出来事
             

我が家の狭い庭に生きる木々や草花の春を呼ぶ声が、ホンのかすかに耳に届き始める中で、期待に反して上手に実りの冬を迎え得なかったものもある。
背丈50㎝ばかりの「鉢植えピラカンサス」

5月の花の時期に、小さいながら樹体を隠すほどまっ白い花を無数に付けた。
まるで純白の花嫁衣装をまとった様な艶姿は、自慢できるほどの見事さであった。
あれだけ花を付け、目を楽しませてくれたのだから、正月を迎える頃には、熟した小粒の実が木も葉っぱも覆い隠すほどに実ってくれるものと期待した。
実際、花が終わってしばらくは間違いなく、青い小さな実が密集していた。

しかし、秋の気配がたつころから虫にやられたのか、実の数が多すぎて風通しが悪く窒息でもしたのか、大半が真っ黒いかたまりになって枯れ落ちてしまった。すでに消毒も効かなかった。
花の数に安心しすぎて、格別注意を払わなくても成長するだろう…という甘い見通しが仇になった。
何もかも全てがうまくいくほど世の中甘くないよ…ってことも充分承知してはいるはずなのに、つい油断した。

そう言えば、今日はセンター試験が行われていたことを何故かふと思い出した。
試験に合格、順調に志望校に入学。ここまでが花の時期か。
いくら見事に綺麗な花を咲かせても、最後に実となって熟すまでには色んな障害や関門があることを、ピラカンサスが教えてくれた。

せっかく見事に咲いた花、雨にも負けず風にも負けず、しっかり熟してみたいもの。
静かに春を待つ景色の中に、受験生の必死な姿と、黄色の実が少し残った我が家のピラカンサスが重なった。

    ( 写真: 左側、今の状態。右側、5月の花に覆われたピラカンサス )
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「春を呼ぶ その3」

2010年01月15日 | 季節の移ろい・出来事
                        
             

連日の厳しい寒波にも負けず、寒あやめが庭の片隅で今年も見事な花を咲かせた。
凍てつく大地に這いつくばり、地中深くに頑丈な根を張る。そして時期を違えず、清楚にして可憐な薄紫の花を楽しませてくれる。

春まだ浅き1月半ば。なれどこの寒あやめを見ると、確実な春の足音が聞こえてくるような。
畑に目をやれば、忙しさにかまけて植える時期が遅れたにもかかわらず、スナック豆・グリンピース・絹さやエンドウが、ちゃんと芽を出し、寒さに縮こまりながらも春の訪れを待っている。タマネギもしかり。元気の善し悪しはあるが、一様に足腰延ばして立ち上がろうとしている。

どれを見ても、暖かな栄養豊富な陽差しの春を、手招きして呼んでいるようだ。

人間には、温度を測定する知恵もあり、寒ければ暖を取る方法もよーく知っている。もちろん暦があって、過去の実績から、いつ頃にはどのようになるという予測も立つ。
では、この世に生きる名も無き小さな虫や草花そして小鳥たちはどのようにして春を待つのか。冬至が過ぎ1月2月と暦が進んで行くにつれて、日は長くなっていく。三寒四温と言われるように体感温度が変化する。
これらを敏感に感じ取ることで春の訪れを知るという。(日高敏隆『春の数え方』)

底知れぬ自然の営みの深さを改めて感じさせられる思いだ。
ここでも、自然界を相手に生きる虫や草花・小鳥の方が、人間より強く思えてくる。

アー…寒いのは苦手だ。早く暖かい春を呼びたい。

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「春を呼ぶ その2」

2010年01月13日 | 季節の移ろい・出来事
           

我が家に春を呼び込む大きな要素は、3人の孫の成長ぶりである。
兄ちゃんは、3年生で益々逞しくなってきた。
昨年のシーズン入りから特訓に耐えてきたスキーの腕前は、順調に伸びているようだ。
年明け早々の島根県スキー連盟の大会、小学生低学年の部で、念願の一位を持って帰った。
ただし、昨シーズンまでは勝っていないライバル君が、今年は欠場していたらしく、優勝も今イチの様子。是非一緒に大会に出て勝ちたい素振りを見せる。
ジジバカの典型と解っていながら、ウンウン…と腹の中でうなづく。

             

