小石川後楽園と肥後細川庭園を訪ねる(其の弐)
小石川後楽園(1)



小石川後楽園は、江戸時代初期の寛永6年(1629年)に水戸徳川家初代藩主・徳川頼房が江戸の中屋敷(明暦の大火後に上屋敷となる)に造営を始め、2代光圀の代に完成した池を中心とした回遊式築山泉水庭園。
光圀は作庭に当たり明の遺臣・朱舜水の意見を用い、円月橋、西湖堤など中国の風物を設け、園名の後楽園も宋の笵仲淹の『岳陽楼記』中の「先天下之憂而憂 後天下之楽而楽」「天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から名づけられた。

江戸時代の藩邸絵図。

明治時代の絵図。
明治になって屋敷は召し上げられ、砲兵工廠となったのでかなり縮小された。
庭園も埋め立ての危機に瀕したが、稀代の“庭道楽”として知られる陸軍の重鎮の一人で首相も務めた山形有朋の鶴の一声で庭園は存続した。
小石川台地の南端に位置する起伏に富んだ地形と自然林を活かし、日本と中国の名所や古典になぞらえた見所を配した「後楽園」は文化財保護法により「特別史跡・特別名勝」に指定されている文化遺産。

「小石川後楽園庭園保存会」(庭園ボランティアグループ)の皆さま方による歓迎の言葉、並びに概略の説明を受けた後に2グループに分かれて園内を散策。
生憎の雨模様で清水観音堂跡・得仁堂・八卦堂跡などは危険とのことで、拝観が出来なかったのは残念だった。

西湖の堤
中国の杭州の西湖の堤に見立てたもの。
清掃作業が行われていた。
落ち葉などが溜まるので常時清掃がなされる。

大堰川
徳川家光の好みであった山城国(現在の京都府南部)の大堰川を写した。
家光が川の石に腰掛けて造成の指揮を執ったといわれる。
川の上流には「通天橋」、下流には「渡月橋」がそれぞれ架かる。

円月橋
朱舜水が設計したといわれる石橋。
水面に映る姿が満月のように見えるので、この名がつけられた。
雨のために登れなかったが、円月橋の上の方に光圀の本意を現した堂「得仁堂」が在る。(建立当時の姿を残す園内唯一の建物)
光圀18歳の時、司馬遷『史記』の「伯夷列伝」を読み、伯夷、叔斉の高義を慕い、泰伯の像とともに二人の像を安置した。


神田上水跡
江戸の上水のうち、東北部をカバーしたのが「神田上水」
井之頭池(現在の武蔵野市・三鷹市)を水源とし、寛永年間後期(1620~30年代)までに完成したといわれる。
現在の文京区関口にあった大洗堰(今回訪ねた細川庭園の在るあたり)から取水し、小日向台地の縁を走り、そこから水戸徳川家の屋敷の庭(後楽園)を横断し、邸外に出るところで地下に潜って管路となり神田川を越えて市中に送られた。
江戸の上水は公共のもので武家屋敷内を流れるのは稀、邸内を横断した理由は判然としない。現在の水は井戸から汲み上げたものを使用しているが水路は江戸時代のものがそのまま使用されている。

大泉水に面した一つ松
小石川後楽園(1)



小石川後楽園は、江戸時代初期の寛永6年(1629年)に水戸徳川家初代藩主・徳川頼房が江戸の中屋敷(明暦の大火後に上屋敷となる)に造営を始め、2代光圀の代に完成した池を中心とした回遊式築山泉水庭園。
光圀は作庭に当たり明の遺臣・朱舜水の意見を用い、円月橋、西湖堤など中国の風物を設け、園名の後楽園も宋の笵仲淹の『岳陽楼記』中の「先天下之憂而憂 後天下之楽而楽」「天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から名づけられた。

江戸時代の藩邸絵図。

明治時代の絵図。
明治になって屋敷は召し上げられ、砲兵工廠となったのでかなり縮小された。
庭園も埋め立ての危機に瀕したが、稀代の“庭道楽”として知られる陸軍の重鎮の一人で首相も務めた山形有朋の鶴の一声で庭園は存続した。
小石川台地の南端に位置する起伏に富んだ地形と自然林を活かし、日本と中国の名所や古典になぞらえた見所を配した「後楽園」は文化財保護法により「特別史跡・特別名勝」に指定されている文化遺産。

「小石川後楽園庭園保存会」(庭園ボランティアグループ)の皆さま方による歓迎の言葉、並びに概略の説明を受けた後に2グループに分かれて園内を散策。
生憎の雨模様で清水観音堂跡・得仁堂・八卦堂跡などは危険とのことで、拝観が出来なかったのは残念だった。

西湖の堤
中国の杭州の西湖の堤に見立てたもの。
清掃作業が行われていた。
落ち葉などが溜まるので常時清掃がなされる。

大堰川
徳川家光の好みであった山城国(現在の京都府南部)の大堰川を写した。
家光が川の石に腰掛けて造成の指揮を執ったといわれる。
川の上流には「通天橋」、下流には「渡月橋」がそれぞれ架かる。

円月橋
朱舜水が設計したといわれる石橋。
水面に映る姿が満月のように見えるので、この名がつけられた。
雨のために登れなかったが、円月橋の上の方に光圀の本意を現した堂「得仁堂」が在る。(建立当時の姿を残す園内唯一の建物)
光圀18歳の時、司馬遷『史記』の「伯夷列伝」を読み、伯夷、叔斉の高義を慕い、泰伯の像とともに二人の像を安置した。


神田上水跡
江戸の上水のうち、東北部をカバーしたのが「神田上水」
井之頭池(現在の武蔵野市・三鷹市)を水源とし、寛永年間後期(1620~30年代)までに完成したといわれる。
現在の文京区関口にあった大洗堰(今回訪ねた細川庭園の在るあたり)から取水し、小日向台地の縁を走り、そこから水戸徳川家の屋敷の庭(後楽園)を横断し、邸外に出るところで地下に潜って管路となり神田川を越えて市中に送られた。
江戸の上水は公共のもので武家屋敷内を流れるのは稀、邸内を横断した理由は判然としない。現在の水は井戸から汲み上げたものを使用しているが水路は江戸時代のものがそのまま使用されている。

大泉水に面した一つ松