次男坊カー君は、兄ちゃんと一緒にスキー大会にエントリーはしたのだが、小学低学年でひとくくりにされたら、1年生は勝ち目がない。トロフィーに手が届かなかった。
意気揚々の兄ちゃんの写真を撮るときも「ジイちゃん、オレは撮らんでいいよ…」と彼は彼なりの根性を見せる。
一時期の幼さから少し脱却。海の公園などでは随分逞しく遊ぶようになった。

3男、悠雅君。お座りが出来るようになった。モーモー生まれで、モーモーのツナギがよく似合っている。 本当はトラのツナギに替えたいのだが、もうちょっとで着られなくなるのだからモー少し着てもらって、トラさんに替わるのだそうだ。

まるで、孫新聞を借りてきたような話で申し訳ないです。が、高齢者二人の住む家に春が来るとすれば、先ずは孫達の元気な成長ぶりに目を細めたくなるのが定番のようである。ということで、どうぞ悪しからずお付き合いのほどを…。
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「春を呼ぶ その1」

2010年01月12日 | 季節の移ろい・出来事
錦帯橋を彩る夏の世の一大風物詩「錦帯橋鵜飼」。
主役を勤める「鵜」と準主役の「鵜匠」によるトレーニングが、錦帯橋を背景に繰り広げられた。

「手縄始の儀式」として古くからあった神事や、鵜に初めて縄を付ける「着始め」などが行われ、鵜の初泳ぎと合わせて観光客などを喜ばせた。
今後は、春の一つの行事として定着させたい意向である。

1月も半ばに入ってくると、あちこち色んな形で春を呼ぶ行事や芽生えなどが見られる。
寒さに丸まっていた背中に少し気合いが入り、何とはなしに血が騒ぎ始める頃を迎える。
いよいよ今年も本格的なスタートだ。

当面の課題も抱えている。今年に賭ける遠大な計画の一員にもなっている。
昨年から続きの乗りかかった船もある。
やっぱりボヤーっとなどしていられない春先である。

今年を振り返る時期になって、悔いを残さないためにもそろそろエンジン始動か。
とまあ、このように自分で自分に気合いをかけなければ重い腰が上がりにくくなったのかな。

目標も目的も目の前にたくさんある。 
真夏に活躍するはずの鵜でさえ、寒空のもと水に潜ってトレーニング開始だ。
鵜に負けてなるものか…と思いつつ、二階のガラス越しの陽差しから離れると、ウーッ、やっぱり寒い。

       ( 写真: 錦帯橋下の鵜飼トレーニング。初泳ぎ )
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「草食男子」

2010年01月11日 | つれづれ噺
今日は「成人の日」
元々は、元服の義が行われていた小正月に当たる1月15日を成人の日と定めていた。
ハッピーマンデーの導入によって、1月第2月曜日が成人の日として定着している。

今年は139万人の青年男女が成人を迎えた。
1970年の246万人をピークに減少傾向の一途をたどっている。
その上、ここ数年の成人式参加者のマナーの悪さ、質の低下が大きく叫ばれている。

そこへもってきて、今度は「草食男子」が注目されているという。
恋愛に対して積極的でない男の子のこと。これに対して異性を恋し愛して欲する人間本来の姿をもつ、主に女性を「肉食女子」と呼ぶのだそうだ。
この人達に恋愛感を尋ねると、積極的でない・どちらかというと積極的でないと答える人が、男子・女子ともに全体の半数以上を占める。

これらはいったい何を意味するのだろう。
異性を恋し、愛して男女が結ばれる…。それさえ億劫になるほど今の世の中、若い人たちにとって面白くないのか。恋愛さえ面白い対象ではなくなるほど他に魅力がいっぱいあるのだろうか。
それとも、雄が雌を求める本来の動物的本能・子孫繁栄、種を残すという使命感が欠如しているのか。
欲する相手を求める努力さえ、最初っから投げ出すのだろうか。

事情は千差万別色々あるのだろう。ただ、本来の人間として、一人では生きていけない、誰かと助け合うことで生き甲斐も楽しさも見つける努力を忘れてはいけない。

「ひとり口は食えなくても、ふたり口は食える。」 おふくろの言葉を思い出す。

       ( 写真: 娘の成人式。10数年前のアルバムより )
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「大掃除」

2010年01月08日 | 趣味・・エッセイ
松も取れた。いよいよ本格的な今年の始動。
長年連れ添ってきた愛すべき我が友。昨年一年だけでもどれだけ使ったか、どれだけお世話になってきたか。心の中で手を合わせている…?。そんな心からの感謝を込めて、デスクトップパソコンの内面を中心に大掃除を試みた。

昨年中に貯め込んだ情報の整理・整頓が狙い。なんとあるはあるはファイルやフォルダーが……。
断片的に散らばった情報の山である。やりっ放しのオーナーを、不平も不満も言わず黙って見上げ、あっちにもこっちにも、似たような情報をしっかり保存してくれている。

これが、机の上や座敷にでも広げたら、足の踏み場も無くなりそう。その前にオーナーの居場所さえ奪われる。そして「少しは片付けたら…」と冷ややかに促されるに違いない。

幸いPCには外付けハードディスクなる優れものがある。
整理整頓しながら、出来るだけコンパクトに積み上げていく。図体の割に大容量なので、入れても入れてもビクともしない。

かなり処分もしたが結局は場所を変えて収納しただけのことかな。それでも俊敏に立ち上がるPCを見ると若さや軽やかさを感じる。

余分なものを貯め込んでしまうと、立ち上がりも小回りも鈍くなる。老化現象をみる思いだ。
必要以上の贅肉や脂肪を蓄積させてはいけない。これはPCも我が身も同じだ。
気をつけなくっちゃ……。

     ( 写真: 長年愛用のデスクトップPC )
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「人の日」

2010年01月07日 | 季節の移ろい・出来事
            

せり・なずな(ぺんぺん草)御形(母子草)・はこべら・仏の座(田平子)・すずな(蕪)・すずしろ(大根) これを春の七草というのは皆さんご承知の通り。

1月7日の語呂合わせから人の日とも言われ、過去1年の厄を払い、向こう1年の無病息災と招福を祈願する日と言われている。
なた、おせち料理とがらりとかわって質素である。
正月中のごちそうによって無理をさせたお腹の負担をやわらげてくれる、非常に理にかなった昔の人の生活の知恵ともいえる。

そして平常の食生活に戻す区切りとして、胃腸を休ませること、ビタミン豊富な青菜で栄養バランスを整える効果もあるという。

      「君がため  春の野に出でて   若菜摘(つ)む
         
                 我が衣手に  雪は降りつつ」    (若菜 = 春の七草)

         ( 光孝天皇(こうこうてんのう)) 「古今集」 )

『人間は他の生物を食することでしか生命を維持することは出来ない。仏教のこれまでの考え方では、衆生(命あるものすべてのもの)といえば、あまり野菜や植物、森や川などはいれません。しかし、自然の全てに生命の営みがあることは当然です。』 とは、五木寛之さんの言葉。

飽食に耐えたお腹を質素な七草がゆで慰める…そのいずれの食物にも存在する生命を頂くのである。
無病息災を祈ると同時に、世の全てのものに感謝する気持ちを今一度呼び起こしたい。

1月7日、「人の日」なのだから…。
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「ご挨拶」

2010年01月05日 | 季節の移ろい・出来事
正月に飾る注連飾りや門松は、一般的には1月6日までとし、6日の深夜または7日の早朝に取り除くのが風習になっているようだ。
その間は、暮れに注連飾り・門松などで飾った我が家に、神様をお迎えし滞在して頂く期間だとされ「松の内」と呼ばれている。
但し、全国的な風習というわけではなく、一部の地区では14日の深夜または15日の早朝に取り除く地方もある。

新年に入って初めて出合った人に、新年の挨拶を交わすのも「松の内まで」と考えるのが常識的なようである。

そこで今日は、心地よい陽差しに誘われるまま、今年も少なからずお世話になるであろう数カ所へ年始の挨拶回りと洒落込んだ。

やはり顔を合わせ、言葉を交わし、ちょっとした去年の反省、そして今年の抱負・願望みたいなことを語り合うのはいいものである。
少ない時間、少ない言葉ながら、時が時だけにお互いの気持ちの中にスンナリ入っていく…というグッドタイミング効果は充分にあるようだ。

中にはじっくり話し込んで、次に回る予定が後回しになることもある。

そんな中である人が「60才までの生き方が、それ以降の生き方に反映する…」とサラッといわれた言葉が印象に残った。

考えてみればまさにその通りだ。ただ、普通には実際に60才を過ぎてから初めてそのことに気付く場合が多い。それでは既に手遅れになってしまう。
ならば、若い人たちにも、自らの生き方を見直す意味でしっかり「60才までを大切に…」と啓蒙したいな…という大きな収穫の一日であった。


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「正月雑感」

2010年01月04日 | アーカイブ(蔵出し)随筆
1978年(午年)。32年前のお正月。会社機関誌に随筆なるものを書き始めて10ヶ月。
若かりしあの頃、いったい何を思っていたのだろう。ちょっと振り返ってみたい。


『「ああも言い こうも言いつつ 一年過ぎて 振り向き見れば 夢のまた夢」
正月元旦を迎えると誰しも、長い人生の一里塚として、心あらたまる思いがする。
毎年年頭に当たって、今年こそあれだけはやろう…これだけはモノにしよう…と指を折ってみる。
しかし、実際に身に付いたものと言えば意外に少ない。それでも一年一年を重ねる毎に、新しい場所へ新しい足跡を残し、新しい知識を吸収することで、楽しみ苦しみ喜びそして悲しみを体験し、人間としての幅を広げて行くのだろう。

「自慢は知恵の行き止まり」と昔から言われる。
反省のないところに進歩はあり得ない。謙虚におのれの歩いた足跡を振り返ってみるのも面白い。
そこには、赤面することもあるだろう、その足跡を土台に更に飛躍を誓うこともあるだろう。いずれにせよ、足跡を残したのは自分自身なのだ。責任を取るのも自分しかいない。

そんな意味からも、お正月とは人生のひと区切りとして、ジックリ振り返り、その上で新しい目標を立てる絶好のチャンスである。呑んで食って遊び呆ける為だけのお正月ではいささか物足りなさを感じる。

筆者も今年は午年当たり年。衆目を集め、ファンファーレに乗ってゲートインするサラブレットにはなれなかったし、今更なり得べくもない。が、たとえ農耕馬だろうと雪深い山から木を切り出す木こり馬だろうと、馬に変わりがあるものか。
あの長い顔の鼻先から白い息を吐きながらでも、与えられた今を全うすべく精一杯生きたいと思う。
人生を豊かに、幅広い人間になるよう、この正月をひと区切りに向こう一年、がんばってみたい。』


思えば30才半ばでこんなことを考えていたようだ。ちょっと夢に欠けるし、今もってあの頃と大きく変わっていないことに気付かされる。進歩してないよな~~。



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「初詣」

2010年01月02日 | つれづれ噺
昨年の正月は初詣も控えた。柏手はもちろん、神棚飾りも注連飾りも控えた。
そして一周忌も済ませ、一年の喪が明けて迎えた今年のお正月。

ごく普通に年賀状も発信。例年の如く多くの賀状を頂いた。
このように普通のことが普通にできることに感謝しながら、2年ぶりの初詣。
トラの子のお賽銭を奮発して、思いっ切り鈴を打ち鳴らし、特別大きな柏手を打ってきた。

やはり何かしら気持ちが前向きに変わり、一つ肩の荷を降ろしたような締まった気分になる。
神社の向こう、はっきりくっきり見える岩国城も、何かしら冬空に向かってそびえ立っているかの如く力強くに目に映る。

クリスマスを楽しみ、お寺で打つ除夜の鐘の音に心を洗われ、そして神社に向かって柏手を打つ…。

何かしら節操の無さを感じないわけでもないが、気持ちの奥底に潜む人間の弱さを克服するために、神様にも仏様にもお力を貸して欲しくなる。それでいいのだ。
おのれ一人の力なんて如何ほどのものか。

間違いなく今年も色んなことに出くわすであろう。
自ら求めて行く未知の世界もあるに違いない。そんなとき、可能な限り自分の意に添う結果を残したい。そこには目に見えぬ得体の知れない不思議な力が作用する。
それこそが「天命」だと今もって信じている。

天命をこちらに引き寄せるのは他ならぬ、おのれのベストを尽くさなくてはならないことも分かってはいるのだが……。

        ( 写真: 冬空に凛とそびえる岩国城 )


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